序章 まだ知らない
楽の国と哀の国の国境付近。天を突くように立つ山脈の麓。一つの影が水を跳ね飛ばしていた。やがて木陰に入ったその影は羽織った外套の裾を握りしめた。
豪雨の中で、雨粒よりも大きな水滴が滴り落ちる。それは地面に着くまでに横から縦から別の雨粒に砕かれて、見分けがつかなくなっていく。
いくつかの波紋が泥に浮かぶ頃には、再び羽織った外套に水が染み込んできていた。男は煩わしそうに頬に着いた水滴を拭い、それから左胸を一つ叩く。叩いた先で紙と服がぶつかり、クシャリと音を立てた。
ふと、男が眉根を寄せた。ゆっくり、ゆっくり、探るように首を回した男は、ある角度でその動きを止め――振り向いた。
そこには物言わぬ岩があった。男は訝しむ様に周囲を伺う。もうもうと、ミルクが湧き踊るような白の世界に目を凝らす。そしてその岩に、奇妙なものを認めた。
それはゆりかご。打ち捨てられたようにも、どこかから転がってきたようにも見える。薄汚れていて、生命の欠片も感じられない。だが、男は操られるようにそれに近づき、そして拾い上げる。
――目を、疑った。
赤子だ。
しかし、それはピクリとも動かない。すでに生命を手放してしまったのだろうか。男はしばらくゆりかごを揺らしたり、赤子に触れたりしていたが、程なく目を閉じ、天に祈りを捧げた。
男は興味を無くしたようにゆりかごを先ほどまで自分がいた木陰に置く。そのまま立ち上がろうとして、動きを止めた。
外套をつかむ小さな手。赤子は未だ泣き声を上げない。だがその手はあまりにも力強く、赤子に視線を奪われた男は、やがて、熊のような顔から白い歯をむき出しにする。
「そうか、そうか!お前さんはそれでも生きたいか!」
豪快な笑い声が空に吸い込まれていく。いつの間にか暗雲は途切れ、太陽が様子を伺うように顔をのぞかせていた。
― ―
浮遊感。
「んがっ」
直後、ドゴンと硬いもの同士がぶつかり合った音が響いた。少し遅れて呻き声。ベッドの上に残された下半身がうごめき、やがて毛布とともに床に滑り落ちる。
そこまで来ても少年は起き上がらない。いや、起き上がろうと肩に目いっぱい力を入れているが、腰ばかりが天を目指し、一向に上半身が付いていかない。
しばらくして腰すらもぺたりと床につけられた。うつぶせのまま、今度は腕のみが重たげに動き、慣れた手つきでベッド脇の置き時計を握りしめる。
黒髪が揺れ動き、まだ幼さが残る顔が前髪の隙間から現れた。少年はぼんやりした目で時刻を確認し、くぁ、と欠伸を漏らす。
寝返りを打ち、今度は仰向けになると、足を振り上げ、全身の筋肉をバネに飛び起きた。パサリと肩からほどけ、床に落ちた毛布をそのままに、少年は廊下に出る。
廊下の奥にある洗面台に向かう途中、彼は横合いにあった扉を三回強めにノックして、そのまま見向きもせずに歩いて行く。
少年は洗面台の大きめの丸鏡の前に立つと、その鏡の下に手をかけた。力を込めて引くと、鏡の下半分の半円が扉の様に開く。丸鏡の中には収納スペースが確保されており、彼はそこの洗面器具類から歯ブラシを選び取る。
歯ブラシを蛇口から出した水で湿らせていると、後ろの戸が開き、中から熊の様な大きさの影が廊下に這い出した。のし、のし、と床を踏みしめながら歩いてくるそれに、少年は目もくれず、湿らせた歯ブラシを口に突っ込むと、先ほどの収納から、今度は少し大きめの歯ブラシを手に取る。
「おはよう……」
熊男から蚊の鳴くような声が漏れ出た。男は眉をひそめると、蛇口の水を両手で受け止め、口に運んでうがいをする。何度か繰り返した後、男は再び少年に目を向ける。
「おはよう」
今度は声に覇気が宿っていた。それを聞くと、少年は満足した様に一つ頷き、歯ブラシを差し出した。熊男はそれを受け取ると、こちらは湿らせもせずに口に突っ込んだ。
シャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカ。
歯とプラスチックの擦れる音が二つ、不思議な和音を奏でていく。ただそれも長くは続かず、少年の歯ブラシが先に置かれた。少年は歯ブラシを洗い、口を濯ぎ、顔を洗うが、そのまま動くことなく突っ立っている。熊男がちらりと小さな顔を見て、笑った。少年の目が完全に据わっている。男は空いている手を伸ばし、少年の頬を無遠慮に摘んだ。
「ほくほひへるほ(僕起きてるよ)……」
むにーっと蕩けたチーズの様に伸びた頬のまま、少年は抗議の声を上げる。
「そうかい。なら飯の支度をしてもらってもいいか?俺も終わったら洗濯物しなきゃだしよ」
「わかった」
元に戻った頬をさすりながら、小さな背中が廊下を歩いていく。
「聞き分けのいい子に育っちまって。誰に似たんだかなぁ」
まず間違いなく自分ではないな、と男は少し寂しげに笑った。
― ―
チリンチリン、と涼しげな音色が家に近づいてきたのを耳にして、少年は目玉焼きを乗せたトーストを口に運ぼうとしていた手を止めた。
