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起・記憶喪失

初投稿です。

よろしくお願いいたします。


 ねえ。ねえ、起きて。


 声なき声に導かれ、瞳は世界を映し出す。


「……ここ、どこだろ」


 心情をそのまま表した呟きを洩らして、アーシュは視線を彷徨わせた。

 視界いっぱいに広がるのは緑。好き勝手に成長した木々、草花は不思議な共存を醸し出し、広大な深森と化している。

 道などはない、四方ぐるりと見渡しても、同じような光景が広がるのみ。

 と、一点、緑でないものを発見する。天空に輝く太陽の光を浴びてきらきらと反射する地面。

 それは、どこまでも青い空、白い雲、輝く太陽を映した巨大な水鏡だった。

 己の好奇心に抗うことなく、ひょいと覗き込む。

同じように水鏡を覗き込んでいたのは、少年とも少女ともつかない、中性的な風貌の持ち主だった。

 白銀の髪、均整な面立ち、菫色の瞳。髪の間からのぞく中途半端な尖り耳。艶やかな髪を束ねていた紐がほどけ、しなやかな髪が重力に従う。

 そこが小さな泉だと知ったのは、髪先が水面に触れてからだった。

 水面がゆらゆらと波紋を生む。ここではないどこか、まるで夢をみているかのように瞳が揺らいだ。

 それから、アーシュは己の姿に気を留めた。

 特に奇抜なものではない、硬革製の胸当てと、黒い革製の着込み。しかしそれらには鉄錆臭い染みが付着しており、異常さ以外の何ものも感じない。

 立ち上がったところで、腰に差した棒杖の握りが気になった。

 手に取ると、緩やかな弧を描いた棒杖の握りから鍛え抜かれた朱色の鋼が顔を出している。

 自分でも驚くほど滑らかに、それを引き抜いた。

 匕首に似ている。それは片刃の、長すぎるナイフのようなものだ。

 刃に触れようものなら指を切断しかねないほどの鋭さを、陽光のもと緋色の輝きを以って主張していた。

 これが何なのかを、無意識に思い出そうとして、ずきり、と痛みが走る。

 頭痛をこらえようとはせず、アーシュは素直に考えることをやめた。

 そこで発覚するはずの、とある深刻にして重大な事実を彼女が認める前に。

 悲鳴が聞こえた。




 


 ついてない、今日は本当についてない!


 グレーの瞳で眼前のそれをひたと見据えながら、キャロルは胸中で、自分の運のなさをけなしていた。

 昨夜遅くまで本を読んでいたせいか、見事なまでに寝坊したのである。

 不幸なことに、今は冒険者としての依頼料だけでは到底まかなえない生活費を稼がんと、拠点と定めている街で仲間たちそれぞれがアルバイトに精を出している最中だった。

 依頼の最中であったなら起こしてもらえたのだろうが、今日は洗濯当番でさえなかったために同じ宿に宿泊する仲間たちからも放置され、バイトに遅刻した。

 大急ぎでバイト先の薬局に駆けつけ、謝り倒してバイト代の棒引きは免れたものの。そのかわりに近場にある深森での薬草採取を命ぜられたのだ。

 二つ返事で引き受け、ようやく採取を完了させたと思ったら、これである。

 つやつやとした明るい紫。丸ごと手に入れることができればそれなりの値になるという毛皮の持ち主は、鋭い鉤爪と巨大な牙を持つ灰色熊グリズリーの亜種、バイオ・ベアだった。

 どちらにしても凶悪な魔物である。

 並みの戦士では逃げ出すことも難しい魔物相手に、単なる治療師でしかない彼女が太刀打ちできるはずがなかった。

 なんの前触れもなくばったりと出くわし、半泣きの状態で睨み合いが続いている。

 季節が季節だからであろうか、バイオ・ベアはどこかイラついているようにも見えた。

 ひょっとしたら母熊なのかもしれない。だとしたら、この場にいるのがたとえキャロルだけでなく、仲間たち全員であっても勝ち目は無い。

 熊の習性を持つ魔物に限らず、母となった動物は全力で子供を守る本能を持つのだから。

 バイオ・ベアに関する知識を思い浮かべながら――正確には弱点を思い出そうとしながら、キャロルはじりじりと後退った。

 本音は一目散に逃げだしたいが、魔物でなくても熊は動くもの、特に逃げるものに対してはより俊敏な反応を見せる。

 うかつにそんなことをすれば、たちまち血まみれのズタ袋にされてしまうだろう。

 通常なら、目をそらさずゆっくりと、じっくりと逃げればどうにかならないことはなかった。

 ただしそれは、相手が空腹でない場合に限り、だ。

 どうも彼女の眼前にいる個体は、満腹ではない様子だった。

 うなりを上げて、バイオ・ベアがキャロルに接近する。

 巨体に似合わぬその素早さに、せっかく苦労して開けた間合いがあっという間に詰められた。

 振り上げられる鉤爪。みるみる迫ってくるそれを、キャロルはなす術もなく見つめていた。

 目の前が真っ暗になる。

 刹那、大量の血液があたりにほとばしった。

 どちゃり、と重たげな音を立てて、何かが出来たばかりの水溜りを転がる。


「……え?」


 おそるおそる、いつの間にか閉じていた目蓋を押し開けた。

 するとそこには、鋭い鉤爪の生えた巨大な熊の手が血溜まりに沈んでいた。


「きゃあっ!?」


 正体がわかってからあわてて飛び退る。

 戦闘どころか喧嘩らしい喧嘩もしたことがない彼女には、無理もない話だった。

 肩口から腕を落とされたバイオ・ベアは怒り狂ったような咆哮を上げ、闖入者を睨みつけている。

 つられるように、キャロルも顔を上げた。

 抜き身の刃を携えた、場違いなほどに華奢な人影が佇んでいる。

 緩やかな風にたなびく白銀の髪、夏へ向かうこの季節には少し不自然な、漆黒の衣装。うつむき加減であるせいか、その表情を窺うことはできない。

 単なる通りすがりでない証拠に、携えている緩やかな弧を描いた異国風の長剣からは、鮮血が滴っている。

 それに気づいたかは定かでないが、バイオ・ベアは人影を敵と認識したようだ。

 へたりこんだキャロルのことなどすでに眼中には無く、四足となって猛然と突進する。

 それを軽やかに回避した彼女は、同時に敵の勢いを利用して、喉笛を切り裂いた。

 血飛沫が刹那を舞う。

 地響きをたてて大地に伏し、びくびくと痙攣するバイオ・ベアに止めを刺し、大きく息をついた。

 大きくふるって血糊を拭い、音高く鞘に収める。

 それから人影は、初めて気がついたようにキャロルを見た。


「あ……」

「……」


 視線が交わる。

 少し戸惑ったようにたよりなく揺れる瞳。

 その持ち主が口を開く寸前。


「んぎゅう」


 キャロルの命の恩人は後頭部に投石を受けて、ばったりと倒れこんだ。











 さわさわ。

 音を立てて草木が揺れる。


「あ、あの、大丈夫ですか!?」


 しばしの硬直と沈黙を経て、キャロルは人影に駆け寄った。

 返事は無い。握りしめられた拳はそのまま、かたわらには大人の握り拳程度の石が所在無さげに転がっている。

 手触りのいい髪を掻き分けて患部を露出させると、そこには立派なたんこぶが存在を主張していた。

 とりあえず、肩を掴んで起こそうと努力する。

 体の柔らかさから彼女が女性だと判明した直後、がさがさと音を立てて、投石の犯人たちが姿を現した。


「キャロル、大丈夫か!?」

「生きてっかー?」


 現れたのは、キャロルとそう変わらない、いわゆる思春期真っ盛りの少年二人だった。


「よかった、無事だったんだな」


 彼女の無事を素直に喜ぶのは、濃い茶髪に同色の瞳を持つ、雰囲気もさわやかな剣士だった。

 切れ長の瞳にすっと通った鼻梁、剣士としてはかなり恵まれているといっていい逞しい体格。

 安心したように微笑む様はまさに貴公子然としており、拠点としている街では、その風貌と人柄に当てられた少女たちによる親衛隊(ファンクラブ)まで結成されている。


「心配性だな、レイルズは。って……うぉっ! なんじゃこりゃ!?」


 対して、特に彼女を気遣うこともなくバイオ・ベアの死骸を見つけて奇声を発しているのは、萌える新緑色の髪にエメラルド・グリーンの双眸という、春の森から生まれてきたような少年だった。

