6
向井
天井を這っている幾匹もの巨大な芋虫はやがて一様に固まり浮かして水色の綺麗な羽をした蛾になり閉じた窓を透かせて外へ飛び立っていった。羽は外に出るとうねうねと色を変え、空は紫色や藍色のオーロラになり、幻想的で美しかった。
まだ、夢との合間にいることを彼は知っていた。手足は動かない。目だけが起きて、天井に夢の残像を映しているのだと。
彼はよく幻覚をみる。いや、幻覚というのは少し大げさかもしれない。仕事上、彼は会社のパソコンの前に夜通し張り付くことが多かった。納期の迫った仕事の為に纏わりつく睡魔に抗い時間を忘れ、溜まった疲労感も抜けていくほど疲れ果てたとき、次第にディスプレイのなかに埋まった文字が小さい蟻になってそこらを這いずり回る。その時彼は常に眠れない緊縛のせいで、目を開けながら夢を見ていたのだった。そして、それは捻挫のようにいつしか彼の癖になっていた。パソコンの前で夢と現実を曖昧に行き来する合間に、休日でも彼は白昼夢をみるようになっていた。向井に恐怖はない。もう慣れっこになってしまった。彼はただ夢と現実の間に身を任せた。
白い天井に貼りついた残像の部分が剥がれていく。そうして、指先が動くようになり、体を縛り付けていた夢がすぅっと抜けて霧のない意識が戻ってくると、そこでやっと肝心なことは「ここがどこであるか」ということだと気づいた。
しかし、それは「あ、起きた起きましたね」と前で立ち止まってこちら覗き込んだ白衣の女性のおかげですぐ解けた。
「分かりますか。ここ病院ですよ。今先生呼んできますね」
せわしない女性は、あっという間に現れていなくなってしまった。
しばらくすると男が入ってきた。看護士が連れてきたその医師は初老の男で見るからに愛想のよさそうな優しい顔つきをしており、口調も物静かで落ち着いている。
医師は向井の体を軽く検診すると「どうして、ここに運ばれてきたか覚えていますか」と尋ねた。
「確か、木下さんの葬儀の最中に」
「そうです、そうです。そうみたいですね。今回みたいにお倒れになったことって以前にもありますか」
「何度か」
その後も医師に一通り質問された。結局今回はおそらく過労によるものだろうと言われたが念のためにしばらく検査の為に入院したほうがいいとのことだった。
向井は体を常に縛っていた重りが抜けていくのを感じた。しばらく休む旨を電話で会社に伝えると思いのほかあっさり了承され、その素っ気無さが逆に向井に自分はやはりコマの一つに過ぎないということを感じさせた。
病院での暮らしは穏やかで退屈だった。大学時代のようにただのうのうと時間が過ぎていき、ただ昔と違って漠然と過ぎる時間に不安も感じなかった。ここの病院は敷地が広大で一つ一つの施設が広く充実していた。向井の病室も六人部屋だったが広くて窮屈さを感じさせなかった。しかし、向井が自分のベッドの上で過ごすのは眠るとき以外はあまりなかった。
向井は病院の中庭のベンチでよく時間を過ごした。自分のことが病人と感じられない向井は他の患者と一緒に病室に眠っていることがなんだか落ち着かなかったのだ。
ベンチでは何となく風景を眺めたり、本を読んだりした。最初に向井を診察したあの関という老医師が向井によくしてくれて暇な時に読む雑誌や本をくれたし、毎日昼ごろになるとこの中庭に話をしに来た。ここにくる前はずっと東京で過ごしていた彼は向井のような東京人と話すのが懐かしいらしい。
「なんせここは静かだけど退屈ですね。私みたいな年寄りがそう思うのだから、若者はもっと大変でしょう」
彼はそういっていた。
ある日、向井は何となく中庭に飽きて散歩を始めた。広大な病院の外周をあてもなくフラフラと歩いた。暑い日ざしが頬を焼いて、額から汗がじんわり流れ落ちたが久々になりふり構わず体を動かす感覚は楽しかった。
渡り廊下の下をくぐって病院の裏側でると紅泉山が遠く前にそびえていた。病院の裏庭は広いが人通りはほとんどない。そして大げさな背の高い鉄格子で囲まれて外に出られなくなっている。
