閑話休題 –––萱愛小霧の憂鬱な反省会 後編–––
幾度と横道に逸れながらも、なんとか無事反省会は終了した。
この後の予定は特に決めてはいない。
しかし時計を見やれば時間も時間だったので、取り敢えず俺達は少し早めの昼食をとる事にした。
小銭単位できっちり会計を済まし、暖房天国の中から極寒地獄へと、いざ行かん。
洒落たガラスの自動ドアを潜ると、途端に肌を貫くような冬の寒さが二人の少年少女を襲う。
「うおっ、やっぱり冷えますね……」
しかしそう言いながらも、本気で冷たいと思えるのは精々顔くらいである。天気予報の言う通りきちんと厚着をして来て正解であった。家を出る前に手袋を持つように言ってくれた母には感謝しかない。
「そうですねえ」
適当に相槌を打ちつつ先輩は着てきたコートを羽織り直すと、手元の大きな鞄から次々に大量の防寒具を召喚し始める。
始めに手袋を塡め、続いてマフラーを纏い、耳当てをつけ、マスクを装着し、そして最後にモコモコとした毛糸の帽子を被る。
その姿はまるで極寒の地シベリアで暮らす先住民、エスキモーのようであった。
「おぉ準備万全ですね……」
「ひひっひ。私みたいな肉がない女にとって、寒さは命に関わるものですから」
「……そっ、そうですね」
冗談もそこそこに、先輩の小さな手を引きながら繁華街の中を歩き始める。勿論俺なんかが洒落た店など知っているはずもないので、目指す先はどこにでもあるような極普通のファミレスである。
お互い無言のまま、ただひたすら雪を踏みつける音だけが連続する。さっきスタバアで近況報告は粗方済ませてしまったので、話す事が特に無いのだ。何か話題はないかと徐に思考を巡らせていると、先に先輩の方から口を開いた。
「萱愛氏そういえばチキンはよろしいのですか?」
「あぁはい、今年は母さんが取りに行ってくれるんですよ。代わりに先輩とどこか遊びにでもいってらっしゃいと。だから今日は夕刻まではフリーです」
「ほぉなるほど、萱愛氏の母君はお優しいのですね」
先輩はそうブツブツと適当に答えると、それきり下を向いて黙り込んでしまう。
なんだか自分から聞いておきながら、あまり興味が無さそうな言い草だ。何やらそわそわしてるのを見る限り、どうやら本題に入る前の喉慣らしであったようである。
試しに先輩の顔を覗き込んでみると、彼女は堪えきれないと言った具合にその口元を妖しくニヤつかせていた。いや、確かにいつもニヤついているが、今は特に輪を掛けてニヤついている。
「ど、どうしたんですか先輩?」
「萱愛氏、明日の事で少しいいですかね」
「あぁ、はいなんでしょう?」
明日の事とは先輩の家で開く予定のクリスマス会の事である。今日は例年通り家族と過ごすのだが、クリスマス当日はやはり先輩と一緒に過ごしたかったので、柏先輩と黛さんの決着が着いた次の日に速攻で企画したのだ。
先輩も真守さんも快く承諾してくれたのだが、確かに急な話であったこともまた事実である。もしかしたら何かしら問題が発生してしまったのかもしれない。
持ち前のネガティヴによって、瞬く間に心の内が不安で満たされていく。されど次に先輩の口から飛び出したのは意外な言葉であった。
「明日のクリスマス会の為にケーキを作ってみようと思っているのですが……」
「えっ、本当ですか!?」
思いもよらぬ提案に返す声が裏返る。
そんな俺の滑稽な姿に、先輩はそのニヤニヤを更により一層深くする。
「はい。萱愛氏がそれでいいなら作って待っています。出来は当日のお楽しみということで」
「はっ、はいっ是非お願いします。いやあ本当楽しみですよ」
ケーキと言えば職人を冠する職業があるくらいなのだから、きっと作るのはかなり難しいはず。先輩が料理上手なのは知っていたが、まさかここまでとは思っていなかった。
まさかのサプライズに思わず頬は緩み、心なしか歩も弾んでいく。その姿は端から見れば、まるで遠足前の小学生のように見えたことであろう。
口に出すのは無粋だろうから態々言わないが、俺はこの瞬間、確かに幸せという感情を噛み締めていた。
「オイ」
胸一杯に幸福を享受していたそんな時、突然乱暴な男の声が後方から飛んでくる。何だ、と反射的に振り返ってみれば、そこにはいたのは見知った顔の同級生であった。
「誰かと思えば萱愛じゃねぇか、ってそのモフモフ怪獣はもしかして閂か……?」
彼の名前は、柳端幸四郎。
