木の葉
窓の外が暗い。
重い瞼に抗うのが苦痛だ。
身体は気怠く、頭は鈍痛が蝕んでいる。
昨夜の記憶を思い出す。
事件の後、俺は飲み直すために大通りの店に戻ったが、彼女はいなかった。
それは別に構わない。
問題は蒸留酒を飲み明かして、朝に帰って来た事だ。
加減知らずの飲酒で二日酔いとは、不甲斐ない。
心労が溜まっていたせいだろうか。
或いは気が緩んで来ているのか。
慣れない日常に気苦労を感じながら、一方でそれに慣れて来ている側面がある。
良い傾向か悪い傾向か、その判断が付かない。
何にせよ、今する事は意識をはっきりさせる事だろう。 そのために必要な事。
一服だ。
寝台から降りて、部屋を出る。
廊下を歩きながら、タバコを咥える。 火はまだ付けない。
食堂に入ると誰も居なかった。
珍しい事だ。 俺だけを置いて、何処かに行ってしまったのか。
まぁいい、俺は俺の縄張りに行くだけだ。
そう思って外に出ると、子供達はそこに居た。
バーバラとダンもいる。
もう一つの人影は意外だった。 それは、レルン橋で会った例の衛兵。
その腕に抱かれるのは、ぬいぐるみの少女だ。
「おー、おっさんが来たぜ。 一番の寝坊助だな」
生意気な奴だ。
予定が無ければ寝坊も何も無い。
吸い込む煙で、意識が回復してきた。
寝起きの一服には、コーヒーが欲しくなる。
「パパ! 私、良い子にしてたよ?」
パパ・・・と、来たか。
衛兵とぬいぐるみの少女は、どうやら父子の様だ。
娘を抱く父は、昨日と同じ人間とは思えない和やかな顔をしている。
「また会えたな。
ありがとう、妹を救ってくれて」
・・・妹? 誰の事だ。
「彼はアレン、私の兄です」
バーバラの紹介で理解する。
意外な組み合わせだ、世の中は広い様で狭い。
つまりぬいぐるみの少女は、バーバラの姪と言う事だ。
「バーバラを助けたのは、オイラの協力もあるんだぜ?」
「そうだな、ダン。 よくやった。
だが聞いたぞ。 お前、財布を盗んだらしいな」
「え、いや、それは、かくかくしかじかの事情があって・・・」
「彼が通報していたら、またお前を牢にぶち込むところだった。 彼に感謝するんだな」
鼻高々にしていた所に、冷水を掛けられて、汗を垂らしている。
ダンはいつも通りだった。
「そう言えば、名前を聞いていなかったな」
「ジェラルドだ」
「改めて礼を言おう、ジェラルド。
今日は君に用があって来たんだ」
何の用だ、感謝を伝えるだけじゃないのか。
・・・カルク商会の屋敷に侵入した罪を問われるのか? それは困る。
そう言えば、フランカがいない。
この中にいないのは不自然に感じる。
そう思っていたら、後ろから近付く気配があった。 フランカだ。
院の中に置いていた、俺の外套とブロードソードを手渡してくる。
「フランカ先生・・・行っちゃうの?」
「先生! 行っちゃやだよ!」
「ごめんね・・・でも、きっとまた会えるから」
何やら、別れの言葉を交わしている。
どう言う事だ、俺だけが状況を理解してない。
「それでは、付いて来てくれ」
娘を置いたアレンは、俺達を何処かへ連れて行く様だ。
「またね、ダン」
「おう、ビッグになって帰って来るから、良い子にしてろよ」
ダンが少女の頭を撫でる。
ぬいぐるみの少女とダンが会話しているのを、初めて見た。
ダンとバーバラが幼馴染と言う事は、その兄であるアレンと娘とも、浅からぬ関係があるのかも知れない。
それよりも、ダンが来るらしい。
俺は一体、どこへ連れ去られようとしているのか。
門を出るところで、皆が振り返る。
そこには、大きく手を振る子供達がいる。
バーバラも小さく手を振っていた。
予想外の経緯で世話になった孤児院だが、いざ出るとなると、名残惜しい気持ちが芽生える。
無料で食事が出て、寝泊まりも出来るのだ。
こんなに良い環境はない気がする。
盗られた金は、まだ返済されていない。
今後も利用させて貰おう。
アレンを先頭に、フランカとダンが続く。
俺が最後尾だ。
三人は訳知り顔で、俺だけが何も知らない。
そろそろどう言う事か、事情を聞くべきだろうか。
そうこう考えている内に、どうやら目的の場所に着いた様だ。
奥まった路地の行き止まり。
そこには石造りの、地下へ向かう階段がある。 両脇には警備する衛兵がいた。
・・・これは、牢屋じゃないだろうか?