向井は山を眺めながら歩いた。山は緑に輝き様々な生物の音を鳴らしている。単調で穏やかな緑の並びは果てしなく続いている、と思われたが暫らくそのまま歩くと山が削り取られたような岩壁が唐突に現れた。昔土砂崩れでもあったのだろうか、そこは茶色くにごった灰色の岩壁がそりたっている。
ちょうどその正面は鉄格子に門が出来ていた。押してみると鍵は開いていた。なんとなく崖をしたから眺めてみたくなった向井は病院の敷地をでてそこまで歩いていってみることにした。
少し歩く間にみるみる目の前の岩壁は巨大になった。山の陰は涼しく湿っぽい土の香りがする。200mくらい歩いて崖の下まで来るとそこが扇状に開けた土地で今まで影になっていた場所に洞窟のようなものと、一軒の古い建物があることが分かった。
(こんなところに住んでいる人がいるのか。それとも、ただの物置だろうか)
一見するとそれは民家だった。しかし、窓の網戸は全て閉められ、近づいてみるとその建物の扉は黄色いロープで幾重にも縛り付けられていて、人が住んでいる様子ではない。白い壁は黄ばんで雨で出来た黒いシミが屋根からツタの様に下りてきている。そして、背の高い草が入口のところにもはこびっていてここに誰も寄り付いていないことを示している。
向井は立ち尽くしてこの家屋を見上げた。誰もいるはずはない。しかし、何故だかこの古い家からは異様な気配を感じる。
向井は無意識に息を殺し、気配に神経を研ぎ澄ませて扉の前に立った。入口を縛り付けているロープはずいぶん古い。ずっと昔に縛られたものだろう。ふと、耳の奥が小さい音を感じ取った。トントントンと跳ねるような音だ。瞬間的に向井は足音だと思った。内部で人が歩いているように感じる。しかし、冷静になれば閉ざされたこの家でその可能性は低い。では、風が何かをこすった音だろうか。それともネズミか何かがなかですんでいるのだろうか。
向井はさらに耳をすませた。彼は音の正体に神経を連れて行かれていた。すると、あの足音はまた聞こえてきた。風は感じない。やはり何か生き物がなかにいるのだろうか。
トントントン、跳ねる音は少しずつ大きくなる。そしてもう一つ、その音の向こうでもう一つ小さい何かの音が聞こえ始めた。向井は自然とその音に集中した。冬の隙間風のような高い音。女性の吐息のようにも聞こえる。
その瞬間、向井は驚いて思わず後ろに飛びのいた。
「おっとすみません、驚かしてしまいましたか」
倒れそうになった向井の肩を後ろから誰かが支えた。振り向くと関医師のくぼんだ目がすぐ近くにあった。
「すみません」
向井は慌てて姿勢を直し、医師に頭をさげた。医師は大丈夫ですと笑ったあと「ここは土砂崩れが危ないので一応立ち入り禁止になっているのですが」と向井に告げた。
「あ、そうですか。すみません、気がつかなくて」
「まぁ知らなかったならしょうがないです。もしかして、鉄格子の鍵開いていましたか?」
「はい」
「そうですか。本当はいつも閉めていただいているんですが、最近管理人さんの物忘れがひどくて、彼ももう相当歳なものでしばしば閉め忘れるみたいですね」
関は困ったように眉をひそめたが、向井は話半分にそれを聞いて、また家屋を睨んでいた。先程のあれは現実だったのだろうか。それともいつもの白昼夢のように、幻を聞いただけだったのだろうか。
冷たい汗が背をつたい、気温とは対照的に向井の体は冷えて今にも身震いをしそうだった。
「この家は墓守の家ですよ。今は、というか私がくる前からこのように誰も住んではいないみたいですが」
家の前に立ち尽くす向井の様子をみて、医師は張り付いた笑顔を崩さずに言った。
「よかったらこちらにいらしてください」
医師はそういって崖下にある洞窟へ向かって歩きだした。向井は黙ってついていった。あそこが墓守の家だということは、洞窟に何かしらの墓でもあるのだろうか。しかし、何故こんな誰もいつかない所に。
