第六章 3/8
なんだか、奇妙な光景だと思った。
本棚がある。
こっちの世界に来て、本棚をほとんど見たことがなかった。サフィーの診察室で見たかもしれないが、宿でも前のアジトでもタルネ村でも、本棚というものをあまり見かけない。
サフィーからいくつか呪文の教本を借りたりしていたので、本というものが存在するのはわかっていたが、こうして多くの本を見たのは初めてだった。
図書室。図書館というほどの広さではなかったが、そこそこの広さがある。壁際を天井まで本が埋め尽くしていて、いかにも図書室といった雰囲気の場所だ。
そもそも、あっちの世界で大学生だった時にも、あまり図書館に足を踏み入れない不真面目な学生だった。今は何でもネットがある……というのは深く調べようとしない者の言いぐさだとわかっちゃいるが。
静かだ。人がいないからだが、静かだといかにも図書室という感じがする。
「日本語……だ」
奇妙な光景だと思った理由の二つ目は、その本棚に並んでいる本が日本語の本であることだった。いや、全てではない。読むことのできない謎の文字で書かれている背表紙もあるが、読めるものも多い。
「初心者向け蕎麦猪口ガイド」
「食べられる野草・食べられない野草」
「一度聞いたら忘れられない名言集」
「よくわかる! 宅地建物取引士」
……読めるけど、意味が分からんな、このラインナップ。
手にとって裏表紙を見ると、見慣れたバーコードもついていた。これ、日本の流通に乗っていた本なのか。
「面白い本でもありました?」
「ある意味な。俺のいた世界から持ってこられたのかな、ここの本は。どう考えてもこの世界で作られた本じゃないように見える」
「半々ですかね。こちらで作られたものもあると思います」
「一応聞くけど……宅建士なんて職業ないよな?」
「……たっけんし?」
「宅地建物取引士……えっと、なんか土地とか建物の取引関係の法律があって、その専門家だよ」
たぶん。全然中身わからんけど。
「聞いたことないですね……」
「まあそうだよな。これは俺のいた世界、日本にある職業だ。この世界じゃそもそも法律の専門家なんてのもいないんだろうしな」
法律自体この世界じゃ王が勝手に決めるもんらしいしな。
「そういう意味では……これから調べようとしている制約魔法を使う魔術師は、ある意味で法律の専門家と言えなくもないです」
「制約魔法か」
「私も詳しくはありませんが……ただこの魔法を開発した人が書いた本がありまして、その魔法の存在だけは知っている人は知っています」
サフィーは本棚を見て回る。
「その本、私もチラッとしか読んだことが無いんですが、この図書室、これだけ本があれば見つかるんじゃないかと思いますよ。本の収集家の間では定番ですから」
「なんてタイトルなんだ?」
「確か、異世界探訪記だったか、異世界研究だったか、そんなようなタイトルです。その筋では有名な本ですよ。……タケマサさんなら特に、興味を持たれるんじゃないでしょうか」
「どういう意味だ?」
「その作者さん、タケマサさんと同じように日本から来た方だからです」
な……なんだと?
