5
山から降りてくる冷たい風がミカンの木を揺らしていた。綺麗に並んだ紫色の木々は一様にしなり山から逃げたがっているように見えた。
サチは寒そうに肩を丸めて、地面に座っている。坂本はミカンを二個むしり取ってサチに放り投げた。
「ほら、今年のは旨いぞ」
サチは一回取り損ねて落ちそうになってミカンをなんとか地面すれすれで拾うと「毎年言っているじゃない、それ」と坂本を見上げた。目が悪いのに眼鏡もかけないから、いつもだるそうに目を細めているサチの目がこうして上を見上げると、確かにサチは綺麗だ。パーツは小ぶりだが整っているし、パランスもよい。肩にかかる髪は少しの風でなびくほど軽いし、そして何より他の子と違って仕草に作為を感じないから素直にその仕草が可愛いと思える。
サチはずっと近くにいたから坂本は中々今までサチの女性としての魅力に気づくことはなかったが、中学に入ってからサチがモテるようになったのも何となく分かる。ただ、坂本にはサチはサチでやっぱりいくら美人になろうと、あまり変わらなかった。
坂本はサチの隣に腰掛けて弁当箱を開いた。
「うわぁ、旨そう。お前の家の玉子焼き甘くてうまいんだよなぁ。うちのはなんかしょっぱくて」
「この歳になって玉子焼きで喜びますか」
サチはミカンの皮を向きながら呆れたように言った。
「旨い旨い」
「確かにお婆さん玉子焼きはちょっとしょっぱいけど」
「それにしてもお前の母さんはよく俺の好物知っているな。入ってるの全部俺の好きなものじゃないか」
「たまたまじゃない?」
「旨い旨い」
サチは鼻でくすくす笑って、地面にねっころがった。そして、画一色に広がる藍色の夜空を見上げながら小さいミカン欠片を口に入れて「ここに来るのも久しぶりね」と暖かい息をはくように言った。
そうだな、という言葉を飲み込んで坂本は甘い玉子焼きを頬張った。小さい沈黙の時、多分お互い中学に入ってから距離が出来てしまったことを話したいのだろう。そう考えながら、坂本はやっぱり冗談を言うように笑ってごまかしながら切り出した。
「お前は中学入ってからモテモテだったからなぁ」
「別にモテてないでしょ」
「山本先輩に円谷、それに鉄平だろう。モテモテじゃんか。そういえばお前、鉄平とは別れたんかい」
サチは同じクラスの鉄平と付き合っていると、だいぶ前にクラスの女子から聞いていた。
「とっくの前に」
サチは少し笑みを浮かべながら言った。
「ほうかい。残念だったね」
「別に」
「ほうかい」
実際辛いのか辛くないのかはよく分からないが、どちらにせよサチがこう素っ気無く返すのを坂本は分かっていた。
鉄平にもこういう態度で接していたのだろうか。それとも少しは素直に相手をしていたのだろうか。小学校のときはずっと一緒にいたけれど、サチのそんな姿は自分には想像も出来ない。そう思うと、坂本は鉄平にもサチにも置いて行かれてしまったように思う。ずっとそばにいた自分やゲンキを追い越して、多分鉄平は坂本の知らないサチの色々な表情や時間を知っている。そして、それは二人の秘密になって箱から出てくることはない。これから、そうやって自分の知らないことばかりこうして増えていくのだろうか。すぐ近くにあったものも少しずつ分からなくなっていくのだろうか。
(サチは今更になってどうして、俺たちと組んだのだろう)
坂本の頭には最初の疑問が戻ってきた。坂本は心のどこかでサチを疑っていた。それは中学でやっと友達が出来始めたサチが人の目を気にするようになって、ゲンキと接することを避けるようになったということだ。実際そういうことは今まで何度かあって、ゲンキだけと直接接するときは優しいのに、人の目が入る場合になると途端にゲンキから距離を置きたがる人がいた。そういう人はゲンキを嫌っているわけではないが、結局のところゲンキと仲が良いと思われるのを嫌がっているのだ。
坂本はそういう奴らが一番嫌いだった。直接的にゲンキを苛めるやつらよりも、そういう奴らのほうが何故か心から憎かった。そして、サチももしかしたらそうやってゲンキを避けているのではないかと考えたりすることもあった。すると、言葉にするのをためらっていた疑問が自然と口から漏れ出した。