 いささかつり上がり気味の目はどことなく猫を想像させ、一見細身の身体はしなやかな筋肉で引き締まっている。

 野外活動に適した装備と腰に下げられた弩セットが、彼を狩人だともの語っていた。


「いやー、でもびっくりしたよ。ジェンドに誘われて狩りに出てみたら、キャロルが襲われてるし」


 あまりのことに女剣士を支えたまま絶句しているキャロルに気づかぬまま、茶髪の剣士はにこにこと事の次第を説明していた。

 バイオ・ベアの目撃情報を知ったジェンドが、一攫千金を狙い、狩りに出たこと。

 軽度の女性恐怖症であるレイルズが恒例となった親衛隊との鬼ごっこを繰り広げていた際、ジェンドが彼を誘ったこと。

 狩人の技を駆使してバイオ・ベアの足跡を追跡している最中、キャロルの悲鳴が聞こえたこと。

 大慌てで二人が捜索に出たところ、キャロルに迫る不審者をジェンドが見つけ、投石を試みたこと。

 要するに、名前もわからない恩人は、バイオ・ベア、否、バイオ・ベアにやられるはずだったキャロルのかわりに倒されてしまったのだ。


「……」


 うつむいて沈黙を貫き通すキャロルに、二人はようやく、彼女の異変に気がついた。


「キャロル? どうしたんだ?」

「感激して胸がいっぱい、とか」

「そんなわけないでしょっ、この大馬鹿者ぉっ!」


 キャロルの怒声が、深森に響き渡る。











「――っていうことだから。この人は私を助けてくれたのっ!」


 瞳と同色の髪を振り乱して憤慨するキャロルから事情を聞き、ジェンドは巨大なため息をついた。


「そりゃまた……まずいことしちまったな」


 レイルズは、といえば、事情を聞いた途端真っ青になって昏倒している彼女を起こそうと無駄な努力をしている。

 石を投げた張本人は、ジェンドであるにもかかわらず。


「なんてことしてくれちゃったのよ!」

「だってよぉ、悲鳴が上がって、見つけた時には変な奴がお前を追いつめてるように見えたんだから、仕方ないだろ?」


 そりゃそうだけど、とこぼして、キャロルは心配そうに彼女を見た。

 キャロルとしては仲間が助けに来てくれたことを嬉しく思ってはいるが、一番の恩人がその仲間に成敗されてしまったのはどうにも納得がいかない。


「でもこいつって、ひょっとするとさあ」


 キャロルの文句を受け流して、ジェンドはいまだ昏倒中の少女に歩み寄った。

 白銀の髪をかきわけて、わずかに見えていた耳を露出させる。

 そこには、中途半端な尖り耳が、力なく垂れていた。

 それを見て、レイルズが小さく息を呑む。


「やっぱりな」

「ハーフエルフか……」


 ――ハーフエルフ。人間と森の妖精エルフの間に生を受けた、地方によっては毛虫より毛嫌いされる存在。

 エルフにしては小さい、人にしては尖りすぎた耳が主な特徴である。

 エルフの血脈による美貌、たおやかさ、それでいて人間特有のバイタリティや生命力が特徴として挙げられているが、どれもみな「エルフより」「人間より」劣ったものだ。

 エルフより丈夫だが人間ほどの腕力はなく、人間より美しいがエルフと比べるのは酷。

 そんな、両方の種族から「劣る者」として蔑まれる位置に立つ種族だった。


「……とりあえずどうしよ?」

「放っておく、ってのも手だけどな」

「馬鹿なこと言うな! おいキャロル、ランベールってハーフエルフ迫害してたか?」

「ん~、どうかしら。ハーフエルフどころかエルフが来たなんて話も聞かないし……」


 彼らが拠点を構えるランベールは、牧歌的でありながら旅人たちの休息場所ともなっている。

 村か街かと問われれば一応街に近い規模の集落であった。

 エルフは大体己の生まれ育った里で一生を過ごすというし、ハーフエルフは迫害を恐れて身を寄せ合いながら暮らす集落があるとも、差別意識の少ない都会に住むとも言われている。

 中には、根無し草生活を余儀なくされる者もいるが、基本的には差別意識の強い田舎に近づこうとしないらしい。田舎に属するランベールでは、知らなくて当たり前だった。


「……とにかく、放っておくなんて駄目だ。一応耳を隠して宿に運ぼう。いいな?」

「へーへー。しょーがねーなー」


 何故か彼女を昏倒させた本人にお伺いを立てたレイルズが、手巾を取り出して丁寧に彼女の耳をくるむ。

 放り出してしまった薬草を回収しながら、何かがおかしい光景に、キャロルはふう、とため息をついた。









 激安宿として地元では名高い「もずのはやにえ」の一室にて。

 各自の作業結果を報告しあっていたキャロルたちは、すぐそばの寝台で眠る少女の小さな呻きを耳にした。


「うーん……」


 柳眉を軽く歪めてごろりと寝返る。

 途端、後頭部が枕に触れた。


「うぁ痛っ!」


 悲鳴を上げて跳ね起きる彼女にほっとしながら、キャロルは寝台に近寄った。


「よかった。目が覚めたんで……っ!」


 状況がまったくわかっていない、きょとんとした彼女の目。

 その瞳を見て、キャロルは思わず絶句した。

 気を失っていたときも、人間離れした造詣の美しさに同性ながら見惚れたものだった。

 だが今度は、紫水晶アメジストをはめ込んだような瞳に見据えられ、息を呑んでしまう。

 当然のことながら、それは彼女を不審がらせた。


「……あの?」


 固まっているキャロルにおずおずと声がかけられる。

 小さな、それでいて透き通った声。しかしその声でも、キャロルを正気づかせるには十分だった。


「あ、ごめんなさい。頭は大丈夫?」

「……」


 瞬く間に憮然とした表情となる彼女を見て、あわてて言い直す。


「ご、ごめん! そういう意味じゃなくて、その、たんこぶは……!」

「たんこぶ?」


 ひょい、と後ろへ手をやった。

 後頭部を撫でていくうちに問題の患部を見つけたらしい。ぐっ、と柳眉が歪む。


「ったく。見てらんねぇな」


 どうにも進まない会話に苛立ったように、ジェンドが前に進み出た。


「黙って見てりゃ、何一人でパニくってんだよ。混乱するじゃねーか」

「そ、そんなこと言われても……」

「おめーはちっと黙ってろ。あー、目ぇ覚まして早々悪りぃが、あんた名前は?」

「……アーシュ」

「そうか。俺はジェンド。この鈍くさいのがキャロル……」


 このとき、今まで二人を見つめていた彼女の耳がぴくり、と動いた。

 力なく垂れていた耳がハリを取り戻し、通常の状態に戻る。直後、扉が開いた。


「ただいまー……あ」


 扉を開けたまま、アーシュを見て固まっている男を指差し、ジェンドの言葉は続く。


「んで、あれがレイルズ。とりあえず、キャロルを助けてくれてありがとな」

「……」


 しげしげとジェンドを見つめる少女から、気まずそうに目をそらした彼が事情を話そうとしたそのとき。

 アーシュが初めて、自発的に口を開いた。


「……なにか、した?」

「……は?」


 一様に目を点にする面々をよそに、アーシュは軽く首をかしげた。


「まさか、覚えてないのか?」


 全員の脳裏に走った、ある単語の真偽を確かめるべく、代表でレイルズが口を開いた。


「うん」


 あっさりと頷く。そして彼女は、更なる事実を無防備に打ち明けた。


「それでさ、ここってどこ? 私、誰なのかな?」


 その無邪気な質問は、彼らの予想を裏切らない決定的な一言にもなった。









『――じゃあ、何があったのかもわからないの?』


 アーシュの記憶障害がどの程度のものなのか。

それを調べるためキャロルが質問をしている間、男二人は隣室――野郎部屋で待機していた。

 壁の薄い隣から時折、質疑応答の声が聞こえる。


「……厄介なことになったな」


 ぽつりとジェンドが愚痴をこぼした。


「本当に記憶喪失なら、やっぱり俺たちが責任もって面倒見るべきなのか?」

「そうだな……記憶がなくてわけがわからないのに放り出すのは忍びないよ。戻るまでは一緒にいてやるべきだと思う」


 自業自得ながら、ジェンドはまたも巨大なため息をついた。


「っあーあぁ、ついてねえなあ。やっと金欠から脱出できたと思ったらこれかよ」

「……お前の投石が直接の原因だってこと、忘れるなよ」

「金欠脱出が、基本的にはアーシュのおかげだってこともね」


 聞きなれた声を耳にして、同時に振り向く。

いつの間にか扉が開いていて、キャロルが一人立っていた。


「なあ、あいつどうだった?」

「記憶なら取り戻してくれたわよ」


 しごくあっさりと、彼女は衝撃の事実を告げている。


「マジかよ!?」

「うん。ちょっと混乱してただけで、すぐに何があったのか思い出したみたい」


 喜ぶべき事実とは正比例して、キャロルの顔色はどこか重いものだった。

 それにめざとく気づいたレイルズが、いぶかしげに問う。


「キャロル、何か問題でもあるのか? やけに暗いけど」

「うん……それがね、記憶喪失ってことに関しては何も変わってないの」

「はあ?」


 記憶は取り戻した。何が起こったのかは覚えている。しかし記憶喪失。

 矛盾する事実関係の羅列を、キャロルは単純明快に一本化した。


「つまりね、何が起こったのかは思い出したけど、自分が誰だとか、ここがどこなのか、どうしてここにいるのか……それがわからないんだって」

「マジかよ……」


 がっくりとうなだれた。

 これでせせこましいバイトなどせず、少しはゆっくり遊べるかと思いきや、今度は厄介事である。


「あ、でもよ! 何があったのか思い出したんなら、記憶がなくなったのは俺のせいじゃねーよな? なら俺たちが面倒見る必要は……」

「何言ってるの! だからってまったく関係ないとは言い切れないじゃない」


 どこまでも薄情なジェンドの意見を、キャロルはあっさり一蹴した。


「そうだな。キャロルを助けてもらったことだし、金欠も一応脱出したんだし。別にいいじゃないか」


 このお人よしども。

 ジェンドは胸中で悪態をついた。

 自分の意見がどれだけ薄情なのか、それはジェンドも自覚している。

 しかし自分たちとて他人の面倒を見られるほど裕福でも、余裕があるわけでもない。先程、レイルズは記憶が戻るまでいてやるようなことを言っていたが、もしかしたら一生戻らないかもしれないのだ。

