ソフィー・リニエールというご令嬢~地獄に落ちた少年の話Ⅰ~
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少年は必死に石畳みの上を走っていた。服の中に隠し持ったパンを、どうしても無事に届けたい。それだけを願い、息を切らして走った。
だが、後ろから怒りを爆発させて追いかけてくるパン屋の主人にもう追いつかれそうだった。
捕まれば、きっと痛い目にあうだろうがそれは我慢できる。悪いのはパンを盗んだ自分だから。けれど、奪ったパンを取り返されるのだけはどうしても避けたい。
(これが無かったら…あいつ死んじゃう!)
帰りを待つ妹のために、彼は走った。
恐怖に取りつかれたように走る少年は、角を曲がった瞬間、後ろを向いていた男に衝突した。はずみで、石畳みに体を打ち付ける。
「なんだ?」
ぶつかった男が振り返った。倒れたまま目をやれば、身体の線にフィットしたフロックコートに身を包んだ青年と目が合った。少年はギョっとした。見たことのない上質なものを身にまとった男など、少年にとっては畏怖の対象にしかならない。
「コイツ! やっと捕まえたぞ!」
パン屋の主人についに追いつかれ、少年は怖気立つ。
ああ、もう駄目だ。もう駄目だ。
目に涙を浮かべ、それでも必死に噛みしめ耐える。怒りに振り上げられた腕が、当たると思った。くるであろう衝撃に目を閉じたが、いつまでたってもそれは来なかった。
恐る恐る目を開くと、振り上げられたパン屋の主人の腕を、青年が掴んでいた。
「――なッ! いっとくが、コイツは盗人で、オレは!」
「分かっている。だが、うちのお嬢様が買い物中だ。騒動は困る」
青年は淡々と落ち着いた声で制した。
「そう言うがな、アンタっ」
振り上げた怒りが収まらないのか、パン屋の主人はなおも声を荒らげた。
「あら、随分と賑やかね」
そんな殺伐とした空気の中で、この場に相応しくない可愛らしい声が響いた。
「バート、どうかしたのかしら?」
大きな声量ではないのに、耳に心地よく通る声だった。
手縫いの刺繍とフリルが美しいドレスに身を包んだご令嬢が、可愛らしいリボンが付いた靴をコツコツと鳴らしながら、少年たちの前に立つ。
滑らかな黒い髪と、新緑の時期だけに見られる若葉のような瞳をもつ可憐な少女に、少年も、先ほどまで怒りを露わにしていたパン屋の主人も息を止めた。
少女は、白い指で持っていたフリルのついた華やかなパラソルを隣に控えていた侍女に渡すと、もう一度『あら…』と声を零す。
「ソフィー様、申し訳ございません」
可憐な少女に、青年が耳打ちする。事を理解した少女は、同情するかのよう顔で、パン屋の主人の前に立った。
「ご挨拶が遅れました。わたくしエドガー・リニエールの娘、ソフィー・リニエールと申します。大切な商品を盗まれたとか。ご主人、災難でしたわね」
「…え? は、は、はい!」
パン屋の主人は慌てた。リニエール家と言えば、男爵家。貴族だ。しかも豪商であり、自分もリニエール商会から小麦を買っている。リニエール商会から買い受ける小麦はとても上質な物だ。それだというのに価格は抑えられており、王都の店という店がリニエール家の慈悲の恩恵を受け、商売を行っている状態であった。
もしもリニエール家のご令嬢を怒らせるようなことがあれば、王都ではもうより良い商売はできない。
「お気持ちは分かりますわ。精根を込めて作られたものを盗まれることは、とてもお辛いことでしょうから」
「は、ははい! ご理解いただきありがとうございますっ!」
「ですが、わたくし争いはあまり好みませんの。どうか、これでこの場のお怒りはお納めいただけないかしら?」
新緑の瞳を細め、少女はそう言って金貨を一枚手渡した。
「き、金貨!? おおおおおお、恐れ多いです!」
金貨一枚など、とてもいただけない。盗まれたパンは、銅貨一枚でも十分なものだった。冷や汗と脂汗でぐっしょりと濡れたパン屋の主人は、強く首をふる。
「どうか、お受け取りください。わたくしの我儘を、お聞きくださいませ」
その瞳も、声も、強制など感じず、優しげだ。しかし、有無を言わさない力があった。パン屋の主人は壊れたオモチャのように、軋んだ動きで金貨を受け取る。少女に感謝の言葉を口にすると、まるで逃げ出すようにその場を離れた。
「――さて、コイツはどう致しますか、お嬢様」
「そうねぇ…。とりあえず馬車でお話ししましょうか。ここでは人の目が多いわ」
あれが、噂のリニエール男爵のご令嬢だと噂する人々を後に、少女たちは馬車に乗り込んだ。それに、なぜか少年も乗せられた。
二頭立ての豪華な馬車に乗るなんて生涯ないだろうと思っていた少年は、緊張のあまり吐きそうになった。豪華な馬車は二台あり、少女と青年、そして少年以外の人間はもう一台の馬車に乗っていた。
チラリと視線を上げれば、目の前には輝くような白い肌をもった少女。その少女が自分を見ていた。
「き、貴族の施しに感謝なんかしないからな!」
恐怖が変な方向に振り切られた少年は、少女と目が合うなり、そう叫んでしまった。先ほどのパン屋の主人同様、変な汗が頬を伝っていたが、少年は必死だった。
見たことも無い可憐で可愛らしい少女が、少年は恐ろしかった。花のような美しい香りと、ただ座っているだけで、同じ人間とは思えない雰囲気に完全に気圧され、虚勢を張っていないと今にも気絶しそうだった。
少年の不敬に、少女は怒るかと思いきや、なぜかおかしそうにクスクスと笑った。
「まぁ、可愛らしいこと。バート、貴方と同じようなことを言っているわよ。あれは、一度は口にしないといけない通過儀礼なのかしら?」
「自分のバカさ加減は重々承知しておりますから、あまりいじめないでいただけないでしょうか」
「クレトも昔、同じようなことを私に言っていたわね」
「あんな痴れ者と、同じ扱いはご容赦いただきたいです」
やり取りに、少女がまたクスクスと笑う。笑う顔も美しかった。一度だけショーウィンドウから見た、自分には一生縁のない高価なお人形のようだ。
「お前みたいなキレイな女いるわけがない! 魔女め!」
「あら、褒められているのかしら、貶されているのかしら?」
「くそガキが…」
今の今まで怒りなど少しも表さなかった青年が、舌打ちするかのように睨む。
上質な青年だと思っていたが、まるで街のチンピラのような言葉遣いで『うちのお嬢さんを色目でみてンじゃねーよ』と、宣った。




