片割れ
バスにはいつの間にか二人しか乗っていなかった。運転手の声にどこか案内というより世間話をするような気安さが宿ったのはそのせいだろう。腰を曲げて座る老人は首を曲げてコクリコクリと相槌を打っているかのように見えたが、よく見るとただ頬杖をついて眠っているだけだった。
粗い道を進むタイヤはよく音を立てて跳ねた。しかし、その音が心地よく聞こえるくらいバスの中は静かで寂しかった。外には新緑が溢れ、窓にこびりついた雨粒が斜めに駆け下りていった。
そして、バスは目的地につき、向井は折り畳み傘をカバンから出して席を立った。運転手は降りる向井に軽く会釈をすると、一人残った眠る老人のために意味のない案内をしてバスを発進させた。
降り立った停留所を空の半分を遮る山々が見おろしてくる。霧かかった景色は青くぼやけて、森林のシルエットがぼんやりと揺れていた。
(山から下りてくる風が冷たい。濡れた葉の匂いがする)
東京でコンクリートに閉じ込められていた身分には涼しさがどこか懐かしかった。
向井は山をなぞるように這っているあぜ道へ入っていた。ほとんど水溜りに侵食されている道を歩んでいくと、いつしか革靴を透かせて雨水が靴下と親指の間で跳ねた。ズボンの丈に泥が跳ねてすっかり汚れてしまったが、随分前にどうでもよくなってしまっていた。もともと投げやりな気持ちで来たのだ。首を絞める黒いネクタイほうが今の彼には逆に妙な感じだった。
あぜ道が舗装された道路に吸い込まれ、村を横切る長い一本道にでると回りに住宅や学校が見えてきた。
同じ道に小学校、中学校、高校と順に並んで階段のように四角い校舎が段々に大きくなっていく。しかし、校庭は奥に行くほど殺風景になって高校の校庭ではピッチャーマウンドがぽつんと雨に濡らされているだけだった。
村の景色は昔と寸分も変わっていなかった。
あの時から夢を見てきてやっと目が覚めたのではないかと思ってしまうほど、記憶の中にあった当時の情景がそのままに広がっていた。
向井は半ば夢見るような気持ちで村の一番奥にある紅泉山を目指した。
「もう山入りが始まりますので列に並んでいてください。」
紫の羽織を着た女が署名をする向井の頭に向かって言った。山のふもとには羽織を着た村人達が集まり道の入口に二列で並んでいた。
向井のようにスーツを着ているものは少なく、村のものは皆思い思いの色の羽織をまとっていた。細かい雨がまだ降りやまずにいたが誰も傘をささず濡れている。小さな子供は今しかないといわんばかりに楽しそうに顔を雨に晒してはしゃいだ。
キィンと甲高い鐘の音が列の先頭から聞こえて、列が少しずつ前に進み始めた。皆隣の人の手をとる。向井も若い女性と手を繋いで、山へと歩んだ。
前の人間達が吸い込まれるように山のなかに消えていく。向井はやはり夢見るような心持で何となく故人のことを思い出していた。