それを知らずして、そのようなことを言う少年ではない。

 もしかしたら、記憶を失うまでは犯罪者で逃亡中だったかもしれないのに、彼は赤の他人である彼女を本気で側に置こうと言っていたのだ。

 それを考えればどれだけお人よしなのか、おして知るべし、といったところである。

 これがその辺に行き倒れていただけの赤の他人ならば、犬猫じゃあるまいし、と猛反対するところなのだが、キャロルのこともある。さらに自分の投石が原因なのかもしれない今、彼に残された反対材料は残り少なかった。

 となれば。


「んで、あいつ今どうしてる?」

「アーシュなら、眠たそうだったから寝かせたわ。状況がわかってきたから、自分で部屋を取ったほうがいいかとか気にしてたみたいだけど」


 彼女が今眠っている部屋はキャロルの一人部屋である。

 双方少女とはいえ、ひとつの寝台でゆったり眠れるほど体は小さくない。


「とりあえず夕飯を食べに行くときに起こすから。私、薬局へ行ってくるね」


 薬草を持って足早に宿を出て行く彼女と、そろそろ時間だ、とバイトに向かうレイルズを見送り、ジェンドは足音を消してキャロルの部屋の前に立った。









 バタン、と音を立てて隣室の扉が開く。

 遠ざかる足音に軽い安堵を覚えて、アーシュはむっくりと起き上がった。

 キャロルに話したことはすべて事実である。

 アーシュという名前さえ、これが本名なのかどうか、確証がない。

 眠いふりをし、一人になった今、彼女は自分の持っていたとされる荷物を物色し始めた。

 自分が着ていたという黒一色の装束と軽鎧。色が色なだけにわかりにくいが、大量の血液がこびりついている。

 キャロルは男性陣に話さなかったが、その血痕が不思議でないほど、アーシュは全身に及んで細かな、しかしけして浅くない傷を負っていた。

 ポケットや隠しを探り、細々としたものを見つけるも、何も思い出せない。

 あきらめて荷袋を漁ると、とりとめもない生活用品や何に使うのかよくわからない品々に隠れるかのように、中敷の裏に鍵のかかった書類入れを見つけた。

 何製なのか知らないが、無理にこじ開けると中に入っているものまで価値をなくしてしまう可能性は否めない。

 駄目元で、服の隠しから見つけた鍵を差し入れる。かち、と小気味良い音を立てて、錠はあっけなく開いた。

 中身は、アーシュが想像していたような重要書類の類ではなく、幾枚もの獣皮紙の束である。

 ほぼすべてに地図が描かれており、記憶を失くしてはいてもこれが『宝の地図』であることを推察することはできた。

 それらの右端には、記されたものとは明らかに違う素材、すなわち新しいインクで「○」「×」が記され、さらに「無記入」のものを加えると三種類に分別することができた。

 収穫があったもの、なかったもの、未挑戦の印だろうか。

 乱雑になっているそれらを整理してみると、「○」「×」の隣には日付があり、無記入のものは何も記されていないが、量だけは他の二種類を圧倒している。


 ――これは、ひょっとすると。


 他に何か手がかりはないか、と手を動かそうとして、床がわずかにきしむ音を感じ取る。

 人間よりは感度のいい耳を済ませて扉を注視すると、控えめな金属音が聞こえてきた。


 ――泥棒?


 先程の少女――キャロルといったか、彼女や残りの少年二人であれば、ノックをして普通に入ってくるはずだ。

 それすらもせず、こそこそと扉をこじ開けるような真似をするということは……。

 書類入れを閉じ、散らかした荷物を片付ける。

緋色の刃が仕込まれた棒杖――柄のところに血桜と記されていた――を片手に布団の中へ潜った。

 

 助けてもらった礼だ。捕まえておこう。

 

 逃げるでも、助けを呼ぶでもなく、咄嗟に得体の知れない相手を捕獲する、という選択肢を選ぶというのは、彼女の性格なのか。あるいはそれだけ荒事に慣れていたという証か。

 がちゃり、と扉が開いた。

 足音もなく――ただ、宿の床が古びているせいか、一歩進むたびにわずかにきしんでいる――侵入者は滑るように移動している。アーシュの狸寝入りを確認しているのか、侵入者はしばし動きを止めていた。

 やがて動き出した人影が、アーシュに対し背を向けたところで。


「何奴!」

「!」


 シーツを蹴って起き上がり、抜き身の血桜を侵入者に突きつける。

 緋色の刃が人影を捉える直前、アーシュは目を見開いて、たじろぐ人影を見据えた。


「……ジェン、ド?」

「よ、よう」


 咄嗟に両手を挙げて降伏を示しているのは、先程この部屋の主と共にいた少年である。

 驚きに丸くなっていたアーシュの目が、すぅっと針ほどに細まった。


「……下着ドロ?」

「ばっ……記憶喪失のくせになんでそういうことは覚えてるんだ!」

「忘れたの、主に自分のことだけだからね」


 ちょうど顎の下に潜り込もうとしていた刃を引き、鞘へ収める。

 その一動作は、素人のジェンドでも扱いに慣れていると断言できるほど滑らかなものだった。


「お前、寝てるんじゃなかったのかよ」

「起きていたら、なにか都合の悪いことでも?」


 自分の荷物を調べるためにキャロルを追っ払った方便だ、と事実を言うのは本末転倒だ。

 彼女はあえてジェンドをからかうことで質問をそらした。


「やっぱり下着ドロ? それとも、こんな昼間っから夜這い?」

「アホか!」


 耳を真っ赤にして否定する彼を面白そうに眺めながら、アーシュは本題を突きつける。


「じゃあなあに?」

「……お前が何モンなのか調べようと思ったんだよ」


 無理やり誤魔化す手がなかったわけではない。

 しかし、ここでその理由を話さなければ、二人にあることないこと吹き込まれてしまう可能性が高くなる。それは避けたかった。


「何者って、記憶喪失の行き倒れ」

「そーじゃなくてだな。悪いとは思ったけど、持ち物とか調べて、どっかで犯罪やらかして逃亡中の脱獄犯じゃないかとか……」


 それが少なからず、無断でやっていいことではないことを自覚しているからか、アーシュから目をそらしてぼそぼそ呟くジェンドに、彼女はふっ、と笑みを零した。


「あに笑ってんだよ」

「別に。仲間想いなんだな、優しいんだな、って思ってさ」

「はあー!?」


 予想通り、彼は面白いくらい必死になって否定している。


「なぁーに言ってんだか。俺はな、面倒事に巻き込まれるのが嫌なだけなんだよ。あの連中のペースに付き合ってたら、厄介事が後から後から舞い込んできてたまんねー。例えばおめーみたいな奴とかな」


 ジェンドの早口をくすくす笑いながら聞き流していたアーシュであったが、後半の言葉を聞いて表情を引き締めた。


「安心して。怪我が治って、ここがどこなのか把握できたらすぐにでも出て行ってあげる。もしかしたら、私はあなたたちを狙ってきた暗殺者かもしれないしね」


 ぴくり、とジェンドが頬を引きつらせる。

その反応にアーシュはそうでしょう? と同意を求めた。


「私が誰なのかは私自身も知りたい。だから他に何か手がかりになりそうなことが掴めるまで、ここに留まらせてもらう。幸いなことに、路銀もないわけじゃない」


 荷袋から巾着を取り出し、振ってみせる。

 その膨らみようを見るに、相当な額だと推測できた。


「ねえ、一応確認しておくけど使えるよね?」

「……ああ」


 中に入っていた一枚のコインを見せられ、ジェンドはこれすらも覚えていないのか、といった風情で頷いている。


「……お前さー。起きていて平気なら、一応医者とか行ってきた方がいいんじゃねーの?」

「ここ、医者いるの? 記憶喪失治せるような」

「それはどんな名医でもできるこっちゃねーと思うが……医者ならいるぞ、一応」


 ランベールは確かに田舎に属する平和な街ではあるが、それでも医者がいないほど寂れてはいない。

 ジェンドたちが運び屋や探索物などの依頼から帰ってきた際、知らないうちに何か感染していないかなどを調べることができる医者は存在するのだ。

 一通りの説明を聞き。ふーん、と頷いたアーシュは、まるで当然のように言い放った。


「じゃあ連れてって」

「はあ?」

「医者。お代は自分で払うから、連れてってよ」


 この言い草。どうやら動いても大丈夫ではありそうだが、しかし。


「なんで俺が」

「さっき、ふたつの気配が移動して隣の部屋から出て行った。キャロルも――レイルズ、って男の子も出かけてるんじゃないの?」

「そりゃ……まあ」

「ついでに。医者へ行けって言ったのは他ならぬあなたなんだから、責任取ろうよ」

「誤解を招くような言い草はやめろよな!」


 反応を見て面白そうに笑っているアーシュに、ジェンドははああ、とため息をついた。


「わかった。しょーがねー、別に用事もねえから付き合ってやる。ただし――」






 

 一刻後。ジェンドはさして広くもないランベールの道を歩いていた。


 (やっぱ目立つなー……)


