承・衝動悶着
「ねえアーシュ、次はこれ着て!」
「えー……」
これで何度目だろうか。
うんざりとした顔のアーシュに、気づかぬ年頃の少女二人は次なるリクエストを彼女に差し出した。
「動きやすい……っていうと、ボーイッシュな感じでいいかしら?」
単語に聞き覚えはなかったが、もしアテが外れるようなら、アーシュは初めから小さめの男物を買う気でいる。
頷いて、三人が向かったのは比較的街の中心地に当たる大きめの店だった。
雰囲気に戸惑ったものの、「私ここ初めて!」と興奮しているキャロルに引かれるようにして、入ることになる。
買うもの自体はすぐに決まった。
というのも、アーシュは一歩入って目に入った、ディスプレイ用に木彫りの人形が身に着けている服一式を指し、「あれにする」と言ったのだ。
「え、あれにするの?」
「うん」
さっさと店員に近寄り、試着できるか否かの交渉をしているアーシュの姿を見て困惑したのは、むしろ二人の方だった。
ディスプレイされたものは、確かにコーディネートを考えなくていいから楽だ。しかし、似合うか似合わないかは別次元の問題である。
木彫りの人形は体格が自由自在だ。それは同時に理想の体型を維持しており、一見して「これいいな」と直感的に感じても、常人が着たところでイメージ通りになるかどうかはわからない。
それを重々承知しているから、だろうか。
店員は笑顔でそれを承ると、簡単にアーシュの体格をはかり、それに見合ったサイズの服一式を持ってきてくれた。
笑顔に含まれるかすかな嘲笑に、果たしてアーシュは気づいていただろうか。
何も感じていない様子でそれを受け取って、試着室に案内されたアーシュが再びカーテンを開いたのは、それから少ししてのこと。
シャッ、と軽快な音を立てて出てきたアーシュに、店員たちを含めた一同は驚愕をあらわとしていた。
アーシュが選んだのは、シンプルなデザインのシャツに、七分丈の黒いパンツである。シンプルで確かに動きやすそうなところに惹かれたのだろうが、着る者の体型を選ぶ服でもあった。
二の腕が太かったり、足首が太かったりしただけで目にも当てられなくなる、だが。
「ん、いい感じ」
腕を回したり、軽くしゃがんでみたり。
着心地を試すアーシュの姿はまさに理想的で、文句のつけようがないほど似合っていた。
ただ、耳を覆うバンダナが少し、不自然さをかもしだしている。
「どしたの、二人とも?」
固まっているキャロルに不審を抱き始めたアーシュが話しかけた。
その声で、はっ、と正気に戻る。
「う、ううん。なんでもな……」
「ねえアーシュ! こんなのどうかな?」
横合いから、にゅっ、と顔を出したエラが自分の選んだらしい服を持ってきた。
「……自分の買い物は?」
「後で、後で! 先にアーシュの買い物、手伝ってあげるよ!」
どうやら、ディスプレイされたものも着こなすアーシュに等身大着せ替え人形の要素を見出したらしい。
便乗したキャロルに、そこで悪乗りしたアーシュもアーシュだが、もうこれで通算十三回目だ。
言わずもがな、店にも迷惑の域に到達しかかっているだろう。
「……これで最後ね」
服を受け取り、カーテンの奥へ引っ込む。
受け取った服を広げてみて、アーシュは軽く眉をしかめた。
上は丈が短いキャミソール、下はダメージ加工のショートパンツである。とどのつまり、露出の多い服装であった。
体型的には何の問題もないだろうと考えたが、それにしても露出が多すぎる。
これは返品、と考え、アーシュはそれを着込んだ。
カーテンに手をかけようとして、「あら」という気取った声を聞く。
「エラにキャロルじゃない。こんなところで何してるの?」
知り合い……だろうか。それにしても、言葉の端々にトゲが感じられる。
カーテンの隙間から覗き込むと、そこにはエラと同世代程度に見える少女たちが六人見えた。
言葉を発していたのは、カーテンの隙間から見える金色の巻き毛の少女である。
けばけばしい一歩手前の濃い化粧に、センスはともかく女の子らしいフェミニンな格好、これみよがしに輝かせた首飾りや派手な耳飾りを見るに、この街の権力者の娘か何かが、取り巻きを連れてお買い物に来たのだろうか?
「何って……買い物に来てるのよ。見てわからない?」
エラは果敢に言い返しているものの、キャロルは黙って彼女らを見ている。
エラの雰囲気、キャロルの表情からして、あまり親しい間柄ではないようだった。
「あなたたちには少し分不相応じゃなくて? 値段見て手に取ったほうがいいわよ、ここは私みたいに……」
「エラ、キャロル。こんなんどーかな?」
音高くカーテンを開き、少女の言葉をあえて遮った。
「あ……」
「動きやすいのはいいんだけど、ちょっと寒いからこれはパスするよ」
ろくに感想も聞かず、また現れた少女たちを一瞥もせぬままカーテンを閉ざす。
アーシュが中で着替えをしている間、やはり驚いたのか少女たちの間で会話はなかった。
元の格好――ジェンドのお古を着て、試着室を出る。
買う物と返品を分別して、アーシュはようやく現れたグループに目をやった。
「ごきげんよう、お嬢さん」
「ご……ごきげんよう」
金髪の少女は、たどたどしく言葉を繰り返している。
やはり生粋のお嬢様でないことを確認しつつ、キャロルに尋ねた。
「知り合い?」
「あ……うん。紹介するね。メリル・レバティ……さん。村長さんの娘さんなの」
「ふーん」
ま、こんな僻地の成金風味なんかその程度だよね。
胸中でそれを呟き、簡潔に自己紹介をしてから「会計行ってくる」と告げ。
なぜか呼び止められた。
「あの、アーシュさん。あなたひょっとして、今朝レイルズ様と……」
「はぁ?」
ぴたりと立ち止まり、メリル・なんとか嬢ではなくキャロルを見る。
「レイルズ、様ぁ?」
「あー……驚いちゃった? レイルズ、人気があるから親衛隊がいるんだけど――ようするにファンクラブみたいなものなんだけど、それに入ってる子はレイルズのことを『レイルズ様』って呼んで……」
その言葉が終わらないうちに、キャロルの声は喧騒がかき消した。
「まあ、今の聞いた?」
「レイルズ様のこと呼び捨てよ、呼び捨て!」
「何様のつもりなのかしら」
……馬鹿馬鹿しい。
その声を受け萎縮しているキャロルの手を取り、エラを手招く。
「はいはいはい。親衛隊だか何だか知らないけど、勝手にやってればぁ? ちなみにキャロルは、レイルズ『様』のお仲間様、ね」
この一言で取り巻きを黙らせたアーシュは、思い出したようにすれ違ったメリル嬢に振り返った。
