1:ドンドンドドンドンカッドンドンドン・・・
ドンドンドドンドンカッドンドンドン・・・
彼は悩んでいた。
自称コミュ障であり自分に自信を持てない性格を自負する彼は、やっとの事で手に入れた企業の内々定と言う社会進出のチケットを掲げて誇らしげにするわけでもなく、人生の転機を乗り越えた達成感でもなく、隣の部屋から延々と聞こえてくる妙にリズミカルな音に悩まされていた。
彼の知っているゲームセンターに置いてあるゲームのような洗練されたリズムで刻まれるそれは、彼の家にいる時間帯全てで聞こえ、寝る時は勿論トイレだろうとPCを使っていようと何をしていようとお構いなしに聞こえてくる。
内々定を勝ち取り就職活動も終わりが見えてきた当たりから聞こえてきたこの音は、始めは小さく、段々と日を増す毎に大きくなっていき、遂には彼の好きな音楽のリズムだとはっきりと判断出来るほどにまでになった。
「ああ、眠れない処じゃない。頭おかしくなる」
通称壁ドンなどと言われている行為を大きく逸脱したような音に対し、精神的に限界がやってきそうだと感じた彼は遂に行動に移す。
「だぁぁ!もう我慢できない。文句言ってやる」
かれこれ一か月以上になるこの現象にいい加減終止符を打たんが為精神的に追い込まれた彼が、立ち上がると、アパートのドアを勢い任せに開け放ち外へと飛び出した。
勢いよく飛び出しすぎて目の前の手すりにダイビングアタックを仕掛けるが、包容力があると定評の手すりには何の問題もなかったらしく確りと彼を受け止め難を逃れる。
その勢いのまま隣の部屋の玄関を壁ドンに負けないような勢いで叩くとドアノブをガチャガチャを回しまくる。
「おい、お前いい加減にしろよ、まじうっせーよ。俺がどんだけ我慢してると・・・あれ?」
ドンドンガチャガチャと続けながら文句を言ってやろうと口を開いたが、回しているドアノブから違和感を感じ一旦停止する。
一拍置いて深呼吸をし、ドアノブをゆっくりと回すと、鍵がかかっていなかったようで静かに扉が開くのを確認する。
この時既に壁ドンと呼ばれる音が聞こえてこない事に彼は気が付いていなかった。
◇---◇
少し金属特有の軋みを立てながらゆっくりとドアが開く。
中はカーテンが閉められているようで薄暗いが、ドアから差し込む光で様子はある程度伺える。
「お隣さん、来るの遅いよ?」
光に照らされて映し出されたのはテーブルの上に立つ一匹の小動物のようだった。
その小動物は一度伸びをすると玄関の方へと顔を向ける。
黒い毛並みに短い耳、暗所で光る眼に長い尻尾。
そして背中に生える小さな皮翼は間違いなく猫そのもの・・・だったと思う。
もっとも猫に翼は生えないが。
「あ、えっとぉ」
全く持って思いつきさえしなかった展開に彼は目を丸くして口をパクパクとさせる。
それでも思考を巡らせようと必死になり目を泳がせ、彼なりに何かを掴もうとする。
「まぁええ、よく来たね。煩くしたのは悪かった、素質ある者にしか聞こえない様にちゃんと配慮したから許してな?」
その声に大時化の荒波の中必死にクロールしていた目の焦点は、その猫らしき物体に吸い込まれていく。
猫かどうかも疑わしい生き物が、更に言葉を発するのだ。
当の猫型の小動物はそんな事どうでも良いとばかりに言葉を続ける。
「名前は貞で間違いないな、この前の面接で内々定貰ったでしょ?あれ素質検査兼ねてるから。そして今回の素質試験も見事合格。あの音は適合者じゃないと聞こえないようになってるからね。まぁ、そんな所に突っ立ってないで中に入りなよ、お茶位出すよ」
正に招き猫のポーズで手招きされ、ついつい足を進め部屋の中に入ってしまう。
そしてテーブルに座るよう促されると、その猫の様な者は前足でちょこんとテーブルを叩く。
すると彼の目の前に氷で満たされたコップに注がれた茶色い飲み物が出て来る。
麦茶で良かったか?と聞いてくるそれに対し相槌だけを返し、取り敢えず一口と含もうとしてそこで固まってしまう。
彼の常識では測れない事態の連続で急停止していた思考回路が息を吹き返した瞬間だった。
それはグルグルとこれまでの遅れを取り戻さんばかりに勢いよく回転を始め、数々の疑問を脳内に並べだす。
(何だよこの状況、羽生えた喋る猫?突然出て来る飲み物?どう言う事だよ??)