 隣には、彼の服を借りて耳を隠すようにバンダナを巻きつけたアーシュの姿がある。

 当初はキャロルの服を借りるよう指示したのだが、一度はその指示を承諾した彼女が「どうしても!」と粘るため、最早着ることもない自分の服を貸したのだ。

 袖、裾の類は折って調節し、ズボンもベルトでなんとか落ちないよう固定したはいいが、問題は格好ではない。もちろん、ジェンド手持ちの黒いバンダナで隠させた耳がはみ出ているというわけでもない。

 くどいようだが、ランベールは田舎だ。住民全員がほとんど顔見知りという小規模な街でもある。

 見慣れない顔があれば、どうしても一目を引いてしまうのだ。

 加えてアーシュはそれでなくても目を引く、美人だった。

 同時に、見慣れぬ男装の麗人を連れて歩くジェンドも必然的に目立っている。

 今のところ知り合いの姿は見かけないが、そこかしこから飛ぶ視線がちくちくとかゆい。

 当然アーシュにもその視線はジェンドの数倍寄せられているはずだが、どういうわけか彼女はさっぱり気にしていなかった。

 初めて見る光景を珍しがっているようにも見えるし、ランベールという土地に対する情報を貪欲に欲しがっているようにも見える。


「おい、あんまりきょろきょろしてると転ぶぞ」

「心配してくれてありがとう。いざというときはあなたにしがみつくからそのつもりで」

「服を汚されたくねーだけだ。いざというときを想定するくらいなら否定しやがれ」

「難しいね」


 またも無言。

 身支度を整え、「行くぞ」と促すジェンドにアーシュが頷いただけのやりとり後、これが外へ出て最初の会話である。

 会話を終わらせてしまった彼女に対し、やりにくい、とジェンドは内心頭を抱えた。

 そこに。


「……ところでさ。ジェンドたちは何をしている人たち?」


 アーシュが唐突にそんな質問をしてきた。


「何してる、って……なんだよ、いきなり」

「どういう人たちなのか、聞いとくの忘れてた。あんな風に宿へ長期滞在してるってことは、生来ここの住民じゃないね。旅人とか?」

「――冒険者、だ」

「冒険者?」


 一体彼女は何を覚えていて何を忘れているのだろうか。

 この世界においてそれなりにポピュラーな職業を耳にしても、アーシュは不思議そうな顔を隠さなかった。


「冒険者――字面をそのまま受け取るなら、冒険をしている人だよね。ってことは、財宝盗掘屋トレジャーハンターの亜種?」


 こんなことすら知らない――否、覚えていないとは。

 頭を抱えそうになって、新緑色の髪をばりばりとかきむしる。


「別に間違いじゃねえが、ちっと違う。トレジャーハンターだったら危険な場所に行って、隠された宝とかを探して生計たてるわけじゃねえか。俺たちはまあ――ようするに何でも屋だな。こういう地図があるから自分たちの代わりに探してきてくれ、って頼まれればそういうこともやるが、どこそこで凶暴な魔物が出たからそれの退治とか……」

「傭兵?」

「退治だけじゃなくて、ほれ、ある品物を遠い異国に運んでほしいとか……」

「運び屋……じゃない、密輸業者?」

「……どこそこでこんな不思議なことが起こるから、調査してきてほしいとか……」

「それじゃパシリじゃん」

「いちいち失礼な奴だな、てめえはっ!」


 間違っていないところがまた腹立たしい。

 思わず怒鳴ってしまったものの、アーシュは特に反応することなく露店をじっと見つめている。

 その視線を追って、ジェンドは意図的に笑みを零していた。


「――何?」

「おめー、まさか腹減ったとか?」


 アーシュの視線の先にあったもの。

 それは、特徴的な香ばしい匂いを撒き散らす焼き鳥の露店だった。

 真後ろのテントから鉄錆チックな異臭と、鳥類の断末魔が時折聞こえてくるが、それは田舎特有の新鮮さが売りだということで気にしない。


「――まあ減ったといえば減ったけど、何か嗅いだような匂いがするなあ、って……」

「焼き鳥のタレが焼ける匂いだろ? ほしいなら止めねえからてめえで買えよ、俺は別にいらねえからな」


 物言いがいちいち意地悪い。

 そんな彼を一瞥してから、もう一度アーシュは露店に目を走らせた。

 しかし、その足を動かすことなく瞬きをひとつして、ジェンドに振り向く。


「――今は医者が先だよね。観光は、後」

「あっそ」


 置いてきそびれた、とぶつぶつ呟く彼の独り言を流し、アーシュはもう一度だけ露店を振り向いた。

 食欲をそそる、焼き鳥のタレが焼ける匂い。その中で妙に浮き上がった匂いを感じたのだ。

 それほど嗅覚が発達しているわけではないので判然としなかったが、柑橘系の爽やかな香油のような――


「おい!」


 苛立ちのこもるジェンドの声を聞き、ハッと我に返る。

 同時に「何?」と聞き返した。


「だから、ぼけっとすんな。言っとくが汚したら承知しねーからな」

「はーい」


 彼の言動はひどく尊大で腹が立つ。それでも今、下手に反論して彼を怒らせるのは得策でない。

 言い争ったためか増えている視線の中、アーシュはジェンドの背中を追った。









 二人が戻ったのは、夕陽が沈む寸前の空が一層眩く輝いたときである。


「ただいま! ジェンド、アーシュの様子はどうだ?」

「……知らねー」


 いつにない笑顔で宿の扉を開けたレイルズだったが、予想以上にふてくされているジェンドに出迎えられて気持ち数歩下がった。

 直後、タッチの差でキャロルが帰還する。


「ただいまー。ねえ、アーシュの様子……」

「俺に聞くな」


 開口一番ぴしゃりとはねのけられ、彼女は一瞬あっけに取られたかと思うと、眉を跳ね上げ言い立てた。


「……何その言い草! まさかアーシュのことずーっとほっといたの!? バイトもなくて暇だったくせに!?」

「んなわけねえだろ。起きても平気そうな感じだったから、医者に連れてった。処置なしだとよ」


 明日記憶が戻るかもしれないし、永久に戻らないかもしれないという不吉な診断をくだされ、ついでに記憶が戻った際はなくしていた間のことを綺麗さっぱり忘れる可能性がある、とも本人同様聞かされている。

 このとき、ジェンドは初めてアーシュが満身創痍だということを聞かされた。

 それは、彼女は単なる一般人ではない可能性が強まった要因でしかない。まだはっきりしたことは何一つわからないが、ジェンドの勘は彼女に付きまとう厄介事の気配をひしひしと感じていた。


「そう……それでアーシュは?」

「頭痛い、っつって部屋に引きこもってる。それと、女将と交渉して屋根裏に移ったってよ」


『どれだけお世話になるかわからないんです。一番安い部屋にしてほしいんですけど……』


 頭痛をこらえるようにこめかみを揉みながら、宿賃を交渉していた彼女の姿が蘇る。

 記憶喪失がどのようなものかを覚えていたのか、診断を受けた彼女の反応は実に平静なものだった。血液検査をしてはみるが、何もわからない可能性が高い、と言われても、無表情だったのだ。

 眉ひとつ動かさぬその冷静さに、可愛くない女だとジェンドは思った。

 帰路につく際どこか上の空ではあったが、「そうだ、今日の部屋とらないと」と唐突に叫ばれ、肝が冷えたのは忘れられない。

 キャロルの部屋に泊まるわけにはいかない、という意味なのだろうが、間違っても男女の二人連れにおいて大声で言うことでない。

 とどめに、何もない場所で何故かつまずいたらしく、服を汚さないためか咄嗟の判断だったのか。

 すぐそばにいたジェンドは横合いから熱烈な抱擁を受けた。

 夕日が沈む前とはいえ、人目につかぬため裏道を通っていたジェンドたちに無遠慮な視線を浴びせていたのはほろ酔いの労働者や、どこの町村にも必ず出没する素行の悪い者達である。

 たちまちからかいの口笛や「見せつけてんじゃねーぞこの野郎!」と感情のこもった罵声を浴びせられ、本格的に絡まれる前にアーシュを牽引するようにして逃走した。

 これでわかったのは、細身の種族であるエルフの血は引くものの、母親は人間だったのかアーシュは着やせするタイプであること、思ったよりアーシュの足は速いということである。