細身でありながらも筋肉質な体つきで、顔も某女子からイケメンと評される程度に整っている。
口は悪いが根は優しい奴で、俺も今年の夏には大いに世話になった。
本当に彼には心の底から感謝している。
あの時もし柳端が助けてくれなければ、俺と先輩との関係はそこで終わってしまったのかもしれないのだから。
「おぉ柳端か。珍しいなこんなところで」
「ひひっ、お久しぶりです柳端氏」
まさか柳端とこんなところで鉢合わせるとは思いもしなかった。彼はこういう騒がしい場所は嫌いだと思っていたのだが、一体どうしたのだろうか。
見れば柳端も柳端で何かあるのだろう。俺の疑問を含んだような言い方が気になるのか、居心地が悪そうに短く刈った頭を乱暴に掻き毟っている。
「……なんでもねぇよ、いちゃ悪いのか」
なんだ今の間は。
別に柳端がどこにいようと俺は一向に構わないが、どっからどう見ても明らかになんでもなくない。
何かあったのか–––––––––––––そう聞こうとして、止めた。本人がなんでもないと言っているのだから、態々首を突っ込むのは悪いだろう。
そう思い直して、俺は微妙になってしまった空気を誤魔化すかのように優しくそっと彼に微笑みかけた。
「いやあ悪い。少し気になっただけだよ」
しかしそれでも柳端の顔は晴れない。しばらくそのままじっと眉間に皺を寄せていたが、やがて深く溜め息をつくと上目遣いでチラリと俺の顔を覗いた。
「まぁ、別にお前ならいいか……」
少年は悟ったような表情でぼそりと呟く。
やはり悩みとまでは言わなくとも、何かしら心に蟠りを抱えているようだ。
––––––––––お前ならいいか。
俺なんかにそう言ってくれるのならば、こちらに断る義理は無い。喜んで相談に乗ろう。
「どうしたんだ。何かあったのか?」
柳端は先輩の方を一瞬見て直ぐに目を反らすと、しばらくむすりと黙り込んでしまう。しかし漸く決心がついたのか、やがてぼそぼそとその胸の内を吐き出し始めた。
「あぁ……今までずっとクリスマスは香車と過ごしていたからな。家に居たら何だか頭がモヤモヤして、ついこんなとこまで出てきちまった」
そう言い切ると、彼は目を細めてどこか遠くの空へと思いを馳せてしまう。
棗香車、その名前に俺は思わず生唾を飲み込んだ。
今では黛さんの仇敵みたいなイメージが強いが、元はと言えばアイツは中学の頃からの柳端の親友だった。二人が楽しそうに話しているのを、俺も中学時代に何度も見たことがある。
棗が笑えば柳端も笑い、柳端が喜べば棗も喜ぶ。この二人のようなのが、学校を卒業しても関係の変わることのない真の意味での親友という奴なのだろうと当時は羨ましく思ったものである。
棗と柳端はいつも一緒だった、そしてこの先もずっと––––––––––––––そう思っていた。
だが覆しようのない事実として棗香車は既に死んでいる。
自分が殺したようなものとはいえ、俺も親友を失ったことがある。だからとは言わないが、なんとなく彼の抱くその気持ちは察する事ができた。
胸の内にぽっかり空いた大きな穴。もう二度と彼とは会えないのだという絶望と、いなくなって初めて分かるその存在の大きさに、胸がどうしようもない程に押し潰されていくのだ。
確かに柳端はM高の屋上で棗の亡霊と決着をつけた。だが一度出来た心の傷は、そう簡単に癒えるようなものでは決してない。失ったのが唯一無二の親友であるのならば尚更である。
口を真一文字に引き結んで考え込んでいる俺を見て、柳端はふと笑う。
一瞬だけ見えたその何かを諦めたような表情が、俺の網膜にしっかりと焼き付いて離れなかった。
「……やめだやめだ。こんな日に時化た話して悪かったな。まぁ、お前らは楽しくやれよ」
「あっ、あぁ……」
そうぶっきらぼうに言い捨てると、彼は俺達の横を通り過ぎ、ゆっくりと街の中へと消えて行ってしまう。
どう声をかければいいのか分からず迷っていると、気付けば隣に先輩がいない。
慌てて後ろを振り返ると、彼女はいつの間にか柳端の前に悠然と立ち塞っていた。その口元にはいつもより三割増しで挑発的な笑みが浮かんでいる。
何故だろう、打率十割で嫌な予感しかしない。俺の経験上先輩がああいう顔をした後は、大抵物事がややこしくなるのだ。
「オイなんだよ」
止めようと思ったがもう遅い。既に先輩の口から爆弾発言は飛び出していた。
「ひひっひ、つまりコウくんは寂しんぼさんなのですね」
……何言ってんの、この人??
