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不完全ラズライト  作者: 深海船隻
22/28

第二十話 柏恵美

 其れはまるで泡のような、それとも光のような。


 薄ぼんやりと光っているようにも、暗くどんよりと淀んでいるようにも見える摩訶不思議な空間。


 視覚も、聴覚も、触覚も。身体からだも、記憶も、精神も。黛瑠璃子まゆずみるりこという存在の全てが曖昧で、底なしの谷底を延々と堕ちていくような奇妙な感覚が全身を包み込んでいる。


 そんな何処までも続いていそうな淡く虚ろな世界に、ふと一人の少女の意識がともった。


 ここは何処。


 水の中にでも浸かっているみたいに、なんだか手足の感覚がはっきりしない。それどころか今自分が前後左右の何方を向いているのかすらよく分からなかった。

 それでも海の底からゆっくりと浮かび上がるかの様に、意識は徐々にその形を明確に取り戻していく。


 ––––––––––––––––覚醒。


 重い瞼をなんとか持ち上げると、途端に視界は柔らかい光に包まれた。なんとも眩しくて思わず顔を逸らしてしまう。

 寝転がったまま半開きに視線を走らせると、そこは見知らぬベッドの上であった。


 理由はないがなんだか落ち着かない。心の奥底より沸き起こる謎の義務感に駆り立てられ、朦朧としながらもゆっくりと其の身を起こす。


 んッ。


 その瞬間、鈍痛が脳を劈いた。

 意識を取り戻したからというものなんだか頭の調子がおかしい。上手く口では言えないが、大事な何かを忘れてしまっているかのような錯覚を覚える。


 記憶の欠如、いや認識の混乱とでもいうべきであろうか。


 何故気を失ったのか、そもそもそれまでに何があったのか。

 思い出そうといくら頭を捻っても、エミの好きだと言っていた音楽を聴いたあたりからの記憶がほとんど無い。まるで半透明のベールにでも包まれているかのように酷く曖昧だ。

 額を熱くしながら云々唸るが成果は無し。結局ただ時間を無駄に浪費しただけであった。


 溜息一息、諦めて床に足を投げる。

 夢の中にでもいるかの様になんだか足元がぽわぽわとしていた。床と体との境界線が曖昧で、文字通り地に足が付いていないかのような錯覚を覚える。


『なんなのよ、訳わかんない』


 呆れたように、疲れたように吐き捨てる。

 自分の声もまるで出来損ないのラジオのように上手く聞き取ることができない。

 もう知るか、と悪態でもつきたい気分であった。


 しかしそうダラダラもしていられない。とりあえず今自分が置かれている状況くらいは把握しておきたかった。


 漸く目も慣れてきたので辺りをぐるりと見渡してみると、そこには富裕リッチという言葉がよく似合う重厚で絢爛な空間が広がっていた。

 部屋自体は大して広くはないが、白塗り箪笥なんかを筆頭に置いてある家具や雑貨はどれも高そうであった。なんとなく絵本に出てくるお姫様の寝室といった印象を覚えた。

 勉強机やらぬいぐるみやらがあるところを見る限り、ここが子供部屋だということは容易に想像できる。


 そして当然のことだが全く見覚えはない。


 平凡な一般家庭出身の私には、あまりにも不釣り合いな一室だ。こんな如何にもお嬢様がお暮らしてなっておりますわみたいな家、住むのはどんなに早くとも来世以降になるだろう。

