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不完全ラズライト  作者: 深海船隻
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第十九話 不完全ラズライト

 






 遂に、この時がやってきた。


 私が初めて彼女の異変に気付いたのは先月の二十日頃。私を見つめるルリの視線がほんの一瞬、されど確かにブレた瞬間であった。

 出会ってから其の日までずっと、限りなく純朴で何処までも真っ直ぐであり続けた彼女の瞳。其れがまるで罪悪感から目を逸らすかのように淡く揺らいだのだ。

 兆候は他にも幾つかあったのだが、其処で漸く確信するに至った。


 このままでは黛瑠璃子ルリ支配者ルリではなくなる。


 香車くんが死んだ今、私に絶対的な絶望を与えることが出来るのは最早彼女だけ。そのルリがもし消えてしまったならば––––––––––––そう思うと居ても立っても居られなかった。

 

 今日までの約一ヶ月間、私はルリを取り戻す為に凡ゆる手を講じ、凡ゆる策を立て、柏恵美という存在の全てを尽くしてきた。

 思い返せば辛く厳しい道のりであったけれど、其処に一切の後悔はない。寧ろ心を覆う曇天がすうと晴れるかのように、清々しい気分が胸一杯に広がっていた。


 私の支配者が、再びあの圧倒的な絶望の輝きを取り戻してくれるなら。この程度の事、苦でもなんでもない。其の想いを心に刻みつけるように、一歩一歩を踏みしめながら彼女の元へと歩み寄る。


 柏恵美と黛瑠璃子。私達はお互いを唯一無二の親友だと認め合い、そして何より支配する側とされる側の存在であった。そうであったはずなのに–––––––––––––––。


 床の上に情けなく縛り付けられたかつての支配者、その目の前で歩を止めゆっくりと視線を真下へ落とす。

 敗者は無様に地を舐め、勝者の前へと跪くのみ。一年前のあの日の事を思い出し、つい口元に笑みが溢れた。


 ルリに全ての選択肢を潰され、そして完全に屈伏したあの瞬間。率直に言おう、あれは最高の一時ひとときであった。

 思い出すだけでも、目は白剥き、鼓動は加速し、呼吸は荒れ狂い、震えは止まらない。

 あれほどまでに濃厚なる絶望の甘味、決して死ぬまで忘れることはないだろう。間違いなく私の人生の中で最も幸福だと言える瞬間であった。


 しかしそれも今は遠い昔の話。


 時の流れは必ず人の在り方を変えてしまう。人間とは誰しもが日々進化と退化を繰り返し、何処かへ向けて生まれ変わり続けていく生き物だ。その場に停滞することは決してなく、絶対という言葉は存在しない。


 人は思っている以上に簡単に揺らいでしまう。


 其の結果が今であった。勝者であったはずの黛くんはこうべを垂れ、代わりに敗者であったはずの私がそれを見下ろす。


 なぜこうなってしまったのか、何処で彼女は道を間違えたのか。いや悪いのは彼女だけではないだろう、私の方にも少なからず責任がある。


「エミ……」


 蠅の羽音よりもか細く弱々しい声。

 かつての支配者の縋るような瞳に、胸が張り裂ける思いがした。


「やめてくれ……」


 彼女に聞こえぬよう、息を殺しそっと呟く。

 黛くんのこんな意気地が無い姿を見るのが悲しく、そして途轍もなく虚しい。己の完璧なる支配者が惨めに崩れていく様など、決して見たくはなかった。


 だからこそ、此処で引導を渡す。


 此の不完全なラズライトを完膚なきまでに打ち砕き、元の崇高で高潔なる私の支配者ルリを取り戻すために。



「神楽坂くんは狩る側の存在ではない」



 ぼそりと、いっそ呟きともとれる其の一言に黛はこれでもかと目を丸くする。あまりにも大きな衝撃が生んだ一瞬の空白。されど次の瞬間、黛は脳汁が全て油にでも変わったかのような凄まじい怒りをぶち撒けた。


「ねぇ……なに言ってるの、エミ。今更そんな嘘で誤魔化せるとでも思ってんのかしら。私からエミを奪おうとする奴は、どんな奴だろうと生かして返すわけにはいかない。そいつは殺さなきゃいけない人間なのよッ!!」