「なぁ、またどうして俺たちと班組んだんだ?」
サチはミカンを食べる手を止めて不思議そうな顔をした。
「どうしてってなんで?」
「いや、お前と木下なら組みたがる男子沢山いただろ」
「そんなことないでしょ」
「ほうかい」
疑問の答えをもらえぬまま、また会話は途切れてしまった。だけど何となく不満そうな坂本の気配を察したのか、サチは左肩をさすって面倒くさそうにもう一つ答えてくれた。
「気心知れたやつと一緒のほうが変な気も使わなくていいから楽でしょ」
「ほうかい」
「聞いてきたくせに、なにその興味なさそうな態度」
「お前もいつもこんなんじゃねぇか」
「はぁ?」
サチは顔をしかめて坂本を睨んだ。左目だけ細めてキッと睨むこの顔は小学生のときと変わらなかった。
「ちげーよ、坂本。こいつは関目当てで俺たちと組んだんだよ」
急に肩をポンポンと叩かれ、耳元で話しかけられたので驚いて振り返ると今度はゲンキがニヤニヤと笑っていた。ゲンキも心配して夕飯を持ってきてくれたみたいだ。手には膨らんだコンビニの袋を抱えていた。まったく今日は唐突に人が現れて驚くことが多い。しかし、坂本が驚いているのとは対照的にサチは「だから、そういうのないから」ともうゲンキとも臨戦態勢にはいって対応していた。
ゲンキが「照れんなよ」と言ってサチの頭を叩くと、サチは急に立ち上がってゲンキに取っ組みかかった。馬乗りになられたゲンキは笑いながら謝ったが、サチは許さずにひたすら食べ終わったミカンの皮を絞って、目に向かって汁を飛ばしていた。
坂本は笑いながら、それを眺めた。今までの距離がなんだったのだろうというくらい、それは昔のいつも通りで何も変わっていなかった。何も気を使わない。三人だけの懐かしい空間。坂本は何も喋らずただ笑っていた。本当に嬉しいときに、坂本はあまり話さない人だった。
「あ、カヨちゃんだ」
ゲンキに馬乗りになっていたサチが唐突に家のほうを指差した。そこには確かに紙袋を抱えたカヨコがいて、こちらが気づいたことに気づくと恥ずかしそうに軽く頭を下げた。
「なんだろう」
本当に色々な人が急に現れる。坂本は半ば小走りでカヨコのところへ向かった。
「おう、どうしたの?木下」
上ずることなく自然な声で話しかけられて坂本は内心ホッとした。カヨコは紙袋を坂本に差し出して「これ、昨日のだけど沢山あまっちゃったから良かったら食べて。坂本君のおばあさんが入院したって聞いたから」と坂本に手渡した。
「おぉ、マジか。ありがとう。助かる」
「そう、良かった」
昨日の葬儀で振舞われた料理の残りを持ってきてくれたらしい。坂本は紙袋見て、母の人形を持って歩くカヨコ横顔を思い出していた。カヨコはこうしていつも笑っているけど、多分今は辛いのだろう。昔、母が唐突にいなくなったときのことを坂本は自然と思い出していた。だけど、当時の自分の気持ちと重ね合わせるほど、カヨコにかける言葉は見つからなかった。
カヨコはふと顔を横に向けて、身を隠しながらこちらを覗き込んでいるゲンキとサチのほうを見た。
「三人とも仲良いんだね」
カヨコはやはり微笑んでいた。だけど、坂本はその顔をみてハッと息をのんだ。そこいるのは例のそこにいないサチだった。寂しそうな切れ長の瞳も、横を向くと見える首筋から顎の白い筋、全てが透けているように静かに見える。
「木下」
坂本は不安な声でカヨコを呼んでいた。不思議な顔をしてこちらを向いたカヨコを見て、ハッと坂本は笑顔と明るい調子を取り戻して続けた。
「木下も同じ班になったし、これからよろしく。全然、遠慮しなくていいから」
「うん」
「木下はいつも笑っているけど何か嫌なことあったら怒ったりしてもいいし。ほらアイツなんか逆にいつも不機嫌な顔しているけど」
坂本がサチを指差して言うと、カヨコは「そうだね」と言って頬を上げた。それは静かで控えめな微笑だったが、いつもの寂しそうな笑顔ではなく、どこか可愛らしい笑顔だった。
(こんな顔もするのか)
急に坂本はカヨコとちゃんと話すのはこれが初めてだと意識しだして、心臓の血が胸を締め付けてくるように感じた。