「や、屋根裏って……」

「長期滞在を見込んでの激安部屋にしてもらったんだ。あなたの部屋に泊まりこむわけにはいかなかったから」


 降ってきた声に上階を見上げれば、階段のところで手すりに寄りかかっているアーシュの姿があった。

 一度目の外出時から服装を変えておらず、片手にはジェンドが回収し損ねたバンダナを握っている。


「アーシュ!」

「起きてきて大丈夫なのかよ? 頭抱えてうんうん唸ってたくせに」

「痛いけど、お腹空いた。あ、そうだ。明日服とかこういうのとか仕入れるから、今日は貸しといてね。明日洗って返すよ」


 バンダナをひらひらかざしつつ、身に纏う男物の服をくい、と引っ張った。

 やめろ伸びる! ともう着れないお古を寄越したことも忘れて喚くジェンドをなだめ、レイルズが階段を降りてきたアーシュに手を差し出す。


「自己紹介が遅れました。初めまして、レイルズといいます。よろしく」

「……アーシュです。この度は、お世話をかけました」


 少し戸惑ったように、アーシュが片手を出して握手に応じた。

 今までそういった習慣がなかったかもしれない。交わした手をいつ離せばいいのかよくわからないらしく、握手はひどくぎこちないものだった。


「頭痛の方は大丈夫?」

「うん。少しめまいがするけど、出歩けないほどじゃない」


 くるっ、と自分の耳を覆うようにバンダナを巻く。

 もたもたとした覚束ない手つきを見かねて、手伝おっか? と協力を申し出たキャロルに、アーシュは笑顔でお願い、と頼んだ。

 さっきとはちょっと変えて、と呟いたキャロルに、頭部全体を覆うような巻き方にしてもらっている。


「ねえ、嫌いなものとかってあるかな? ないなら、私たちが行きつけのところに行こうと思ってるんだけど……」

「多分ないと思う。でもどうかな、案外食べた瞬間『これヤだ』とか思うのかも」


 多少打ち解けた様子の少女達を横目で見ながら、ジェンドは二人を見守るレイルズに「おい」と尋ねた。


「……お前、女嫌いじゃなかったのかよ?」


 今普通に握手したよな? とジェンドが半眼で突っ込む。


「レイルズは男色家なの?」

「男色?」


 本人が答える前に、会話を聞いていたアーシュが反応した。

 言葉の意味を知らなかったキャロルにアーシュが詳しい説明をしようとして、当のレイルズは全否定している。


「ち、違う! 俺はストレートだ、間違ってもそんな性癖はない!」

「だって女嫌いって」

「女性と触れ合うのが少し苦手なんだ。いきなり話しかけられたりすると緊張するというか、軽いスキンシップでも引くというか」

「ふーん」


 大変だね、とアーシュは見事に他人事な感想を洩らした。

 バンダナの中に入れた耳が不具合だったのか手探りで直している。

 ふと、キャロルが彼女の格好に目を留めた。


「それにしても、ジェンドに服を借りたの? 私の服でもかまわなかったのに」

「おれもそう言ったんだけどよ。こいつ『どうしても!』ってうるっせぇから……」


 じろ、とジェンドを横目で見てから、アーシュは軽くキャロルから視線をそらし、言い訳じみた言葉を連ねている。


「あー……女の子の荷物を漁るような真似はしたくなかったから……」

「アーシュも女の子じゃない」

「や、自分が女であることを否定するつもりはないけど……」


 これまでのはっきりした話し方とは一変。妙に言葉尻の濁された彼女の弁を不思議に思いつつも、彼らはアーシュを率いてメインストリートの端に構えた「夕餉のカマド」亭に足を運んだ。

 あまり大きくない店ではあるものの、下品になり過ぎていないにぎやかな空気が外まで伝わってくる。

 地理的に見て、ここは地元の人間を対象とした店だろうか。


 ――聞こえないの?


 あるかなしかの風に揺れる看板をじーっ、と見ていたアーシュが、キャロルに呼ばれて店内へ足を踏み入れる。

 からころ、と木製の鈴が軽やかに鳴った。

 いらっしゃいませー、と店内をめまぐるしく立ち回っていた、キャロルより少し年上に見える女性が、入り口に立つ集団を認める。


「揃ってくるなんて珍しいわね。三人でいいかしら?」

「今日は四人でお願い、エラ」


 不思議そうな顔をしているウェイトレスに、キャロルはアーシュを視線で示した。

 初めまして、と言う代わりか、彼女は意図的に作った柔和な笑みを向けている。


「……あとで紹介してね? 四名様ごあんなーい!」


 高らかに客の出入りを店主に告げたウェイトレスが、四人を急き立てるように中央あたりの席へ誘う。

 思い思いの席に座った彼らにメニューが手渡され、そのときアーシュは隣に座ったキャロルにひそひそと囁いた。

 メニューを一通りさっ、と目を通してからである。


(適当に見繕ってくれると嬉しい)

(いいの?)


 こくこく、と切実そうな顔で頷くアーシュの願いを聞き、キャロルは注文を取りに来たウェイトレスに「いつもの」を二人分注文した。

 そんなやりとりなど知らないジェンドが、ひどく軽薄な表情で軽口を叩いている。


「んーなに食うとまた太るぞ」

「な、何よ失礼ね! 二人分も食べるわけないでしょ、片方はアーシュの分よ!」

「――へー、その子アーシュっていうの」


 その声にキャロルが驚愕をそのまま横を向けば、水がなみなみと注がれたカップ四つをお盆の上で揺らすエラの姿があった。


「エラ」

「なんだよおめえ、仕事しろ仕事」

「これが仕事なの。新しいお客さん連れてきたあんたたちに特別サービスよ」


 手馴れた様子でリズミカルにカップを並べていく。

 水が豊富な地域ならただで出してもらえるのだが、水源がごく普通の井戸水では単なる水が有料なのは仕方がない。


「初めまして、カマド亭へようこそ」


 なんでこんな豆知識が頭に浮かぶのか、自分でいぶかしがっている間にエラはアーシュに向かってぺこり、と頭を下げた。


「ただいま初来店のお客様には、特別メニューから一品、無料でサービスさせていただいております。こちらの特別メニューからお好きなものを……」


 ひょい、とウェイトレスが取り出した小さめの板には、十数行の文字の羅列が刻まれている。

 それをアーシュが受け取ろうとした時、外野が喚いた。


「ずっりー! おいエラ、俺たちのときにはそんなもんなかったじゃねえかよ! なあレイルズ」

「そういえば、そうだったな。最近始めたのかい?」


レイルズの問いに、エラはわずかながら頬を染めて頷く。その目は、彼にのみ注がれていた。


「ええ。最近は不景気だから、常連さん増やしましょうキャンペーン中なの。あとで割引券進呈するわね。そんなわけだから――さ、どうぞ?」

「……んーと、なんだか悪いのでいいです」

「バカかてめえは!」


 なんだかウェイトレスの目に威嚇の色が見受けられたために特典を辞退しかけたアーシュだったが、ジェンドにばしりと怒鳴られて眉をひそめている。


「……うるさいなー。別に注文しなくてもいいんでしょう? ジェンドが口出すことじゃないし」

「これだから記憶喪失は……! あのな、 おめえは覚えてねえかもしれねえが、飢えることほど切ねえもんは無えぜ? 食えるときにはひたすら食っておく! 冒険者の常識じゃねーか!」

「そんな切ないエピソード、拳握って語られても」


 果たしてそれに記憶喪失は関係あるのか。

 冒険者かどうかなんてわからないのに語られても困るし、大体残すわけでもないのになんで怒られなければならないのか。

 それを正面から言ったところで時間の無駄だろうな、と思いつつ、アーシュはメニューに目を通して自分に注がれる視線の主を見た。

 エラは驚愕をあらわにしてアーシュを見ている。


「記憶、喪失……なの?」

「うん。今日の昼、向こうの森でこの人たちと初めて会った。それ以前の記憶がないの」


 簡略な説明後、アーシュは羅列のひとつを指して「これ、お願いします」と注文した。


「……そ、そうだったの。あたしてっきり、冒険者仲間かレイルズの昔の彼女かと……」

「あ、そうか! それもありかもしれない」


 ポン、と手のひらに拳を置いたアーシュだったが、もちろん彼らには何のことだかさっぱりわからない。


「何がありなの?」

「だからね、どこかで私が一方的にレイルズとかに惚れていて、どうしても忘れられなくて押しかけてきたその時魔物に襲われるとかして記憶をなくしたとか。絶対ありえない話じゃないよね」


 二度に渡る持ち物検査結果を鑑みるにありえないことなのだが、彼らに――ジェンドにすら、そのことは明かしていない。こんな冗談を言ってみるのも面白いだろう。

 そんな考えの下にアーシュはへらへらしながら言ってみたのだが、何の地雷を踏んずけたのか、空気は一変した。

 レイルズとキャロルは真っ赤になって固まり、ジェンドは目を見開いてアーシュを凝視している。

 エラに至ってはこれまでの空気を一変させ、むき出しの敵意が感じられた。

 思わず本音が零れ出る。


「……ウブだね、皆」

「ウ、ウブって、そんな……」

「もしかしたら、っていう可能性を口にしただけで、そんな本気に取られても困るよ」


 呆れたように「可愛い人たちだなあ」と零せば、場の緊張は一気にほぐれた。


「……び、びっくりしたあ。またライバルが増えたのかと……」

「? 何か言った、エラ?」

「ううん、なんでもない! でもアーシュ、そういった冗談はやめたほうがいいわ。レイルズって村の女の子たちにすごく人気があるから、嫌がらせとか受けるかも」

「そうなんだ。ご忠告ありがとう」


 どうせそのうち出て行くのだからあまり関係ないけど、という本音は胸中にとどめ、タイミングよく酔客に呼ばれて去るウェイトレスを見送る。

 それから、サービスの水に口をつけている三人を前にしてアーシュは彼らを観察した。

 レイルズはアーシュの視線に気づいてほんのりと頬を染め視線を外し、キャロルは先程の余韻か、やはり頬を染めたまま、視線には気づかない様子で水に口をつけている。

 そんなキャロルの白い咽喉――首筋を眺めつつ、アーシュの視線に気づいて何見てんだよ、と言いたげに睨み返しているのはジェンドだ。

 これでなんとなく三人の位置関係はわかった。

 そんなものがわかったところで自分の記憶にはまったく関係ないのだろうが、それはそれ。

 どんなに努力しても戻るかどうかわからないものを惜しんで落ち込むより、今置かれた状況をできるだけ楽しんだほうがいい。否、楽しみたい。

 記憶がないのは痛いが、この人間関係だけで楽しめそうだ、とアーシュが内心でほくそ笑んだそのとき。

 一際大きな足音が聞こえたかと思うと、乱暴に扉が開いて夜風が入り込んできた。

 にぎやかな食堂の喧騒が、一気に氷河期へ突入する。


「こ、これはこれは。いらっしゃいませ」


 厨房の奥からわかりやすい揉み手をしながら、人のよさそうな壮年のふくよかな男性が顔を出す。

 エプロンをつけているところを見ると、この男性は料理人兼店長なのだろう。


「よう。また来てやったぜ」


 対するのは、取り巻き四人の中央に立つ、腹の突き出た脂ぎった男だった。

 見るからにおっさんなのだが、声の調子からして実年齢は驚くほど若い。幼少時の不摂生が彼をこのような外見にしてしまったのだろうとたやすく想像できた。顔中に散らばる吹き出物は、病気かと誤解するほどにひどい。

