第二十一話 それでも黛瑠璃子は
記憶の海の中でいつの間にか気を失ってしまっていたのだろうか。
半ば朦朧としながらも目を覚ますと、そこは柔らかい芝生の上であった。
瞼越しに広がる無限の赤。背中に土のひんやりとした感触を感じながら、静かにそっと瞳を開く。
–––––––––空が燃えている。
思わず美しいと声に出したくなるほどの鮮やかな夕焼けであった。全ては朱に染まり、巨大な黄玉が地平線の向こうへと沈んでいく。
おそらく季節は夏なのだろう。纏わりつく熱気が肌の表面をジメジメと泡立てる。あちこちでヒグラシが大合唱を繰り広げており、遠方では帰宅途中と思われる子供達がキャッキャと声を上げていた。
死というよりも生、絶望というよりも希望。ふとそんな印象を受ける。
ここもまた柏恵美の過去の情景の一つなのだろうか。今までの陰湿で凄惨な記憶とは似ても似つかない穏やかな空間、気を張ってただけになんだか拍子抜けの気分であった。
「ハァ……」
随分久方ぶりにほっと胸を撫で下ろす。ひとまず状況を整理しようかとも思ったが、黛の頭の中は既に別の事で一杯一杯であった。
「エミ……」
気を失う直前、脳に飛び込んできたエミの記憶の数々。それらを思い出しそっと唇を噛みしめる。
どれも狂った出来事だった。その一つ一つが幼い少女の人格をいとも簡単に歪めてしまえそうな最悪の一ページ。
恐らくエミはまともな人生は送ってはこれなかったのだろう。出会った頃から薄々と感じていた事が、これで現実だとハッキリする。
どうやってエミと記憶を共有しているのか、理屈はさっぱり分からないが、彼女の過去を断片的ながらも知ることが出来たのは大きな収穫だろう。
–––––だが、黛の心は晴れない。
それもそうである。結局柏恵美を理解することは出来なかったのだから。
確かに彼女の過去は見たし、その記憶も共有した。されどやっぱりエミの考えていることはわからない。
何故彼女は殺されたいのか、何故殺されたがりになったのか。その全てが理解不能であった。
例えるならパズルのピースは全て与えられているのに、完成までの道筋が一切見えないかのようなイメージだ。
エミの事を知ればきっと分かり合うことが出来る。そうなれば、彼女がいつ去ってしまうかもしれないと震えて怯えることもない。
そんな薄っぺらいなけなしの希望が音を立てて崩れていく。
柏恵美と黛瑠璃子は根本的に違う。そう思い知らされた気分であった。
確かに少しはエミに近づけたかもしれない、だがそれだけだ。結局彼女の真の理解者となるには圧倒的に何かが足りない。
心が折れそうだった。
エミと出会ってから既に三年近くが経つというのに、二人の関係は何も変わらない。口では親友だの大切な存在だのと言っておきながらこのザマだ。
微かに抱いていた希望も無残に打ち砕かれ、どうすればいいのかもう本気でわからなくなってくる。
だが、だからと言ってこのまま何もしないわけにはいけない。弱音を吐きそうになる気持ちをぐっと抑えて、何とかその身を起き上がらせる。
柏恵美を護る、その使命を黛は決して諦めたりはしない。ふと空の向こうを見つめてみるとまだ夕陽は沈みきってはいなかった。
「フッ……」
疲れ切った顔になけなしの余裕を貼り付けて苦笑する。
ここがエミの過去だというのならならば、取り敢えず彼女の姿を探してみよう。
頬を叩いて気合いを入れ直し、河川敷沿いの道に歩を刻んでいく。根拠はないが、なんとなくエミはこちらの方にいるような気がした。
歩き始めておよそ十分が経った。開けた空間は終わりを告げ、そのうちに住宅街が近づいてくる。
木造家屋と現代的なデザインの建物とが混在する地域。その中で呆然と足を前後させていると、ふと一つの公園が視界の中に飛び込んできた。
「んッ」
高水公園と書かれた古ぼけた木札が、何とも言えぬ哀愁を漂わせている。
こんな所に見覚えも用も何もないはずなのになぜか酷く心が惹かれた。まるで目を逸らすなと何者かに命令されているかのようであった。
もしかしたらエミはここにいるかもしれない。そんな漠然とした期待を胸に自然と足は園の中へと向かう。
–––––––そこは公園と言うにはあまりにも寂れた空間であった。
滑り台やら鉄森やらの遊具は何処もかしこも錆だらけで、行政の怠慢が一目で見て取れる。廃墟のように陰湿な雰囲気がそこら中に漂っており、夜には何か出てきそうな勢いだ。
勿論どこにも人はいない。そりゃこんな薄気味悪いところ子供だって遊びたくはないだろう。
「まぁ、そんなもんよね」
当てが外れたというのに不自然なまでに涼しい顔。今更こんな事で一々落ち込んだりはしない。
しかし踵を返そうとしたその瞬間、視界の端に一人の少女の姿が映った。
ん–––––––––––?