「今朝なら、レイルズとランニングしてたよ。窓からコソコソ遠視鏡まで使って見張ってた貴女なら、知ってると思うけど」
少女たちの驚愕を置き去りに、アーシュは二人を伴って会計へ赴いた。
店を出で、アーシュの知らない広場に到達した三人は、麻製の買い物袋を膝にくつろいでいた。
「ゴメンね、アーシュ。驚いたでしょう?」
「そんなのはどうでもいいけど、どうしてキャロルが謝るのかが知りたいかな」
「まったくその通り、よ」
屋台へジュースを買いに向かっていたエラが、三人分のカップを器用に持ってきていた。
さすが本職ウェイトレス。配膳に関してはプロだ。
「ありがとー」
「でも、ありがとね。あそこから手早く連れ出してくれて。特にキャロルはあの子達から風当たり強いから……いっつも嫌味言われてんのよ。あのグループに加わろうとしない、あたしもだけど」
「いつも、あんな感じ?」
「……そうね。いつもは、こんな簡単には抜け出せないからもっとひどいかもしれない」
ごくん、と含んだジュースを飲み込む。
新鮮な林檎の風味が鼻腔を刺激し、咽喉の奥に落ち込んで消えた。
レイルズもジェンドも、この状況を知っているのだろうか。
「多分知らないと思う。私が気にしなければ、この街はすごく居心地がいいもの。都会と比べて物価も安いし、交通の便も悪くないし。近くに薬草がふんだんにある森もあるから、勉強にもなるの」
疑問を言葉としてみると、キャロルはどこか遠くを見ながら明るく言った。
本人がかまわないと言うのならそれでいいと思うが、果たしてあの二人がそう考えるかどうか。
自分であればどうするべきか、それを考えかけてやめる。
これはキャロルと彼女らの問題だ。自分が軽々しく踏み込んでいい問題では、おそらくない。
嫌な気分を払うように、アーシュはジュースを一口含んで話題を取り替えた。
「そういえば、依頼はどうすることにした? 引き受ける?」
「今はお金に困ってないから、断ることもできるけど……考え中。御用達になるのはどうかと思うけど、これから先のことを考えて、あの人達にコネを作っておくのもマイナスにはならないでしょう、ってレイルズと二人で大論議しちゃった」
どうやら、ジェンドとは仕事の話でも口を利いていないらしい。
「そっか……」
「今、私がいない間に、レイルズがジェンドに話しておいてくれてると思う。ジェンドの意見も聞かなきゃだし」
キャロルの口からジェンドの名が出たが、その言葉に喧嘩の余韻はなかった。
あのグループと出会ったからか、はたまたアーシュを着せ替えたことで鬱憤を晴らしたか。
何にせよ、彼女があんなヒステリックでなくなったのはいいことだ。
「そういえば、アーシュは記憶がないのよね。これからどうするの?」
エラの質問に、軽く首を傾けてこれまでの考えを披露する。
「そうだねぇ……とりあえず、この街周辺の把握から始めるよ。あの森にいたなら、何か痕跡が残ってるはずだし。無いようだったら、どこかの街から来たってことになるから、適当に探し回ってみる。お金が尽きたら、どこかで働きながら、さ」
さりげなく、自分の見つけた地図の存在を隠してもっともらしいことを並べ立ててみる。
「……アーシュは偉いね。記憶がないのに、ちゃんと前を見ていて」
「――記憶が、ないからね。本当は思い出す方法探しに飛び出したいけど、まずは自分に何ができて、何ができないかを知っておかないと」
「ふーん。ちっとは考えてんだな」
横合いからかけられた言葉に振り返ると、そこにはふてくされた様子のジェンドと、ジェンドの言い草に苦笑いしているレイルズの姿があった。
「二人とも……」
「……さーって。店の準備があるから、あたし行くね。皆、気が向いたらお昼来てよ」
雰囲気の微妙な変化を感じ取ったか、エラはいつの間にか購入していたらしい買い物袋を携えてその場を去った。
「……じゃ、ジェンド頼むな。アーシュは、これからどうする?」
「宿に戻ろうかと考えてたところだけど」
「そっか。じゃあ、送るよ」
仲直りをさせるつもりなのだろうか。あるいは、ジェンドにそうしろと、事前に言っておいたのだろうか。
レイルズはそれ以上二人を省みることなく、アーシュを伴って歩き始めた。
知らない場所で一人放り出される羽目とならず、アーシュとしてはホッとしている。
しかし、昨夜はあんな修羅場を展開していた二人を二人だけにして、大丈夫なのだろうか。
「……あの二人なら、心配することないよ。あんな感じの喧嘩ならしょっちゅうしてるし、その度に仲直りしてる。キャロルも今は落ち着いてるみたいだから、きっと大丈夫」
アーシュの心情を察したのか、レイルズは独り言のように呟いた。
「そっか……あなたも大変だね。痴話喧嘩なんて犬も食わないだろうに、それのフォローなんて」
「俺たち、昔からこうだったからさ。三人とも幼馴染で、住んでるところも近かったから、よく遊んだりしてた。そこのところは、今と変わんないな。ジェンドがバカやって、キャロルが怒って、俺が仲裁して……」
痴話喧嘩、を否定しない辺り、彼なりに二人の関係を把握している証拠なのだろうか。
「キャロルを連れ出してくれて、ありがとう。大変だっただろ、なだめるの」
「宿を出た辺りから、色々話、聞かせてもらったよ。ジェンドがどんな人間で、どれだけ嫌な男で、どれだけ彼女は好いているのか」
本人としては愚痴を言っただけだろうが、傍から聞いている者としてはどうしても惚気にしか聞こえなかった。
あれだけ文句が出てくるのも、彼をそれだけ見ている証にしかならないのだ。どうも本人は、それを自覚していないようだけれど。
「愚痴聞きに回ってくれたのかい?」
「ジェンドに対する文句だけ、言うだけ言ったらすっきりしたみたい。その後は割と機嫌よさそうだったよ。やっぱり気分転換は大事だね」
明らかな肯定は避け、嘘ではないが全ての事実ではない大雑把な説明をする。
基本的に何もしていないのだから、あたかも自分の手柄のように話すのは嫌だった。
その思惑が通じたのか、その説明だけで満足したのか。とにかくレイルズはこの問題を言及してはこなかった。
その代わり、なのだろうか。
「昼まだだろ、一緒に食べないか? おごるからさ」
「別にそんな――」
「キャロルをなだめてくれたお礼、ってことで」
悪戯っぽく笑いかけられた手前、これ以上の固辞はいくらなんでも失礼にあたるだろう。
応じて、アーシュはレイルズの提案に従ったのだった。
外食は行き付けが定番なのか、誘ってきた割に不案内な彼に苦笑しながらも適当に店を選ぶ。
