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屋根さん

作者: あなぐらむ

 屋根さんが死んだ。

 実際に死に目に立ち会ったわけではない。飼い主さんが、屋根さんが亡くなり、無事に府中の動物霊園で眠っている事を庭先につけたボードで知らせてくれたので知る所となった。それ以来、ひっきりなしにお供えやお花が庭先の即席の献花台に置かれている。近隣の皆が、屋根さんを可愛がっていた。

 屋根さんとは、今年で齢十五にもなろうという老猫のことだった。この年齢も近所のおばさんから聞いた話で、確かではない。彼女(牝猫だった)とはぼくがこの町に越してきて十年だから、それぐらいの付き合いだった。

 まばらな三毛で、小柄で顔の小さい猫だった。警戒心が強く、最初は全然懐いてくれなかったのだが、ちょっかいを出しているうちにいつの間にかぼくの顔を覚えてくれたらしく、時折気まぐれに、にゃあと声をかけてくれたりもした。にゃ、かもしれない。


 屋根さんと名付けたのは夏未だった。

 夏未はぼくがこの町に越してきた頃に親しくしていた女の子だ。付き合っていたのではない。それは断じてない。ぼくの想いがどうだったであろうと。

 知り合ったのは、当時ぼくがアルバイトしていた大手の会社のデータセンターだった。ぼくは他の若い学生バイトよりも年齢が上だというだけで、チームリーダーをやらされていた。人を使うということに関する能力が全くないぼくにとっては、給料に若干上乗せがあった事が無ければ続けてはいなかったと思う。

 そんな頼りないリーダーのぼくを会社側が見かねたのか、サブとして夏未が配属された。

 彼女はその当時まだ学生で、就活をしながらのバイトだったが、上からの覚えもよろしく、ケアレスミスが多いぼくを、大いにサポートしてくれた。


 夏未は栗鼠のような顔をした女の子だった。

ほんの少し前歯が出ていて、くりくりとよく動く眼と、どこか人を試しているような表情が印象的だった。ストレートボブの髪は少し栗色で、それは地毛なのだと言っていた。背がすらりと高く、ヒールでも履こうものなら、男としてはあまり身長が高くないぼくと並ぶと、彼女の方が高い事もあった。もっとも彼女は普段は(アルバイトに来る時は)大抵飾らないジーンズにスニーカーだった。それでも彼女は、場にいるだけで周囲をぱっと明るくするような、そんな女の子だった。


 親しくなってから、夏未はぼくの事を、下の名前に「さん」をつけて××さん、といつも呼んでいた。ぼくは姉二人がいる末っ子で、高校、大学と男子が多い学校に通っていたのでとにかくこの、どこか古風な呼び方がくすぐったかった。そして同時に嬉しくもあった。その後付き合った女の子で、ぼくをこう呼んでくれる子はいなかった。夏未よりもかなり年上だったし、親しさと敬意の彼女なりの表し方がこの呼び方だったのかもしれない。


 この町に越してきた当時、ぼくの四畳半に毛の生えたような狭いワンルームマンションには、その狭さなど関係なく居心地が良いのか、男と言わず女と言わずよく人が遊びに来ていた。ぼくはその頃、友達連中と、どこかに出す当てもなく自主製作で映画を撮っていて、その自称スタッフ、出演者どもがぼくのこの狭い部屋を、要するに屯するのにちょうどいい場所として利用していた。ターミナル駅から近いという理由もあった。

 そんな事情もあって、ぼくの活動に興味を持った夏未がある時、ぼくの部屋に来てみたい、と言い出した。その年の七月の頭だったと思う。夕方だったけれど陽はまだ高く、真夏ほど湿気は無くて過ごしやすかった。女の子独りだけというのは今までに一度か二度しかなく、多少戸惑いもあったけれど、ぼくは同意していた。


 ターミナル駅から近いとは言っても、ぼくの住むワンルームマンションは駅からは結構距離があった。閑静な住宅街で、区画整理される前の、狭い路地も残る町並みを徒歩で十分少しの場所だ。夜にスタッフ連中がやってくるには、この距離が酔い醒ましにちょうど良かった。

 ぼくは夏未と肩を並べ、歩いた。話していたのは社内の人間関係や彼女の就活の話だったように思う。夏未は話しながら、そのよく動く瞳で、周囲をきょろきょろと見ていた。そして、あっ、と声をあげて立ち止まったのだった。

