生絲1
俺は小さい頃、ありきたりだが『正義のヒーロー』ってやつに憧れた。
当時人気だった特撮番組。迫り来る怪人にヒーローがパンチやキックを浴びせ、最期には必殺技の光線で木っ端微塵にして決め台詞。
『俺がいる限り、悪の蔓延る世は来ない!!』
言葉の意味も、そして悪がなんなのかもまだ分からなかっただろう。番組の内容も。
だが、テレビ画面に大きく映るヒーロー、背後の爆発、そして力強い声。背筋がぞくぞくと震え、気が付いたら手は拳の形を作っていた。
俺もヒーローになる!
幼い俺は、この現実で、正義のヒーローが今日もどこかで怪人と戦っていると信じていた。
あの決め台詞を言うために。
強い憧れを抱いた俺は、ヒーローになりたくて、修行と称して森の中を駆けずり回ったり、純粋ゆえに残酷だが、野良犬退治などして毎日を過ごした。ケンカを目撃すれば、人の少ないほうに味方するように首を突っ込み、もみくちゃにされて怪我をすることも少なくはなかった。
幼いがゆえに、純粋がゆえに一生懸命に修行をしていたんだ。
――ホントはね、正義のヒーローなんていないんだよ。
幼稚園の先生が俺に、諭すように言ったことがある。
俺はその言葉の意味が、当時、全く理解できなかった。
幼稚園児の夢を壊すようなことを、ヒーローの存在を信じて疑わない俺に、先生が言ったのは何故だったかな。
――そんなことはない、ヒーローは俺が今こうしている間にも、どこかで怪人をやっつけているんだ。
――いないはずはない。俺はテレビで見たんだぞ。
今考えれば、それは子供の子供らしく微笑ましい夢であり、可愛らしい言い分で、ヒーローが実際にいないことは息をするように当然のことだけどさ。
だけど、まだ幼い俺は、純粋で無知だったから。
先生の言葉の意味が、全く、理解できなかったんだ。
それが少しずつ大人になって、理由が解っていくんだ。
こんな憧れの空想から遠く離れた現実で日々を過ごし、成長していくうちに俺の憧れは少しずつ砕かれ、磨り減り、灰になる。代わりに、少しずつ常識が俺の中でその存在を大きくする。
空想を空想と決定付ける抑止力の存在。法律だったり、世界構成だったり、物理法則だったり。
少しずつ、少しずつ。
今日、わかったことがある。怪人という悪い奴は実在しないんだ。
今日、わかったことがある。光線って生身では出せないんだ。
俺は――正義のヒーローにはなれないんだ。
俺にとって成長は、正義のヒーローへの夢が空想という言葉に変わる過程だった。
さすがに二十歳にもなれば、夢と現実をごっちゃに考えることもない。
ヒーロー? あんなものはタイツの中に俳優と呼ばれる人が入っているだけ。羊の皮を被った狼は狼であるように、ヒーローのタイツを被った普通の人は、普通の人だ。
正義のヒーローは、誰かの創り話。常識がそう言っている。
現実は常識で満たされている。
それとも、常識で満たされた世界を現実というのか。
どちらにせよ、俺は現実の中で生きていることに変わりはないし、子供の頃の憧れは空想の世界だ。
世界はとても暗い――夢が無い。
この世界が暗いからこそ、空想は今も俺の手の届かない場所で輝きを失わないでいるのだろう。
輝く世界では、俺は平和を脅かす怪人と死闘を繰り広げている。
暗い世界では、俺は時給の安いアルバイトをして、日々を怠惰に過ごしている。
幼い日に気づいた事実。
いつからか、すっかり俺は修行も止めてしまっている。敵を倒すパンチやキック、そして敵を木っ端微塵にする必殺技の習得も諦めた。
気づいてしまったから。
そんなことをしても、俺はヒーローにはなれない。
だから、修行をする意味がない。
だから、俺はこんなにも現実を見ている。
だから。
コンクリートの壁を素手でぶち抜く男が、今まさに俺のことを殺す気でいるっていう事態に、俺は対抗する術を全く持たない状態だった。