1章–6 軋み
オペレーションルーム、応接室。少年が一人減ってから一時間ほど経った部屋で、大人の男が二人、向かい合って座っていた。
一人はどことなく落ち着きがなく、時折立ち上がってはうろうろしている。もう一人は、そんな男を面白そうに観察しながら、口に咥えた火のついていない葉巻を噛んだり、舌で転がしたりしていた。
部屋をうろついていた男、ボゥが、若干乱暴にソファに座りなおした。ギシィ、と軽い悲鳴をあげながら、ソファはその大男を支える。
「な、なぁ。大丈夫かな。レイン、何事もなく飛べてるよな?や、やっぱり付いて行った方が……」
「バカ言え。お前に付いていかせたら死地まっしぐらだ。オペレーターから何も来てねえってことは今のところ良好なんだろうよ」
「う、うむ……」
そういうと再びボゥは立ち上がり、忙しなく部屋をうろつき始めた。ライネスはもう何度も繰り返したやりとりを思い浮かべ、放任なんだか過保護なんだかなぁ、と葉巻を舐めながらボゥを眺めていた。
突然、応接室に向けてのノックが三つ。ボゥの肩が跳ねた。ライネスはライネスで、目にも留まらぬ速さで葉巻をもともと入れていた缶にしまう。
そしてそのまま、許可を待たずに扉が押し開かれる。大きく開かずに、隙間から滑り込むように一人の女性が入室した。
その女性は、まさしく凛々しい、という言葉が似合う存在だった。黒いスーツで現れた女性は、背筋をピンと伸ばし、自信に満ち溢れた佇まいだ。
さらに、燃えるような赤い髪の毛をサイドポニーにして後ろに流しており、藍色の瞳と、同じような色の髪留めのワンポイントが、調和を生み出していた。
だが、その女性は非常に目つきが悪かった。瞳はぎゅっと細められ、メイクでも誤魔化しきれない隈が、目元にうっすらと浮かんでいる。さらに彫りの深さから、目元にさらに影が生まれているため、余計に威圧的な印象を生み出している。
結果的に、仕事のできる人物というより、ヒットマンと言われたほうが納得できそうな出で立ちになってしまっていた。
そんな女性は、部屋にいた男二人がこちらを見たのを確認してから、軽く会釈した。
「お待たせいたしました。オペレーター主任のリルル・ウィンです。今回、レイン・スパインタークのことでお話を――」
言い終わらないうちにリルルは突然言葉を切った。匂いを嗅ぐような仕草を見せたリルルに対し、ボゥは訝しげな表情を浮かべたが、ライネスはゆっくりと、自然に見えるように気を使いながら尻ポケットに手を入れ――いつの間にか回り込んでいたリルルに腕を掴まれる。
「そのポケットの中に入れたものを出しなさい」
「いやあケツ掻いてただけだぜ?な?何もねえって」
「じゃあどうしてどんどん腕に力がこもってるのかしら?」
リルルのきれいな一本の眉の線が、危険な角度につり上がっていく。あまりの迫力に、ライネスが気圧された瞬間、ライネスはポケットに入れようとしていた缶をリルルに奪われる。
「なあにこれ?」
「……飴を入れてるだけだ」
無駄な抵抗と知りながらも、ライネスはしらを切る。冷や汗が流れ、視線もあちらこちらに泳いでいる哀れな姿を見て、リルルはため息をつき、缶をライネスの前に置いた。
ぱっとライネスの表情が明るくなり、次の瞬間、非情にも缶の蓋が開けられた。中に入っていたのは当然、大量の葉巻だ。リルルは満面の笑みで問いかける。
「お父さん?どこに!何が!!入ってるって?」
「缶の中に葉巻が入っておりますリルル主任」
「そうですね。ではこの缶は一体誰の所有物でしょうか?」
「わたくしのものでありますリルル主任」
「なるほどなるほど。では貴方は先ほどこの缶に何が入っているとおっしゃいましたか?」
「…飴が入っていると申し上げましたリルル主任」
「……言い残すことは?」
「ごめんなさい!許してください!」
ライネスが地に頭をつけて謝罪する。
「はぁ……もう。お医者様にきちんと言ってよね?」
リルルは呆れたように言うと、缶を自分の胸ポケットへとしまい込んだ。それから、ぽかんとした表情のボゥに慌てて頭を下げる。
「お見苦しいところをお見せしました」
しかしボゥはそれに取り合わず、大口を開けて笑った。
「あっはっはっはっは!!!!お、おやっさん……がっ……!!いひぃひひひひひひひひ!!」
「く、クソ……屈辱だ……」
脳天まで赤くなって正座しているライネスを見て、さらにボゥの笑いがヒートアップする。だが、その様子を可笑しそうに見守っていたリルルが小さく咳払いすると、徐々に落ち着きを取り戻していった。