向かい合わせに座り適当な軽食を頼みつつ、どこか緊張しているように見えるレイルズに尋ねた。
「そういえば、昨夜の依頼はどうすることにしたの?」
「一応、引き受けることにしたよ。キャロルとジェンドの意見が同じだったから、多数決ってことで。俺はあまり乗り気じゃなかったんだけど、二人の言うことにも一理あるから……」
喧嘩してもこういった場面で弾き出す答えは同じだから、仲いいよなー、と呟くレイルズに頷き返しながらも、この問題もあるんだよね、と胸中で独りごちる。
彼らに、アーシュが依頼人の言う人物かもしれないと知られたらどういったことになるのだろうか。
キャロルがここまで詳細に語ったかはわからないが、彼は財宝の在り処が知りたいと言っていた。
もしかすれば、アーシュの持つ地図を提出すれば大金星、かもしれないのだ。
そうだという確証がない以上、また確証があったとしても、それを話すのはためらわれたが。
「あんなのの言うことも聞かなきゃいけないなんて、冒険者は大変だね」
「まあ、ね。ところで、君はこれからどうするつもりなんだ?」
また同じことを聞かれた。
この返答を聞いた彼女らはいないが、同じことを話すのも芸がないのでもう少しひねってみる。
「とりあえず……こんな感じのバンダナが欲しいかな。これはジェンドからの借り物だから、洗って返さないと。それからこの街の散策に出て、その後で街周辺の地理関連を調べる。私がいた場所も特定して、それで何も手がかりを得られないようだったらここを出るよ。昨日は何にも考えられなかったけど、一晩たって何となく頭の中も整理できたし」
何をどう勘違いしたのか、レイルズは驚いたように目を見張った。
「何か思い出したのかい?」
「違う。反射的に何かの知識が頭をよぎったりはするけど、自分のことはさっぱり。思い出した、って感じじゃない」
最後のサンドイッチを頬張り、アイスティーで咽喉の奥に押し流す。
無意識に伝票へ手を伸ばし、苦笑いを隠さないレイルズに制された。
「おごる、って言ったじゃないか」
「う……でも、悪いよ。別に何かしたわけでもないのに」
「いいからいいから」
とうに食べ終えていたレイルズが伝票を取り、そそくさと会計に行かれてしまった。
待たせていたのか、と考えてしまうと、余計に居心地が悪い。
彼の後につき店を出ると、レイルズはくるりと振り返った。
「じゃ、次はそういうのを扱っていそうな小物……手芸店とかかな?」
「へ?」
てっきりここでお別れかとアーシュは考えていたが、相手はそんなことを微塵にも考えていない様子である。
「街並み覚えるついでに行こうとしてたから、多分それだけじゃ終わらないけど」
「かまわないよ。どうせ用事もないし、君のおかげでしなきゃいけないバイトもない。お礼を兼ねて、午後は俺が付き添うよ」
……付き添い、と来たか。
子供扱いされているように感じるのは、この街に慣れぬアーシュの劣等感ゆえであろうか。
先程おごられてしまった手前、強硬に断るのも気が引ける。
正直、店の中でも彼の親衛隊らしき少女らの視線が痛かったのだが――
これで何度目になるだろう、気づかれぬ程度にため息をついて、アーシュは軽く頷いた。
事件が起こったのは、次の日のことである。
三人が依頼人のところへ正式な返事をしてくるというため、同伴する理由のないアーシュは屋根裏の部屋でごろごろしていた。
三人を見送った直後のこと。
なかなか睡魔を追い払えないアーシュが舟を漕いでいると、その眠気を吹き飛ばす女性の金切り声のようなものを聞いた。
発生源は、外。
寝台から降りて、窓から眺めてみる。
すると、宿から出たばかりらしい三人が何人もの女性に囲まれているのが見えた。
何が起こったのか、それを無意識に勘繰るよりも早く。
「……面白そう」
好奇心をくすぐられたアーシュは、気取られないよう用心しながら窓を細く開けて外界の音を招き入れた。
「……様! どういうことですの、説明してくださいませ!」
心なしか聞き覚えのある鼻声が耳朶を突く。
生まれのもとに身につけたものではない、気取ったような話し方。
視界に映したその特徴的な容姿で、アーシュはそれが誰なのかを思い出した。
わざとらしく胸の前で手を組み合わせ、凝視してわかったことだが潤んだ瞳でレイルズに詰め寄っている。
メリル――レバニラ? レバノン? ……駄目だ、聞いたばかりのフルネームが出てこない。
これも記憶喪失の産物なのだろうか?
「説明って……いきなりどうしたんだい?」
「誤魔化さないでくださいませ! 今朝もランニングを共にされていた、あのアーシュという女のことですわ!」
盗み聞きしていたアーシュの目が、どよんとした半眼に成り下がった。
「昨日も、お昼から夕方にかけてあの女と街を歩いていたというではありませんか!」
「……そうなの?」
「ああ。お昼をおごった後で買い物に付き合ったんだよ。その後、主だった場所を一緒に見て歩いた」
「なんでそういつもいつも無自覚かなお前は……」
キャロルが恐る恐る尋ねた返事を聞き、実に重そうなため息を吐いてジェンドはあきれたようにレイルズを見ている。
当人は、なぜ自分がそんな詰問を受けているのかもわからない、といった風情できょとんとしていた。
「……キャロルとは仲間だから、私たちの勘繰るような間柄ではない、とお答えくださいましたわね。ではあの女は何なのです!? あのような得体の知れない者を傍に置いては危険です、即刻縁をお切りください!」
その言葉の内に秘められる思いが何なのか。
これに気づかぬ者はそうそういないとアーシュは思ったのだが……どうやらレイルズは、女に好かれるくせに色恋沙汰とか乙女心の機微とか、そういったものには超鈍感と称して差し支えない御仁のようである。
自分の取った行動にケチをつけられてか、彼はむっとしたように眉間へ縦筋を刻んだ。
「……どうして危険だと思うんだい?」
彼の声音が意図的に低くなっていることに気づいていない様子で、メリル嬢は周囲の取り巻き達と視線を交わしている。
「あの女は見当たりませんわね? ……レイルズ様、あのアーシュと名乗る女はあなたを謀っているのですわ」
「……?」
「このようなこと、密告をするようで心苦しいのですけれど……あの女の本当の名はアシュリー。レイルズ様もお耳に挟んだことがおありでしょう? 単独のトレジャーハンターにして灰色狼とさえ噂される下賤の者。その人離れした容姿から、半妖精ではないか、とさえ囁かれていますのよ?」
アシュリー――? アシュリー!?
