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不完全ラズライト  作者: 深海船隻
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第十八話 無定見サタナイト






「黛、センパイ……?」

「大丈夫ですかッ!!お怪我はっ––––––––––––」


 心配そうに駆け寄る神楽坂さんを手で制し、そっと耳元に口を寄せる。

今誰かが見ていた。そう囁いた瞬間、彼女は即座に己を切り替える。人の良さそうな温厚は消え失せ、その表情はどこまでも冷たく凍りついていく。

 先程までの神楽坂藍里とはまるで別人。これがあの黛センパイと対等以上に渡り合った彼女のもう一つの顔。触れるのも躊躇うようなその鋭さに身の縮む思いがする。


「思ってたより早いですね」

「だね……まぁまだ黛センパイだって確定したわけじゃないけど」


 息を殺すような呟きにそっと首を縦にふる。確か柏の話によると支配者の崩壊は早くとも今日の深夜頃になるとの事であった。まさか黛センパイがこんなにも早く仕掛けてくるとは、由々しき事態である。


「取り敢えず柏ちゃんに報告しなきゃ……」

「それがいいと思います。勝手に動いて彼女の計画が狂うのだけは避けたいですから」


 不安気が混ざる樫添のものとは違い、その口調はいたって冷静であった。素直に凄いと感心する。私も修羅場はそれなりに潜ってきたつもりだが、こんな状況でここまで落ち着いていられる程肝は座っていない。

 予想外の事態に少し困惑していたが、彼女の冷静沈着ぶりを見ているとなんだか気が楽になっていく。


「わかった。じゃあ私が行くから神楽坂さんはここで待っていて」


 無言の首肯が応と答える。いつ黛が此方に乗り込んでくるか分からない以上ちんたらはしていられない。慌ただしくその場から立ち上がると、早足で柏の元へと向かった。


 ドアを抜け灰色の暖簾を潜り台所へ至る。途端になんとも美味しそうな香りが鼻腔をくすぐった。こんな時だというのに思わず口の中が唾で溢れる。見れば丁度、柏が炒飯を皿に分け終えたところであった。

 

「おっ樫添くんか、丁度出来上がったから運ぶのを手伝ってくれないのか?」


 こちらに気付いた柏が「どうだいい感じだろ」とばかりに皿を押し付けてくる。しかし私の表情から只ならぬものを感じたのかすぐに顔を顰める。

 

「何かあったのかい?」

「さっき窓から誰かがこっちを覗いていたの」


 単刀直入。柏はその言葉に一瞬だけ目を丸くするが、すぐにいつも通りの不気味な微笑を浮かべる。


「早いな。やはり神楽坂君の言っていた能力の発現とやらが影響しているのだろうか……。ふふっ」

「なんで笑ってんの?」

「いやあ嬉しくてね。これはいい流れだよ。うん、少し計画を変えた方がいいな」


 途中から私のことなど忘れたかのように一人でぶつぶつと呟き続ける。置き捨てにされたみたいでなんだか少し腹が立つ。


「いい流れ……?なんなの、私にもわかるように言ってくれる」

「おぉすまない少し自分の世界に入り込みすぎた。要するにだ–––––––––––」



 しかし私は其の言葉を最後まで聞き取ることはできなかった。

 –––––––––––––––––––––––瞬間、何処かで金属音が爆発する。


「ひゃッ!!」


 吃驚仰天、体が跳ねる。驚きのあまり心臓が口から飛び出るかと思った。轟音は玄関の方から、いや正確に言うならば扉の向こうから鳴り響いていた。まるで借金取りでも来たかのようにドアとドアノブを叩く嫌な音が只管連続する。間違いない黛センパイだ。


「ほう、もう来たか。やれやれ彼女は本当に私を楽しませてくれる」

「馬鹿言わないでッ!!」


 ここのアパートは古く、扉も薄い。今の黛センパイならバールでも使って無理矢理にこじ開けてくるかもしれない。そうこうしているうちにも金属は軋み、不協和音はより一層激しさを増していった。