驚きの声は胸の奥に押し留める。
無残に朽ち果てたボロボロのブランコの上。こぐわけでも何かをするわけでもなく、ただそこに彼女はいた。
もしかしたら余りにも存在感が薄くて気付かなかったのかもしれない。いたというよりも突然そこに降って湧いたような感じであった。
不審に思いながらも気になって目を凝らしてみると、どうにも見覚えのある外見である。顔を近くではっきり確認しようと、怪しまれないようにゆっくりと近づいてみる。
「ちょっと……」
突然歩は止まり、動揺が迸る。黛瑠璃子の表情はあっという間に困惑で埋め尽くされていった。
歳は漸く幼稚園に通い出したあたりであろうか。幼いながらに整っている端正な顔立ちに、肩のあたりで綺麗に切り揃えられた黒い髪。
間違いない、柏恵美だ。
何故だろうか。再び彼女と出会えて本当なら嬉しいはずなのに、喉の奥に何かが詰まっているような気分になる。それは先の虐待の事を思い出しての胸の痛さか。それとも親友を名乗っておきながらエミをいつまでも経っても理解できない自分に対する後ろめたさか。いやきっと両方なのだろう。
「おねえちゃん、だれ?」
あまりにもジロジロと見すぎたせいか、少女の方から声をかけてきた。
未来のエミと違い声は高く、喋り方も年相応。しかしその声に抑揚はほとんどなく、まるで機械音のようであった。
あまりにも無感情で無表情。そこには未来のエミとはまた違った一種の不気味さがある。何を考えているのかさっぱりわからない虚ろな瞳に思わず眉をひそめてしまう。
しかしいくらエミとはいえ相手は小さな女の子。そんな怖い顔で見れば怖がらせてしまうかもしれない。
いけないいけないとこめかみを揉みほぐし、彼女と視線を合わせようにゆっくりと腰を落とす。
「こんにちは、私は黛瑠璃子っていうの。あなたのお名前は?」
はっきり正面から目を見据え、出来る限り優しく微笑んでみる。
そのままにっこりと笑い返してくれることを期待してたが、エミはそのままぷいと足元に視線を落としてしまう。しかし安心はしてくれたようで、小さな唇が何やらもぞもぞと動き出すのが見える。
「まゆずみるりこ、ルリおねえちゃんだね。わたしは、エミ。かしわえみ」
ルリ。久々に聞いたその呼び方になんだか胸が鷲掴みにされる気分であった。だがその苦しみは笑顔の裏にそっと隠して誤魔化す。
何故かと聞かれても答えられないが、このエミにはなんだか自分の辛い顔は見せたくはない。
気付けば興味無さげに項垂れていたエミの小さな顔がこちらを向いていた。大きな二つ瞳は真っ直ぐに黛の顔を覗き込んでいる。
その態度の変わりように少なからず驚いてしまう。どうしたの?と問いかけようとするが、先に彼女が口を開いた。
「無理して笑わなくてもいいよ」
小さく、されどよく通る声が夕焼けの中にじわりと溶け込んでいった。
「……え?」
笑顔を作ることも忘れて思わずきょとんとしてしまう。
今のはエミが言ったのか?