流れてくるその声をしっかりと受け止め、アーシュは意識せず顔を覆った。
半妖精とは、ハーフエルフの別称だ。蔑称でもある。それに準じて、人間離れした能力の持ち主や特徴を持つ者を指す例もあるらしいが……そんなことはどうでもよろしい。
記憶喪失になってから、三日目。快挙ともいえる手がかりの発見である。逃すわけにはいかなかった。
げしっ、と窓を蹴り開ける。
窓の苦情で誰かが上を向いたようだったが、格好に問題はない。
「アーシュ!?」
気づいたのは、キャロル、ジェンド、レイルズの三人だろうか。
窓際を蹴って空中に身を投げ出しながら、アーシュはそれを確認した。
ふわっ、と爽快感さえ覚えたダイブは、時の川の流れに従ってアーシュの体を虚空へと投げ出している。
見る見る迫る着地地点を見据え、アーシュは思わず目を丸くした。
「何をやってるんだ、バカ!」
それはこっちの台詞である。
見定めた着地地点に、レイルズが滑り込んできたのだ。こちらを見て、受け止めるように両手を差し伸べて――
『ベフィモス、私の声を聞いて』
意識せず、人語ではありえない言葉をアーシュは紡いだ。
重力から解放された浮遊感がアーシュを包み込み、ゆっくりと地面へ到達する。
「ありがと」
要らなくなったレイルズの手に、軽く片手を乗せて、しゃあしゃあと宣った。
「駄目だよ、落ちてきた人間受け止めようなんて考えちゃ。まともに直撃したら、植木鉢でも死ぬかもしれないのに」
驚愕の表情で硬直しているレイルズをそれ以上省みることなく、くるりとメリル嬢に向き直る。
「あ……」
「失礼ながら、あなたのような辺境のお嬢さんがそう簡単によそ者の情報を仕入れられるとは思わない。情報源を教えてくれない?」
「ぬ、盗み聞きなんて最低ですわ! 私は、レイルズ様のことを思って……!」
「どう罵ってくれても結構。その言葉を疑う暇はないし、反論の術も今のところはない。それでも、質問には答えてくれないと」
キャミソールにショートパンツという、昨日間違えて購入してしまったために部屋着として使用している薄着のまま、じりっ、とメリル嬢に迫った。
その分だけ、彼女は後退を余儀なくされている。
「そ、そんなものを聞いてどうするつもり!? まさか、密告した私ともども……!」
「物騒で面倒なことはしないって。ただ、ちょっとその情報源に聞きたいことがあるんだよ」
イライラと足踏みをしながら、想像力豊かなお嬢様の絵空事を、踏みにじるように中断させる。
「……あなたのことが、どう伝わっているのか聞きたいの? あの人は、この業界では有名だと詳しくお話してくださいましたわよ」
容姿から、性格から、実績から、あらぬ噂まで。
何から何まで知りたい情報よりどりみどりである。
彼女から聞き出すことが不可能ではなさそうだが、やはりその情報源から直接聞き出したほうが手っ取り早そうだ。
とりあえずわかったのは、少なくともメリル嬢並びに取り巻きの少女たちは、アーシュをアシュリーなる灰色狼と呼ばれたトレジャーハンターだと思い込んでいること。
「め、メリル様、もう行きましょうよ!」
「レイルズ様、お気をつけくださいね!」
メリルをアーシュから引き離すように促し、少女たちはあっけなく去っていった。
姦しい喧騒が、あっけなく散る。
露出が大胆なものであるため、体のあちこちから包帯を覗かせているアーシュは、組んでいた腕を解くと宿を向いた。
そのまま戻ろうとする彼女を、ジェンドが掴んで止める。
包帯が厳重に巻かれた患部を掴まれ、アーシュは振りほどくことができずに制止した。
ちらりと振り返る。視界に移ったジェンドの顔は苦い。
「……マジか?」
「知らない」
おそらく疑っているのだろう、ジェンドの目を見つめてアーシュは答えた。
「何となく名前に聞き覚えはあるんだけど、前によく耳にしていた名前かもしれないし、それが本名なのかもしれない。とりあえず、すぐにでも出られるようにはしておくよ。彼女の情報源も気になるけど、アド先生が今日血液検査の結果を出してくれるとも言ってたから」
女の子相手に手を上げるわけにもいかず、逃してしまったが彼女の身元ははっきりしている。
立場ある人間である以上、そう簡単に移動できるわけでもないだろうと、アーシュは踏んでいた。今は確実に手に入る情報を抑えておく必要がある。
アーシュがハーフエルフだと知られたら宿の女将の態度も変わるだろうし、問答無用で捕まるようなことはなくても、この街で動きがとりにくくなることは必至だ。
「――安心して。やることやったら、すぐに消えてあげる」
自分によくしてくれたキャロルたちに迷惑をかけないためにも。
緩んだジェンドの手を外し、振り切るようにアーシュは宿へと戻った。
やれ忙しい。まずは、あの街医者のところだ。
女将にいぶかしがられながらも宿を引き払い、人目を避けるように施療院へと赴く。
村長命令だので、診察拒否とかいう事態になっていなければいいのだが――
あの少女だけなら、そんなことまで把握しているわけがない。
だが、彼女が接触したとされる情報源が、アーシュに悪感情を持っていたとしたら――どうなっているかはわからない。
脳裏に朧となりながらも残る道順を浮かべながら、朝であることも手伝ってか人っ子一人見当たらない通りを早足で歩く矢先。
唐突に、爽やかな柑橘系の香料が鼻腔を刺激した。
直後、乱暴に地面を踏む音がして、路地からひとつの人影が現れる。
影はアーシュと対峙する形で立ち止まった。
大柄な身を包むのは硬質の黒い外套。左の腰から突き出た大小の剣。その面立ちは粗野だが、どこか大らかさの窺える目をしている。
風体からして、その身にまとう雰囲気からして、この街に住む人間ではない。
「アシュリー――アシュリー・プシュケ・アージェントだな?」
長々とした一応誰かの名前らしき呪文に、アーシュは思わず自分の感想を口にしていた。
「何その長ったらしい呪文。よく舌噛まないね」
「そう卑下をするな。お前の名だろうが」
名前? 今の、一度聞いただけでは覚えきれない呪文が? 自分の?
「お前の名、って断定している時点で、当人かどうか聞く意味ってないよね……まあ、そんなことはどうでもいいや。あなた誰?」
「……駄目元だったんだが、本当に忘れてるみたいだな」
意味不明の独り言を零して、男は大仰に肩をすくめてみせた。
「ま、この顔見てその呑気な反応は間違いないだろうが……今はアーシュ、って名乗ってたな? 自分の記憶を取り戻したりゃ、お前の持つトレジャーマップを寄越しな。そうすれば、お前は自分が誰なのかを思い出せる。それともこの先、その長い一生を自分探しに費やして漂うか?」
――この言動から、少なくともこの男はアーシュがハーフエルフであること、灰色狼と呼ばれるトレジャーハンターであること、彼女がこの地域周辺の地図を持っていること、記憶喪失になんらかのかかわりを持っているということが判明した。
どうも自分にとっては敵のようだ、ということも。
「――弁論が下手だね。そんなこと言われて、記憶を失う前の私は従う奴だったの?」
「いいや。だから俺たちを敵に回し、地図の代わりに記憶を失った」
まるで熊が笑ったかのように、男は豪快な笑みを浮かべた。
「本当は、自分が誰だかすらわからん状況で剥いでやろうと思っていたが……まさか俺たちに怯えて逃げ出すとはな。流石のお前も、根っこは女だった、ってことか」
こちらを怒らせようとしているのだろうか、先程から言動に意地の悪い揶揄が目立つ。
どれだけ、何を言われても、思い出せないアーシュに反論の術はないのだが。
つまりこの男とは敵対をしていて、彼との交戦中に自分は記憶を失ったのだろうか?