 しかしこの部屋をこうして眺めていると、何故だか心の底から懐かしいような気持ちが噴き出してくる。


 どこでみた–––––––––と小さい頃の記憶を懸命に当たってみるが、またもや不発。吃驚するぐらい何も覚えていない。

 まさかエミに出会うまで何にも興味を持たず適当に生きてきた弊害がこんなところで出てくるとは。


 目を覚ましてからというもの、あっちを見てもこっちを見てもわからないことだらけ。なんだか悔しいような心細いような微妙に気分になり思わず肩を落とす。


『ん?』


 視界の端に何やら違和感を感じた。

 ふと気になって視線を運ぶと、それは棚に立てかけられた一枚の写真立てであった。何気なしに手に取ってみる。


 どの家庭にも必ず一枚は有りそうな家族の集合写真だ。

 左側には父と思われる少し気難しそうな中年の男が、反対側では夫より随分若い母が弱々しく微笑んでいる。そしてその二人に挟まれる形で中央に小さな女の子が写っていた。

 百人が見れば百人が良い写真だと言いそうな温かい一枚。しかし黛はどうしてもその写真を真っ直ぐな目で見ることは出来なかった。


 ––––––––女の子の目が、笑っていないのだ。


 両親の間で幸せそうに飛び跳ねていても可笑しくない年頃だというのに、その瞳はまるで魂が抜けてるかのように虚ろであった。

 それだけではなく目以外にもこの少女はなんだか全体的に『薄い』ような気がするのだ。生きているようにも見えるし、死んでいるようにも見える。   

 その空虚な様は人というよりもまるでカカシのようであった。



『カカシ……?えっ』



 自分で言っておいて脳に電撃が走った。カカシ、その単語に酷い既視感デジャヴを覚え–––––––––––––––次の瞬間、黛はその少女の姿を食い入るように見つめていた。


 整った顔立ちに、肩のあたりで切り揃えられた黒い髪。人を試すような挑発的な視線も、薄気味悪いあの微笑みも見当たらないが、決して見間違えることは無い。


 彼女は親友であり、そして私にとっての最も大切な存在なのだから。其の名は––––––––––––。



『えっ、エミ?』



 そんな時であった。



「あなたやめてッ!!」



 階下から突然絹を裂くような女の悲鳴が響く。テレビの中の話ではない生々しい人の声。それは冗談でも演技でもなく、恐怖に裏付けされた誠の叫びであった。


 何が起きたと慌ててドアノブへ手を伸ばす。されどどうしたことか。五本の指は金属に触れることなくそのまま扉の向こう側へとすり抜けてしまった。


『えっ?』


 冷静沈着な黛に似合わない素っ頓狂な声が漏れる。


 今何が起きた?


 勘違いかもしれないし、気のせいかもしれないと恐る恐るもう一度腕を突き出してみる………………が、結果は変わらなかった。

 そのまま当たり前のように掌はドアの中へと溶け込んでいく。まるで幽霊か透明人間にでもなったみたいであった。


『どうなってんのよ……成香やテレパシーぐらいならまだ信じられるけど、こんな事って……』


 あまりにも多くのイレギュラーの前に、黛の脳の処理速度は限界を超える。

 目を覚ましたら見知らぬ場所に一人きりで、何があったかも思い出すことが出来ない。加えてエミに似た少女の写真に、突如響く正体不明の悲鳴。そして極み付けにこの体の霊体化……。


 もう何が何だかさっぱりわからない。


 これまでに何度も修羅場を潜り抜けてきた黛でなければ、すでに発狂していてもおかしくはなかった。あまりにも問題が多すぎる。幾ら頭を捻っても、考えれば考えるほどに謎が謎を呼び、思考は更に複雑に絡まっていった。


 死ぬほどイライラする。もう全てを投げ出して、不貞寝でもしてしまいたい。そんな諦めにも近い考えが頭をよぎったその時。



「エミッ!!」



 –––––––––––––––––エミ。

 

 階下から再び叫ぶような声が聞こえた。


 黛瑠璃子の中でガラリとスイッチが切り替わる。


 どこにでもいる普通の女の子から、一人しかいない柏恵美の支配者へと。

 愛しい人の名前が聞こえたその瞬間、其れ以外の全てがどうでもよくなった。


 何の躊躇もなしにドアをすり抜け廊下へ飛び出る。

 そのまま階段を下りるというよりも落ちると言った感じで一気に下り、未だ女の悲鳴の鳴り響く其の部屋へと体を滑り込ませる。



 ––––––––––そこに広がっていたのは信じられない光景であった。



「何か言ってみろカカシ女ッ!!」


 肉を激しく打ちつける生々しい音がひたすら連続する。


 だだっ広いリビングの中には写真に写っていた三人の親子がいた。中年の男に、若い妻と、幼い少女。


 男は苛立ち気に肩を怒らせ、妻は恐怖の前に跪き、少女はまるでボロ雑巾のように打ち捨てられていた。


 産まれたての子鹿のように情けなく震える母親の目の前で、男が娘を何度も何度も蹴り、殴打し、突き飛ばす。


 其のあまりにも凄惨な光景を前にして、一瞬思考が消し飛んだ。心が現実を拒絶しようとしている。

 歯を食い縛り目の前の状況を理解したその瞬間、心臓を鷲掴みにされるような不快感が胸を抉った。


「クソッ、クソッ、クソッ!!」


 男が拳を振るう度、小さな女の子の体は何度も床を跳ね転がっていく。血こそ出てはいないが、彼女の手足は既に数多の痣で埋め尽くされている。

 母親の悲鳴がこれでもかとぶち撒けられるが、男のイカれた暴虐は収まるところを知らない。


 あまりにも、あまりにも胸糞が悪い。


 暴力ってだけでも気分が悪いというのに、よりにもよって大の大人がこんな年端もいかない女の子を殴っているのだ。


 これを憎まずに、他にこの世の何を憎む。


 女にとって男の、幼な子にとって大人の暴力がどれだけ恐ろしいものであるか。こいつはそれがわかっていてやっているのか?