 眼を見開き、喉が引き裂けんばかりに吠える。これ以上はないというほどの烈烈たる逆鱗であった。

 されどそんな姿を見せられても、私の心には恐怖も絶望も一切湧かない。ただただ虚しさだけが胸の内を埋め尽くしていく。成香の呪縛とはこれほどまでに人を変えてしまうものなのか、と。


 チンピラめいた薄っぺらい口調で、乱暴な言葉を並べただけの自分勝手な思想の押し付け。これでは俗に言う口だけ人間というやつではないか。

 全く、全く以ってルリらしくない。まさか根がここまで深くまで入り込んでいるとは思いもしなかった。今なら断言できる、目の前の()()は最早黛くんではない。


「……少し話を変えようか。成香の発動条件を覚えているかね?」

「ハァ?」

「そう、成香になるのは棗くんの死を其の目で見たものだけだ。確かにそのほとんどは黛くん、君に倒された。だが彼等はまだ潰えてはいない。あと一人、あと一人だけ……君は最後の成香を忘れている」


 そう言い深く息を吸い込んで喉の奥で一度溜める。

 これは賭けだ。全てを突きつけた後、黛くんがどうなるか私も確信が持てない。狂気に飲まれこのままズルズルと崩壊していくか。それとも己の心の弱さを認め、それを打ち倒す事が出来るか。全ては彼女にかかっている。


「成香は……」


 不安が喉の奥を締め上げ、思わず言い淀んでしまう。しかし次の瞬間にはいつも通りの不気味な微笑みを浮かべ、我に返ったかのようにカッと目を見開いた。


 何をしているんだ、私らしくもない。黛瑠璃子は柏恵美の支配者だ。ならば私がすることなんて一つしかないではないか。

 

 我があるじを信頼し、此れに全てを託す。



「成香は君だよ、黛瑠璃子くん」



 白けたアパートのリビングに私の言葉がどこまでも深く反響していく。世界は鎮まりかえり、音もしなかった。


「ふざッ……」


 先程を遥かに上回る勢いで黛の全身がどす黒い怒りで満ちていく。瞳孔は開き切り、白く美しい肌は鬼の様に紅く染まっていた。


「ふざけんなァッ!!私がエミを殺すわけないだろォッ!!」

「そうだね、君の言う通りだ。成香は狩られる側の存在を殺そうとするが、君は私を殺すことは出来ない。確かに大きな矛盾だが、それが問題なのだよ。一度生じたゆがみを放っておけば、必ずどこかにひずみが生じる。だがそれでも君はその矛盾を存在しないモノとして切り捨ててしまった。成香でありながら、殺人から目を逸らしたのだ。そんなことをすれば一体どうなると思う?」


 怒りに震える黛とは対照的に只管冷静に言葉を紡ぎ続ける。息をつく暇もない怒涛の畳み掛けに、黛の開きかけた口が思わず閉ざされる。


「簡単な事だ。殺すことが出来る別の獲物を探そうとする。君は私以外の誰かを狩りたくて狩りたくて仕方のない危険な存在になっていたのだよ」


 そう、其れが真実。実際に黛くんは神楽坂くんの挑発に我を忘れ彼女を殺そうとした、それが何よりの証拠だ。

 しかしそれでも黛は事実を認めようとはしない。


「嘘だッ!!」

「じゃあその包丁はなんだい。それで何をするつもりだったんだ?君は神楽坂くんと樫添くんに向かってはっきりと言ったよ。死ねと、殺すと」

「当たり前でしょッ!!だって彼奴らは––––––––––––––––––」

「二人には君の潜在的な部分に居座る香車くんを引きずり出すために協力してもらっただけなのだよ。新たな狩る側の存在が現れれば確実に君の心は揺らぐ、そう読んでね」

「ちっ、違うッ!!私はそんなに弱くないッ!!成香の呪縛なんかに呑み込まれるような人間じゃないッ!!」



 弱い。その言葉を柏恵美は見逃さなかった。



「いいや、君は弱いよ黛くん」



 瞬間、黛の体 肩がビクリと不自然に跳ねる。まるで受け入れられることの出来ない真実に、体が拒絶反応を起こしているかのようであった。


「ついこないだまで平凡な人間だった君がそんなにすぐ強くなれるわけがないだろう。一年間よく耐えたとは思うが、突いてみれば直ぐにボロが出た。君のその高潔な精神は嫉妬と独占欲に喰われて醜く腐り果ててしまっていたのだよ」