 通りに面した角地の一戸建て、その角を見下ろす格好になる屋根の上の隅の方に、猫がちょこんと箱座りしていた。少し首だけを伸ばし、人間どもの往来を恭しく見下ろしているような、そんな風情だった。

 ぼくもこの猫は越してきて何度か遭遇していた。いつも大抵、この屋根か柵の所に作られた台座のような場所から、通りを見ているのだった。

 屋根さん、と夏未が言った。ぼくが怪訝な顔をしているともう一度、屋根さんだ、と言った。

 屋根さんか、なるほど。ぼくは猫の方を見て、頷いた。

 夏未は嬉しそうに頷いた。

 そうしてその猫は、以降ぼく達の間で屋根さん、或いは屋根、と呼ばれる事となった。よくよく考えるとひどい話だが、夏未はこういう事は直感的というか独創的な女の子で、その後も細いブロック塀の上で昼寝している猫を「壁さん」と名付けたり、全身灰色ののっそり歩いている猫に「グレイさん」と名付けたり、とにかく独特だった。


 結局その日夏未は、ぼくの部屋で夜遅くまで過ごした。ぼく達が使っているビデオカメラやマイク、小道具のピストルなどを興味深げに見ながら、面白い、面白いと笑っていた。

 夏未もぼくも安い発泡酒を飲みながら、ぐだぐだととりとめない話をいつまでも続けた。その中で、夏未が普段は吹奏楽をやっている事や、就活しているのは観光業界である事が分かった。

 エアコンの調子も悪かったし、室内が熱気をはらんだ気がして、ぼくは窓を開けた。

 すっと風が通った。

 夏未が気持ちよさそうに目を閉じた。ぼくはその横顔を暫く見ていた。

 私、七月六日生まれなんです。

 目を閉じたまま、夏未が言った。

 七夕に一日早い、六日。

 それがどういう意味なのか、ぼくには分からなかった。もうすぐだね、ぐらいの事は言ったかもしれない。

 その一瞬をしおにお開きという感じになって、夏未は帰ります、と立ち上がった。何か曰く言い難い感情がぼくの中にはあったけれど、うん、送っていくよ、と間抜けな返事をして立ち上がった。


 駅へと向かう道のこの辺りは人気もなく、街灯が無ければ真っ暗なほど闇に包まれる。若い女の子をこんな時間まで引き止めてしまった事にぼくは少し大人気なさを感じ、口数も少なくなった。

 夏には未だ早いって、母が名づけたみたいです。

 夏未は言った。それは彼女自身の名前の事だった。もう、母はいないけれど。

 それ以上何かを訊く事はできなかった。訊いてもいいのかもしれなかったけれど、ぼくは曖昧に頷いて、視線を泳がせた。

 あ、屋根さん。

 ぼくと夏未、ほぼ同時にそう言っていた。屋根さんがぼく達を見送るかのように、往きの時と同じように、箱座りのままぼく達を見ていた。

 よう。

 ぼくがとぼけてそう言うと、夏未も真似をして、よう、と屋根さんに声をかけた。

 屋根さんはぷいっと横を向いてしまった。ぼく達は何となく、顔を見合わせて笑った。


 その夜の後、夏未は何日かアルバイトに来なかった。就活で忙しくなるとは聞いていたから、不思議には思わなかった。上からも下からも怒られながら、何とか仕事をこなした。

 誕生日の七月六日も、夏未は姿を見せなかった。誕生日を聞いておいてお祝いのひとつもしないのはいかんと、露店で安いペンダントを買っておいたけれど、渡せず終いだった。

絶望的にセンスが無いから、渡さない方が良いようなものだったけれど、露店のお姉さんは、それ、ちょっといいもんなのよ、と言っていた。縁結びになるの。


 七夕の夜、ぼくは自主製作映画の制作担当の友達と男二人で飲みに出かけた。企画会議という名目でぼく達は好きな映画のシーンについて議論をし、いい具合に出来上がった。

 駅で制作担当と別れ(その日は珍しく部屋に寄らずに彼は帰って行った)、ぼくは一人、部屋への帰り道を歩いていた。

 ふらふらと、俗に云う千鳥足という感じで歩いている時、にゃあ、と声がした。

 屋根さんが、珍しく道路に降りてきていた。

 ぼくが屋根さんに呼び止められたのはそれが初めてだと思う。よう、とぼくは声をかけた。にゃあ、ともう一度鳴くと、屋根さんはそれきりぼくから興味を失ったのか、夜の闇の中にひたひたと歩いて行ってしまった。

 ぼくは何となくそれまでの昂揚した気持ちを持て余し、とぼとぼと部屋に戻った。


 酔いを醒まそうとシャワーを浴びていると何か物音がする気がして慌ててバスルームから出た。リビングの小さな机の上で、携帯電話がバイブレーションで震えていた。

 電話の主は夏未だった。ぼくは急いで二つ折りの携帯電話を開き、通話ボタンを押した。

 ××さん。××さん。

 しゃくりあげるような声が聞こえた。夏未は泣いているのだった。どうしたの、大丈夫。

 そんな間抜けな事しか言えなかった。大丈夫じゃないから電話をしてきているのだ。

 逢いたいよ。逢いたいよ。行ってもいい?

