ソフィー・リニエールのみる夢 ―胡蝶の夢―
その日の放課後、図書館で時間を潰していた“オレ”に、うとうとと眠気が襲った。
深夜までの復習、早朝からの予習。少し疲れていたのかもしれない。
一日の大半の時間を“オレ”は勉学にあてていた。趣味の本を読む以外で、特に趣味と言われるものもない。たまに、親友の姉が教えてくれる料理を手伝うくらいだ。
普段の睡眠時間は多くて六時間。慣れているから、別に睡眠不足を感じていたわけじゃない。
でも、風はまだ冷たいが、日差しは暖かな春のうららかさに、つい眠気を誘われたのだろう。
夢とうつつがぼんやりとしていると、誰かが前の席に座った気配がする。
親友が、日直を終えて迎えに来たのだと思った。
早く眠りから覚めないといけない。
一度目を強くつぶって、それからゆっくりと開く。
窓から差し込む日光と、蛍光灯の光を眩しく感じながらも、開いたその目に映るのは親友ではなく、見知らぬ生徒だった。
制服を崩して着用している親友とは正反対の、ブレザーもネクタイも一寸の狂いなく着こなしている様はまるでマネキンのようで、雰囲気もどこか几帳面さがにじみ出ている。
アイツじゃない、知らない生徒だった。もう一度目をつぶろうとすると、その生徒と目が合った。
「つまらない奴だな、お前」
ハッキリと“オレ”を見て、そいつは言った。
「親友とやらがいないと何もできないのか? そんな人生で、お前は本当に楽しいのか?」
敵意とか悪意とかそういう目ではないが、呆れを含んだそれに、“オレ”はムッとした。
顔も名前も知らない男に、なぜそんなことを突然言われなければならないのか。
「オレはお前なんか知らない。名も知らない他人に、開口一番に批判される謂れなんてない」
机に突っ伏していた上半身を起こし、相手を睨め付ける。不機嫌をそのままに言えば、男が少し目を見張った。言い返してくるとは思っていなかったようだ。
「――――だ」
聞き取れなかったが、名を教えてくれたのかも知れない。だが、興味は無かった。そのまま席を立ち、図書館を出る。そいつが何か言ってきたが、一蹴した。
冷気を足元ではらいながら廊下を歩いていると、やっと先ほどの男が誰だったのか思い出した。学年次席の男だ。
“オレ”のような男が、首席である事がそんなに気に入らないのだろうか。つまらない忠告をわざわざするような時間があるなら、次は“オレ”に負けないよう頑張って勉強でもしとけばいいのに。よほど暇なのかと吐き捨てたくなる。
『そんな人生で楽しいのか?』
一日中特に誰と話すことも無く、休み時間の度にひたすら本を読み、部活に入部することなく日々を黙って過ごすような同級生に、一言いいたくなったのだろう。
だが、お前に何が分かる。
お前にとっては“そんな人生”だろうが、それすら“オレ”の出自からみれば、身に余るほどの幸運なんだよ。
『親友とやらがいないと何もできないのか?』
ああ、そうだよ。
親友がいなきゃ、とっくにこんなつまらない世界見限って、死後の世界にでも旅立っている。
幼い時にすがった生を捨て、醜い心に苛まれ、自暴自棄になってもう消えてなくなりたいと思ったことなら腐るほどあった。けれど、それを救ってくれたのは親友とその家族の存在だ。
なぁ、お前に想像できるか?
お前の目の前に座っていたのは、同じ日本に生まれながら、保護されるまで籍すら与えられず、名すら呼ばれず、最後には実の母親に死を望まれたような男だぞ。
(オレとお前じゃ、そもそも存在価値が違うんだよ……)
愛されず、必要とされず、厭われる。
ただ産まれ落とされただけでしかない存在――――それが自分だ。
そんな人間に、お前はなにを求めているんだ?