図星を突かれてしどろもどろになる黛を尻目に、小さな少女はまるで謳う様にこう続けた。
「お母さんがよくやってるから見ればすぐわかる。自分に嘘をついて、一人で全部背負い込んで。ルリおねえちゃんはそんな顔をしてるよ」
–––––––––ビシリッと、まるで心という硝子に一筋のヒビが入ったかの様であった。
自分が嫌でも見ようとしなかったところを、首根っこを掴まれて無理矢理に直視させられたような感覚。鼓動が激しく脈を打ち、押し寄せる戦慄が止まらない。
そうだったのか、と震えるように呟く。
なぜ私がエミの事を理解できないのか。確かにそれは彼女の思想があまりにも特異すぎるからということもあるだろう。
だがもっと根本的なところに真の理由はある。
–––––––––それは黛瑠璃子自身が偽りであったから。
自分の事を騙しているような人間に、他人の心が理解できるはずがない。そして理解できないという焦りが、依存と執着に繋がっていき、元あった高潔な心を壊していく。
そう、私は知らないうちに自分の価値を下げてしまっていたのだ。
なんだエミの言う通りではないか、確かにこんな情けない人間では彼女の支配者に相応しいわけがないだろう。
拳を握りつぶさんばかりに両手に力が込められていく。
悔しい、死ぬほど悔しい。
エミは一目で私の中の歪みを見抜いたというのに、自分はたかがこんなことに気付くのに一体何年かかっているというのだ。
だが過ぎてしまったことは仕方がない。大事なのはこれからだ。膨れ上がった自意識に私なりのケジメをつける。
「ねぇエミ、私アンタがわからない……」
本音の吐露。その瞬間、濁流のようにドッと感情が押し寄せ、勝手に言葉が溢れ出していく。
「アンタの事が好っ……大切で堪らないのに、どうしても理解することができないの。私じゃエミの隣に立てないんじゃないか、アンタが苦しんでる時に力になれないんじゃないか……そう思うと胸が張り裂けそうになるッ!!」
押し殺したような声はいつの間にか咽びへと変わっていた。
例え理解できなくても少しずつ寄り添っていければ私はそれで良い。例え己が弱い存在だと分かっていても絶対に護り抜いてみせる。黛瑠璃子は決して屈してはいけない、絶対に諦めてはいけない。
どれも当たり前の事だ。だって私は柏恵美の支配者なのだから。
だがそんなモノは偽物だ。
本当はエミのことを理解できないのが堪らなく悔しいし、彼女を本当に護り続けることが出来るのか途轍もなく不安だった。完璧な柏恵美の支配者でい続ける為、無意識のうちに己をごまかしていただけなのだ。
こんな事を今のエミに言ったって何の意味もないことはわかっている。それでも溢れ出る思いを抑えきることができなかった。
「そうなんだ」
だが、柏恵美は、それでも柏恵美であった。
「ルリおねえちゃんも足りないんだ」
その一言にビクリと肩が跳ねる。魂を抜かれたかのように心も体も凍りついていくようであった。
確かに黛には足りないものがある。自分の事だ、そんな事はとうの昔から分かっている。
だが今エミはなんと言った?
ルリおねえちゃんも、と言った。
其れが意味することとは––––––––––?
「わたしにもわからないことがある。むねの奥がなんだか空っぽで、なにかが足りないんだけどうまく口ではいえない。どうすればいいのか自分でもわからないの」
考えるより先に体が動いていた。
「エミッ!!」
感情が昂るがまま、少女を力強く抱き締める。
柏恵美は無表情ながらにきょとんとしていた。
黛にとって人生とは何の興味もわかない無味乾燥でつまらないものであった。だが柏恵美との出会いによって全てが変わった。
それは私の中の足りない空っぽの部分をエミが埋めてくれたからだ。
そしてエミにも私のように足りない部分がある。もしかしたらそこに殺されたがりというピースが当てはまってしまったのかもしれない。
突拍子もないかもしれないが、そう考えれば確かに筋は通った。
そしてそこからもう一つ、新たな仮説が生まれる。希望的観測が過ぎるかもしれないが、私はその可能性にかけたい。
エミにこんな不完全な支配者は似合わない。だが自分の弱さを認めて、自分に嘘をつかないで、そうして依存や執着も消え去った真の黛瑠璃子なら。
彼女の足りない何かを代わりに埋めることも出来るのではないか?
そうすれば、きっと––––––––––––––––––––。
呆然とする少女の頭をそっと撫で、どこまでも優しい言葉をかけていく。暴力と悪意に晒されて凍えてしまったその心を溶かしてあげるように。
「私が、エミを護ってあげるから。なにも努力なんてしなくていいから、なにも背負わなくていいから。アンタの心は私が圧倒的な幸せと希望で埋め尽くしてあげる。だからっ……」
絶望なんかに魅せられないで、とは言えなかった。それは今の彼女にとってはあまりに残酷すぎる。
「だからっ、あと少しだけ待っていて。私が、必ずアンタを救いに来るから」
目を涙で潤ませながら、最高の笑顔を見せつけてやる。エミの事を思うととても辛かったが、彼女との新たな道を見出させたことが心の底から嬉しかった。
一筋の光が頬をつぅーと伝い、エミの額へ滴り落ちる。
その瞬間、無感情な少女の顔がほんの微かに、されど確かに綻んだように見えた。
「わかった、まってる」
それは少女が産まれてから初めて感じた幸せという感情だったのかもしれない。
––––––––––––再び、世界は歪み出す。
白くほのかに黄色い光の群れが、温かくそして優しく空間を包み込んでいく。
少女を抱き締めたまま黛は思考に身を任せていた。
どうすればエミを護ることが出来るのか、どうすればエミの事を理解することが出来るのか。
その答えは簡単には見つからないだろう。これから先五年、いや十年、いやもしかしたらもっとかかるかもしれない。
だがこれだけは決めた。
もう自分に嘘をつくのはやめよう。
しかしそれは己の弱さを誤魔化すことが出来なくなるということ。きっと辛く厳しい道になることであろう。
それでも黛瑠璃子の心は驚く程に澄み切っていた。