 分からずにやっているなら潰してやる。分かっててやってるなら壊してやる。


 激しい怒りの前に理性はいとも簡単に吹き飛ばされた。胸は煮え滾るように熱いというのに、頭は自分でも驚く程に冷めきっている。


 この糞野郎の頭蓋を叩き割って、頭に愉快な花を咲かせてやろう。

 何の躊躇もなく傍の棚に飾ってある花瓶に手を伸ばした。しかし今の黛の体は物質に干渉することはできない。先程同様、右手は花瓶をすり抜けて虚しく宙を切ってしまう。


『クソッ……!!』


 血が滲む勢いで奥歯を噛みしめる。額では青白い血管がビクビクと脈打っていた。やり場のない怒りが心の奥で梗塞し、気色の悪い震えが止まらない。


 目の前で虐待が繰り広げられているというのに、黙って見ていることしかできないというのか。無力感に胸が押し潰される気分であった。少女が一発殴られる度に、黛の精神も岩を削るようにゴリゴリと抉れていく。


 それでも目を逸らさずにじっと彼女の姿を見つめ続けた。それはまるで早く終われと神に祈っているかのようであり、理不尽に晒される少女を慈しむかのようでもあった。


 それからどれだけの時間が過ぎたであうか。やがて男はもう疲れたとばかりに拳を下ろすと、当てつけのように大きな溜息をついた。


「なにか反応してみろッ!!これだけ何でも与えてやってるのに、一体何が不満なんだッ!!ふざけるなこの失敗作めッ……クソッ!!お前を育てているとなんだか気が狂いそうになるッ!!」


 男は捨台詞を吐き捨てると、乱暴にドアを蹴飛ばし家の外へと出て行った。


 お前を育てているとなんだか気が狂いそうになる。

 

 男のその言葉が何故か異様に心に引っかかった。

 正直体がまともならあんな奴は今すぐにでも潰してやりたい。だがそんな男の考えに少なからず親近感を覚えてしまったのもまた事実なのだ。


 –––––––そうか父親ですら、柏恵美が理解できなかったのか。


 暴力の残り香が漂う部屋の中には、女と少女の二人だけが残された。母と思われる女性は父親がいなくなったことを確認すると、そそくさと少女の元へと駆け寄る。弱々しく項垂れる娘を優しく抱きしめ、謝るように其の名を呟く。


「恵美ッ……」


 やはり彼女はエミだったのか。確かに近寄ってよく見てみるとなんだか面影がある。少女をエミだと確信した瞬間、あの男に対する猛烈な殺意が再び湧き上がったが、深く息を吐いてなんとかこれを抑え込んだ。


 今はとにかく冷静になれ。


 これはもしかしたらエミの過去なのかもしれない、そんな考えが頭をよぎった。


 なぜ私は彼女の過去を見ているのか、どんな方法を使って見せられているのか。双方あまりにも突拍子もなさすぎて想像もつかない。

 物凄く精巧リアリティな悪夢なのだと言ってもらった方がまだ納得できる。


 だがしっかり見届けなければならない。そんな気がした。真の意味でエミを理解し、これからも未来永劫彼女の隣に立ち続ける為には、どうしてもその過去を知る必要がある。


 凛と澄んだ気持ちでひたすらに母子を見つめる。しかしその心の静寂は直ぐに打ち崩された。無表情のまま俯く恵美に向かって、母親がかけた其の言葉によって。



「大丈夫、恵美のことはお母さんが守ってあげるから」



 –––––––––––––––––––はァ?



 確かにそれは当たり前と言えば当たりの前の発言だ。其の手のドラマならば泣けるだの感動するだのと彼方此方で持て囃されることだろう。


 だが黛瑠璃子には無理だった。今まで命の危険も顧みず、実際に彼女を護り続けてきた支配者には到底受け入れることはできない。其の妄言は女帝の逆鱗に触れるには充分過ぎる。


 頭の血管が五、六本は纏めてぶち切れる。脳は焼け爛れ、眼球の奥が沸騰する。それ程までに凄まじい怒りが業火の如く燃え上がった。


 この女は今何と言った?大丈夫だと、守るだと……?