その瞬間、柳端の眉間に数多の血管が浮かび上がった。彼は岩のように顔を強張らせると、その苛立ちを掠れた声に載せて先輩へと叩きつける。
「閂テメェ!!その呼び方は止めろッ!!あの女の甘ったるい声思い出して体中がムズムズするじゃねぇかッ!!」
「ひっひっひ、どうやらまだ怒鳴りつけるくらいの元気はあるようですね」
声を荒げる柳端に対し、先輩はどこまでも落ち着いていた。
どこか様子がおかしい。
仲裁に入ろうかとも思ったが、確かによく考えてみれば先輩が理由も無しに挑発なんてするとは考え難い。もしかしたら彼女には何か良い考えがあるのではないだろうか。
次の瞬間、彼女の口から飛び出したのは予想外の提案であった。
「そう言えばこれから萱愛氏と食事をしようと思ってるんですが、柳端氏も御一緒にどうですかね?」
「は?」
「え?」
二人の男の間抜けな声が、冬の空によく響いていく。
––––––––––確かに、その案は俺も考えはした。
俺では棗の代わりにはなれないが、友人として一緒に語り合うことで、少しくらいはコイツの気を紛らわてやれるんじゃないかと。
しかしまた先輩より俺のやりたいことを優先してしまうのかと思うと、とても言い出す事は出来なかった。
しかし当の先輩は俺に近寄り耳元に顔を寄せると、そっと小さな声でこう囁いた。
「私は萱愛氏には自分を通していただきたいのです」
その言葉に思わず体がビクリと震える。
俺が先輩の事を優先しようと考えたように、先輩も俺のことを優先しようとしてくれているのだ。
「で、でもいいんですか?」
「ひっひっひ……クリスマスなんてどうせ毎年来ますから。私にとってはあなたが後悔しない事の方が重要です」
先輩はそう言うと普段の不気味な笑みではなく、爽やかな顔でにこりと微笑む。
あぁやはり先輩は俺の事を理解してくれている。胸の奥の方が熱くなる思いであった。
彼女がそこまで言ってくれるならば、ここはお言葉に甘えさせてもらおう。
ひそひそ話を終えて前へ向き直ると、柳端は露骨に嫌そうな顔でこちらを睨みつけていた。
先輩と軽くアイコンタクトを交わすと、俺達は柳端をその気にさせる為、小芝居を開始した。
「オイ何言ってんだよ、飯なんざお前ら二人で行きゃいいだろうが」
「まぁいいじゃないか、人は多い方が楽しいだろう」
そう言いながら馴れ馴れしく彼の肩に手を回す。
「ひっひっひ、少しぐらいなら奢ってあげてもいいですよ……」
「なんでお前なんかに奢られなきゃならねぇんだッ!!」
「そうかっかするなよ。腹が減ってイラついてるんじゃないか。取り敢えず何か食べた方がいい––––––––––––––」
「何だよその超理論は……」
「コウくん」
「オイ閂ッ!!またどさくさに紛れて呼んでんじゃねぇよッ!!」
––––––––––––––そこまで叫んで漸く彼も気付いたようであった。
そう、今柳端をコウくんと呼んだのは先輩ではない。突然外から掛けられた声に、三人が一斉にそちらの方を向いた。
「チッ……」
ただでさえ気難しそうな柳端の顔、その眉間へ更に深く皺が刻み込まれていく。心底嫌そうに唇を噛み締め、頬は苛立ちの余り怪しげにひくついている。
間違いない、これは本気で不機嫌な時の顔だ。慌てて宥めようとするが時は既に遅し。
予想通り彼は雪を蹴り飛ばしながら乱暴に振り返ると、その先の少女へ向けて獣のような低い唸り声を上げる。