「俺と同じようにって……この世界にその、転移か何かしてきたやつが書いたってことか」
「はい。ですからタイトルの「異世界」というのはこちらの世界のことですね」
「凄いな……そりゃ読んでみたいぞ。まさかそんな好都合なものがあるとは」
サフィーは本棚の間を縫うように歩き始めた。俺も背表紙を眺めていく。ある程度ジャンルごとに整理されているように見える。十進分類法……に従っているのかは知らないが。
「あ、ありました! やっぱり!」
サフィーの弾むような声。
駆け寄ると、本棚から一冊抜き出して俺に見せた。
「……」
タイトルを見て俺は思わず無言になった。
「「まるわかり! 異世界と制約魔法と私 ~これ一冊おさえておけば自由研究はバッチリ~」……なんてキャッチーなタイトルなんだ」
思わず「おかしいだろこれ」という目でサフィーを見ると、珍しくサフィーはわくわくしているようだ。
「少し聞いてたタイトルと違いますが、きっとこれで間違いないです。読みましょう。タケマサさんのように異世界から来られた方がお書きになったものですから、きっと興味深い筈です」
「まあ、めちゃくちゃ興味深いが……」
俺は本を開いた。
「どれどれ……」
『この不思議な世界にやってきて既に三年が経過した。そろそろ元の世界に戻ることは諦め、私なりにこの世界のことを研究したことを記録に残しておこうと思う』
俺はドキリとした。元の世界に戻ろうとしていたのか、この作者は。そして、戻れなかった、ということか。
『私は、聖宝紅蓮皇。こちらの世界では珍しい響きだろうが日本ではいたって平凡な名前だ』
いきなり雲行きがものすごく怪しくなってきた。一気にこの本の信憑性が下がったのを感じる。
「へえ……ホーリー……何とかさんというのは日本ではよくある名前なんですか?」
「ん、まあ、そうだな」
横からサフィーが尋ねたので俺は困った顔をするしかなかった。この本を勧めてくれたサフィーの手前、いきなり貶すのは気が引ける。
「まあ、中学二年生くらいだとありふれた名前……かな。
『なお、便宜上、本書の中で「異世界」と言った場合はこの世界、つまりこの魔法の存在する不思議な世界のことである。ちなみに、私が元々いたところは「新世界」と呼ばれている』
なんだと。
……新世界?
こいつ、日本のことを言っているのか? いや、その日本を含めた俺のいた世界自体のことか。
新世界と呼んでいるということは、するとこちらの世界は「旧」世界だということだろうか。
これは……初っぱなから何か大きな世界の謎が解かれようとしている気配を感じる。
俺は思わず先を読まずにはいられなかった。
『新世界とは私が一年半住んだところで、通天閣で有名な大阪の観光地であるが……』
そっちかい。
いや。
そっちかい。
「どうしたんですか? タケマサさん。空中に手の甲を叩きつける真似なんかして」
サフィーに解説すべきだろうか。
「……うむ……。この本はなかなか読み進めるのが大変だということがわかった」
覚悟して読み進める。
『新世界と言えばくしかつが有名である。くしかつとは串に刺したあらゆるものを揚げ物にしてソースにつけて食べるものだが、非常に美味である。よく知られた「二度漬け禁止」とは実は……』
「異世界の話をしろ、異世界の! そんな観光ガイドブックに書いてありそうな薄っぺらい情報はいいんだよ!」
もうだめだ。1ページ目からつっこみどころが多すぎて全く進まない。長々と続く新世界(大阪の)自慢をさっさと飛ばして本題に入る。
『さて、私はある日突然この世界に飛ばされてきた。いや、正確には飛ばされたのかどうかはわからない。寝て起きたらこの異世界にいたので、空間移動をしたのか、それとも実はここははるか未来の新世界でタイムスリップしてしまったのか、それともこれは単に私の夢の中の世界なのか。そのあたりは未だにはっきりとはわからない』
……寝て起きたらか。俺と同じだ。三年この世界にいたらしいこの男もどうやらこの世界が何なのかはわからなかったらしい。
『ここに来たときまだ十代だったが、成人式をこっちで迎えてしまった。まあそんな儀式は無いようだったから誰も祝ってはくれなかった。当然同窓会等にも参加できなかった。それがとても悔やまれる』
……どうでもいい。
『人生の七分の一近くは異世界で過ごしていることになる。戻る方法も色々と調べてみたが、一向に見つからないので諦めることにした。おっと、勘違いしないでほしい。絶望したわけではない。戻れないと決まったわけじゃないのだ。というか戻れた人間がいるのを知っている』
……なんだと?