その様子を見ていた猫っぽい生物は首を傾げる。
「あら?麦茶嫌いだった?ウーロン茶ならあったと思うけど、ハト麦とかプーアルとかは無いからオレンジジュースとかにする?」
的外れな気遣いを受けた彼は、お構いなくと目線だけ投げかけて麦茶を飲む。
ひんやり冷たくて気持ちのいい味がした。
「まぁまずは突然の事で驚いただろう、聞きたい事もあるのは判る。
でも先に自己紹介からさせて貰おうか。」
口元で笑みを作ると咳ばらいを一つ、その後真っ直ぐに彼を見据えて言葉を紡ぐ。
「私の名前はアリナ、見ての通りじゃない、本来は人だったけどちょっとした事故でな。その辺は気になるだろうけど出来るだけ気にしないで貰えたら助かる。それと猫じゃなくてケットシーって言う魔法実験動物だよ。普段は羽隠して猫で通してるけどね」
彼の理解度を確かめる様に羽をパタパタと羽ばたかせテーブルからほんの少し浮いて見せる。
「一応こんな芸当も出来る位の羽だけど、これも気にしなくていいよ。
それより大事なのはここから先。
第5289無量大数3439不可思議9452那由他1271阿僧祇3611恒河沙2219極5644載9008正1112澗8798溝5544穣2229抒9126垓6523京8111兆9001億2488万1090番書籍世界の担当者だった。
そしてこれから新人指導として君の担当になった者だ」
急にめまいを通り越して天文学でも使わないような単位の数字を並べだす。
「まぁ数字はどうでも良い、そう言う名前って思ったらいい。普段は担当者の名前で管理するし。こう言うのもあるって説明だけだから。それより気になってる事あるでしょ?」
数字の暴力とも言える数を思いっ切り叩きつけられ呆けていた彼に、まるで餌を与えんとばかりに疑問符を投げかける。
思わず彼が頷くのも仕方がないかもしれない。
「まず茶出したのも、そもそもこんな姿になったのも、序に君が入ってきた扉を閉めたのも全部一つの力によるものだ。
科学とはまた違った観点から世界に干渉して振るうもの。科学が人間の英知と物質的法則により成り立つ力だとすると、それとは真逆に位置するだろう精神により世界そのものに干渉する力、まさに魔の法則、所謂魔法って奴だよ」
言葉を発しながらテーブルの中央を前足で優しく叩くと、今度はお菓子が出て来る。
「こんな風にね?これはお菓子を作った訳じゃなくてここにあった空気と戸棚の中にあったお菓子を入れ替えてるだけなんだ。
物理的にお菓子を持ってくるのに立ち上がり、戸棚を開け、お菓子を手で持ち、戸棚を閉め、テーブルに置く。
この動作を精神の力を使い、世界の力に働きかけ、魔法で置き換えたって事だ。
口頭で説明されても全く分からないってその気持ちも判る、私がそうだったから。
でもね、これ、君も出来るんだ、やってみたくない?」
言い終わると共に締め切ったはずの部屋にそよ風が流れる。
科学では考えられない発生現象である故に、この風も魔法によるものなのだろう。
「え?魔法が使える?俺に??
そりゃ、使えるなら使いたいかなぁ」
アリナは内心その言葉にニヤリと笑みを浮かべる。
(よっしゃぁ!新人ゲットでボーナスや!!頑張れば楽できるようになるで!!!)
「さっき言った素質ってのがそれなんだよ。
既に君は無意識に魔法を使ってたんだ、聞こえない筈の音を無意識にね。
しかもあの剣幕でドアを叩くほど煩く聞こえたって事は、それだけ大きな素質を秘めていたって事だ、期待して良いよ」
ああ、と思わず納得してしまいそうになる彼はうんうんと強く頷く。
彼にとってあの音は、それだけとてもつらく苦しい物であったのだ。