 比例するように、身に着けているのは高級な素材が使用されていた。首に提げた太い金鎖のネックレスは輝きからして純金、太い指すべてを飾っている指輪等はそれぞれ石の色が違う上、どれもこれも大粒である。

 特大の腸詰並みの太い指に米粒ほどの宝石では、確かに貧弱に見えるだけだろうが……


「五名様ですね。では、こちらへどうぞ」


 いそいそと、店長はエラを差し置いて彼らを案内していく。

 おそらく品のない男からウェイトレスを護るためだろう。申し訳なさそうにしている彼女に、店長は大丈夫だ、とでも言うように力強く頷いて見せていた。

 見れば、ほとんどの客は顔を伏せるようにして彼らと眼を合わさないようにしている。

 これだけわかりやすい事柄から導き出されるのは、実に単純な、ありきたりの展開だ。

 おそらく中央の男はこの街の権力者か、あるいはその血縁か何かなのだろう。

 それで権力を嵩に、付近の店に出没しては色々と――店を不景気にしていく。

 客は不愉快だが、何か言うこともすることもできず、精々酔っ払った自分が余計なことをしでかさないうちに退散するしかない。

 現に、彼の登場によって急に酔いが醒めたような顔をし、さっさと帰っていく客が急増した。

 明らかな営業妨害である。本人たちにその気はなくても。


「おい、ねーちゃん。酒だ酒!」


 奥の座席を陣取った男がそう言って喚くが、彼女は去っていく客たちの代金徴収に右往左往しており、とても注文が取りにいける状態ではない。

 代わりに店主が出て行き、その分請け負った注文の料理は遅くなる。


「……ね、私たちも出よう?」

「ああ。しゃーねえ、あきらめるか」


 あの男のことを知っているらしい。

 あきらめの悪そうなジェンドはキャロルの言葉にあっさりと頷き、席を立った。


「そうだな。行こう皆。アーシュ、悪いけど違うところ、案内するよ」

「構わないけど……あれは、ここのお偉いさんか何か?」

「リリガロ、とかいう商人の息子だよ。水脈掴んでたり、材木扱ってたりで近隣の村の住人は基本的に頭上がんねーんだ。この店では……確か、食材を扱ってるんだったかな? 月に一度はやってきて、無銭飲食繰り返すんだと。真っ当な仕事人はつらいねえ」

「冒険者なんて不安定な仕事よりはマシよ」


 気づけば、すぐそばに「ありがとうございましたー」と繰り返していたウェイトレス・エラが、たくし上げたエプロンの窪みに小銭を溜め込んで立っている。

 心なしか、立ち位置はアーシュを隠しているように見えた。


「ごめんなさいね、あたしたちの読みでは後三日くらい、って踏んでたのに……また来てよね。アーシュも、特別メニュー用意してるから!」

「そ、それは別にいいんだけど……機会があったら、また」


 もはや一歩足を踏み入れた際の喧騒などすっかり消え去った食堂を、年若い彼らは連れ立って出口へと向かう。

 ここでアーシュは、何故エラが自分を隠すように立っていたのかを知った。


「おおおっ!」


 突如上がった奇声に、思わず振り返れば、リリガロなる男が一行を指して取り巻きの男二人になにやら興奮した面持ちで囁いている。

 そして、取り巻きの男たちは総出で席を立つと一行の元へずかずかと歩み寄ってきた。


「おい、行く……」

「待て」


 なにやらトラブルの気配を感じ取ったジェンドが率先して出て行こうとするも、取り巻きの男たちはそれを許さなかった。


「何の用だよ!」

「男に用はない。そこの娘二人をマルロ様が御所望だ。来い」


 ニヤニヤ笑いながら、黄色い歯を時折覗かせる男がキャロルを、ボディーガードらしい筋骨隆々とした男がアーシュの腕を掴む。

 その光景にレイルズが眉を吊り上げて何か言い立てそうになったのを、アーシュが手を上げて静止した。


「何かよくわかんないけど……揉め事は起こさないほうがいいんでしょう?」

「だけど……!」

「大丈夫。ちゃんとキャロル連れて戻るからさ……道まだよくわかんないし」


 手の空いている取り巻き二人が、少年二人を蹴り出さんばかりに追い立てた。

 そして二人が連行される。


「や、やめてください!」


 どこか余計なところでも触られたのだろうか、後ろでキャロルが悲鳴を上げた。

 振り返って確かめると、彼女の腕を掴んでいた男があろうことか腰に腕を回している。


「ああ? いいじゃねーか別に。減るもんでもなし」

「――色々と減るから、ダメ。さあ、手を離して」


 筋骨隆々とした男の手を逃れ、つかつかと二人に歩み寄った。

 掴んでいたはずの腕をあっさりと外され、動揺の気配が伝わってくるものの気にしない。


「はあ?」

「聞こえなかったの? その手を離せと言ったの」


 頭の悪そうな面構えに吐き気を催しながら、目潰しも辞さない勢いで指を突きつける。

 それからたっぷり一秒ほど経って。


「うぉあ!」


 黄ばんだ歯が気色悪さに拍車をかける男が、大げさにのけぞった。

 その隙に、男の手を払ってキャロルを取り返す。

どうなることかとハラハラしながら見守っていたらしい店長かエラのほっとしたような吐息が聞こえてきた。


「あ、ありがとう」

「ん」


 短く答え、彼女を連れてマルロとかいう腹の突き出た脂ぎった男の眼前へと歩む。

 筋骨隆々とした男が何か不穏な空気を感じ取ったらしい。立ち塞がろうとして、あっさりと回避された。


「マルロさん、って言ったかな? 私たちは、花売りじゃないんだけど」


 花売り。街角で花籠を持ちながら、求められた場合のみその可憐な笑顔を妖艶なものに変化させる少女たちの総称である。

 記憶喪失と言っていたのになんでそんなことは覚えているのだろう、とエラは首を傾げた。

 そんなこととは知らないキャロルは、目をぱちくりさせている。


「ん、んなもん見りゃあわかるさ」

「そう。じゃあ、何か用?」


 表向きにこにこ微笑みながらも、彼女は全身からオーラを放ち、背後ににじり寄る取り巻きたちをも威嚇していた。

 驚いたことに、マルロはそれに気づいていない。怯えるどころか、思いもかけない質問を繰り出している。


「お前ら、冒険者なんだろう?」

「……この子と、あの二人はそうだ、って言ってたかな」


 なんとも他人行儀な答え方に、彼はいぶかしがって尋ねた。


「お前は仲間じゃないのか?」

「違う。ちょっと知り合っただけ」


 必要以上の情報をくれてやる義理はない。そう考えて、言葉を切った。


「そうか、違うのか……まあいい。俺はマルロ・リリガロだ。二人は?」

「……アーシュ。こっちが、キャロル」


 遅ればせながらの自己紹介。

 アーシュが想像していたような用事ではなかったらしく、彼は二人に自分の正面に座るよう言って用意させたグラスに注文した酒を注がせた。

 目の前に置かれるが、手をつけるような真似はしない。ちらりとキャロルを見やれば、このような事態にあまり慣れていないのか、そわそわと落ち着きがなかった。

 視線を動かさぬまま、そっと手を握る。

 汗のにじんだ華奢な手がぴくりと反応したが、それ以上のことはしない。

 何をすればいいか、この先は知らなかった。


「実はこの村に……」

「依頼なら、あの二人も交えて話したほうがいいと思うなあ。大体からしてさっきの奇声は何? いきなり切り出されたって困惑するしかできないし、ついでにどーいう条件で雇おうとしてる? そこんとこ、きっちりさせないと」