言い草からして、確実に記憶を失わせた――奪った様子だが、一体どうやって?
ただ頭を殴っただけでは確立が低いし、どうも記憶を失った瞬間は意識がある状態だったらしい。
とりあえず、メリル嬢に情報を提供したのはこの男、あるいはその仲間ということで断定していいのだろうか。
「……それで? 私はあなたの要求を拒否したよ。街中で腰のものを抜くつもり?」
今のアーシュは、持っていたすべての荷を抱えている。
ジェンドからの忠告により街中で持つことは控えていた血桜も、抜刀できる位置に固定させていた。
それでも抜くのはためらわれる。街中で刃傷沙汰はご法度だから抜くな持つな封印しろとジェンドに言われたからではない。
ここでいさかいを起こしたら、なんとなくいけないような――そんな気がするのだ。
アーシュが何かを企んでいると考えたのだろうか。男は首を横に振った。
「は、その手には乗らねえよ。実力行使なんざしようもんなら、悪役は俺だ。たとえお前が先に手を出したとしても、信じる奴はいねえだろうな」
どこか苦々しい眼が、徐々に人が現れ始めた往来に向けられている。
目撃者を気にしてか、それとも――
「……昔何かあった? 街中で喧嘩売られたから買ったら、相手がか弱い女の子とかで、官憲に突き出されたとか」
「仕掛けたテメェがとぼけた顔で聞き返してんじゃねえ!」
……何があったのかは知らないが、かなり怒り狂っているようである。
記憶を失う前の自分は、実はものすごく性格が悪かったのだろうか。
何となく、記憶がなくてもいいような気がした。ゴホン、という大袈裟な咳払いで我に返る。
「一日やる。明日には、お前がハーフエルフだってことを街中に広めて、お前をここからいぶりだすからな。郊外の乗合馬車で、最後の返事を聞こう。……逃げるなよ」
そう言い捨てて、結局誰かどころか名前すらわからなかった男は、出てきた路地に引っ込んだ。
路地を覗き込み、男の跡を尾けたい。
そんな衝動に駆られながらも、アーシュは止められてしまった足を再び動かし始めた。
男と再び接触する機会は、幸運にも与えられているのだ。ならば、あの男を頼るのは最終手段と考えればいい。
記憶喪失の原因がそのような効力を持つ薬の類だとしたら、採血検査で何かわかるかもしれない。医者を紹介してくれたジェンドに胸中で感謝を捧げる。
男の言葉を繰り返し、応じる価値がどれだけあるのかを考えていると、後ろからバタバタと騒々しい足音が聞こえてきた。
道を開けようと端に寄ろうとして、ぴたりと立ち止まる。
「アーシュ!」
聞き覚えのある声だった。
そしてこの名前が珍しいものかどうかは知らないが、とりあえず自分に該当する。
振り返ると、見慣れた三人の姿があった。
キャロル、レイルズ、ジェンド。
「……どうかしたの? そんな、息切らしちゃって」
正確に表せば、息を切らしているのはキャロルだけだ。
レイルズはどこか焦っている感じがあるだけで呼吸自体は静かなもの。
ジェンドに至っては、何で俺まで付き合わなきゃいけないんだという不満のオーラを漂わせている。
「――ひょっとして、依頼を受けたから私を問い詰めにきた?」
「違うわよ! あのね、やっぱり依頼、断ることにしたの」
へ? と首を傾げたアーシュに、全力疾走したのかぜぇぜぇと肩で息をしている彼女に代わり、レイルズが話し始める。
「君が『灰色狼』かもしれないって可能性が出てきた時点で、やっぱりどうしようかって、宿の前で話し合ってたんだ。そうしたら、『アーシュと名乗る女はここにいるか』って旅の人が尋ねて来てさ」
淡い金髪のベリーショートに鷹のような鋭い目つきをした旅装の女は、問い詰めた女将から今しがた出て行った、と答えられ、鋭い舌打ちをしていたらしい。
アーシュの知り合いかと尋ねたレイルズに対し、嫌な笑みを浮かべながらもアーシュが誰なのか、事細かに説明したという。
『記憶喪失? なら幸いだわ。おびき寄せるのを手伝ってくれないかしら。あんな半妖精に――人間もどきに情けなんかかけなくていいのよ。凶暴な人食い熊を大勢で狩り立てて捕獲するのは当然でしょ?』
そのようなことを述べ立てた女に、レイルズは激怒して厳しく断ろうとしたらしい。
「そこを俺が抑えて、わかった協力する、ってことにしたんだ。下手に敵対を誇示するよりか、味方のフリして逆に相手を騙してやったほうが有利だろ?」
「……まあ、レイルズの気持ちは嬉しいけど、この場合ジェンドのほうが賢いね」
「その女――ベラ、って名乗ってたな。相棒と話を通してくるから、今晩もう一度接触してくるらしい。お前のほうは何があったか?」
これまで話していた、名も知らぬ男の話を手短に伝える。
ようやく息を落ち着かせたキャロルが、ふんふんと頷いた。
「じゃあ、その亜麻色の髪の男が、アーシュの記憶喪失の原因かもしれないのね?」
「多分。私の持つ地図を寄越せば記憶を返す、みたいなことを言ってたけど、そういう薬を使ったのかもしれないし、単なるハッタリなのかもしれない。どちらにせよ、関係があることだけは間違いないよ。どうも、これ以前にも顔を合わせたことがあるみたいだし」
あの男の仲間らしき女は、相棒、と言っていた。
他に仲間がいるのであれば、そのような言い方はしないだろう。
となれば、敵はあの男に加えたベラと名乗った女か。
しかし、そう思い込むのは実に危険だ。とりあえず敵は二人、これ以上増える可能性あり、と考えたほうがいい。
そこまで考え込み、ふと黙考をやめたアーシュがふと顔を上げた。
「どうかしたのかい?」
「どうしてそんなこと教えてくれたの? 特にジェンド、厄介ごとはごめんだって、あれほど嫌がってたのに」
彼らからすれば、アーシュがどのようなことになっても最早関係はない。
あのリリガロとかいう奴の依頼を受け、亜麻色の髪の男の相棒らしきベラなる女と協力し、アーシュを捕まえてしまえば万々歳であっただろう。
礼金二重取りという特典を逃してまで、アーシュに加担する理由は?