ふいに頭をよぎるのは、思い出したくもない幼少期。
すえた匂いが自分から放たれる夏のゆだる部屋の中、謂れのない母親からの暴力にただ耐え悲鳴を飲み込む日々。ヒステリックな高い声に怯え、耳を塞ぎたい衝動を抑え、非は自分にあるのだと、だからこんな目にあうのだと、矛先を自分に向けなければ自我を保てなかった――――
じわりじわりと、胸に重いものが落ちてくる。
「……ッ」
知らず唇を強く食んでいた。口の中に鉄の味が広がる。
黒くてドロドロしたものが、心を奪うように広がっていく。
(情けない……)
あの程度のことでなにを苛立ち、気落ちしているのだろう。もっと醜く悪意をもった言葉の攻撃だって受けてきたじゃないか。
それに比べれば可愛いものだというのに、狭量な自分が嫌になり、気を紛らわせるように首を振る。
「――――祐」
突然名を呼ばれ、ビクリとして振り返る。
「なに置いて帰ろうとしてんだよ」
親友が鞄を片手に、こちらへ歩いてくる姿が目に入った。
焦る気など一つもなく闊歩する姿に、やっと呼吸が楽になった気がした。
「……天馬」
自分は、なにも持っていなかった。
産まれる前から、なにも持ち合わせていなかった。
六歳の夏の日に、持っていると勘違いしていたものもすべて幻想だったと知った。
なにも持っていない自分の手は空っぽだ。
空っぽのこの手を、引いて歩いてくれる人はいない。誰もいないのだ。
そう思っていた。
けれど、幼い時に幼い手で引いてくれた。
なにも持っていない自分の手を。
だからこそ大事なのだ。
(お前には、分からないだけだ……)
コイツだけは、絶対に自分を裏切らない。
そう信じられる人間を、親友に持てた幸運を――――。
「――おい」
覚醒し切れていないぼんやりとした頭と視界で、男の声がした。
耳に響く無感情な声に“オレ”が反応した。
(あれ、また寝ていたのか? さっき起きた気がしたのに……?)
夢の中で、夢から覚める夢をみたのだろうか。
そう思いながら、寝ぼけた眼をゆっくりと開けようとする。
また、「おい」と声がした。
「いま起きるよ、天ま――……」
自分が発した声に、ハッとする。
可愛らしい、鈴のような声。
これは、“オレ”の声ではないと。
バッと勢いよく上半身をあげれば、そこに親友の姿はなく、もっと美しい顔立ちが目の前にあった。
輝く銀髪に、吸い込まれそうな濃い紫水晶の瞳。その瞳が、虚を突かれたように大きく開かれている。
(え? あ……この前の……幽霊?)
現状を把握しようと、目を何度か瞬く。
視線を周りに移すと、そこは図書館だった。
前世の高校の図書館ではなく、王の剣の書庫室。
「――――ッ!」
完全に寝ぼけていた。
寝ぼけて前世の口調で天馬の名を呼び、令嬢とは思えない言葉遣いをしてしまった。
サーっと血の気が引く。
ソフィー・リニエールとして完全な令嬢を目指して頑張ってきたというのに、ほぼ初対面のような男を前になんたる失態だろう。
顔色を悪くしていると、男が首を傾げ、
「無理に起こして悪かった……と言えばいいのか?」
疑問形で謝罪を口にした。
寝ぼけて発した淑女らしからぬ言葉遣いにも、銀髪紫眼の男は特段気分を害しているようではないが、少し戸惑いが滲む声だった。
「いえ、ごめんなさい。寝ぼけていたわ。今の言葉は忘れてちょうだい。ええ、今すぐに記憶から抹消して!!」
「そうか……」
男が短く答えると、二人の間に長い沈黙が落ちる。
その沈黙に耐えられなかったのは、ソフィーの方だった。
「貴方は……、この前は名を聞かなかったけれど」
最後まで言い終わる前に、男はその名を口にした。
「レミエル・カールフェルトだ」
(姓は、カールフェルト…)
名を聞いて少し安心した。もしも王族なら、姓は『レクス』。銀髪紫眼に第二王子を連想していたが、どうやら杞憂のようだと。
「この学院の生徒よね?」
「ああ」
「記章をつけていないの?」
「あれはつける必要があるのか?」
そういいながら、レミエルが胸ポケットをあさる。
(つける必要があるのかって、冗談で言っているのかしら?)
記章をつけないのは、明確な規律違反。入学当初に説明だって受けているはずだ。しかし冗談を言っているようにも見えない。
意図が分からず唖然と見つめていると、レミエルがポケットから記章を取り出した。
そこに刻まれていたのは、百合の花――――
「……銀星」
記章は、銀星のものだった。
(え、でもそれだと人数が合わないわよね?)
銀星の生徒の数も、顔も、名もすべて覚えている。
彼が銀星の生徒なら、一人多いことになる。
(年によっては定員人数が増えることもある、ってことかしら?)
だが、彼がどういう人間かは知らないが、ここまで美形な男が銀星にいればファース辺りから話題が出ていそうだと考え、気づいた。
(レミエル……カールフェルト!?)
『レミエル・カールフェルト様は、ロレンツオ様に次ぐ天賦の才をお持ちの方だとは思うのですが』
言っていた。
すっかり忘れていたが、あまり関わらない方が得策だと思ったではないか。
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やっと少しずつ回収作業に入れそうです(*´ω`)