疑問は洞窟の前についたときに医師が答えてくれた。医師はまず「危ないから中に入らないで下さい。最近は誰も来ないので何があるのか分かりません」とライターに火をつけ前に翳した。小さいオレンジの光がわずかに内部を照らし出し、奥の壁にいる仏像の姿をあらわにした。仏像はこの洞窟の岩がそのまま彫られたもので、右の壁、左の壁、正面、それぞれ三対がそれぞれ中央を見るようにおかれていた。そして洞窟の中心部にある地面は妙に膨らんでいる
「ここは葬儀が行われる場所であり、そしてそれが埋葬される場所です。といっても骨が埋められているわけではありませんし、実際に亡くなった人の葬儀が行われたわけでもありません」
医師の言うことはすぐに矛盾しているように思われた。医師は「少し分かつずらいかもしれませんが」といって、先を続けた。
「あなたが今入院している病院は元々奇形の専門の病院として作られたのです。当時からこの村では奇形の子がよく生まれると言われています。山を開拓するためにまかれた薬が原因、または山からでる特殊な火山ガスが原因とも言われますが科学者が調べてもその根拠は得られていません。当時ハンセン病などの病気の実態がまだ知られていない時代に、ここにそれの研究と治療を目的としてこの病院が建てられました。しかし、病院といえば聞こえはいいですが、その実態はただの隔離施設、治療も研究も実際には行われずただ患者を死ぬまでここに閉じ込めていたのです。都会から離れ、奇形が多く生まれるここはその施設を作るにはうってつけでした。患者は今で言うところのハンセン病の患者が大多数でしたが、他の病気やダウン症の子などもいたようです」
医師は向井の顔を伺いながら続けた。
「そして、この病院に入ることはもう二度と出られない。つまり社会的に死ぬことを意味していました。だから、施設に入る前にその患者と家族はここで葬儀をしたのです。それは、施設に入る儀式といってもいいかもしれません。患者は自分の人形を作り、家族はそれをここに埋葬してそして供養しました。隔離施設にはいる患者の生前葬、昔はここでなくとも色々なところで行われていたことです」
向井は地面を見ながら聞いた。
「じゃあここには」
「はい、骨ではなく人形が埋まっています。あそこの家は墓守と葬儀を司る人間が代々住んでいたところです。ハンセン病の研究が進み、この病院が総合病院に変わった今ではもう使われていません。」
医師はライターを消して、向井に微笑みかけた。
「と、言うことです。では、戻りますか。一応立ち入り禁止なのでもう来てはいけませんよ」
向井は医師が鉄格子に鍵をかけなおしている間、どこか名残惜しげに墓守の家を眺めた。いつの間にか薄暗くなって、山の上から薄い霧がそこまで降りてきていた。
「先生。あそこの家はいつから人が住んでいないのですか」
「もう15年くらいじゃないでしょうかね。私の遠い親戚が住んでいたのですが、死にましたよ。夫婦そろって」
「子供はいなかったのですか」
向井が聞くと、医師は不思議そうに「子供?いませんよ」と言った。
その日、向井の病室はどういうわけか個室に変更された。
夜もふけた病室のベッドで向井は考えた。もともと睡眠時間が人より少なく一日3時間程度しか眠れない向井が病院の生活リズムに合わせて暮らすのは無理な話だった。向井は深い夜の中、孤独に考えている。何故自分は急に個室に移されたのか。何故あの医者は毎日自分に会いに来る。おそらく昼休みの時間を使って。今日なんてあんな裏庭まで探しに来た。何故、そこまでする。ただの親切心、ではないだろう。おそらく彼は俺を観察している。
そして、あの墓守の家。あそこで聞いた子供の声は現実だったのだろうか。「開けて」と叫んでいた。
向井はふとトイレに行きたくなってベッドから出た。しかし、病室をでようとするとその扉が硬く閉ざされていた。向井は鍵を開けようと電気をつけ探したが、どうやら内側から鍵を開ける術はない、ということはつまりこの部屋は外側から鍵をかけられているのだ。
個室への移動、関という名の医師、墓守の家、そして今この部屋に閉じ込められたということ。様々な現実が折り重なって向井の頭の中を急き立てはじめた。