「や、すまん。し、しかしいいものを見……ふふっ」
「ここであったことは忘れろ。いいな?」
「酒の席でうっかり口が滑るかもしれねえなあ?」
「このやろ……!」
取っ組み合いに発展しかけた二人を止めたのはまたしても咳払いだった。だが、今度の咳払いは先ほどのものとは違い、明確な敵意が含まれており、男たちはいそいそと席に座った。
先ほどとは打って変わって真面目な顔のボゥが口を開く。
「それで、話とは?レインがどうとかおっしゃっていましたが」
「堅苦しいのは無しでいきましょう、ボゥさん。彼の……レインくんの能力について、お話ししておくべきことがあります」
「能力……?何か漏れでもあったか?」
ライネスの目が鋭くなる。対してリルルは、首を横に振った。
「いいえ。不手際は何もないわ。これを見てくれればわかると思う」
そういうとリルルはファイルを二人の前へ滑らせる。迷わずにボゥが手を伸ばした。
「そこにはレインくんの基礎的な測定データがあるのだけど、三枚目、一番新しいものを他のと並べて見てくださる?」
ボゥが言われた通りに用紙を展開すると、ボゥとライネスは揃って眉を顰めた。
「なんだぁ……?こいつは……」
「感情の振れ幅が……異様、というより、異常だな。振り切ってるじゃないか。しかもどちらか一方ならまだわかるが……」
二人の視線の先は一つの折れ線のグラフデータ。前の二枚は水面の如く直線を保っているそれが、三枚目では前の二枚は嘘ですよと言わんばかりに激しい動きを示している。上下に移動していることが見て取れるが、頂点が印刷されたグラフの中に収まっておらず、異様さが際立っていた。
「今二人が口にした通り、異様なのよ。しかも困ったことに、これはCOMPASSに搭乗してからずっと。今までのシミュレーターとかでは一切なかった現象で……つまり、まず尋ねたいのが」
「前回のシミュレーションから今回の試験までに何かあったかってことか」
リルルが頷くと、ボゥはおもむろに腕を組み、目を閉じる。それから、ゆっくりと、しかしはっきりとかぶりを振った。
「いつも通りに過ごしていたはずだ。心象に変化をきたす様な何かが起こったようには考えられない」
その様子を伺っていたライネスが遠慮がちに口を開く。
「しかしなあ……子供というのは恐ろしく早く成長する。お前が気づいていないだけで、隠し事をしているやもしれんぞ?」
そう言って、ライネスの視線は隣へ動き、力なく落ちる。わずかに硬い雰囲気がリルルから漏れ出たが、ボゥはにこやかに笑って答えた。
「いいや、無いな。あいつは隠し事が苦手なんだ。俺に似てな」
リルルとライネスは呆れたように––少しだけ羨ましげに――顔を見合わせると、笑って頷いた。
「わかった、わかった。信じるよ……ったく。すっかり親バカだなお前」
「あんな上出来な息子がいりゃ誰だってこうなるさ。すごいんだぞ?この間もな……」
「はいはいその話はまた今度な?それと先に言っておくが、レインがお前の好きな味付けを当てた話なら三十回は聞いたからな?」
む……と言葉に詰まるとボゥは黙った。ライネスが図星かよ、と呆れた様子で椅子に深く腰掛け直すと、ひと時の静寂が訪れる。奇妙な和やかさが残り、緊張が薄れていっていた。
三人は互いに目配せすると、二人がその静寂を破るように指示を出した。指示を受けた一人は、唇を湿らせると言葉を発した。
「しかしそうなると、困りましたね。こうなると彼の異常の原因が、COMPASSに乗せたこととしか考えられなくなってしまったわ」
「そんなことあるのか?」
尋ねながら、ボゥも水を口に含む。リルルは頷くと、言葉を続けた。
「ええ、あります。ごく稀ではあるのですが、COMPASSとのリンク率が高すぎると、レインくんのように大きく振れるという事象は確認されています。ただ、上か下か、どちらか一方に極端に振れるのが常だったのですが……」
「影響はどうなる?身体に問題はでないのか?」
「今の所そういったことは報告されていません。第一、このグラフの場合、上に振れた時は《発露》の受信率が高すぎる、下に振れた時は受信率が低すぎることを表す数値ですから、そもそも両方に振れるという前例が……。……無い、訳ではないのですが、母体数が少なくて……」
