ソフィー・リニエールのみる夢 ―胡蝶の夢Ⅱ―
(彼が、ファースが言っていたロレンツオ様に次ぐ天賦の才を持つ方?)
先ほど見た夢と、現実の動揺がいまだおさまっていないせいか、少しぼやけた頭でソフィーはマジマジとレミエルを見つめた。
狂いない端正な造形。まるで見えぬ光を発しているかのように、そこだけ世界が違う存在感。
彼が少し動けば、なめらかな絹糸のような銀の髪がサラリと音を立てる。濃い紫の瞳は色鮮やかだというのに、まるで深海のように底がない。
夜のしじまに浮かぶ月のような美貌は、どこか得体が知れず、長い時間見つめているとゾワリと肌が粟立つ。
レミエル・カールフェルトという男は、ただそこにいるだけで、静かに人の心を飲み込むようなすごみがあった。
不気味な美しさに息がつまるような錯覚を覚えるソフィーとは対照的に、レミエルの方は慣れているのか、不躾な視線にも一切気に留めず口を開いた。
「ところでソフィー・リニエール。僕と勝負をして欲しい」
「…………は?」
突然の申し出に、ソフィーの声で祐のような言い方をしてしまった。
慌ててコホンと咳をし、今度は淑女らしい整った声で問う。
「なぜ私が貴方と勝負をしなければいけないのかしら?」
「君が勝てば君の望むものをやろう。僕が勝てば僕が望むものを君から貰う」
(なによ、その勝負は……)
この男に望むものなど一つもない。
確かに先ほどの寝言は忘れてほしいと切実に思うが、口に出して懇願すれば逆に墓穴を掘りそうで、もう一度念を押す気にはなれなかった。
「そんなリスキーな賭けにのるわけがないでしょう」
「それならそれでもいい」
突拍子もないことを言い出したわりに、随分と聞き分けがよかった。と、ホッとした瞬間――
「君が応じるまで付きまとうだけだ」
「!?」
サラリとなんでもないことのように言う男に、ソフィーの口元がひきつる。
(……初対面の時から幽霊もどきの変わった男だと思っていたけれど、本当に変わってるわね)
「ストーカー一歩手前ね」
思わず頭を抱え呟くと、レミエルが美しい紫の瞳をキョトンとさせ首を傾げた。
「“ストーカー”とはどういう意味だ?」
ついこの世界では存在しない単語を口にしてしまったが、事細かに説明する気にはなれず、かわりに強い語尾で拒否した。
「迷惑だからやめてちょうだい」
「なるほど。“ストーカー”とは、迷惑と言う意味か?」
「……まぁ、そうね」
「それはどこの言葉だ? 初めて聞く単語だ」
レミエル・カールフェルトという男は、本当になんでも聞きたがる子供だった。確かに、この知識欲は銀星に通ずるものがある。
さてどうしたものかとソフィーが悩んでいる間に、レミエルはおもむろに何かをテーブルに置き出した。
それはボードと駒だった。
(“リチュ”のボード……)
リチュは、前世のチェスや将棋に似たボードゲームだ。
本来は上流階級の男性が嗜むものだが、幼い時にフェリオとアルに教えられて以来、ソフィーにとってはわりと身近なゲームだった。
(勝負って、ボードゲームのことだったのね)
ならば、勝つ自信はある。
前世、学生の時は天馬の父とチェスをし、就職してからは営業先の相手から囲碁や将棋に誘われることが多かったこともあり、ボートゲームは一通り網羅し、それなりに勉強もした。
前世のボードゲームの知識があれば、駒の進め方次第でリチュにも応用がきく。
そのお蔭で、教えてくれたフェリオやアルにも早々に完勝するくらいには弱くはない。
しかしなぜこの男は、こんな可愛らしい淑女である自分が当たり前のようにリチュをできると確信しているのだろうか。
リチュは、戦略ゲームとしての意味合いが強い。男爵令嬢レベルでは、興味を持つことすらはしたないとされる。女性でこれを嗜めるのは、かなりの上位貴族の女性だけだ。
「別段そう難しいことではないはずだ」
それなのに、レミエルはできて当然とばかりに淡々と駒を並べはじめた。
「難易度は人によって感じ方が違うものだと思うけれど」
「先手は君にやろう」
「貴方、本当に人の話を聞かないのね?」
「後手がいいのか?」
駄目だ。意思疎通ができない。
ボードを事前に準備していることからも、最初からこちらの拒否権など聞く気はなかったのだろう。
(もうっ、とにかく勝てばいいんでしょう! 勝てば!)
夢のせいか、少しだけ意識が祐に引っ張られていたのかもしれない。
淑女らしい優雅さを忘れ、少し意地になってしまった。
それが結果として最悪を招くとも知らずに――――。
約一時間後、ソフィーは駒を手に、唖然と盤面を見つめていた。
美しい直線が引かれた盤面と駒には、間違いのない勝敗が刻まれている。
そう、完全なる己の敗北が――――
(嘘でしょう……)
序盤までは確かに優勢だった。
だがそろそろ勝敗がつくという時に、盤がひっくり返ったのだ。
その時まで、自分の手に悪手はなかったと信じていた。実際、ソフィーの一手にミスなどなかった。
それなのにこの男はそれ以上の手で、ソフィーの上をいったのだ。
(完全に……負けた)
ここまで自分の敗北を痛感したことなど、今まで経験したことがない。
前世でも、今世でも。あえて負けることはあっても、勝ちにいくと決めた勝負でこんな無残な負け方をするなど今まで一度もなかった。
ショックから抜け出せないソフィーに、レミエルが抑揚のない声で言う。
「僕の勝ちだな」
勝負に完全勝利しても、欠片の喜びも表さない男は、相変わらず淡々としていた。
「……貴方の望みを聞いてもいいかしら」
恐る恐る問えば、レミエルは表情筋を崩さず薄い唇を開いた。
「…………は?」
レミエルの口にした望みに、ソフィーはまたもや令嬢らしさを欠いた声を発してしまうが、今度は取り繕うことができなかった。
それほどレミエルが口にした望みは予期せぬもので、いったいどんな真意があるのかまったく理解できない。
分かることはただ一つ。
――――この男、アホなのかしら?
ソフィーはしみじみと、心の底からそう思った。