 風雲急を告げる。


 こんな碌に逃げ場もない手狭な場所で戦うのはあまりにも危険だ。絶対に黛センパイを部屋にあげるわけにはいかない。迷っている暇はなかった。


「早く、ドアを押さえてッ!!」

「了解した」


 怖じ気付いていてはこちらがやられる。そう心に鞭打って、ドアへ駆け寄ろうとしたその瞬間––––––––––––––––––––––––––––ガチャリ、と小気味良い解放音が玄関に響き渡る。あまりにも呆気なく、あまりにも拍子抜け。そんな一瞬であった。



「 え 」



 此方の困惑を置き去りに、鍵は外れ扉は一挙に開け放たれる。


「はぁっ!?なんでッ!」


 視界の先に広がる夜の闇、その中で一つの人影がどんよりと揺らめいていた。影は徐々にその輪郭をはっきりとさせていき、それに伴って漆黒の中から見慣れた顔が少しずつ浮かんでいく。

 蒼みがかった黒の長髪に、透き通るような白い肌。決して見間違うことはない。


「黛センパイ……」


 黛瑠璃子。そこにいたのはやはり彼女であった。


 誰よりも勇気があって、誰よりも友達思いで、誰よりも一生懸命で、そしてなによりとても優しい私の先輩。

 よく彼女を知らない人は、見るからに危なそうだとか、あれは人を殺す目だとか酷い事を言うが、そんな黛センパイにも温かな一面があることを私は知っている。

 誤魔化さず、嘘をつかず、決して騙さない。己の認めた友人の為ならいくらでも必死になれ、辛い時には優しく私の側に寄り添ってくれる。

 こんな素敵な人、世界中探したってそうそういやしない。彼女は私の誇りであり、そして憧れでもある。だからこそ、だからこそっ–––––––––––––


「違う……」


 目の前の()()を黛瑠璃子だと許容することはできなかった。


 彼女の象徴ともいえるその凛然な瞳に既に光はない。いつも欠かさずに身につけていたヘアピンは何処かに消え失せ、艶やかな長い黒髪も乱れに乱れていた。

 そして外見以上に、その本質が変わってしまっている。なんとも弱々しいのだ。今までの彼女にはあった信念というか、一本芯の通った意志の強さという奴が全く感じられない。

 上手く口では言えないけれど、まるで心の中を抉り出して代わりに別の物を詰め込んだようなそんな歪な違和感を感じる。


 黛瑠璃子であった何かがゆらりと敷居にその一歩を刻む。瞬間、部屋中に気味の悪い家鳴りが響き渡った。木の軋む噪音とともに室内が緊張感で満たされていき、それは壁や床を伝って樫添の心と体にも深く浸透していく。胸元で脈打つ己の心臓の音が喧しくて仕方がなかった。


「下がって、柏ちゃん」


 怯みそうになるのを堪え、柏の盾になるように前に出る。

 今の黛センパイは威力不明の爆弾が服を着て歩いているようなもの。何をしでかすのか全く予想がつかない。

 いざとなったら私が柏を護らなくてはいけないのだ。


「……」


 されど黛はそれきり一向に動く気配を見せない。徐ろに其の顔を上げると、柏を色の無い瞳でただ只管に見つめる。呼吸は最低限で瞬きすらしない。余りにも不気味な沈黙、顔だけ見ているとまるで感情の無い人形のようであった。


 一体何がしたい。


 先が読めない状況に思わず冷や汗が首元を滴う。何も起きない、だからこそ薄気味悪く胸が詰まるような膠着状態が続いた。

 いや本当はたったの数秒程度の事だったのかもしれない。されどそこに恐怖と不安が掛け算し、まるで何十分もの苦痛に感じられる。


 しかし止まった時計の針は、突如意外な展開を以って再び時を刻み始める。



「エミ……」



 黛瑠璃子が、笑ったのだ。

 感情を失っていた支配者の顔がみるみるうちに優しく綻んでいく。それは嘲るような嘲笑でも蔑むような冷笑でもない、心の底からの純粋な笑顔であった。いや笑顔というよりも嬉し泣きと言った方が正しいであろう。

