閑話休題 –––萱愛小霧の憂鬱な反省会 前編–––
「はぁ……」
吐き出された重苦しい溜息と共に、仄かな倦怠感が少年の全身を包みこむ。
それは正しく『幸せまで一緒に逃げてしまいそう』というヤツであった。
寒風吹き荒ぶ午前十一時、俺こと萱愛小霧はスタアバックスなるコーヒーチェーン店の中で冬の寒さを凌いでいた。
普段ならそろそろ気温も上がりだす頃合いなのだが、残念ながら本日はいまいち太陽も調子が上がらないようである。
空はどんよりと分厚い雲に覆われており、目を凝らしてみればちらほらと雪も降り出している。
この様子ではこのまま一日中こんな調子であろう。
しかしこう冷えるというのにも関わらず、窓の外では寒さなど気にせずに仲睦まじく歩いているカップルの姿が多く見える。
二人で寄り添い、手を繋げば、男女の頬が朱に染まる。
その滾り漲る情熱は、降り積もる粉雪などいとも簡単に溶かしてしまいそうな勢いであった。
そう本日の日付は十二月二十四日。またの名をクリスマスイブとも言う、カップルのカップルによるカップルの為の一日である。
俺にとっては『予約したチキンを店に取りに行く日』みたいな認識でしかなかったのだが、めでたい事に今年の聖夜は去年までのそれとは一味も二味も違う。
「んー少し苦いですね」
テーブルを挟んで目の前に座る一人の少女が、ゆるりと口元のカップを傾ける。
年齢は俺より一つ上で、体型は小柄でかなり痩せ気味。長い黒髪のうち前髪はヘアピンで束ねており、後髪はゴムを使ってアップヘアーにしている。
彼女の名前は閂香奈芽。
こっ、今年の夏から俺がおおっ、お付き合いをさせていただき、たてっ、奉っている、かか、彼ッじ––––––––大切な人、である……。
こんな日に女の人と二人でデー……げふんげふん、お出掛けなんて、さぞ楽しい時間を過ごしているのだろうと思われるだろうが、残念ながら俺と先輩の間に流れている空気はそんな生易しいものでなかった。
全く以って甘くも酸っぱくもない。寧ろどちらかと言えば冷たいと言ってもいいだろう。主に俺の冷や汗で背中がいい感じに冷え切ってしまっている。
俺もほんの三十分ほど前までは、クリスマスイブに先輩と出掛けることができると非常に意気揚々な気分であった。それが何故、こんな事になってしまったのかというと––––––。
「ということでして、ほとんど役に立てませんでした……いてっ」
情けないやら恥ずかしいやらで思わずテーブルに顔を伏せてしまう。勢いのまま頭を叩きつけてしまい、額に鈍い痛みが走る。
そうこれはクリスマスデートなどという浮かれたものでは決してない。先輩による、俺のとある失態に対する大反省会なのであった。
率直に言おう。
俺は黛さんと柏先輩の駆け引きに参戦しておきながら、一切役に立つ事が出来なかったのだ。
二日前の苦い思い出が、じりじりと脳裏に蘇っていく。
神楽坂さんに逃げられた後、樫添先輩に言われた通りM高に向かい、そこで柏先輩を待つこと約一時間半。流石に遅すぎると黛さんに連絡しようとしたところで、漸く自分の携帯電話が無くなっていることに気付いた。
近くにいた大人に携帯を貸してもらおうと頼みこんでみるも、ウザいと言われて碌に相手にしてもらえず、この辺りには公衆電話も無いので、仕方なく家まで全力で走って帰った。
しかしそうしてようやく電話を掛けてみても、黛さんからも樫添先輩からも一切応答は無い。
なんだか嫌な予感がして、先輩と柳端を呼び出し、どうしようかと話し合ってみるも、妙案は出ないままただ時間だけが過ぎていく。そして、その頃かかってきた樫添先輩からの電話で漸く全ての真実を知った……という経緯である。
長々しく話したが、取り敢えず簡潔にまとめてみよう。
つまり俺はまんまと騙されたわけだ。
後から詳細を聞くと、柏先輩の計画とやらを遂行する為には、どうしても俺の存在が邪魔だったらしい。
だが別にそのことは構わないのだ。
確かに樫添先輩の掌の上で踊らされる羽目になったが、それが結果的に黛さんを救い出す事に繋がったのだから、俺には何の文句も不安もない。
寧ろ誰もが笑って幸せに終われるハッピーエンドを迎えることができ、心の底から嬉しいと思っている。
だがその事にあまり納得がいっていない方が、若干一名いるのもまた事実なのであって……。
