ソフィー・リニエールというご令嬢~ラルス・リドホルムの躍進~
「ラルス!」
放課後、ソフィーを探して御影石の渡り廊下を歩いていたラルスは、友人のアーロンに呼び止められ振り返る。
「この前、皆で話し合った内容を議事録にまとめてみたんだ。見てくれない?」
「もう? 早いね」
「結論を文字に起こしただけだからね。そう時間はかからなかったよ」
サラリと言うが、徹夜して書き上げたのは明白で、アーロンの目の下にはうっすらと隈ができていた。
友人の頑張りを称えるべく、ラルスはすぐに渡された数十枚の紙の束を捲り中身を読む。達筆な文字で書かれた議事録に目を通すと、ラルスはうんと強く頷いた。
「問題ないと思う。けど、提出する前に、一度ソフィー様に見ていただこう」
ラルスの言葉に、アーロンが同意の声を発しようとした瞬間、居丈高な声がそれを制した。
「ふん、リドホルム子爵家の長子が、今や男爵令嬢の下僕とは。リドホルム家も地に落ちたものだな」
嘲りの声に、ラルスとアーロンが驚いて振り返ると、そこには黒衣を着た青年たちが数人立っていた。
人の名と顔を覚えることを得意としている金星の二人は、彼らが黒星の人間であり、家の爵位と名まですぐに認識した。
「――――ダニエル・ベック殿。そのご発言は、紫星を賜っているソフィー・リニエール様に対して、あまりにも無礼ないい様ではないですか」
反論を唱えたのは、アーロンだ。ダニエル・ベックは伯爵家の者。ならば、同じく伯爵家の自分の方が抗議する方がいいだろうと考えての発言だった。
ダニエルは、名と姓を呼ばれたことに一瞬怯んだが、すぐに不遜な表情を浮かべて鼻を鳴らした。
「事実だろう」
「…ッ」
言い返そうとしたアーロンを、ラルスが片手で制す。
ラルスはゆっくりと黒星たちの顔を見ると、金星らしい柔和な笑みを浮かべた。
「僕のような若輩者が、俊秀かつ聡明なご令嬢であられるソフィー様の下に就くなど、恐れ多く、身に過ぎる光栄と理解しております」
「ハッ、女の下に就いて光栄とは! 何度も婚約破棄を受けていると聞いたが、納得だな。それともよほど女運が悪いのか?」
男として一番指摘されたくない部分を揶揄われ、それがどれだけラルスにとって痛手として残っているか理解していたアーロンが、怒りに顔色を染めた。
しかし、当のラルスは、その言葉に傷つくどころか、あんなに自分の心を苦しめていた三度の婚約破棄のことをすっかり忘れていた自分に気づいた。
(でも、あれがあったから…)
もしも、自分に変わらず婚約者がいたならば、ソフィーはいまほど親身に接してくれなかったかもしれない。
もしも、歴代の婚約者たちが一人で我慢し、婚約関係を続けていたならば、大人しい婚約者を前に踏ん反り返り、傲慢な考えで自分の正しさだけを主張するような男になっていたかもしれない。
そんな人間が、本当にリドホルム家の次期当主として相応しいだろうか。恥ずかしくない人間だと、言えるだろうか。
(女運が悪いんじゃない、僕が悪くしていたんだ…)
そう考えれば、三度の婚約破棄は自分にとって十分意味のあったものだと、自身を変える一つの分岐点だったと言える。
ソフィーと出会う前までは、きっとそんな考えは持てなかっただろう。けれど今はその考えが持てる。
――――人の心変わりが一瞬のように、人が成長するのもまた、ほんの一瞬のことだよ。機会は決して逃してはいけない。
ふっと思い出すのは、父からの言葉。父からの教えは、数多くあった。けれど、その多くが聞いただけでしかなく、ラルスにはその言葉を意味ある理解にすることが叶わなかった。
今なら、あの時言われた言葉の意味がわかる気がする。
(そうだ、僕はもっと変われる…)