「さぁ、来てくれ」
アレンは階段を降りる。
続いて行く二人にも迷いは無い。
俺は迷った。
もしも罪を問われると言うなら、納得がいかない。
逃げるなら、 ここしか無い気がする。
「おっさん! はやく来いよ!」
ダンは覚悟を決めている様だ。
いいだろう、俺も覚悟を決めようじゃないか。
家宅侵入の罪は、如何程だろうか。
何年も収監される気はない。
もしそうだったら、盛大に暴れて逃げてやろう。
階段を降りると、そこは牢屋ではなかった。
水道だ、その先はライン川に繋がっている。
前には小舟が浮かんでいた。
「ここは緊急用なんだ。
レルン橋を渡りたかったんだろう。
すまない。 許可証を持たない者を通す事は出来ないが、川を渡って行けば、向こう側に行ける筈だ。
あちら側の衛兵には、連絡してある。
・・・くれぐれも、秘密にしてくれよ」
ようやく理解した。
しかしながら、今更ブリューグに向かう理由は特に無い。
仕事なら、ケルンにあるのだ。
「ダン、ジェラルドに迷惑を掛けるなよ」
「いや・・・」
「子供扱いすんなよ! すぐに将軍になって、アレンを顎で使ってやるさ!」
「楽しみにしていよう、元気でな」
迷惑も何も、俺は行く気が無いのだが、会話に入るタイミングを逃してしまった。
・・・さて、どうしたものか。
「行こう、ジェラルド」
フランカに手を引かれ、舟に足を掛けてしまう。
その衝撃で、小舟が岸から離れた。
今から戻るのは、難しそうだ。
フランカにしては、積極的な行動だった。
孤児院で過ごす日々は、フランカを変えたらしい。
ダンが漕いでいるせいで、舟はどんどん進んで行く。
もう、戻る事は許されない。
ここまで来たら致し方無い、付き合ってやろう。
川に浮かぶ、枯れた木の葉を見つけた。
そこに自分の意思は無い。
巨大な川の流れに、身を任せるだけだ。
果たして、流れに抗う術がこの世に存在するだろうか。
少なくとも、俺には思い付きそうもない。
ーーー
彼の表情に感情が乗る事は殆ど無い。
あるとすれば、うんざりしている時だけだ。
今は何を考えているんだろう。
口数の少ないジェラルドから、それを察する事は出来ない。
短い付き合いのわたしが言える事は、少なくとも悪い人ではない、と言う事。
わたしは彼に甘えている。
それを、いつまで許してくれるだろう。
わたしの身を寄せる場所、それはブリューグにあるのだろうか。
もし、そこに行けば・・・ジェラルドは、わたしを置いて去ってしまうだろうか。
その時、自分はどうするだろう。
考えても、答えは出て来ない。
船頭で舟を漕ぐ少年、彼の名前はダン。
ダンはよく夢を語る。
ブリューグに行って、将軍になって、孤児院をお城にする。
それは大言壮語だ、馬鹿らしいとさえ思う。
でも、それを語る彼の目は輝いていた。
信じているんだ、それが可能だって。
それは魅力的に見えた。 自分もそれが欲しいと。
わたしの夢は何だろう。
帝国に復讐する事だろうか。 でも、そんな事は出来ない。
諦観は、憎しみを消火してしまった。
今は、残り火が燻っているだけ。
一つ推測出来るのは、村に来た帝国兵は、恐らく自分を殺しに来たと言う事。
そのわたしは生きている。
だから生き続けよう、それがわたしに出来る復讐だ。
生きて・・・生きて、どうするのか。
それは、まだ見つかっていない。
だから、探しに行こう、ブリューグに。
わたしの知らない何処かに行けば、それが見つかる気がした。
ーーー
「・・・あなた、名前は?」
「聞きたい方が先に名乗れ」
いつまで経っても、この男が何も言わないから、わたしから聞いたのに。
聞いてみたら、この態度だ。
我慢する。
今は、見ず知らずのこの男に頼るしか無い。
もう、帝国にいる事は出来ない。
もし、自分が生きている事を知ったら、次は確実に殺されてしまうだろう。
わたしの中に渦巻く怒りと憎しみ、それを晴らす事も無く。
それだけじゃない。
私が死んだら、私を救ったマルタは何のために死んだのか。
彼女の覚悟を無駄にしたくはない。
「わたしはフランカ・・・あなたは?」
「ジェラルドだ」
ジェラルド、それが男の名前だった。
「それで、俺にどうしろと?」
何をして貰ったら良いんだろう。
面倒を見てもらう? これからずっと・・・?
