拝啓 天馬 そう、すべては必然だったのですⅦ
「冗談じゃないッ!」
ヴィンセントは、稀代の天才といわれるロレンツオを蛇蝎の如く嫌っているがゆえに、医科学研究所ではなく学院の講師職を選んだ身。当然喜ぶわけもなく、怒りを露わにした。
「なぜ私があんな男の下に就かなければならないんだ!」
「あるべき人材をあるべき場所に移すだけですわ。なにを驚くことがございましょう?」
元々銀星三つを賜っている人間が、外部講師ならばともかく内部講師として在籍している方が奇異なのだ。万年人手不足の医科学研究所にとっても否のない話だろう。
「希望もしていない人事など誰が通すと…」
「ヴィンセント講師、貴方は忘れっぽい方ですのね。私の星の色をもうお忘れになられたの?」
「……それは脅しか? 権力の濫用以外のなにものでもないッ」
眉間を歪め、口調厳しく発したヴィンセントに、ソフィーはクスッと笑う。
「当たり前ではないの。使わぬ権力など、意味のないガラクタと同じこと。そして権力はここぞというときに使うものよ」
さきほどまでとは違う高圧的な口調に、抜け目のない緑玉の瞳がヴィンセントをとらえる。
大の大人すらたじろがせるには十分な瞳の力に、ソフィーの本気を悟ったのか、ヴィンセントは開いた口をギリッと食む。
「さあ、どうなさいます? 選択権はございますわよ」
二者択一。どちらも彼にとっては忌避したいものだろうが、選ぶなら最初から選択肢は一つしか存在していない。
それがよく分かっているのだろう。ヴィンセントは紳士にあるまじき舌打ちをすると、苦々しい顔で戸棚からリチュのボードを取り出し、荒い動作でテーブルに置いた。
「一戦すれば満足なんだろう! まさか、わざと負けろとは言わないだろうな?」
「それは貴方の腕次第ですね。大した腕前ではないと判断すれば、すぐに退出いたしますわ」
講師と少女の毒しか放っていない会話からスタートしたボードゲームを、ジェラルドは黙って見守った。
リチュは、知性と論理を求められるゲームのはずなのだが……そう思いながらも決して口には出さずに――――。
「ソフィー様、そろそろ……」
ちょうど五戦目が終わった時、ジェラルドが声をかける。
すでに空は夕暮れ時。
ここで六戦目に入っては、完全に夜の帳が下りてしまうだろう。
「え? ああ、そうね。さすがにお暇しないといけない時間ね」
黒に染まった空に、ソフィーもやっと時間の経過を把握した顔で、手にしていた駒を置く。
勝負前はまったく気の合っていなかった二人だったが、試合が始まると集中力がすさまじいのは双方同じ。ジェラルドも、まさか勝負が半日以上続くとは思っていなかった。
「勝ち逃げするつもりか!?」
席を立とうとするソフィーに、ヴィンセントの子供っぽい制止の声が飛ぶ。
駒を持つまでブツブツいっていたが、いまはソフィーが駒から手を離し、片付け始めたのが不満のようだ。
「いいえ、全勝するまでやります。ですが今日はもう遅いので、続きはまた明日」
ヴィンセントの表情が不機嫌そうに歪む。明日も来るのかという文句かと思えば、どうやら全勝という言葉にムッとしたようだ。
「随分強気だな。言っとくが、最後の一勝は運だ」
ソフィーの本日の勝敗は三勝二敗という結果だったが、確かに最後の一勝は運が良かったといえる。
長丁場で集中力を欠いたのか、ヴィンセントが一手を間違えたのだ。手違いも実力だといえるが、次も同じことがあるとはいえない。
彼は一手をミスしたとはいえ、さすが最高位のタイトル保持者だけあり、ソフィーの知らぬ駒配置や戦術を持ち合わせていた。ジェラルドが言うように、腕前は確かだった。
だからこそ、彼の手筋を学びながら確信した。
「ご安心を―――私はもっと強くなりますので」
ほほ笑む少女の顔はとても満足げだった。
不遜な口を叩いているというのに、自信と気概に溢れた瞳にヴィンセントは一瞬惚ける。
「今日はありがとうございました。それではまた」
駒を片付け終わると、ソフィーは扉の前で礼儀正しく一礼し、感謝を伝えた。ヴィンセントも長時間の勝負で疲れていたのか、それ以上の皮肉が飛ぶことはなかった。
「思った以上に楽しかったわ!」
寄宿所までの帰り道、夜のひんやりとした風を受けながら、ソフィーは背中の張りをほぐすように腕を上げる。その姿は貴族の令嬢というよりは、体をぐっと伸ばす猫だ。
連戦の疲れなど一切見せず、気分転換を満喫したかのような溌剌さを見せるソフィーに、ジェラルドは逆に不安になる。
「それは何よりですが……これを一週間続けるのですか?」
護衛としてはソフィーの体力も心配だが、レミエルとの勝負のために要している時間も懸念せざるを得ない。
彼女は紫星として任務を遂行するためにここにいるのだ。けっしてレミエルの遊び相手を務めるためではない。
ジェラルドの言わんとしていることを明確に読み取ったソフィーは口を尖らせた。
「心配しなくても、やることはちゃんとやってるわよ。この学院に来てからだって、遊んでいたわけでは……」
そこで、ピタリと言葉が止まる。なにか引っ掛かりを覚えたのだ。
「そういえば、学院に来る前からあとで準備しようと思っていたことがあったのよね……。なんだったかしら?」
わりと大切なことだったような、と首を傾げるソフィーに、ジェラルドの顔が曇る。
「うーん……。まぁ、大切なことならそのうち思い出すわよね!」
疲れは見せずとも、やはり連日の睡眠不足と脳の酷使が響いていたのかもしれない。
結局その夜、ソフィーが“大切なこと”を思い出すことはなかった。