 すらすらと文句を上げ連ねるアーシュに、マルロが何かを言う前に。

「アーシュアーシュ」と横合いからくいくい袖を引かれる。


「何?」

「あの、私たち、一度お話を伺ってから依頼を受けるか断るか決めるようにしてるの。雇用条件とかは二の次だから、どんな話なのか、聞いておく


 この言葉に、アーシュは少なからず驚愕を覚えた。

 それだけ安全な仕事を請け負ってばかりいるのか、はたまた彼女達がお人よしなだけなのか、随分無防備な依頼の請け負い方である。

 もしこれが断ることの許されない仕事だったらどうするのだろう。

 聞いてしまったばかりに遂行せねばならず、失敗すれば悪くて口封じ、良くても裏街道を行かねばならない身になってしまうだろうに。

 そこまで思いがめぐらされ、ハタと気づいた。

 なんでこんなことを自分は知っているのだろう。記憶喪失であるが故の後遺症なのか、ずきり、と頭痛が走った。


「奇声は……そいつらにこの中で冒険者がいないか探させて、あんたらが冒険者だと聞いた時に珍しく若い女がいたから……」

「……冒険者って、若い女の子とかいないの?」


 奇声を上げるほど珍しいことなのか、つい質問してしまう。

 しまった、と思う前にキャロルはしっかりと答えていた。


「確かに伝承サーガ風の御伽噺とかには、必ず私たちくらいの女の子がいたりするけれど……現実には少ないわ。魔物と戦ったり、何日も野宿したりなんて誰も好き好んでしたくはないと思う」


 ……なるほど。では彼女はそれが平気な変わり者か、またはその生活を余儀なくされている不運な境遇か、どちらかということか。

 不幸合戦なぞしたところで虚しくなるだけだろうが、記憶喪失で自分すら誰だかわからない現在のアーシュと、どちらが――

 幸いなことに、マルロは何故アーシュがそのようなことをキャロルに聞いたのか、気にしていない様子で話を続けている。


「それでだな……実はこの街に、あるトレジャーハンターが来ているらしいんだ」


 トレジャーハンター。どこからか財宝に通じる手がかりを入手し、人知れず大金を手にする輩の総称。


「それは――通常は数人でパーティを組んでいるハンターたちと一線を画し、一匹狼で腕利きと評判の方のことですか?」

「知ってるの?」


 特に不思議がることなく聞き返したキャロルに、アーシュが思わず尋ねてしまう。


「うん。前にジェンドが、うらやましそうに話してたんだ。普通トレジャーハンターなら地図一枚手に入れるにも経費がかかるのに、その人はどこで仕入れたっていう話が全然流れてないの。だけど、探索を終えた後には必ず何かを換金してるんだって。財宝を独り占めできる上にいつもいつも成功なんて、うらやましすぎて殺意すら湧いてくる、みたいなことを言ってた気がする」


 見も知らない人間に殺意が抱けるなんて、なんて安直な頭なのだろうか。

 正直にそんなことを考えながら――考えるだけなら個人の自由だと彼女は考えた――内輪話になってしまったことを「失礼」と形だけ侘び、依頼人かもしれない男の話を促す。

 幸運なことに、やはりマルロは気にしていない。


「おそらくそいつらしい。なんか知らないが仕事のためにこの地へ来たらしいんだ。ということは、この辺りに奴の狙う財宝がある、ってことになる」


 彼の話が進むうち、アーシュの脳裏にある地図が浮かんできた。

 無記入の地図らしき獣皮紙。鍵のかかった書類入れに、幾枚も詰められた古びた紙束。

まさか、まさか。


「そこで、だ。あんたらには、そのトレジャーハンター――巷では『灰色狼』って呼ばれてるそいつを探し、連れてきてほしい。この辺一帯は親父の土地だから、野放しにするわけにはいかない。本当は財宝の在り処を探してほしいところだが、それは難しいだろうからな」


 依頼遂行後に実行されるであろう犯罪の匂いはさておいて、要するに人探しという依頼である。


「……わかりました。私の一存では決められないので、仲間と相談して後日お返事いたします。連絡先を教えてください」


 中心街にある高級ホテルの名と部屋番号を教えられ、二人はしつこすぎる誘いを振り切り食堂をどうにか無事に出た。

 ひんやりと冷えた夜風が、心身ともに疲労している二人の骨身に染みる。

 キャロルに先導されての帰り道。これまで無言だった彼女の口が、唐突に開いた。


「ねえアーシュ、ありがとう」

「……何かしたっけか?」

 

 口を開けば、依頼交渉の邪魔しかしていなかった気がする。

 しん、とした通りではなく、主に天を覆う闇色のタペストリーを眺めていたアーシュは、キャロルに目を向けた。


「だって、私だけじゃ断りきれなかったもの。二人と違って私はお酒なんか飲めないし、あんな状況じゃ何をされていたかわからないし……アーシュがいてくれたから、こうして無事にいられたよ。ホントにありがとう」

「……うん」


 複雑、だった。

 彼女から寄せられる気持ちに、おそらく嘘はない。確かにホッとしている雰囲気はある。

 多少の世辞は混ざっているかもしれないが、それは不可抗力だ。大体、アーシュが不快に思ったわけではない。


「……ま、大事に至らなくてよかったよ。揉め事にもならなかったし」


 むしろ、あの男の痴態に辟易させられた。

 話が終わった途端バカバカ酒を呑み、顔を真っ赤にして呂律の回らない言葉で何かを囁き、挙句の果てに何を思ったのか床を這い蹲って豚の真似まで披露し始めたのである。

 そんな吹き出物だらけの脂肪しかなさそうな豚はおらん、とか、豚は豚小屋に帰って豚と寝てろ、とか、そんな暴言をぶちまげる前に、罵りは理性と吐き気に抑えられた。

 結果的にそれはいいことだったのだろうが、豚の真似をしつつ服を脱ぎ出したそのときは、本気で頭が割れるほどの頭痛に襲われている。そしてその頭痛は、未だに引いていない。

 そんな彼女の心情を表情のどこかで察知したのか、キャロルは柔らかな笑みを浮かべた。


「アーシュ。もう過ぎたことなんだし、嫌なことは早く忘れたほうがいいよ? レイルズたちがなんて言うかにもよるけど、もう私たちだけで会うことはないと思うし」

「……」


 言われるまでもなくわかっている。

 ストレスは溜めないに限るのだが、今回ばかりは難しそうだった。

 何故なら、それまでの不快さに余りある気がかりが、アーシュの脳裏に暗雲をもたげているからだ。


「……ね。さっきの依頼の話、明日にでも返事する?」

「そういえば、いつまでに返事、っていう話はしなかったっけ。明日かどうかはわからないけど、早めに返事するつもりよ」

「……そっか」


 ――この話だ。

アーシュとて、無条件にトレジャーハンター『灰色狼』と自分が同じ人物だとは思っていない。

 持ち物の中はもちろん灰色狼を連想するようなものはなく、それらのキーワードを耳にしても何かを思い出す気配はなかった。

 昼間、焼き鳥屋台の近くで鼻に感じたあの匂いのほうがよっぽど反応できる。

 自分がどれだけ人生を歩んできたかは、正直な話わからない。

 エルフは大人となるまで緩やかに成長し、そのまま時が止まったように悠久に近い人生を過ごすとされ、ハーフエルフもまたある程度の成長で体に流れる時が止まる。

 所謂老化現象が起こるのは、寿命による死の直前だ。エルフの老衰は稀なため、確認した人間はいないらしい。

 街医者による診察前、待合室で順番を待つ間に常備されていた本を勝手に読んで、その知識を得た。

 従って、ハーフエルフだということだけははっきりしているアーシュは見た目どおりの年齢とは限らない。

 だから、そのトレジャーハンターにそんな噂がない以上――活動の長さや特徴から、ハーフエルフかもしれないという憶測が流れなかった以上、全然関係ない他人である可能性だってある。