 怒りは頂点に達し、もう抑制は効かない。


 瞬間、大喝が響き渡った。



『大丈夫なわけないじゃないッ!!』



 どうせこの母親には聞こえない。そう分かっていても黛の本能的な部分が叫ばずにはいられなかった。



『何が守ってあげるよ、この口だけ女。腕力で勝てなくても親なら子供の為に立ちはだかりなさいよッ!!確かにアンタは意気地なしかもしれない、それでも警察に通報するとか方法は他に幾らでもあるでしょッ!!助けると言ったなら本気で助けろ、自分の言葉に責任を持てッ!!ふざけないでよ、そんな中途半端な希望を無責任にただ押し付けて……それじゃ、それじゃエミがあまりにも可哀想じゃない……』



 あの黛が目尻に涙すら滲ませながら、吠える。それほどまでにショックな出来事だった。怒りも呆れも通り越して只管に悲しい。


『何なのよ……エミはこんな酷い世界で生きてきたっていうの。叶いもしない張りぼての希望に無理矢理縋らされて、何もしてくれない無責任な大人に耐えることを強制されて……そうよッこれなら、これならいっそ圧倒的な絶望で全てを押し潰された方がまだッ––––––––––––』



 言い切る前に思わずハッとなった。


 絶望でしか人は救えない。


 そんなフレーズが頭をよぎる。おかしい、あまりに狂った思想だ。馬鹿げていると一笑に伏すのが常識だろう。だがしかし、今の黛には笑えなかった。

 其のイカれた思想に共感はしなくとも、理解はしてしまったのだから。


 今までの黛だったらそんな事はあり得ないと一方的に切り捨てたはずなのに。もしかしたらエミの過去の世界にいるから、こんな思考回路になったのだろうか。


 もしかして、彼女はこの苦しい現実から逃れる為に死を追い求めるようになったのだろうか––––––––。


 いや、違う。そんな単純なことではない気がする。

 エミは真に殺される事を願い、心の底から其の事に喜びを感じていた。



 ––––––––––––きっと彼女の心の中にはもっと黒くて歪んだ何かがある。



 何故だろう。彼女のことが理解したくて、漸く少し手が伸びたはずだというのに余計に分からなくなっている。



 何だ、柏恵美とは何なのだ。何故彼女は殺されたがる。何を抱えている。どうして、何。狩られる側の存在とは。死、死。疑問、理解不能。わからない。暗闇。意味はあるのか。黛瑠璃子。狂、狂、狂。あり得ない。思想。エミ。根本から違う。生。救済。哲学。意味不明。本質が。快楽。支配者と。教えて。現実からの。嘘。柏恵美–––––––––––––––––––––––交錯し絡み合っていく、希望と絶望。



 柏恵美に対する無理解が飽和を迎え、記憶の世界は再び歪に歪み始める。まるで景色という水彩絵具を掻き混ぜるかのように、目の前の全てが混濁した––––––––––。


 柏邸のリビングはもうそこにはない。


 突然暗いトンネルの中を猛スピードで駆け抜けているような感覚が黛を襲う。まるで新幹線の窓から外を眺めているみたいに、ありと凡ゆる記憶が網膜を通って次々に後方へと走り抜けていく。



 それはM校の屋上で黛瑠璃子に屈服する柏恵美であった。


 それは小さな女の子に容赦なくバットを叩きつける少年を見て恍惚に浸る一人の少女であった。


 それは獅子に命じられるがままに、己を餌と為していく女性であった。


 それは腹から血を流して絶命する老人と、その前で狂ったように叫ぶ若い男であった。


 そして、それは中年の男の胸元に刺さったナイフを踏みつける、小さな男の子(狩る側の存在)であった。



「アっ……あッ」



 怒涛の如く押し寄せる記憶の濁流。其の全てが柏恵美であった。

 彼女を理解する為、真に彼女の友となる為、私が心の底から求め続けたものがそこにはある。彼女の記憶が、その思想がすぐ手の届くところまで来ているのだ。


 だというのに受け止めきることが出来ない。


 理解しようといくら頑張っても、手の平の隙間から次々に柏恵美が溢れ落ちていく。



 それは黛瑠璃子にとって、あまりにも大きすぎた。














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