「先輩……?」
頭を伏せたままチラチラと目の前の少女の顔色を伺う。
しかし俺のネガディヴな予想に反し、先輩はいつも通りの怪しい笑みをその口元に浮かべていた。
「ひひっひ、まぁ萱愛氏ではまだまだあのレベルの争いに首を突っ込むのは難しいですよ。仕方ない事です。いやいや……それより神楽坂藍里さんでしたっけ?彼女も中々変わっていますねぇ。黛先輩と柏恵美以外にも面白い人間がいると知れて、私はそれなりに満足しています」
そう謳うように言うと、先輩は再びカップを傾けほっと一息をつく。どうやら俺が思っていた程、彼女は怒ってはいないようであった。
強張った肩からどっと力が抜けていくのを感じる。取り敢えず良かった良かったと俺も安心してカップに手を伸ばし––––––––––––––。
「しかし……私の事を放ったらかしにしたことに関してはあまり感心できませんね……」
「あっつッ!!」
動揺のあまり吹き出したコーヒーが、容赦なく萱愛の左腕に襲いかかる。
慌ててテーブルを拭きつつ、俺は先輩に対しての申し訳ない気持ちで胸が一杯になっていた。
言われてみればそうだ。確かに柏先輩への対応は急を要するものだったが、それでも先輩をしばらくの間一人にしてしまったことには変わりはない。
−–−–−–−–−–−私のことを優先して欲しいのです。
そんな先輩の言葉が頭を過ぎり、胸の奥の方がチクリと痛んだ。
「いやっ……すみませんでした。本当面目次第もないです……」
「分かったらさっさと私の前から消えろ。このクソムシが」
「うわあぁぁああッ!!」
鬼気迫る表情と共に先輩の目がぎょろりと見開かれる。驚いた勢いで、思わず椅子の上から転げ落ちてしまった。心臓はドクドクと激しく脈を打ち、その動揺は尻の痛みが気にならなくなるほどである。
えっ、先輩そんな怒ってるんですか……。
しかし勝手に死にそうになっている俺をよそに、先輩はすぐにいつもの調子に戻ると、申し訳なさそうにぺこりと頭を下げた。
「あぁすみません。ハエが飛んできたのでつい……ひひっひ……」
「えっ、あっ、はい。本当に言葉通りの意味だったんですね……」
誤解だと分かり、再び肩から一気に力が抜けていく。緊張のせいかなんだか全体的に体が重い。いやはや思った以上に大いに肝を冷やしてしまったようだ。
「ん?」
ふと周囲の視線を感じて辺りを見渡してみると、店中の客が何だ何だとこちらを覗き込んでいた。更にはそこに追撃でもするかのように、店員さんが大丈夫ですかと心配そうに此方へと駆け寄ってくる。
「だっ、大丈夫です……。大きな声を出してしまい申し訳ありません」
「いえいえ、何かありましたら声をかけてくださいね。それではどうごごゆっくり」
最後に店員さんが爽やかな笑顔を添えて何処かへ消えると、周りの客達もまるで何事もなかったように自分たちの世界へと戻っていく。
恥ずかしい、死ぬほど恥ずかしい。
なんだか居た堪れない気分になり、顔が急速に熱を帯びていっているのが自分でもわかる。
しかし不幸中の幸いというか、やはり先輩もそこまで怒ってはいないようで安心した。しかしそれでも、彼女を放ったらかしにしてしまった事実に変わりはない。
大切な人にそんな寂しい思いをさせてしまうのは嫌であった。なんとかして少しでも気を取り直してもらいたい。
そう決心し、こんな時の為にとポケットに忍ばせていた二枚の切り札に手を伸ばす。
「あの、先輩?」
「なんですか?」
心無しか声が冷たい。やはり言葉には出さなくとも、かなり不機嫌でいらっしゃるようである。だが仕方ない、これは俺の身から出た錆なのだから。
自分の不始末は自分でカタをつけよう。
「あのっ、これ」
「はい?」
ポケットから取り出したジョーカーをテーブルの上に広げる。それは『主の名は。』というタイトルが書かれた二枚の映画チケットであった。
「樫添先輩が今回の迷惑料ってことでくれたんですよ。確か恋愛物の時代劇だとか。面白いって最近よく聞きますし、明日にでも一緒に見に行きませんか?」
そう言って出来る限り優しく、そして爽やかに微笑んでみる。さて、先輩の反応は。
「ひひひっ……いいですね。結構映画を見るのは好きでして、その作品も気になっていたのですよ。それでは上映二十分前にF映画館前集合でいいですか?」