「歯切れが悪いな。ほとんど前例が無いから判断しかねる、ということだろう?それでも、参考程度にはなるだろうから、前例が起きた時の実態を聞きたいんだが?」
リルルはほんの少し迷うような素振りを見せたが、すぐに鋭い眼差しに戻る。
「前回、似たような症状を起こしたパイロットは、《発露》の受信率が高い時と低い時の影響を同時に、なおかつ極端に受け、発狂しました」
「……そうか」
冷静な声と表情と共にボゥは頷くが、先ほどよりうつむき加減になったために彼の目元に影が落ちる。リルルには、彼がひどく落胆したように見えた。
動揺で震えそうになる声を悟られないように抑えながら、リルルも頷く。
「未だ解決策を模索中というところです。ですから、非常に申し上げにくいのですが、彼にはテストケース……隠さずに言いましょうか。被験体になっていただく可能性も捨てきれていない、というのがこちらの判断です」
「なるほど、それで原因に探りを入れたかったわけか」
「申し訳ありません」
頭を下げるリルルに、ボゥは苦笑した。
「気にせんでくれ。俺だってそうするだろう。君は当たり前のことをしたに過ぎないだろ?」
「そうだ。偉いさんがそうペコペコするもんじゃないぜ?哀の人間じゃあるまいし」
軽い笑い声があがる。しかしそれは決して明るいものではなく、すぐに煙のようにかき消えてしまった。
「……すまない。少し、外の風に当たってくる」
あからさまな言い訳をして、ボゥが立ち上がる。その唇は一文字に引き結ばれており、座っていた二人は彼を止めることはできなかった。
しばらくの沈黙の後、ライネスが懐から飴を取り出した。
「糖尿にも気をつけなさいってお医者様に言われてたでしょ」
すかさず横から声が飛ぶ。多分に含まれた棘の中に、ほんのわずかな寂寥が含まれているのを感じ取ったライネスはため息をついた。
「俺の分じゃねえ。ほれ」
「……別にいらない」
「つべこべ言わず受け取れ。捨てるんでもなんでもいいさ」
リルルはこれ以上問答するのが面倒になったのか、何も言わず、無造作にそれを受け取った。
「兆候は前からあったんだろう?」
背もたれに全体重を預け、ライネスが問いかける。リルルの頭がわずかに動く。頷いたようだ。
「COMPASSに乗せる前から担当者から話がある、なんて言われりゃすぐにバレるぜ?次はもっと上手くやらんとだな。ただまあ……その、なんだ。仕方ねえさ。表面に異常性が出てこねえ以上、経過観察しか手は無い」
「コーディには普通に待っててもらうように伝えて、って言ったつもりだったんだけどなぁ。……失望、されちゃったかな」
「あいつに限ってそれはない。私情で誰かを恨んだりするようなやつじゃねえさ」
ライネスは、ボゥが引き起こしたり、巻き込まれた数々の事件や戦いの記憶に想いを馳せる。ボゥはどれだけ敵対しようとも、決して相手を見限るような男ではなかった。
だからこそ英雄の器であり、今も皆に慕われている。レインを拾ってきた時など、相手の女性が誰なのかを巡り、ちょっとした騒動にもなった。
その時にも浅ましく醜い人間たちを見てきたはずなのに、彼はいつものように笑って許していた。
だからまあ、今回も大丈夫だろう。
そんな軽い気持ちで言った言葉だったが、効果は劇的だった。
「ほ、ほんと?ほんとにほんと?」
「お、おう……たぶんな……」
こちらを見つめる、潤んだ瞳。勢いに圧倒されたライネスは、返答するのがやっとだった。
よかったぁー、と、座っているのに、そこから更にへたり込みそうな声を漏らしたリルルを見て、ライネスは内心眉をひそめていた。
(あとであいつに聞きたいことがたっぷり出来たな……)
しかし娘が元気になったことを喜ばないわけにはいかない。ライネスは自分の頰が緩むのを感じながら、用意された水を口に含んだ。
その時、応接室のドアが再びノックされた。だが今回は、執務で行われるような形式的なものではなく、力いっぱいにドアを殴りつけているようなものだった。リルルとライネスの顔が引き締まる。
「ここにいるわ!どうしたの!?」
その言葉を待っていたらしい。凄まじい勢いでドアが開かれると、汗を額に浮かべたままの女性オペレーターが飛び込んできた。
「しゅ、主任!!所長…!」
「落ち着け。どうした?」
女性オペレーターは荒れる呼吸を必死に抑えながら、二人の顔を見る。
「こ、コーディがどこにいるかご存じありませんか!?」
「あん?あいつなら今レインの坊主の試験オペレーション中だろ?」
「いないんです!!」
「何ィ!?」