拝啓 天馬 ストレス解消がしたいですⅩ
ルカが今日の報告で伝えておこうと頷いていると、未だ一度も座って休憩していないソフィーが拳を握って力説する。
「安心してちょうだい。種は無償でも、社員にはちゃんとお給料も研究費用も払っているわ。もう無賃金時代は脱したのよ!」
無賃金時代とはなんのことだろう。ラルスが小さく「無賃金?」と呟く。ぼんぼんで育った彼には、あまりなじみのない言葉だった。しかし金星らしい推察は止まらなかった。
「でしたら尚のこと、趣味ではなくちゃんとした事業として費用を回収された方がいいのではないでしょうか? ソフィー様になんの利益があるのですか?」
「これが王都に広まったら、小麦よりも安く手に入るし、味も美味しいパンやお菓子が食べられるという利益があるじゃない」
「それは平民の利益では?」
「間接的には私の利益にもなるのよ」
ラルスが首をひねる。
弟が独り立ちしたら修道女になる予定のソフィーからすれば、平民の食生活が豊かになるのは自分の利益なのだが、ここでその話をするわけにもいかず、適当な言葉を並べた。
「視野を広くして考えてみて、ラルス。品種改良を行い、より良い物を作れば強い国だと他国に示せるわ。それはオーランド王国の権威にもつながる行為よ。他国の商人も、権威ある国とは軽んじた取引は避け、誠心誠意で応えてくれると思うの。ほら、リニエール家としても無駄がないでしょう?」
「……視野が広すぎて、己の狭い知識では理解が難しいです」
唖然としながらも、正直な感想を口にするラルスに、ソフィーがほほ笑む。
「大丈夫よ、ラルスならすぐに慣れるわ。まぁ、でも…」
ソフィーは一旦言葉を切り、ラルスのヘロヘロな姿を見る。
「それと体力は別ですものね。ラルス、貴方はここで待っていてもいいのよ。もう体力もないでしょう?」
「い、いえ! 大丈夫ですから、ちゃんと最後まで頑張ります!」
体力気力共に元気いっぱいの少女に置いていかれる焦りと、一人で待っていて野生動物に遭遇する可能性の恐怖を考え、ラルスはぶんぶんと首をふる。
「うーん…仕方ないわね。じゃあ、背を貸してあげるわ」
「は?」
「ラルスくらいなら、私でも運べるでしょう」
言うなり、屈んで背を出す少女の行動に、またもやギョッとする。ラルスの顔は、真っ青を通り越して土色だった。
「……お嬢さん、もうその辺で勘弁してあげて」
「え?」
マルクスは屈んでいるソフィーの手を取り立たせると、真っ直ぐに目を見つめ、諭すように言う。
「もうこの坊ちゃん、瀕死状態だから」
「だから背を貸してあげると」
「同じ男として可哀想だから、もう許してあげて!」
マルクスがさめざめと泣くポーズをした。いや、本気で泣いているのかもしれない。それほどに心痛な声だった。
ソフィーとしては、男だから胸ないし大丈夫と思ってしまう。逆に、なぜそこまで苦悶な表情をするのか本気で分からなかった。
「お嬢さん、確かに俺は男ばかりで育った無骨もんだが、さすがにそれはないだろう! 男心を何度滅多打ちにする気だ!」
マルクスに、それは貴族の女には品位の範疇なのかと問われ、ソフィーはハッとしてよろけた。
「そ、そうね。……イヤだわ、気が緩んだのかしら…?」
「なんで気が緩められるンだ…」
おかしいだろう、とマルクスが言う。
貴族の中では地位が低い男爵家だというが、貴族は貴族だ。
しかも初めて会った時のドレス姿のソフィーは愛らしく、大人しそうな美少女だった。
なぜたった数日でこんな得体のしれないお嬢さんになったのか、それとも最初からこんな感じだったのだろうか、とマルクスは頭を悩ませる。
「銅星の中で気を緩ませるなよ。俺もそうだが、スラム出身者や孤児の奴らも多いし、礼儀も忠義も大したことのない奴らばかりなンだからさ」
「卑下して言わないでちょうだい。うちの社員もスラム出身や孤児の子は多いのよ。その発言は彼らにも失礼だわ」
「え…そうなの?」
リニエール商会の名は、マルクスでも知っているほど有名だ。
貴族は身元がしっかりしている者を雇うもので、スラム出身者や孤児を雇うなど聞いたことがなかった。
「…………お嬢さんって、変わってンな」
「誤解だわマルクス。普段はもっと淑女たる姿なのよ。慣れない環境でのストレスのせいかしら? 緑美しい自然の力によって、少し気が緩んだのよ。そう、自然の力のせいなのよ!」
「いや、そっちの話じゃなくて…いや、そっちも十分変わっているけどさ」