そんな図々しい要求をしたら、今度こそわたしを置いて行ってしまう気がする。
既に一度、わたしを無視して行ってしまった男だ。
藁をも掴む思いで縋り付いて、ようやくジェラルドは立ち止まってくれた。
「身を寄せる場所が欲しい。
あなたを巻き込む事は承知してる。 でも、この村以外には当てが無くて・・・」
これなら、どうだろう。 妥協点を探る。
でも、話は逸らされてしまった。
「誰に襲われた」
誰に・・・それを思い出すと、怒りに身が震える。
焚火から乾いた音が弾けた。
それは、わたしの憎悪の音だったかも知れない。
「・・・帝国兵」
「税の滞納でもしていたのか」
滞納なんて出来はしない。
人々の生活に必要な最低限を残す事さえ許されなかった。
兵士を連れた徴税官が家々に入り込んで、必需品さえ持って行く。
それを村の人達で助け合って、この村はギリギリの存続を維持していた。
「そんな事はしてない・・・と言うより、出来なかった。
村に来る徴税官が、金目になりそうな物は何でも持って行くから。
それに、税の払えない村民は殺しても良いと言うの?」
重税を課されれば、それを納め続けるのは苦難の日々だ。
それを果たせなかったからと、殺されてしまうとしたら・・・そんな理不尽を許容する世界なら、消えてしまえばいい。
ジェラルドは私の答えに肩をすくめた。
彼も、そんな世界を納得しないだろう。
そもそも、彼はどうしてここに来たんだろう。
「ジェラルドは、どうしてこの村に?」
「偶々立ち寄っただけだ、生き残りがいたら救助してやろうと思ってな」
その言葉は容易に信用する事が出来ない。
「・・・本当に?」
なら、どうしてこの男は、自分を置いて去って行ったんだろう。
追い掛けなければ、わたしは村で一人になっていた。
一人で生きて行ける程、わたしは強くはない。
「頼る相手を疑うな、心象が悪いぞ」
「救助と言うには、わたしを無視して行ったから」
「ナイフで急所を狙う様な恐ろしい娘を、助けてやろうとは思わん」
それは、怒りと復讐心で何も見えてなかったから。
殺されるくらいなら、殺してやろうと思ったから。
それが無理なら、刺し違えてもいいと思った。
結局、誤解だったけど・・・
「それは・・・ごめんなさい。
村を襲った奴らの仲間だと思ったから」
そう、わたしは一度、ジェラルドを殺そうとしている。
それは幸い、未遂で終わったけど。
彼が、わたしから去って行くのは当然の事だった。
「まあいい、今日はもう寝ろ」
まあいい、とは何だろう。
殺人未遂を、まあいいで済ませられるとは思えない。
それは、わたしの寝ている間に・・・
「・・・ジェラルドは?」
「一人で一杯やってるさ、明日からの予定も考えなきゃならん」
「そう・・・」
本当に?
不安だった。
彼が去って行ったら、わたしはどうしたら良いのか、分からないから。
椅子に座るジェラルドは、飲酒しながら、タバコを吸っていた。
その背中からは、悩んでいる様子が見える。
もしかしたら、逃げようとしているのかも・・・
わたしは一晩中、彼の背中を見ていた。