 夏未はそう言うけれど、もうすぐ日付も変わろうかという時間だった。ぼくは迷った。けれどそれは一瞬の事で、その刹那、ぼくはこう応えていた。

 おいで。駅まで迎えに行く。


 夏未はターミナル駅から電話をしてきていたから、とりあえず電車に乗れと言い、ぼくは駅までの道を走った。何か恐ろしく青臭い事をやっているような気分に囚われながら、それでも走らずにはおられなかった。

 屋根さんの家を通り過ぎる時、ちらと屋根の上を見たが留守のようだった。夜回りの時間なのだろう。

 高校時代を除いて、あんなに一生懸命走った事は無いのではないかと思う位、ぼくは懸命に駆けた。夏未よりも先についていなければいけないような、そんな心持ちだった。


 改札階への階段を転びそうになりながら駆け降りると、夏未の姿が見えた。切符売場の横で、まるで迷子になった子どもの様な泣きはらした顔をして、ぽつんと所在無げに立っていた。ジーンズにスニーカーではなく、上品な白いワンピースを着ていて、そこだけスポットライトが当たっているようにぼくには見えた。

 目が合った。

 夏未はぼくに駆け寄り、首にぶら下がるように抱きついてきた。バランスを崩さないように踏ん張るのが精いっぱいだった。

 ××さん、××さん。

 ぼくは何も言わず、いや言う事ができず、夏未の背中をぽん、ぽんと、やはり子どもをあやすように叩いた。

 夏未の涙腺がそれで結界した。

 涙を乱暴に拭う夏未の右の薬指に、小さなダイヤのついたセンスの良い指輪があるのに、ぼくは気づいた。


 帰宅する途中も屋根さんには会わなかった。というか、屋根さんの事まで考えている余裕は無かった。ぼくは夏未の涙と、綺麗な白いワンピースと、薬指の指輪のことをぐるぐると考えていた。そしてあのペンダントはやはり買うんじゃなかったと後悔した。部屋に着くまで、夏未は何も言わなかった。


 事情はこうだった。

 夏未には十代の中頃から付き合っている男性がいた。吹奏楽を通じて知り合った仲で、ゆくゆくは結婚してもいいとも思っていた。夏未は早く家を出たかった。幼い夏未を置いて出て行った母親の面影も、乱暴する癖に病気がちで面倒を見なくてはいけない父親も、そんな家を捨てて行きたかった。だからその男性は夏未にはたった一つの光明だった。

 十九の頃、夏未は妊娠した。男性は既に学生ではなく社会人だったけれど、その現実を受け止められるほどの大人ではなかった。

 そして夏未は、戻れなくなる前に堕胎した。

 その頃から二人の仲はぎくしゃくし始めた。逢えば喧嘩をするような状態が暫く続いたけれど、二人は別れなかった。少なくとも夏未にその気は無かった。別れる事に、夏未は恐怖を感じていた。

 ぼくのサブとして配属されて来たのは、その頃だった。思い起こしても、夏未にそんな翳りは見当たらなかった。よく笑う、栗鼠のような可愛い女の子という印象しかぼくには無かった。女の子はきっと、男のように単純ではなくもっと多面体な生き物なのだろう。


 その日、久々に男性に逢う事になり、夏未は二十歳の記念に彼に貰った指輪をつけて出かけた。白いワンピースを着て、普段あまり履かないサンダルを履いて。

 待っていた彼が切り出したのはけれど、別れの言葉だった。もう逢えない。逢わない方がいいと思うんだ。

 そしてその後、泣きじゃくりながら、どこをどう歩いて電車に乗ったのか分からないまま気がつくとあのターミナル駅にいた夏未は、ぼくに電話をかけて寄こしたのだった。


 シングルのぼくのベッドで膝を抱えたまま、夏未はそこまで話した。真夜中をだいぶ過ぎていた。エアコンの調子は相変わらず悪く、重い空気をはらってくれそうになかったからぼくは立ち上がり、窓を開けた。