「綾小路……テメェもう出所してたのか」
決して見間違うことはない。そこにいた少女は紛れもなく綾小路佳代子であった。
こう寒いというのにスカートはかなり短く、とってつけたような明るい髪色がよく目立つ。ファッションのことはよく分からないが、爪先から頭のてっぺんまで如何にも今時の若者といった感じの雰囲気を漂わせている、
以前俺や先輩と一悶着あり、警察のお世話になったらしいが、その後彼女がどうなったかについては何も知らなかった。
気まずい空気が昼の繁華街をじっとりと満たしていく。
まさかの綾小路さんとの再会、なんとなく碌な展開にはならない様な気がした。またあのマシンガンのような罵声を浴びるのかと思うとつい気が滅入ってしまう。
しかし俺のその予想は良い方向に裏切られた。
綾小路さんは柳端の姿を認めると、少し嬉しそうにそしてとても悲しそうにそっと微笑む。それは以前の酷く自分勝手で、卑劣であった彼女とは思えない表情だった––––––––––––––。
「久しぶりだねコウくん……ゲッ、閂」
そんなものは幻想だった。
先輩に気付いた瞬間、綾小路さんの作ったようなしんみり顔が瞬く間に崩れていく。無駄に何度も瞬きを繰り返し、口元は露骨に引きつってしまっている。
「ひひっひ……お久しぶりです綾小路氏」
「うーわぁ、まぢありえないんだけど……なんでこうなんの、本当最悪」
先輩の挨拶は勿論無視。
綾小路さんは明らさまに舌打ちをすると、心底面倒臭そうな目で先輩と俺を睨む。罵倒が無いだけまだマシなのかもしれないが、その傲慢な態度は以前までの彼女と何も変わってはいなかった。
もしかしたら––––––––––––そう一瞬期待してしまったが、やはり人とはそう簡単には変われない生き物のようである。
「オイ用がねぇならさっさと帰れ」
そろそろ苛立ちが抑え切れなくなったのか、柳端がドスを効かせた声で吠える。
しかし綾小路さんはこれも無視した。そしてゆっくりとその場にしゃがみ込むと、何故か拗ねた幼稚園児のような態度でムスリと雪玉を作り始める。
いや、本当何がしたいんだこの人。
こちらの冷たい非難の視線など目もくれず、彼女は黙々と作業を続ける。やがて手頃なサイズのモノを一つ作り終えると、ゆらりと立ち上がった。そしてやけに長い溜息をついた次の瞬間–––––––––––––。
「おりゃッーーー!!」
砲丸投げよろしく雪玉を側の塀に力一杯投げつけた。砕けた白雪の欠片が無残にぶちまけられ散っていく。
彼女は妙にすっきりしたような顔になると、そのままの勢いでこちらへ向かって近付いて来る。柳端の横を通り過ぎ、そして先輩の目の前でふと立ち止まった。首を持ち上げ見下すような態度で少女は呟く。
「ねぇ、閂」
「……はい?」
嫌な予感がした。もしかしてあの時の復讐でもしようと考えているのか
ダメだ、先輩は俺が守る。
そう慌てて彼女を庇うように抱き寄せようとしたその瞬間–––––––––––––––––––。
「ごめん」
少女はほんの少しだけ頭を傾けると、不機嫌そうにそう呟いた。
俺や柳端は勿論、あの先輩も思わず目を見開いて固まっていた。混乱する頭を整理して、なんとか目の前の現実を受け止める。
–––––––––––––あの綾小路さんが先輩に向けて謝ったのか?