『前に会ったことがある。この異世界に「二回」来た人間に。すなわち、一度元の世界に戻って、また来たということだ。本人がそう言っているだけだから嘘という可能性ももちろんあるが、嘘を言ってるようにも見えなかった』
「方法は!?」
思わず声を出してしまう。サフィーがお静かに、と言った。そうだここは図書館だった。
『なお、方法は聞かなかった』
「な、なぜだーー!?」
『その時は帰りたいと思っていなかったのである。今では後悔している』
「全くだ……。なんでそんなミスを……」
俺は頭をかきむしる。サフィーがそんな俺を見て不思議そうに聞いてきた。
「タケマサさんは、元の世界に戻りたいのですか?」
「いやまあ、今すぐ戻りたいかと言われるとそうでもないんだが、いずれ戻りたくはなるかもしれないと思って」
「なるほど……」
続きを読む。
『まあ戻るべき時には戻れると考えている。その一度戻ったという人間が言っていたことだが、我々のような異世界から来た人間には二種類いると言う。使命を果たしたら元の世界に帰る人間と』
ここでもったいぶるかのようにページの境目が来ている。
「……と?」
ページをめくる。
『使命が見つからない人間だ』
「……」
帰らずに留まる人間、とかじゃないのかよ。
『前者ならいずれ帰れるだろう。使命を果たしたその時には。後者なら……いずれ帰れるだろう。使命を見つけてな。使命の無い人間などいない。人には必ず使命があるものだと私は思っている』
前向きなやつである。
『私の使命はこの異世界の謎を解き明かすことだ』
やっと本題に入るのだろうか。前置きが長い。これ全部読まなくちゃいけないのかとげんなりしてくる。
『異世界の謎。そう、この不思議な世界には謎がある。この世界は私のいた世界とどう違うのか。それを明らかにする。知っているだろうか? ここの一日は二十四時間じゃなく二十五時間である』
唐突に出てくる異世界豆知識
……そうなのか。知らなかった。
どうやって調べたんだ、そんなこと。
『一日中自分の鼓動を数えてみた』
暇か。暇なのか。
『鼓動は一分間に平均60回の筈だ。だが数えてみると正午から正午まででほぼ9万回ちょうどだった。60×60×25だ。約一時間分多いことになる』
恐ろしく地道な方法だった。
『あまり普及していないようだが、この世界にも時計がある。我々のいた世界と同じように12時間で1周、一日で2周する時計だ。つまり一見するとこの世界も一日24時間のように見えるし、この世界の住人もそのつもりで生活している』
確かに、そういえば時計をあまり見ない。
『だが、私自身の鼓動で測定すると25時間である。すなわち、この我々がいる星の自転は我々のいた地球の自転より少しだけ遅いということであろう』
「考え方はわからんでもないが、なぜ自分の鼓動がそこまで正確だと自信を持っているんだろう、こいつは」
俺の呟きに呆れたものを感じたのか、サフィーが苦笑しながらフォローした。
「こんな本を書くくらいですから、鋼の心臓をお持ちなんですよきっと」
フォローになってるのかよくわからないが。
『この異世界には時計やカメラを初め、いくつか文明の利器のようなものを見かけることがある。ただこの世界には上下水道はあるが電力網が存在しない。ではあれらはどうやって動いているのか? 答えは簡単である。あれは魔法で動いている』
ほほう。薄々そんな気はしていたが、電力網はやはり無いらしい。
『魔法という言葉はすなわち「よくわからない方法」という意味なので「魔法で動いている」とは「どうやって動いているのかわからない」というのと同義ではある。つまり私の真実探求の旅はまだ始まったばかりだということだが……』
自信満々に何もわからんと言ってるぞこいつ。
俺は、他にも色々書いてある、異世界豆知識を飛ばすことにした。
『ところで私は弁護士の卵であった』
ページをどんどん飛ばしていくと、唐突に自慢? が入った。
「……どうでもいいが……。まあ、弁護士か。すごいな、頭いいんだな」
『弁護士になるための勉強も、始めた日にはあっと言う間に合格するだろう』
「始めてないんかい」
全然すごくなかった。
『この世界に来たのは、法学部に入ろうかなと考えてるうちに高校卒業してしまって浪人した頃だった』
「……それ、卵って言うのか?」
卵は卵でも無精卵じゃないだろうか。
『この世界は興味深い。私はこの国に来てすぐに「それ」を目にして感動した。すなわち、魔法。残念ながら、異世界人の私では精霊力が足りなくてほとんど使えなかったが……』
そうなのか。俺も、素の精霊力では何もできない。この腕輪は相当にありがたいものということか。
『しかし使えないながらも、私は自らの弁護士の卵であるという個性を活かして、新たな魔法体系に関して研究を続けた。その結果、本書の中心的なテーマである「制約魔法」を生み出すにいたり、それがきっかけで王宮お抱えの魔導師として重用されるに至った』
「……いよいよ本題だ」
ここまでがなんとも不条理に長いが……。




