姫を殺めた近衛の騎士は
剣と剣のぶつかり合う音。
激しい怒号と悲鳴が飛び交う。
城のあちこちで火の手が上がり、固く閉ざされていたはずの城門は打ち砕かれて無残な屍を晒している。もはや兵たちに戦意はなく、投降、あるいは逃亡する者が続出している。わずかに残った忠義な者たちはよく戦っているが、それも時間の問題だろう。運命はすでに、決している。
三百年の栄華を誇ったこの国は、今日、滅ぶのだ。
眼下に広がる戦場の様子を、まるで他人事のように眺めながら、王女は窓辺に座っていた。弓で射られる可能性をまるで考えていないのか、あるいはそれでもかまわないと思っているのか、その表情からはうかがい知ることができない。そもそも、この王女が感情を表に出すところを見た者は、この世には存在しなかった。この王女は生まれてから十六年の歳月を生きてきたが、今までに一度も、笑ったことも、泣いたこともない。常に無表情で、何を考えているか分からない王女は、国民から心のない冷血な人間と見られ、『氷面の姫』と揶揄されていた。表情のない娘は父母からも疎まれ、王女は城の中でも外でも、嘲笑の的となった。
王女の首には、この世で一番大きなダイヤモンドをあしらった首飾りがある。それは王家に代々受け継がれてきた国宝であり、王家の傲慢を示す象徴でもあった。王家はこのダイヤモンドを手に入れるために、ある年の税を倍に引き上げた。その年は凶作で、麦の一粒まで税に奪われた多くの農民が命を落としたという。今回のこの反乱、いや、城に攻め寄せる者たちに言わせれば『革命』の始まりは、おそらくそこまで遡ることができよう。
王女がいるのは、城の奥にある彼女の私室だった。彼女の父は、おそらく今でも玉座で爪を噛みながら、ただうろたえているだけだろう。彼女の母は、どうして自分がこんなに過酷な運命に晒されねばならないのかと、侍女に八つ当たりをしているだろう。王女の首飾りも、本来は王妃が身に着けるべきものだが、「こんなものを身に着けていたら殺されてしまう」と言って、王妃から押し付けられていた。王女は首飾りを黙って受け取ると、まるでその対価とでも言うように、両親に背を向けて私室にこもったのだった。
部屋には王女の他に、一人の青年の姿があった。息をする音さえ立てず、影のように佇むその青年は、王女を守る近衛騎士だった。まだ二十歳になるかならないか、という年齢にそぐわぬ、落ち着いた雰囲気をまとっている。黒髪黒目の長身は、赤と黒を基調とした近衛の軍服にさらなる威圧感を加えていた。
王女は近衛騎士の中から、何故かこの青年だけを残し、侍女を含めてすべての人間を部屋から払っていた。本来ならば、近衛とはいえ王女と若い男が同室に二人きり、などということが許されるはずもない。しかし、もはや滅びを間近に控えた国の王女に、伝統や慣習や品格を説く者はいなかった。「敵に捕らえられるより前にお逃げなさい」という王女の言葉に、王女の侍女たちは喜んで退出した。
「ねぇ」
窓から外を眺めたまま、王女は口を開いた。呼びかけているのに、返答を期待しない声。
「私は、誰かに信頼されたことがあったかしら」
微動だにしなかった青年が、王女に答える。武骨で、不愛想な声。
「ご自分が信じぬものを、信じさせることはできますまい」
「そうね」
無礼な物言いを気にすることもなく、王女はそう呟いた。青年は彫像に戻る。戦いの音が、徐々に近づいて来る。
「ねぇ」
王女は再び呼びかける。呼びかけているのに、独り言のような声。
「私は、誰かに愛されたことがあったのかしら」
青年は再び王女に答える。優しさも、同情もない声。
「ご自分が愛さぬものを、愛せよとは言えますまい」
「そうね」
王女はわずかに目を伏せた。青年は再び彫像に戻る。戦いの音が、間近に迫っていた。
「ねぇ」
王女は青年に向き直り、その黒い瞳を見つめた。青年に、届けるための声。
「私は、死ぬのかしら」
青年は腰のサーベルを抜き放ち、王女の正面に立った。不器用で、真摯な声。
「貴女が、望むなら」
「そうね」
王女の表情は変わらない。青年もまた、押し殺したように無表情だった。
青年が水平にサーベルを構える。陶磁器の人形のように虚ろな瞳で、王女は青年を見ている。
青年は無言で、王女の首に向けて、刃を突き出した。サーベルの刃が鈍く光を反射し、そして――
しゃらん
澄んだ音を立てて、首飾りが床に落ちる。青年のサーベルは、王女の首のほんのわずか左を切り裂き、王女の首飾りの銀鎖だけを断ち切っていた。
「なぜ、殺さないの?」
王女が青年に問う。わずかに戸惑いを含んだ声。
「いいえ。貴女は今、死んだのです。この国の最後の王女は今、死んだのです」
青年は答える。もはや押し殺すことを止めた声。
「貴女はもう、王女ではない」
青年がサーベルを捨て、右手を差し出す。王女はほんの少し、目を見開いた。
青年が王女を見つめる。まるで魅入られたように、王女は青年の手を取った。
「あっ」
青年が素早く王女の手を引く。王女はよろけるように青年の胸に寄り掛かった。青年は王女を抱きしめ、その耳元に囁いた。
「私のものにします。いいですね?」
王女の白い肌が、サッと朱に染まる。そして王女はぎこちなく微笑んで、小さく、頷いた。
戦いの音が、止んだ。
その日、三百年の栄華を誇る一つの王国が、歴史から姿を消した。王と王妃は捕らえられ、その暴政の報いを受けることとなった。しかし、その国の最後の王女は、ダイヤモンドの首飾りだけを残して、忽然と姿を消したのだという。革命軍は血眼になって王女を探したが、見つかるのは王女によく似た同じ年頃の、黒髪の青年の隣で幸せそうに微笑む娘だけで、人々が『氷面の姫』と忌み嫌った、人の心を持たぬ王女はどこにも見つからなかったのだと、そう伝えられている。