 感動、驚愕、歓喜、愉楽。数多の感情が混じりあって温かい安堵の色を描いていく。そこに先程までの歪な違和感はどこにもない。


「エミっ、まだ生きてたのね。よかった、本当によかった……」


 まるで咽び泣くようなか細くか弱い声。いつもは強気な彼女の瞳が淡く潤む。満面の笑みのまま、柏との再会を慈しむかのようにそっと優しくその瞼を拭った。


「黛センパイ……」


 そんな黛の姿に緊張の糸が一挙に断ち切れた。

 肩からどっと力が抜け、御霊まで飛び出そうなくらいに深く長い溜息をつく。

 胸の内から不安が吐き出され、代わりに嬉しいような誇らしいような不思議な気持ちが満ちていく。


 やはり黛センパイは強い。


 確かに柏の言う可能性も一理ある。だが結果として彼女は狂気に飲みこまれることなく己の弱さに打ち勝つことが出来た。それがどれだけ難しいか、かつて自分勝手な復讐に取り憑かれてしまった私にはわかる。


「ははっ……あはははっ。やっぱそんな簡単に堕ちるようなタマじゃないですよね。さすがっ、流石黛センパイですッ!!」


 依存と偏執に打ち勝った誇り高き勝者へ惜しみない賛歌を贈る。気付けば勝手に足が動いていた。体は軽く、まるで跳ねるように彼女の元へと駆け寄る。

 致し方ない事とはいえ、友人を騙し傷つけてしまったことに変わりはない。早く全てを話して、彼女に謝りたかった。



–––––––––––––––この時私は、罪悪感から早く解放されたいあまりに気を抜きすぎていたのかもしれない。



 だから、その一言を理解することができなかった。



「じゃあ、邪魔者は殺さないと」


「えっ」



 あまりにも突然で唐突な殺意。頭の中が真っ白になり、思わずその場に立ち止まってしまう。其の言葉を頭の中で何度も反芻し、少しずつされど確かに残酷な現実を理解していく。


 殺す、誰が、誰を。

 

 殺す、黛センパイが、私を……?


 意識が遠退きかけたその瞬間、突如柏に思い切り腕を引っ張られた。肩の辺りに鈍い痛みが走る。非力な彼女らしからぬ力であった。


「待てッ樫添くん。黛くんはもうッ!!」

「えっ–––––––なんで」


 しかしそんな柏の声も、もう私の耳には届いてはいなかった。

 黛の懐からゆらりと引き抜かれた一振りの包丁、そこに全ての意識が吸い込まれていく。酷く冷たく見える鉄の塊、そこから浮かぶのは正しく殺人の二文字であった。


「何でっ……黛センパイ。違う、貴方はそんなに弱くないッ!!」


 樫添の必死な叫びなど気にも留めず、凶器(狂気)は此方の心臓を真っ直ぐに見据える。狩人にとって獲物の命乞いなど何の興味もない、そう言っているようであった。



「神楽坂藍里に樫添保奈美」



 友を見る目は、仇を睨む目に。人を見つめる瞳は、獲物を見下す瞳へと変わっていく。



「アンタらは私が殺すッ」



 瞬間、殺意が殺到した。

 朱に揺らめく瞳に、引き裂けんばかりにつり上げられた口角。其の身を以って刃と為し、纏う狂気はまさしく悪鬼羅刹の如し。凶刃の妖しい煌めきに、血の気は消し飛び寒気は弾ける。

 其の高潔な信念から殺人を忌み嫌っていた嘗ての彼女はもう其処にはいない。罪を背負う事に己の手を穢す事に少しの躊躇も感じられない。いやそもそも殺人が罪過であるという認識すら無くなってしまったのか。