『……ジェンド?』
「そこでバラすなよ、バカ! 否定はしねえけどな、そうだとわかった以上一応世話になった奴を見捨てて金に走るほど落ちぶれちゃいねえんだよ!」
アーシュの弁を聞き、ダブル冷たい視線にさらされたジェンドが耳を赤くしながらも弁解する。
礼金二重取りに関する案を語る前に言われた言葉たちは、アーシュの耳朶に滑り込んで鼓膜の奥へ浸透していった。
「……そ、それに! 今は、金欠じゃないしな。何が何でも金を優先させなきゃなんねえわけじゃねえ」
付け足されたようにそんなことを言われても、説得力がない。
「私を見捨てたほうが賢い、ってことをわかっていて?」
「お前、そういうこと真顔で……まあいいや。キャロルが世話になったし、金欠脱出は基本的にお前のおかげだし。借りは返す主義だ、お前の側についてやるさ」
「私たちは、いいわよね? 私はアーシュに感謝してるし、レイルズはジェンドみたいな人非人じゃないもの」
誰が人非人だ! と喚くジェンドをさておいて、レイルズは一歩、前へ出た。
「俺たちにとっては、君はハーフエルフってだけじゃない。キャロルを助けてくれた恩もあるけど、俺は……君の力になりたいんだ。微力だけど、協力させてくれ」
――止めとばかり、どこまでも誠実な彼にそこまで言われて、断る人間がどれだけいるものだろうか。
もちろん、厳密に言えばアーシュは人間ではないのだけれど。
それでも彼女は、今後を考える頭を持っていた。
「申し出は嬉しいけど、三人とも大丈夫なの? この街じゃ私は追い出されても文句が言えない身分みたいだし、下手をすれば何をしなくてもこちらが悪人にされる。そのとき、とばっちりを受けるのはあなたたちだよ? この街から追い出されるかもしれないのに、そんな簡単に決めちゃっていいの?」
「――もともと、私たちは余所者だもの。ここへ居着いたのは三年位前だし、名残惜しくない、っていうわけじゃないけど……そうなるとも決まってない。でも私は、ここを出ることになったって大丈夫」
彼女と一緒に買い物に出なければ、知ることのなかった複雑な感情がちらちらと垣間見える。
彼女にとってはメリットもデメリットもあった街なのだ。ならば、後の二人は?
「治安が良くて、物価がそこそこ安くて、おまけに賭博場もある。いい物件だと思ってたけど、最近は名が売れてきたせいか面倒事も多いしな。そろそろ潮時なんじゃねえか?」
「居心地のいい場所を離れ、冷たい風に触れよ。冒険を志す者、変動を忘るることなかれ――村を出るとき、大婆様に言われたっけな。お得意様なんかできたら単なる商売に成り下がるとは思ってたけど、考えてみれば俺たちはこの街に甘えすぎていたのかもしれない」
そんな簡単なことでいいのだろうか。
他人事ながら、アーシュは漠然とそう感じていた。
彼らがいいと言うならそれでいいと思っていたが、その言い分はあまりに安易だ。
冒険者という職業の詳細は知らないため口に出すのははばかられるが、こういった職業にこそいいお得意様が必要であって、生きていくのに甘えだのなんだの、格好つけているようにしか聞こえない。
あるいは、若さゆえの傲慢か、彼らの売り捌いたバイオ・ベアの毛皮は、彼らの懐を豊かにした反面彼らから謙虚さを奪ってしまったのでは。
以前ジェンドはレイルズとキャロルをお人よしだと言っていたが、彼も十分お人よしのような気がする。
が、それを心配はしても、わざわざ口に出して彼らと敵対を選ぶほど、アーシュは考えなしでもお人よしでもなかった。
そう言ってくれるのはむしろありがたいのだ。
なら精々――
「……ありがとう、協力を感謝する。とりあえず、私はアド先生のところへ行ってくるよ。一緒に聞きに行く?」
その言葉に、レイルズとキャロルが大きく頷き、ジェンドはまともに顔をしかめて大きく首を振ったのであった。
「――アーシュさんの検査結果についてですが……驚くべきことが判明しました」
アドルエ・トゥルー宅兼施療院にて。
まだ開いていなかった施療院への侵入をあきらめ裏口からトゥルー宅に押し込んだ三人は、今まさに施療院を開こうとしていた彼を発見し、平謝りした後に採血検査の結果を聞いていた。
浅黒い肌に、ヒヨコのような明るい金色の短髪。
翡翠をはめ込んだような切れ長の瞳は溢れんばかりの知性を湛えているが、同時に外見からは判別しがたい年齢をうかがわせる老成した空気も見て取れた。
『ねー、この先生っていくつかな?』
『前聞いたときは……二十代後半、って言ってたような』
「少女二人、静粛に」
アーシュとキャロルのひそひそ話は、しっかりと察知されていたらしい。
アーシュの耳を見てもさほど驚愕を示さなかった眼は、薄いレンズの向こうに保護されている。
視線は、彼の手にしている獣皮紙――カルテに注がれた。
「あなたの体内は、現在ファタ・モルガナという毒薬によって汚染されている状態です」
「ふぁた……? 誰の名前?」
「毒薬の作成者本人の名だと言われています。正確には『ファタ』というのが薬自体の名で、作成者の本名はモルガナ・リアル。性別女性。人間。成金商家の一人娘として生を受けたとありますが、あこぎな両親のやり方に嫌気がさし、家を飛び出して偏屈な学者の元へ弟子入りを果たしたのだそうです。俗説に、彼女はその学者に惚れて押しかけ妻となり弟子となった、とありますが、彼女は確かに彼の妻となっていますのであながち嘘ではないかもしれません」
すらすらと、何かの資料を見るでもなく毒薬とやらの作成者プロフィールを並べ立てる彼に三人がポカンとしている間にも、彼の解説は続く。
「本業学者、しかし薬師として生計を立てていた彼に薬学を学んだ彼女は、商家のお嬢様であった頃では発見できなかった才能を開花させていきます。夫の持つ知識を、まるで土が水を受けるかの如く瞬く間に吸収し、更には独自の考え方を基軸とした理論を編み出し夫に論文を書かせ、薬師として夫の名を轟かせた、とされていますね。俗説として、発表された理論は本当に夫のものだった、とするものも存在しないわけではありませんが……まあ、彼女の夫に関する話はまたの機会にしておきましょう」
「あ……あの、すいません。ちょっといいでしょうか?」
「何か? レイルズ君」
「何でそんなに詳しい上に生き生きしてるんですか?」
彼を知るはずのレイルズが、それを聞くということは、こういう人間ではないのだろうか。
それを隣のキャロルにこっそり訪ねると、彼女は大きく首を縦に振った。
(アド先生、見た目は格好いいけど少し性格が……その、あんまり明るくはないのよね。腕はいいけど、いっつも不機嫌そうだし無愛想で人当たりも良いわけじゃないから……)
キャロルいわく、こんな饒舌に、そして楽しそうに語る彼は見たことないとの答えを聞いていると、「それはですね」という飄々とした医師の返答が三人の鼓膜に浸透する。
「毒薬・秘薬に関するありとあらゆる知識を含めた収集が私の趣味だからですよ」
「は、はあ……」
質問の前半にしか答えられていないことをわかっているだろうに、彼は返答を無言の内に拒絶していた。