鳩が豆鉄砲を食ったようになっている俺達をよそに、彼女は恥かしそうにそしてとても悔しそうにこう続けた。
「あんな目に会えば流石に学習ぐらい、する。アンタの言った通り世の中はそんなに甘いものじゃなかった。あの後色んな人に馬鹿にされたし、見下されもした。親からは死ぬほど怒られたし、近所のクソガキには犯罪者だと罵られた。今度ばかりは誰も私を許してくれなかった……ううん違う、多分今までもそう。周りのヤツらの方が私より大人だったから相手にされてなかっただけ。そう思うと自分が情けなくなってきた。子供だから、女だからって、狭い世界で甘やかされて。おもちゃ買ってって地べた這いずり回って喚いてるガキと一緒じゃん。なんかそれってすっごくダサい」
段々と彼女の声は小さくなっていき、先程の威勢の良さもいつまにかどこかに吹き飛んでしまっていた。そこで一度言葉を区切ると、一言一言を嚙み締めるように再び少女は語りだす。
「でもそんなことよりも、何より罪悪感が酷かった。今まで私が蔑んできた人たちはずっとこんな思いをしてきたのかなぁって。何を言っても聞き入れてもらえなくて、どんなに訴えても否定され続けて。本当にッ、苦しかった……。自分は生きてちゃいけない人間なんじゃないかって、そう思わされた事も一度や二度じゃない。でも私は、それと同じようなことをずっとしてきたんだよね……」
「……」
先輩は一言も口を挟まず、黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。
「確かにアンタに嵌められたのはムカつくけど、あれが無かったら私もっと大変なことになってた、と思う。頭おかしい奴怒らせて刺されたりとか、愛想を尽かされて独りぼっちになったりとか、多分そんな感じ。だから少しは感謝してるし、悪口言ったことも謝りたいと思っている……」
そこで彼女はハッと我に返ったようであった。熟れたトマトみたいに顔を真っ赤にすると、わざとらしく地団駄を踏みながら一気に早口で捲したてる。
「まぁ別に本当は悪いなんてこれっぽっちも思ってないけど、大人にごちゃごちゃ言われるとウザいし〜、世間体の為に一応謝っといてあげる、みたいな?きゃははは!もしかして私が本気で反省したとか思ったの?だっさ、マジでウケるんだけど––––––––––––」
「……それ楽しいですか?」
「うっ……」
先輩に冷たい目で射抜かれ、綾小路さんの虚勢は一気に虚しく萎んでしまう。
彼女は困ったような顔でキョロキョロと辺りを見渡していたが、俺と目が合うとそのまま先輩から逃げるようにこちらへ近寄ってくる。一歩一歩が酷く大股で、なぜか無駄に態度が大きい。
俺の目の前までそそくさと避難してくると、彼女は助かったとばかりに人を馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべる。
何か言いたそうなその挑発的な瞳を見てると、当然の如く嫌な予感しかしない。
「あと名前なんだっけアンタ……まぁいいや、ウザ男もついでにごめん、ごめん、ちょーごめん。悪かったー、すっごい反省してるー、はいこれで満足?謝ったんだからもう面倒臭いこと言ってこないでね。きゃはは!」
この人は謝りたいのか、謝りたくないのかどっちなんだ。
やんわりと抗議の視線を送ってみるも勿論無視された。見れば彼女はもう俺に用はないとばかりに、真っ直ぐ柳端の方に向かっていた。あっちに行ったりこっちに行ったりと騒がしい人である。
「コウくん……」
それは俺に対する不遜な態度とはまるで正反対であった。綾小路さんは涙に瞳を潤わせ、まるでびしょ濡れの子犬のようにしゅんとしている––––––––が演技にしか見えない……。
アピールはそれで済んだと思ったのだろう。彼女はあの懐かしい甘ったるい声を響かせながら、柳端に堂々と媚を売り始める。
「……コウくんも、本当にごめんなさい。色々迷惑掛けちゃったね」
「チッ」
不機嫌な顔は変わらないが、それでも一応黙って話を聞いている。うん、柳端にしてはよく頑張っている方だと思う。その調子で頑張ってくれ柳端。
しかしそんな彼の儚い努力も、天上天下唯我独尊を地で行く女、綾小路佳代子の前では全くの無意味であった。
「で私なりによく考えてみたんだけど……もしかしてコウくんって私のこと……好きじゃなかったの?」
「当たり前だッ!!脳味噌腐ってんのかテメェッ!!」
「オイ柳端」
つい咎めるような強い口調になってしまう。確かに柳端の怒りは御尤もなのだが、色々問題はあれど一応は謝ろうとしてる綾小路さんを無下に扱うのは少し心苦しいのだ。