「ッ……」


 真実を飲み込むことができないのか、かつての支配者は不自然なまでに黙り込んでしまう。頭を伏せている為、彼女が今どんな顔をしているかはわからない。


 あともう一押し、そう確信した。最後に彼女が最も言われたくないであろう台詞を突きつけ、この不完全ラズライトに終止符ピリオドを打つ。



「黛くん、君はもう私の支配者ではない」



 その一言が決定打となった。


 黛瑠璃子の世界が、崩壊する–––––––––––。



「五月蝿いッ!!そこを退けぇェエッ!!」



 筆舌に尽くし難い鬱屈が、其の身を縛る三重の恐怖を打ち破ったと言うのか。

 まるで重い鎖を引きちぎるかのように。黛瑠璃子は再び立ち上がった。不安定にふらつきながらも刃を憎き仇(神楽坂)へと突きつけ、一気呵成に襲いかかる。


「第二段階を、振り切った……!?」


 神楽坂君が思わず驚嘆の声を上げる。


 全く、彼女の執念深さには本当に驚かされる。だが先に言った筈だ、あとは私に任せてくれと。


「まだ話は終わってないぞ、ルリ」


 殺意を以って神楽坂へと突き出された包丁、されど其の凶刃が彼女の胸を貫くことはなかった。神楽坂と包丁の間へ躊躇なく差出せれる柏の片腕、その掌の中心に深く刃が突き刺さっていく。

 途端に鋭い激痛が右手を劈いた。今迄経験したことのない凄まじい痛みであった。じわりと鮮血が滲み出し、あっという間に足元が朱に染まっていく。


 生々しい赤と濃厚な鉄の臭いに、其の場にいた誰もが呆然となる。あまりの衝撃に認識が追いついていないという様子であった。しかし漸く「柏恵美を刺した」と知覚したのか、その中で黛瑠璃子だけが情けなく床に膝を付く。


「えっ、違っ、なんで、エミ、違うッ、あれっ」


 その顔から一挙に血の気が引いていくのが見て取れた。瞳から色が消え、まるでずぶ濡れの子犬のようにガタガタと震えだす。


「黛くん」

「え」


 その頬を空いた左手で力一杯(はた)く。重く、そして優しい音がリビングの中に響いていった。


「目を覚ましてくれ」


 耐え難い激痛に晒されながらも、柏の瞳はなお真っ直ぐに黛を見つめる。呆然とする黛くんを尻目に、包丁の突き刺さった右手を逆に力強く握りしめた。


「これは弱さの象徴だ。私を殺させないと、護り切ると誓った君にこんなモノは似合わない」


 黛の腕から包丁を奪い取り、そのまま傍へ投げ捨てた。石の様に固まる彼女の左頬にゆっくりと血だらけの右手を這わせる。


「恨みも憎しみも嫉妬も独占欲も君には必要ない。ルリはただルリでいてくれればそれでいいんだ。だがどうしてもそれが出来ないというのなら」


 彼女が狂ってしまった最大の原因、それは私の事を護りきれるかというプレッシャーではない。

 黛瑠璃子を真に苦しめた事とは–––––––––––。



「君が望む私の全てを献上しよう」



 柏恵美を理解できないこと。

 自分が一番大切に思っている人の心に寄り添えない悲しみが、彼女を苦しめその心に成香の毒牙が突き刺さる隙を生んでしまったのだ。

 其れは私の責任でもある。黛くんの事を完全無欠の支配者だと無責任に信頼し、彼女の苦しみに気付いてあげることができなかった。

 だからこれは罪滅ぼしだ。




「戻ってこい、ルリ」




 その瞬間、黛の朱に揺らめく視線と柏の瞳が重なった。

 神楽坂君に話は聞いている。例の共有の能力とやらの発動中には自分も心を覗きこまれてしまうのだと。

 それを利用して、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 共有リンク開始スタート––––––––––––––。



 そうだ、これでいい。私は信じている。君が再び勝者となる事を、()()()()()



 現実は彼方へと遠退いていき、意識は記憶の世界の中へと吸い込まれていく。全ては白に包まれ、柏恵美と黛瑠璃子は–––––––––––––––––––––––––一つになった。









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