「レイルズ君の疑問が解けたところで続けますよ。とにかく、薬師として内々に大成した彼女は思いつくまま、夫が正規の薬師であることをいいことに様々な薬草・毒草を組み合わせて独自の薬を創りました。仕込んだ相手を自分のものにする惚れ薬、切り取った手足すら再生する回復薬、妊婦の宿した嬰児のみを殺す毒薬……表向き彼女は薬師の妻でしかなかったので、これらは現存を確認されていません。都市伝説の類に分類される『モルガナシリーズ』として認識はされていました。私も二日前までは伝説だとばかり思っていたのですが……」
やっと話が戻りつつある。
それを口に出すことは、おそらく脱線の要因でしかない。
アーシュは黙して彼の言葉を待った。
「アーシュさんの血中には、人体に存在しえない要素が含まれています。ハーフエルフであることを考慮しても検査しましたが、やはり含まれるものではありません。更に詳細を分析したところ、ある種の毒薬が投与されていることが判明しました」
「毒薬って、まさか……」
「モルガナが作成したとされる秘薬リストには、記憶障害を誘発させる類の代物も存在しています。すでに投与されたものなので成分の抽出は不可能ですが、結論から申し上げて――この毒素が、あなたの記憶障害における直接的な原因ではないかと」
――沈黙は、なかった。
「なるほど……薬のせいって事は、解毒薬を摂取しない限り記憶は戻ってこないんですかね?」
「おそらくは。モルガナの生きた時代は黄金暦前半と言われています。現在は絶えてしまった薬草・毒草――」
「黄金暦? 今は違うんですか」
「……この世界の暦は創生、黄金、新世と大雑把に区別して分かれています。創生は世界の創られた時より人類の発展まで、黄金は人類の発展による栄枯の間、そして新生が現代です。黄金から新生へ移行したのはちょうど三千年ほど前のことです」
初めて診察に訪れた際、ジェンドをひどく辟易させた常識のやり取りが再び展開される。
今回は説明の途中ということもあり、アーシュがわきまえたために時間がかからなかったものの、アーシュの質問内容にわずかながら驚愕を覚えたキャロル・レイルズ両名は、ジェンドが顔をしかめた理由をなんとなく察した。
「あなたの投与された薬の成分がわからない上に、判明したところで解毒薬が作成できるか否かもわからない。誠に残念ですが、これ以上私にできることはありません」
事実上のさじ投げ宣言。
これが昨日のことであったら、アーシュは迷うことなく自分探しの旅に出ていたことだろう。
だが、今は。
「わかりました、重ね重ね、ありがとうございます。少し状況が動いてきたので、それがわかっただけでもためになりました。詳細を話せばあなたをも巻き添えにしてしまう可能性があるので、詳しくは話せませんが……」
「結構ですよ。私も、好き好んで患者の事情に首を突っ込みたくはありません。好奇心は趣味にのみ費やす主義でしてね」
確かに、ついさっき聞いたとおりその受け答えはあまり感じがいいとは言えない。
しかし、今の事情を鑑みれば好都合であった。
「あ、それと。誰かが何かを聞きに来るかもしれません。そのときは妙な隠し立てや抵抗しないで話しちゃってください。できれば、嘘ではないけど真実でもない話をしてくださるとありがたいんですけど……」
「それは状況と質問内容と相手によりますね。確約はできませんが、覚えておきましょう」
月並みですが、お大事に、という言葉に送られ、施療院を出た矢先。
ふぅっ、とキャロルが息をついた。
「アド先生でも無理、かあ……私じゃあどうにもなりそうにないわね」
「あ、そうか。キャロルは治療師だっけ」
雑談の最中に知った彼女の役割を思い出す。
一応護身用の短剣を持ってはいるが、基本的に彼女は後方支援――戦闘や不慮の事故などで負った怪我の治癒・治療や冒険中の食事、更には経費管理等も担当しているのだという。
レイルズは戦闘、依頼人との中心的な交渉を担当し、ジェンドはそれらの補佐に加えて情報収集、野外での食料確保など。
なるほど、冒険者は役割分担の上で成り立っているのかとアーシュは感心したものだった。
「一応そのつもりなんだけどね……あんまり役に立ってる、とは言えないの。戦闘になると隠れて精々狙われないようにしないといけないし、治療って言っても痛みを和らげたり化膿とか破傷風にならないように手当てするだけで治してあげられるわけじゃないから。それほど冒険者です、っていばれる職業じゃないのよ、治療師って」
「そんなことないよ。キャロルのおかげで俺たちは、怪我をしてもおかしな後遺症の危険には怯えずにすむんだからさ。キャロルの作ってくれるご飯は美味しいし」
「レイルズ……」
――どうしてキャロルが親衛隊たちから敵視されるのかが、よくわかった。
別に彼女は頬を染めているわけではないが、なぜかぽわぁん、と特殊なフィールドが形成しつつある。
すぐそばを歩くアーシュにすら、柔らかだがれっきとした壁を感じるのだ。
レイルズの優しさを純粋に友情として受け取り、それを一心に受けることができるキャロルだからこそか。
あるいは鈍感同士の純粋にして密接な関係を嫉妬する心か。
どちらにせよ、これは――嫌がらせを受けても仕方ない、とは思わないが、原因ははっきりし過ぎている。
改善しようとしないのは、純粋に気づいてないからか、あるいはそうしてまで彼女らに気を使う意思はない、ということか。前者である可能性は高かった。
二人にしてみれば自然な、しかし他者にはひどく居心地の悪い空間に、どうしたものかと悩むアーシュに救いの化身がやってきた。
「よう、終わったか」
その一言で、見つめ合う二人の視線が声の主に寄せられる。
それまで柔らかだったキャロルの眼が、不機嫌そうに締まった。
「……ジェンド。どこに行ってたの?」
「ンな顔すんなって。ブスがますますブスになっぞ」
乙女の禁句、とされる単語をあろうことか二回も口にしたジェンドに対し、キャロルは目尻を吊り上げて怒りをあらわとしている。
「何ですってぇ!?」
「連中が何やってんのか、探っといた。あのベラとか言う女、アーシュの話にあった男と合流してなー、安酒場で飯食った後、はやにえに部屋取ったみてーだぜ。ちなみに、部屋二つな」
はやにえ。これまでアーシュも泊まっていた、『もずのはやにえ』のことだろう。
突如変化した話題についていけず、そして怒りの捌け口も見つからないキャロルに代わり、レイルズが軽く眉を歪めた。
「そうか……俺たちと接触するため、かな」
「十中八九そうだろ。あとな、安酒場と四人――男三人に女一人、って構成のグループと一緒にテーブル囲んでたからあの連中も仲間かもしんねえ。まあ、真実は交渉のとき聞き出そうぜ。でだ、アーシュ。お前はどうする?」
他の宿を取って情報を待つか、それとも交渉の席へこっそり参加し、共に話を聞くか。
顎に手を当てて考え込んでいたアーシュだったが、やがてすっ、と顔を上げた。
「どこで交渉するのかな?」