ウジウジと不満ばかりを口にする性格は一生のものだと思っていた。人はすぐには変われないし、変わることを恐れない人は、一握りの強い人間だけだと、ふて腐れていた時もあった。
(僕は、ただ成長の機会を自分で逃していただけだ)
そのことに気づけば、なぜこんなことすら今までの自分は理解できず、父の言葉にも今まで賛同できなかったのだろうと、不思議に思えるほどだ。
つい口が笑みを作っていた。
きっと、あの人ならここで笑うのだろう。
極上の笑みで、優雅に。
そして、きっと――――
「配慮も思慮も足りなかった己の稚気を、今は猛省しております。ソフィー様は、そんな愚かな自分の弱さに気づかせて下さいました。あの方のお言葉は、僕には勉強になることばかりです。ぜひ貴方方も、ソフィー様の知性に触れてみてはいかがですか? 相手が女性だからと下に見て、曇った心と目しか持てぬなど、人生の損失ですよ」
ソフィーならどういうか、そう考えただけで、口からサラリと言葉が流れ出た。
盛大な揶揄が含まれたそれに、ダニエルはカッとしてすぐさま口を開こうとしたが、一緒にいた黒星の一人に腕を掴まれる。
「…おい、行くぞ」
突然、逃げるように黒星たちが去っていったことに、ラルスとアーロンが首を傾げていると、ヒューと口笛を吹きながら現れたのは、銅星のマルクスだった。
「カッコいいじゃん、坊ちゃん」
「マルクス殿!」
どうやら黒星たちはマルクスの姿を見て、この場を去ったようだ。
銅星の平民だと馬鹿にしていても、星二つの彼は剣技ならばジェラルドにも匹敵する強さを持っている。その上、体力だけならば、ジェラルドをも上回る。
もしも場の勢いで戦いを挑まれれば、負けるのは目に見えており、恥をかくのは自分たちだ。そう考え早々に逃げ出したのだろう。
黒星の中でも下流な男たちの存在などラルスは瞬時に忘れ、一気に赤くなる。その顔に、先ほどまでの威勢はない。
「マルクス殿に見られるなんて……! ソフィー様ならどうおっしゃるか考えて模倣しただけなので、恥ずかしいです!」
「ああ、それで…」
マルクスの知っているラルスにしては、黒星相手に随分と嫌味な言葉選びをしたものだな、と思って聞いていたが、ソフィーの模倣だと聞けば納得してしまう。
ラルスの吸収力と、学習能力の高さは純粋に感心するが、いかんせん真似する相手が…と、マルクスは苦笑した。
「――しかし、黒星の奴ら、お嬢さんへの不平を隠さなくなってきたな」
ソフィーがこちらに来てから二週間余り。黒星の態度は軟化するどころか、日増しに悪化していた。
さすがに第一王子から紫星を賜ったソフィー本人に何かするほどの根性はないようだが、その代わりに、ソフィーに追随する人間に嫌味を言い出したのだ。
「あちらは黒星ですからね。僕たち金星なら、どうとでもなると軽んじているのでしょう。見くびられたものです」
アーロンがはぁ…とため息を吐く。
「その言い方だと、銅星の方にも?」
ラルスがマルクスに問うと、ああ、と軽く頷いた。
「うちの奴らにも、何人か喧嘩吹っかけてきた黒星がいたぜ」
でも、と一旦言葉を切り、マルクスがアーロン以上の大きなため息を吐いた。
「黒星もふっかけるならマトモな奴にすりゃーいいのによぉ、ふっかける相手があのコンラートのアホって……。アイツを相手にふっかける黒星もアホだよ、アホ!」
身も蓋もない言いようだった。
しかし話を聞けば、「金でもつかまされたのか、これだから平民はプライドが無くて困る」と宣った黒星に対し、コンラートは笑って「そりゃあ、自分にとって有意義な相手ならプライドなんて捨てるに決まっているじゃないですか! プライドじゃ腹膨れないし!」と嬉々とした笑顔で返したそうだ。あまりにあっけらかんと言うものだから、皮肉った黒星も二の句が継げなかった、と。