 夜風がすっと通り抜けた。振り返ったぼくの目の前に、夏未の顔があった。やはり栗鼠に似ている、とぼくは思った。

 逢いたかったの。××さんに逢いたかった。

 夏未はそう言うとぼくに口づけてきて、ぼくは妙な衝動に身体全体を掻き毟られながら夏未とベッドに倒れ込んだ。ぼく達はまるで身体をぶつけ合うように愛しあった。少女のように見えて、夏未は大人だった。夏未の汗がぼくの汗と混じり合って、シーツを濡らした。窓からの風がぼく達の肌を冷やした。


 夏未にシャワーを浴びに行かせている間、ぼくは動物園の白熊のように部屋の中をうろうろと歩き回っていた。夏未の白いワンピースにつけてしまった皺を気にしたり、新品のバスタオルを用意したりした。

 やる事がなくなりベッドに腰を下ろして露店で買ったあのペンダントを眺めた。

 こんな縁結びがあるもんか。


 シャワーを浴びた夏未はさっぱりとした表情で、ぼくが知っている夏未に戻ったようだった。急に恥ずかしさが込み上げてきたのか、顔を赤らめて、長い手足を窮屈そうに窄めながらワンピースを着た。

 似合ってる。

 ぼくが言うと余計に顔が赤くなった。

 ありがとう、××さん。

 そう言うとぼくの首にまたしがみついて口づけをした。夏未はいつも、突然だった。


 早朝の住宅街はまだ皆眠っているみたいに静かだった。帰るという夏未を引き止めておくには、ぼくはまだ混乱していて、だから二人、駅へと歩いた。

 あ、と夏未が前方を見て声をあげた。

 屋根さんがぼく達の方を見て、路上で立ち止まっていた。きょとんとしたような小さな顔が、ぼくと夏未を訝しげに見ている。早朝の巡回の邪魔をしたのはぼく達だった。

 珍しく、近づいても屋根さんは逃げなかった。夏未はしゃがみ込んで、屋根さんの首の辺りを揉んだ。にゃう、と屋根さんは声をあげたけれど、気持ちいいのかそのまま目を閉じた。夏未が嬉しそうに、ぼくを見上げた。屋根さんも珍しそうにぼくを見ていた。


 希望していた観光業界の、けれども志望していたのよりは小規模な会社で夏未は内定を貰い、研修やガイダンスの為にアルバイトに来られなくなった。毎年の盛夏から秋口のこの時期、ぼくはいつも、自分が皆に追い越されていく気分になったものだ。

 屋根さんとはあれ以来、挨拶を交わす仲になれた。と言っても、ぼくが一方的に声をかけるだけだったけれど。


 思いついたように夏未から夜更けに電話があった。随分と遅い時間だった。ぼくは旧い邦画を見ていて、半ば寝そうになっていたところだった。

 ごめん、寝てた?

 かろうじて寝てない、とぼくは答えた。

 夏未は楽しそうに笑った。××さんらしい。

 様子がおかしいと思ったぼくは身構えた。

 彼が逢いに来たの。元に戻したいって。

 電話の向こうで、夏未は泣き始めた。

 何を戻すの。どうやって戻すのって、あたし言ったの。どうして、どうして××さんじゃないんだろうって、あたしすごく哀しくて。

 暫くは嗚咽しか聞こえなかった。

 ごめんなさい。ごめんなさい、××さん。

逢いたいよ。逢いたい。

 そのままぷっつり、電話は切れた。


 冬が来てまた春が来て、アルバイトのメンバーも随分と入れ替わった。その間、夏未から連絡は無かった。ぼくは相変わらず駄目なリーダーだった。少し手当があがっただけだ。

 夏が来た頃、アルバイト先に、見知らぬメールアドレスからメールが届いた。夏未だった。けれどそれは企業ドメインでは無かった。

 メールにはいま沖縄に居ます、と書かれていた。病気には、ここですごす方がよいと、せんせいに言われました。

 改行も覚束ない、子どもが気まぐれに書いたようなメールだった。

 それきり夏未からメールは無かった。


 この十年で変わった事と言えば、ぼくが会社員になった事だ。部屋には今でもあの制作進行氏はやってくるけれど、かつてのざわざわした感じは無くなった。

 屋根さんの訃報を聞いて真っ先に思ったのは夏未の事だった。あの夏ぼくはいったい、どのような答えを出せばよかったのだろう。

 今でも分からない。       (終)

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