「チッ、糞が」
乱暴に毒突きながらも、柳端は綾小路さんに気付かれないようにこっそりと深呼吸をする。どうやら多少は俺の気持ちを汲んでくれたようだ。声色からは棘が減り、強張った顔もほんの少しだけ力が緩んでいる。
「まぁ、確かにありゃ不愉快だったし、お前の事は今でも嫌いだ……だが、もういい。昔の事いつまでも引きずるほど俺もガキじゃねぇ」
そうなんとか言い切ると、彼は疲れたとばかりに本日何度目かの溜息をついた。うん、よくやったぞ柳端。
まぁここら辺が落とし所として妥当だろう。まだ色々性格に難はあるようだが、彼女も一応謝ってくれたのだし許してあげてもいいはずだ。
柳端に向けて目配せをすると、彼は少しだけ頷き、やがてゆっくりと口を開く。
「だから分かったならさっさと帰れ––––––––––––」
「本当ッ!?許してくれるの、嬉しいッ!!じゃこれから記念にどっか食べに行こうよー」
綾小路さんは俺達が思っていたよりも綾小路さんであった。
「そうだな……って、いくわけねぇだろッ!!」
流されそうになっていた柳端が慌てて叫ぶ。危ない危ない、柳端はこういう突然のハプニングに弱い所があるのだ。
「えー、だってー。さっきなんか食べに行こうとかってー、閂とウザ男が話してたじゃーん」
「お前は関係ないだろ……」
「えっ、コウくん私がこんなに可愛いから奢ってくれるのッ!?やだっ、優しいッ!?」
「テメェお花畑も大概にしやがれッ!!オイなんとかしろ萱愛ッ!!」
そう叫びながらこちらへ振り向いた柳端の顔は、怒っているというよりも、何だか疲れ切ってしまっているように見えた。
なぜだろう、胸の奥から滝のように同情心が溢れ出てくる。このままでは柳端の胃には穴が空いてしまう事でだろう、ここは友人としてなんとかしてやらねばなるまい。
「別にいいんじゃないか。どうやら彼女も反省しているようだし、別に俺達が拒絶する理由はないだろ」
「このミスターお人好しがッ!!高野山にでも登るつもりかテメェッ!!」
「ねぇコウくんどこいくか早く決めてよ。私もう立ってるの疲れたぁ」
「だったら一生そこで寝てろッ!!オイ、ついてくんなッ!!」
「待ってよ〜コウくん〜」
逃げるようにこの場を離れようとする柳端に、綾小路さんは金魚の糞よろしくべったりとくっついて離れない。
二人の姿が見えなくなっても、ドスの効いた低い声と甘ったるい高い声が交互に寒い冬の空を揺らしていく。
そんな滑稽な光景を眺めながら、俺は隣の先輩にそっと笑いかけた。
「なんかすみませんね先輩」
「いえいえ、私は嫌いじゃありませんよ。こういうのも、ひっひっひ……」
先輩もどうやら上機嫌のようである。同感だ。俺もこういうのは嫌いではない。
「柳端が可哀想ですし、そろそろ追いかけますか」
「はい、そうしましょうか」
先輩の小さな手をしっかりと握り締め、俺達は二人の下へと走り出した。
空を見上げてみればあれだけしつこかったどんより雲も、いつの間にか晴天へと変わっている。
––––––––––––今回の黛さんと柏先輩の事件、俺は彼女等の役に立つことは出来なかった。
そうなれば嫌でもネガティヴなことを考えてしまう。俺では人を助けるには力不足なのではないのか、この先更に大きな困難に直面した時、果たして俺はそれに打ち勝つことができるのか、そんな無力感が胸の内でずっと靄となって燻っていたのだ。
だが今日先輩達と再び顔を合わせて確信した。俺の行動のおかげだなんて傲慢な事は言わないが、周りの人達は皆良い方向に舵を切ってくれたように感じる。
柳端に先輩に、そしてあの綾小路さんすらも。
俺は確かに成長している。人を救うのは確かに難しいけれど、それでも確実に一歩ずつ前に進めている。
その実感が嬉しくて堪らなかった。
失敗は教訓にすれば決して無駄にはならないのだから、将来の夢の為にもこの程度の事で一々立ち止まっているわけにはいかない。
もし次があるとするならば、今度こそはハッピーエンドをこの手に引き寄せてみせる。
そう心に誓ったその瞬間であった–––––––––––––––。
「おっと、すみません」
「いえいえ、こちらこそ」
考えに没頭しすぎたせいか、眼鏡をかけた一人の少年と危うくぶつかりかけてしまった。
あちらも急いでいるのかやんわりと頭を下げるとそのままどこかへ走り去ってしまう。名前は覚えていないが、顔にはどこか見覚えがある。確か大学のオープンキャンパスで会ったことがあるような、ないような–––––––––––。
「まぁ、いいか……」
俺の心にもう余計な迷いは無い。その瞳は既に次の未来を見据えている。