「ああ、良い、俺が行く。お前さんは飯食ってな。さっきからバタバタしてたろ」
熊男がそう言うと、少年はすとんと椅子に座りなおし、よく焼けたトーストにかぶりつく。もふもふと一生懸命に食べ始めた姿を愛おしそうに見つめ、男は新聞を置いて立ち上がる。玄関のドアノブに手をかけたところで、外から声がかかった。
「ごめんくださーい。スパインタークさんはご在宅ですかー?」
「おう!今行く!」
言うが早いかドアを押し開けると、数歩下がったところに、にこやかに笑う橙色の制服の青年がいた。
「これはボゥさん!今日もいい天気ですね」
「ここんとこちょっと晴れ続きすぎな気もするがな。おかげで洗濯物が無くなっちまったよ」
「あはは、良いことじゃないですか。ところで今日、息子さんは?」
「家の中で飯食ってるよ。なんだ、用でもあったのか?」
「いえいえ、私は特には。ただ、レインさん宛てに一通届いています。年齢的にそろそろ、ですから」
「……そうか。もうそんな時期か。早いもんだ」
沈黙が降りた。だが長くはなく、すぐに口を開いたボゥの声は、先に倍する明るさだった。
「さて、ありがとうな。お仕事ご苦労さん」
「はい!ではスパインタークさんには確かにお届け致しました!私はこれで失礼しますね」
別れの挨拶に軽く手を振って答えると、ボゥは見送らずに家に入り、ドアを後ろ手で閉めた。チリンチリン、と涼しげな音色が今度は家から遠ざかって行く。
いつの間にか片付けられているテーブルに手を置いて、足をぶらつかせながらテレビ番組を眺めている少年に、ボゥは声をかける。
「レイン。お前、今年いくつになる?」
「え?」
えーっと、と少年は指折り数を数え始める。それからちょっと眉を寄せた。
「たぶん、マナスが満ちたのをじゅう……12回、見た、と思う」
「そうか。じゃあやっぱり14歳くらいか」
「どうして?12歳じゃないの?」
首を傾げた義息子に笑いかけると、ボゥは答えた。
「お前さん、俺に拾われた時の記憶があるのか?」
その言葉で得心がいった表情を浮かべたレインは、同時に首を横に振った。
「ない」
「だろ?人間、物心がつくのは2歳ぐらいだって言われてる。……理由は知らんが。まあ逆算すればそのくらいだろう」
レインはなるほどと頷く。レインの記憶では、気がついた時にはすでにこの家にいて、この髭もじゃの大男に抱き上げられていた。自分が血の繋がっていない捨て子だったということは以前から聞かされていたため、ボゥがレインの年齢にあまり明るくないのも当然と思えた。
「…なあ、俺がお前の歳を覚えてないことに、その、怒ったりはしないのか?」
レインは再び首を傾げた。言っている意味がわからない。だがどういうことか問いかける前に、ボゥが口を開いた。
「いや、何でもない。気にするな。それから、今日は役所に行こう。レイン、お前にこれが届いた」
――白い封筒。
レインは色を見て、すぐに何事か思い至った。と言うのも、この国で国民が普通に使う封筒や便箋は暖色系が主だ。赤、オレンジ、黄色とある中、この白色の封筒は一般には売られていない。使われるのは行政でのやりとり。それが一般家庭に届いた訳は――
「そっか。わかった」
「お前、ほんとにわかってんのか?死にに行くことになるかもしれないんだぞ?」
「人がいつ何処で死ぬかなんてわからないと思うけど」
「そういう話ではなくてな…」
すでに封筒を開封し、書類に目を通し始めているレインに、ボゥは苦笑する。
「やれやれ。お前はこの国に育てられたのかもだなぁ」
俯いていたレインの頭に、大きな手のひらが覆いかぶさった。そのまま優しく、しかしながら力強く、わしゃわしゃと撫でられる。
手の腹で、レインの柔らかな髪の毛が形を変えているのを感じ、養父は破顔した。
「よし、ならば出かけるとしよう!面倒な手続きは早めに済ませるほど後が楽だ!」
ガハハと笑うボゥに一つ頷くと、レインはコート掛けにぶら下げていた自分のポーチを手に取って、その中に封筒と一緒に書類をしまい込む。これで彼の準備は完了だ。
「制服じゃなくて良いの?」
普段着の入っているクローゼットを漁るボゥの背中に声をかけると、「今日は非番だから」といった内容の返事が返る。しばらくして、ワイシャツとジーンズ姿のボゥが現れると、二人は表に出た。爽やかな風が身体を撫でて抜けて行く。家の扉に鍵をかけたことを確認したボゥが隣に並ぶと、二人はそのまま歩き出した。
ふと、レインは先ほどタイミングを逃して聞きそびれた疑問を思い出す。
「ねえねえお養父さん」
「うん?どうした?」
「怒ったりする、ってたまに聞くけど、『怒ったり』って結局何なの?」
「あー……」
一陣の風が、再び駆け抜けて行く。幼子はまだ知らない。幼子は、まだ、感情を、知らない。
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