生絲1-1
最後の客が店を出て行く。
もうすぐ午前2時。マニュアルにある閉店時間を2時間もオーバーしてやっと今日の勤務が終わる。
最後の客が使ってたテーブルをざっと見回り、忘れ物がないことを確認してから入り口の自動ドアの電源を落とした。あとは簡単な掃除と売り上げの集計をしてやっと帰ることができる。
はぁ、と深くも無い溜め息をついた。だが浅くもない。
俺はよく溜め息をつくことがある。学校で出された課題がうんざりとする量だったとき、または友達と喧嘩をしているとき、そのほかにも様々の状況で溜め息をつく。しかし、それ以上に自分でも理由のわからない、無意識のうちに溜め息をついている回数のほうが多い。特に一人になったときなど気がついたら、という風に。今ついた溜め息もそのパターンだ。自分でもこの癖を直さなくては、と思っている。一つ溜め息をつくと一つ幸せが逃げる。そんな言葉は嘘だ。溜め息をついた数だけ幸せが逃げているのだとしたら、俺は恐らく何千回、何万回と溜め息に乗せて幸せを逃がしていたということになる。自分に何万個もの幸せがあったとは思えない。だが不幸だったとも思ってはいない。
「まぁ周りには辛気くさいやつだとは思われるな」
閉められて誰もいなくなった店内で独り言を漏らす。店内の西一面に張られた鏡に映った自分の顔にはいつのまにやら自嘲的な笑いが浮かんでいる。下らない思考に耽っていたもんだ。さっさと閉店作業をして--
「ん?」
一面ガラス張りとなっている北側から見下ろせる駐車場に緑色の大型バイクが一台、ぽつんと停まっているのが見えた。持ち主と思しき人が煙草をふかしながらこちらを見上げている。
お客さんだろうか? 急いでカウンター周り以外の照明を落とす。もう閉店しましたよアピールだ。階段を上ってきてももう店を開ける気はないが、それを説明するのも面倒くさい。このアピールで素直に帰ってもらうのが一番だ。
少し間をおいてもう一度駐車場を確認する。ドォン、とバイクがガラス越しでも伝わる心地の良い低音を唸りながら駐車場を出て行くところだった。照明落とし作戦は成功したようだ。立ち上がり良く加速するバイクを店内から見送って、また一つ溜め息をついた。
閉店作業を終えて駐車場に出ると少し肌寒い。まだ五月八日、昼間は半袖で過ごせるけど夜になると長袖じゃないと辛いっていう俺が一番嫌いな季節だ。上着を持ち歩くのが面倒だという理由でこの場に半袖でいる俺は周りから見れば少し季節感のない野郎だと思われるだろう。だが今は夜中、気にする人目は大した量ではない。多少の羞恥を覚えて自転車を漕ぐ。目的地は俺のアパートだ。折りたたみ機能を一度も使用したことがない自転車で人がジョギングする程度の早さで走る。
ゆっくりと流れる景色。黄色から赤に変る信号。虫を寄せ付けるように光を振りまいて人間を吸い込むコンビニ。どれもこれも毎日のように見ているが変化はない。別に変化に期待しているわけでもない。変化なんてないとわかってるけど退屈だ。このまま自転車を進めれば左側に小さな公園がある。そこで毎日のように高校生くらいの男が三人いるのもこれまた変化がない。いつものように少し体の大きい二人が少し体の小さい一人を痛めつける。自転車でその脇を通る俺に小さい一人は助けを求めるような目を俺に向ける。何を期待しているんだか……。俺が間に入ったところで痛めつけられる対象が一人増えるだけだろう。当然、いつものように期待のこもった目線を知らん振りして通り過ぎる。俺の手には負えん。押し殺したような悲鳴をBGMに自転車を家に走らせる。
ドォン、と聞き覚えのある低音がBGMに割り込んできた。どこで聞いたんだろう。音の原因を見つけようときょろきょろと後ろを振り返ったら、また小さい一人と目があった。気まずい思いをして再度無視を決め込む。
「おい、何見てんだ」
でかい一人は無視してくれなかったみたいだ。まずい、逃げなくては--
気がついたら俺は地面に頬擦りをしている。じゃりじゃりする。濡れている? 黒い液体が地面を濡らしている。そんなことはどうでもいい、逃げろ! あれ? まっすぐに立てない? 膝が笑っている。再び地面とこんにちは。脇腹に鈍い衝撃が走った。一瞬の間を置いてそこに激痛が走る。痛い痛い痛い痛い痛い--
「ほんと、容赦ねぇなぁ」
「あいつが喧嘩ふっかけてきたのが悪いんだろうが」
「こっち見ただけだろう?」
「ガン飛ばしてんだろうが」
なるほど、俺は絡まれたわけだ。汚い笑いを顔に貼り付けて高校生の一人が歩いてくる。手にzippoくらいのサイズの石を遊ばせて
「誰だよお前。弱いものイジメは許せません! てか? えらいねぇ、お前がこのゴミの代わりに俺らのサンドバッグになってくれるの?」
石が額を襲った。全力投球ではないがその硬さと重さに脳が揺れる。こんな衝撃を毎日、あの小さい子は耐えていたのか。小さい子はさっきまでの期待がこもった目とは違った、俺を心配するような表情で見ている。俺が役立たずってばれたんだろうな。
「こっちを見ろ」
イジメッ子に命令をされて、俺は従った。俺のほうが年上なのは確実だがこの場では暴力が序列を決めている。
「携帯と財布を出せ」
「何のためにですか?」
意識せずに敬語が出た。強いものには逆らえない。
「俺の気分を害した慰謝料としてもらう」
凄んだ顔で簡潔に述べられた理由だが、俺としては飲み込むことができない。大学生の財布とは生活費を保管する場所(ずぼらな俺の場合は)でもある。
「勘弁してもらえませんか? 取られると俺の生活がままならなくなるんですよ。」
「いいから出せよ。お前の都合なんって知ったこっちゃねぇんだよ」
「素直に出せばこれ以上痛い目見ずに帰れるかもよ?」
もう一人のイジメッ子が割って入ってきた。凄んだ顔の一人とは違ってへらへらとした笑い顔を浮かべている。小さい子は一言も喋らずに、心配そうな顔でこっちを見ている。蹲ってる俺。なんだろう、この状況。痛い目は見たくないがお金も取られたくない。でも、拒否したら散々痛い目を見た後にお金も奪られるんだろうなぁ。何か良い方法がないものか。他人事のような思考に
「どうすんの?」
頭に走る衝撃が我が事だと思い知らせた。衝撃は言葉の重みではなくて単純に蹴られたからだ。出来たばかりの傷口から血が噴き出ちゃったらどうしよう。
「わかりました! 出します! 出すから勘弁してください」
冷静な判断から出た言葉ではない。心が暴力に屈したために出たものだ。ひどく惨めな気分になるが仕方ないことだと考える。
……これじゃ本当に負け犬じゃないか!
心の深い場所で沸いた叫び声は俺の闘志に火をつける事はなかった。スムーズに後ろポケットから財布を取り出し、お金を高校生へ渡す。
「お前、名前は?」
「美田櫛生絲です」
「生絲君、明日からもよろしくね」
イジメッ子は同時に笑い出した。新しいおもちゃを見つけたと思ったのだろう。退屈だと思っていた毎日、それを最悪の方向に脱してしまったのかもしれない。
下衆な笑い声を上げる高校生二人と最低の形で自己紹介をした俺を、体の小さなイジメラレっ子は何の表情もなく眺めていた。