「はっ、はいわかりました。では、そういう予定でいきましょう!」
先輩の不機嫌であった表情が徐々に明るくなっていく。愉快に眉は釣り上がり、口元からは白い歯がキラリと覗く。酷く分かりづらいが、どうやら機嫌は治してくれたようだ
「ひっひっひ、しかし流石は樫添氏ですねぇ。あのお方は本当に周りの人間をよく見ていらっしゃる……」
先輩は感心しているかのような顔でふむふむと頷き、そしてふと思い出したようにこう付け加えた。
「もしかして柏恵美からも何か貰ったりはしましたか?」
そう言うとテーブルに身を乗り出して、何かに期待するかのようなキラキラした目をこちらへ向けてくる。
それは何時ぞやか見た、彼女が『特別』なモノとやらを見つけた時のような瞳であった。
……何がお望みかは分かりかねるが、一応柏先輩からも貰ったは貰ったので正直に答える事にした。
「あぁはい。偶々ポケットに入っていたからとなんかビスケットをくれました」
「ひひっひッ!ひひひひひひひひッ!!」
何が面白いのかわからないが、先輩は突然腹を抱えて大いに笑いだす。まぁ確かにこういう気まぐれなところが柏先輩らしいと言えばそうなのであるが。
しかしこのままだとまたお店に迷惑をかけてしまいだったので、先輩の笑いが落ち着くところを見計らいそれとなく話題転換を試みてみる。
「そう言えばさっきからずっと思ってたんですけど……なんで制服なんですか?今日は日曜日ですよ」
話題転換とは称したが、気になっていたのもまた事実である。
先輩は本日、母校であるM高校の制服を着て来ていた。
厚い紺のブレザーに、灰色のプリーツスカート。既に飽きるほど見た組み合わせだ。
いや別に、先輩の私服姿が見たいとかそう言った理由では、絶対、決して、全くないのであるが……。
勝手に自分との言い訳合戦を始める俺を捨て置いて、先輩は自分の頭に手を置くと意味深に妖しく微笑みながらこう答えた。
「ひひっひ……私は顔つきと背丈的に幼く見えてしまうモノなので……。萱愛氏が少女性愛者だと思われないようにとの私なりの配慮ですよ……」
「えっ?ロっ、ロリコン?ちょっといいですか?」
恥ずかしい事だが知らない言葉が出てきたので、取り敢えずスマートフォンを使って調べてみる。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥という奴だ。
safariを開き、馬鹿正直に検索欄に『ロリコン』と書き込み検索する。
後はGogle先生が無駄に丁寧に知りたくなかった真実を教えてくれた。
––––––––ロリコン。
「ロリータ コンプレックス」の略。性愛の対象として少女・幼女を求める心理。
▷ アメリカの作家ナボコフの小説「ロリータ」にちなむ。和製英語 Lolita complex から。
性愛、幼女、求める。
画面上にデカデカと表示される文字列によって、頭に思い切り殴られたような衝撃が走った。
心臓は不安定な鼓動を刻み出し、みるみるうちに顔中のあちこちが赤くなっていく。
そして、純粋少年萱愛小霧は愉快に沸騰した。
「こっ、こんなとこで破廉恥な事言わないでくださいッ!!」
「ひひっひッ!!ひひひひひにひひひひひっひひッ!!」
先輩は苦しそうに目尻にうっすらと涙を浮かべ、それでも堪らないとばかりに笑い狂う。
普段なら直ぐにでも反論してるところだが、今は先輩に対して負い目があるので、俺は黙って我慢する事しかできなかった。
しばらくすると先輩も漸く笑い疲れたのか、深く息を吐いてどっと背もたれに身を預ける。
「ひひっひ……。いやぁ少し疲れました。お花を摘みに行ってきますので少々お待ちを」
そう一言呟くと、止める間もなく先輩は席を立ちどこかへと行ってしまう。
疑問。
花を摘むとは一体どういう事なのであろうか。しかしそれがなんであれ、先輩をこのまま一人で行かせるのは心配であった。
俺は慌てて立ち上がると、店の奥の方へと進んでいく先輩に向かってゆっくり、そしてはっきりと声を掛けた。
「俺も一緒に摘みに行きます」
その瞬間、雷にでも打たれたようにビクリと先輩の体が大きく跳ねる。
ぎこちない動作で此方へ振り返った先輩は、何故かとても悲しそうな目をしていた。
※ロリコンに関する記述をwikipedia「ロリータ・コンプレックス」の項目より一部引用しています