 いずれにせよ、何が起こっても迅速に対応できるように心構えだけはしておかなければ。

 ふぅ、とキャロルに気づかれないよう小さく吐き出された息に触発されたように、空きっ腹が何か食わせろ、とばかり抗議した。







「まったく信じらんない!」


 憤慨しきったキャロルに連れられ、アーシュは昨夜と同じく、気づかれないように息を吐き出した。


「アーシュもそう思うでしょ!?」

「……いや、そんなの仕方ないんじゃ……」

「でも、私たちがあんな目にあってたのに、あいつはっ!」


 ――彼女の怒りの根源は、昨夜の珍事を引き起こすことになった『あいつ』にある。

 キャロル共々腹を空かせ、とりあえず宿へ戻ったそのとき。

 心身ともに冷やしていた二人を迎えたのは、何故かレイルズ一人だった。


「おかえり、二人とも。よかったよ、無事そうで……」

「う、うん。ただいま、レイルズ。ねえ、ご飯食べた?」

「いや、俺はまだ。本当は食堂の外で待ってようと思ったんだけど、警邏のおじさんに注意されちゃってね」


 ごめん、と潔く頭を下げるレイルズにそれはいいんだけど、とアーシュが尋ねた。


「ジェンドの姿が見えないけど、寝てる?」

「……あー……あいつは、そのー……」


 途端、表情を凍らせて視線をそらしたレイルズに、キャロルは何を感じたのかずずいと彼に詰め寄った。


「……女の子のところに遊びに行ってる?」

「いや、腹は減ったけど懐は暖かいから、って飯食いに行くついでにカジノへ行く、って言ってた。バイオ・ベアの毛皮が思いの他高く売れたから、それを軍資金に、って……」


 口調からして、止められなかったことを彼なりに悔いているらしい。

 なんとなくそれがわかってしまうほど、キャロルの形相は凄まじいものだった。

 この表情なら、あの依頼人崩れの不届き者も簡単に撃退できただろうに。

 顔つきはかなり可愛いの部類に入る彼女ではあるが、感情の奔流はその造詣を無視したようだ。

 面を被った、とまではいかずとも、その身に般若を宿したかと錯覚できるほどに、怒りの気配が集い、沈殿していく。


「……行くわよ二人とも」


 すっかり目の据わった彼女の迫力に、本能が、レイルズが目で、下手に逆らうな、と告げていた。

 ――その後は、修羅場と名づけるにふさわしい展開である。

 ずんずんと歩くキャロルは、一発でジェンドの入り浸っていた賭博場を発見した。

 彼女について入ろうとして、レイルズに物理的に止められる。

 しばらく待っていると、絶えず音楽の流れていた場内から突如悲鳴のようなものが聞こえた。

 続いて男の狼狽するような声に、仲裁らしい落ち着いた声、周囲がはやしているのだろうか、野次馬のごちゃごちゃした声。

 男女の言い争いはやがてテーブルをひっくり返すような騒ぎに発展し、喧騒はやがて収まりを見せる。

 一体中で何があったのだろうか。

 やがて出てきたのは、頬を真っ赤に腫らして憮然としているジェンドと、ぐすぐす鼻を鳴らし、目元をこすりこすりジェンドを引きずるようにして出てきたキャロルの姿だった。

 そして帰り際、昼間に引き続き出ていた屋台で何本もの鳥の串焼きをジェンドにおごらせ、口をきくのもはばかられる空気の中宿にたどり着き――朝を迎えたのである。

 彼らの修羅場はさておいて、いつまでもジェンドのお古を着ているわけにはいかない。

 今日返すといった手前、着替えを買ってこなければ、と宿を出ようとした矢先。


「アーシュ、よければキャロルを誘ってくれないか? あいつの気分転換にもなるだろうし、君はまだこの街、不慣れだろ?」


 ということをレイルズに言われ、それもそうだと思い立ちキャロルの部屋の扉を叩いて――お守りを押し付けられたことに気づく。

 気分転換と言っていた時点で気づけたことなのだが、まだ頭が半分眠っていたらしい。


「んっとにもう……ジェンドったら! そりゃあ、あの食いしん坊に夕飯お預けなんてできることじゃないと思うけどさ! 私たちが災難被ってる間にカジノで遊び呆けるなんて、絶対許せることじゃないわ!」


 気持ちはわかる。痛いほどに伝わりもすれば、理解もできるのだが……嫌なことは早めに忘れろと、アーシュに諭したのは彼女だ。自分が実践できないで、一体どうするのだろうか。あるいは自分が実践できないからかもしれないが。

 とはいえ、怒り狂い理性を失くしている人間に正論を説くのは、放火された家に灯油をかけるようなものだ。

 アーシュは黙ってえんえんとキャロルの愚痴を聞いていた。

 彼女の愚痴は、昨夜の出来事から始まって日頃ジェンドに対する不満を吐き出す展開へ発展しつつある。

 いわく、基本的にケチだがなぜか賭博好き。借金をこさえてはそれを返すために、仲間も協力を余儀なくされる。

 いわく、喧嘩っぱやくてトラブルが絶えない。リアリストなのに、金に関しては捕らぬ狸の皮算用をよくやる。

 最近、レイルズのような大規模ではないが、自分にファンがつくようになったため女性にだらしがない。

 そして、大食漢の割に運動量の問題か、それともそういった体質なのか、ちっとも太らないというのだ。

 最後のひとつは個人的な妬みだからさておいて、借金作りの得意なバクチ打ちでその上女好きとは。欠点だらけだった。

 話を聞けば聞くほど、駄目男の要素を持つ彼が、それでもこんな風に心配してくれる仲間に恵まれているのは、おそらく彼とて優秀な面があり、なにより彼も仲間を思いやっているからこそだろう。

 だが、キャロルの様子を見るに気苦労は絶えないようだ。

 昨夜賭博場に押し込んだときも、あまり戸惑っている風には見えなかった。

 少なくとも、あれが初めてではないらしい。


「……そういえばアーシュ、どんな服がほしいの?」


 一通り愚痴を吐き出してすっきりしたのか、キャロルは直りつつある機嫌の気配を匂わせてアーシュに尋ねた。

 聞いているうちに気が滅入りそうなキャロルの愚痴をほぼ聞き流し、生返事をしてジェンドの人柄について考えていたアーシュははっ、と我に返る。


「そー……今着てるような感じの、動きやすいタイプがいいかな。大量には買わないから、多少高くてもかまわない」


 アーシュのリクエストを聞き、キャロルはうーん、と唸って店の模索をし始めた。

 となると、自分がよく利用する店は行けない。

キャロルの嗜好はごく標準的な女性のものであり、当然ファッションのためなら多少は動きにくくても気にしない。

 仕事時はそんなことも言っていられないが、それでも外見には十分気をつけている。

 とはいえど、これまで万年金欠病にかかっていた彼女に他の店を知る機会などは皆無に等しく、満足な案内をできる自信がない。


「キャロルー! アーシュー!」

「……」

「キャロル、呼ばれてるよ」

「……」

「……キャロルちゃん?」

「えっ!?」


 よほど黙考に熱中していたと見える。キャロルは初めて声をかけられたように反応した。


「ほら、あのウェイトレスちゃん」


 地面を向いていた顔を上げてアーシュの指す方角を見る。

 そこには、竹箒を片手に走ってくるエラの姿があった。

 昨夜はエプロンでわかりにくかったが、その姿は簡素なシャツに短パンというざっくりとしたものである。


「あ、おはようエラ」

「おはよ、二人とも。どうしたの、そんなトコで立ち止まっちゃって」


 ここでキャロルは、初めて自分たちの足が止まっていることに気づいた。


「キャロルが考え込んじゃって、無理に動かすのもなんだったから。邪魔になるようだったら、引きずってでもどくけど」


 言い草からして、いきなり足を止めてしまったキャロルに付き合いアーシュも立ち止まっていたようだ。


「あ、ああっ、ゴメンね! 私、ちょっとひとつのことに集中すると周りが見えなくなっちゃうみたいで……!」

「別にいいけど、決まった? 不慣れなら、自力で探すけど」

「なになに、何の話?」



 興味を持ったエラが、話の詳細を尋ねてくる。

 アーシュの纏っていたものは、旅人としてはおかしくないものの、街中では少々目立つため、着替えを買いに行くのだとキャロルが説明すると、エラは瞳を輝かせて頷いた。


「へー……でもそれなら、キャロルも行きつけのところへ行けばいいじゃない。何を悩んでるの?」

「アーシュ、動きやすい服にしたいんだって。私がよく行くのは、そういうところじゃないから……」


 ごにょごにょと、尻すぼみにキャロルはお茶を濁している。

 エラは自分の豊かな胸を誇示するように胸を張り、トンッ、と叩いた。


「そういうことなら、地元のあたしに任せなさい! ちゃんとエスコートしてあげるよ」

「ホント!?」

「うん。どうせ朝は店、閉めてるしね。あたしもそろそろ新しいの欲しいなーっ、て思ってたトコなんだ!」


 盛り上がる女子たちの様子を視界で確認しつつ、アーシュは行きかう人々の姿を眺めている。

 確か昨日も、ジェンドに連れられてこの通りを歩いたはずだ。

 エラが店の前を掃除していたのなら、夜もこの道を通ったということになる。

 早い内に一人で出歩けるようになるためにも、アーシュはとりあえずこの通りになるがあるのかを把握した。

 ここから二つほど奥の角を北に曲がり、小さな三叉路の目の前の道を行けば宿。

 現時点の場所から南へ進めば、昨夜行った夕餉のカマド亭。通りを南に外れると少なくとも夜は歓楽街となる裏通りがあり、その通り沿いに真っ直ぐ行って北の店がジェンドの入り浸っていた賭博場。

 そのジェンドに連れられ、行った治療院の場所と、その帰りの通った通りは……よくわからない。

 この買い物が終わったら、一人で回ってみようか。


「アーシュ、エラが案内してくれるって!」


 不安から解放されたからか、キャロルは心から嬉しそうに箒の片付けと出かける準備をしに戻ったエラを見送って声を跳ね上げた。


「んー、よかったのかな? 掃除中みたいだったけど」

「いいみたいよ、これを口実に息抜きできるーって、嬉しそうだったし。ちょっと待ってて、ってさ!」


 ――果たして彼女は、アーシュが忌み嫌われているハーフエルフであることを覚えているのだろうか。

 医師にかかった際、アーシュはあまり深く考えていなかったが、ジェンドが何かにつけて気を使ってくれた。

 頭部の診察をするからバンダナを取れという医師に対し、さりげなく口止めをしてくれたのである。

 結果的に医師はここから南にある都会からの出身者であったために、ハーフエルフに対する差別意識などはなかったが、エラはこのランベールの生まれらしいのだ。

 どのような反応を返すのか、まったくの未知数である。ばれたら出て行けばいい、と安易に考えていたが、今はそれまで行動を共にしていたキャロルたちへの影響が心配だった。

 当初は耳を無理に布で押さえつけたためにひどく痛んだが、今はどうにか慣れつつある。

 その耳がはみ出ぬよう軽く撫でつけ、アーシュははしゃぐキャロルを見守りながらエラの合流を待った。






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