「俺たちの部屋じゃ狭すぎるからな……ロビーか、あるいは酒場かなんかに呼び出されるかもしれねえ。俺の見たグループの連中紹介するために」
「前者なら天井裏、後者なら変装して……か。それなら何とかなるよ、どうにかしてもぐりこむ。明日になってから行動を起こすのは、多分遅過ぎるし」
もともとそうさせるつもりだったのか、ジェンドも大きく頷いている。
「そうだな、俺も同意見だ」
否を唱えた、渋い顔をしたのは二人である。
「え!? 大丈夫なの、そんなことして!」
「連中が、アーシュの気配に気づけないような程度の奴らならいいんだが……」
変装は言わずもがな、『はやにえ』のロビーで天井裏に忍び込むのも、至難といえば至難である。
どう変装するにしてもアーシュは耳を隠さねばならず、それはどうしても不自然に映るし、何より目立つ。
よく知る宿でも天井裏などどうやって忍び込めばいいのか、彼らに忠告する手立てはない。
しかしアーシュは、「大丈夫」と断言して見せた。
「どっちになってもいいように、とりあえず変装に必要な道具買い込んでくるよ。ちょっと行ってくるから、ジェンド案内よろしく」
「俺かよ!」
自分を指差して不服を申し立てるジェンドの袖をがしっ、と掴む。
そしてアーシュは、くるりと二人に振り返った。
「ジェンド借りてくね。陽が落ちる前までには帰すから」
「俺はこいつらの所有物か! おいっ、引っ張んな伸びるだろうが! って、人の話聞けよ!」
すたこらさっさ、と形容するにふさわしい歩法で、アーシュはジェンドを引きずりつつ雑踏へと消えていく。
残されたのは、どこか不安そうに二人を見送るキャロルと、わずかに眉をひそめているレイルズだった。
文句こそ零していたものの、基本的にジェンドは協力的だった。
服装から顔料に始まり、一般人を装うにはどうすればいいのか彼と議論を重ねる。必要と思われる品々を購入し終えたのは午後の日差しがわずかに傾いた頃だった。
「とりあえず、こんなもんでいいかな」
「完璧たぁ言えねえが……ま、バレたらバレたで、そん時に考えればいいわな」
最悪の事態を思い浮かべて表情を曇らせるアーシュに対し、ジェンドは実にあっさりと――暗に自分でどうにかしろ、と言いのけている。
「珍しく楽観的だね。さっきの言動といい、二人に感化された?」
「冗談だろ、嫌なこと言うなよな! 基本的に他人事だからだよ。ここに未練がない以上、本気でヤバくなったら俺たちはお前から離れて逃げちまえばいいわけで」
「……本気でそう思ってる?」
不意に、アーシュの声のトーンが意図的に下げられた。
深刻そうな声音にジェンドが彼女を見やれば、アーシュはわずかに残念そうな、それでいてどこか――
「……おい。その哀れんでるような眼はなんだよ」
「ような、は抜いていいよ。思ってたより抜けてるんだね」
「なんだと!」
あからさまな侮辱に対し、表面上取り繕って嫌味を返す、あるいはその上で相手の真意を探るという高等技術が使えるほど、ジェンドは経験豊かではなかった。
はっきりと込められた怒気は、どこまでも純粋な感情としてアーシュに伝わってくる。
「手伝ってくれるのは嬉しいけど、もう少し危機意識持っといたら? 他人に優しかったり、純粋だったりするのは美徳だと思うけど、それだけじゃ長生きできないよ」
「んなもん、お前に言われなくてもわかりきってる、っつーの! そういうのは俺じゃなくて、あいつらに言ってくれよな」
「相手が理解してくれることしか言わない主義なんだ。私が言って通じるなら、とっくに彼らはああいった人種じゃなくなってるはず」
レイルズやキャロルは、そういった危機意識云々を語ったところで理解はしてくれても『それでも』と己の意思を貫き通す、間違いなくそんな人種だ。
放っておけば、いつか必ず馬鹿を見る日が来る。いや、もう見たかもしれない。
しかしこういった人種は、どんな目に遭おうと基本的にへこたれない。後悔や反省はしても、それを実行に移そうとは――他人を見捨てようとはしないのだ。
この世知辛い世の中、お人よし過ぎる気質は貴重と言って差し支えはない。だから直すべきではないし、アーシュもそのままの彼らであってほしい。そしてそうあることこそが彼らなのではないかと考える。
「否定できねえのがつらいな……でもだからってなんで俺には言うんだよ?」
「あなたは明らかに人種がでしょうが。私の言ってること、理解して尚且つ実行することができるでしょう? 二人が取り返しのつかない泣きを見る前に、止めてあげるのが仲間、ってもんじゃないの?」
畳み掛けるように言葉を連ねるアーシュを前に、ジェンドは困ったような、それでいて何かを企んでるような笑みを浮かべた。
「何?」
「――おめーも手伝ってみるか?」
唐突にして主語のない誘いのような、ニュアンスから挑発ともとれるような言葉である。
彼の意図を測りかね、アーシュはきょとんと目をしばたかせ「何を?」と尋ねた。
「連中の世話だよ。言うのは簡単だけどなあ、お前の言う実行、っつーのはえれーめんどくせえもんだぜ? やってみりゃわかるこったけどよ、俺たちが協力してやるかわりに、どうだ? やる気しねえだろ」
暗に何かの意味を含ませていると同時に、最後の言葉はアーシュを挑発している。
そこまではわかったものの、含まれる何かの意味はわからない。
しばらく時間をもらえれば考えることができるのだが、ジェンドは即答を求めているようだった。
選択肢その壱、保留。
『ほれ見ろ、やっぱり躊躇すんだろーが! 自分でできねえことを人に言うもんじゃないぜ』
と、返ってくるのが関の山。
選択肢その弐、拒否。
『――はんっ』
言葉もなく鼻で嗤われるのがオチだろう。
選択肢、その参――
「ふーん。自分だけじゃ手に負えそうにないから、そういうこと言うんだ。可哀想な人」
「んだと!」
「違うの?」
茶化してみる。
思いつきで実行してみたのはいいが、相手の激怒を誘っては元の木阿弥だったかもしれない。
はぐらかすには最適かもしれないが、二度も同じ手を使うのは気が進まなかった。
どの道、答えはひとつしかなかったのかもしれない。
「いいよ、手伝う。レイルズに借りを返す、って名目でね。彼には何一つ貸しがないのに、世話になってるし」
選択肢その四、承諾を示すと、ジェンドは嬉々としてアーシュに指を突きつけた。
「――言ったな。あとで後悔すんなよ」
「しないよ。それこそ、嫌になったらとんずらすればいい話だし」
意図的な含み笑いをしながら先程のジェンドの言葉をもじれば、彼は煮え湯を飲まされたような顔で沈黙している。
文字通り、返す言葉がないといったところか。勝負ではないのに勝利を手にした気分になった。
「さーて……話もまとまったことだし、戻るか」
「……そうだね。どこから見られてるかわからないし、一応今変装……そうだ。変装して、はやにえに部屋を取るよ」
「屋根裏は取るなよー」
ジェンドの揶揄に、取らないよ! とキャロルのような過剰反応を返し、二人は別々の道を行った。