 迫り来る鋭い眼光は真っ直ぐに私の命のみを貫く。


「ちっ!!」


 兎に角、この狭い玄関では碌に動き回る事もできない。柏の手を引きそそくさとリビングの中へと滑り込む。すぐさま後手に扉を押さえつけ、黛を玄関に隔離した。

 根本的な解決にはならないが、これで少しは時間が稼げるだろう。


「柏ちゃん次はどうすればいい?––––––––––––ツッ!!」

「どうした!?」


 突如足裏に走る突き刺すような激痛。見れば朱に混じって足元に無数の白い破片が散らばっていた。先程落として割ってしまった食器の欠片であろう。


 蹠を劈く其の痛みに、ほんの一瞬体から力が抜ける––––––––––––––––––––まさかその一瞬が命取りになるとも知らずに。


 瞬間、背後を凄まじい衝撃が襲った。

 心地の悪い浮遊感が全身を包み込む。華奢な体は冗談の様に宙を舞い、そのままの勢いで床へと倒れこむ。


「ぐッ!!」


 扉ごと樫添の体を吹き飛ばしたのは黛の容赦無い肩突ショルダータックルであった。いくら此方が非力とは言え何という力だ。これも彼女の執念の為せる技だというのか。

 歯を食い縛り顔を上げると、黛の冷たい瞳がぎょろりとこちらを覗く。剥き出しの殺意は、樫添を蛇に睨まれた蛙の様に其の場に縛り付ける。


「……アンタはあとでいいわ」


 情けなく蹲る私を無視し、黛は行ってしまう。リビングに入る際、彼女もまた割れた皿の欠片を踏みつけていたが、声を上げるどころか眉すらピクリとも動かなかった。


「まずい……」


 この先には神楽坂さんがいる。恐らく今の黛センパイにとって最も憎く、最も殺したいと願っている存在。


 黛瑠璃子と神楽坂藍里。この二人がかち合えば、最早流血沙汰は免れない。しかし最早全てが手遅れであった。


「黛さん……」

「神楽坂、藍里ッ」


 刃を突きつけ狂気に唸る黛に対し、神楽坂はこれを正々堂々正面から睨みつける。

 上辺だけ見れば廃工場での一戦と構図は同じ、しかし本質が違った。これは友を護る為の優しい闘いではない、憎き敵を殺す為の醜い戰いなのだから。


 時は滞り、緊迫が喉の奥を締め上げる。今にも爆ぜそうな其の不安定な揺らぎを、支配者の悲痛な叫びが全てを掻き消し吹き飛ばす。

 

「アンタが出て来るまでは全部上手くいっていたのに……エミは私の隣で笑っていてくれたのにッ!!。神楽坂ァ、アンタのせいで全部滅茶苦茶だ。アンタさえッ、アンタさえ死んでくれればッ!!」

 

 歪んだ心を剥き出しに、鬱屈した感情を吐き出し吠える。それは叫びというよりも嘆きに聞こえた。

 閑とした空間に響くのは黛の荒れた息のみ。全てを悟ったような薄く虚ろな表情で、どこまでも冷たくそしてどこまでも鋭くそっと憎悪の一言を呟く。



「死ね」



 先に動いたのは黛の方であった。

 烈火の如く猛進し、飛び掛かると同時に袈裟掛けに一閃。刃はすんでのところで宙を切り、神楽坂の艶やかな黒髪が数本宙を舞う。続け様に横薙ぎに放たれる凶刃。神楽坂は直様後方へ跳ね飛び、これも紙一重で躱す。


 僅か二、三秒の攻防に寿命が削られる思いであった。


 一太刀目は首元の頸動脈を、そして二太刀目は脇腹を躊躇なく狙っていた。一撃一撃が当たれば命に関わる正しく必殺の刃。

 

 されど神楽坂の方も負けてはいない。舞うように次々と急所へ放たれる刺突と斬撃を、時に避け時に手首を弾いてこれを華麗に捌いていく。


 本当なら今すぐにでも加勢したい。だが此の戦いに私程度が首を突っ込めるような余地はどこにもなかった。

 動きの先読みのお陰か、一見神楽坂の方が場を支配してるように見える。しかし実質的に追い詰められているのは彼女の方であった。

 神楽坂は全ての攻撃を紙一重で防いでいる。それはわざとではなく、そうしないと次の攻撃が避けきれないからだ。それほどまでに黛の攻撃は素早く鋭いのである。


 極端を言えば、綿毛の一つでも降ってくるだけで崩れてしまうような絶妙なバランスでこの膠着状態は成り立っている。下手に私達が手を出せば、その一瞬の内に神楽坂の体が貫かれてしまうことも充分に有り得るのだ。


 悔しい。神楽坂は私達のために戦ってくれているというのに、なんの力にもなれない己が情けない。私の様な周回遅れには只二人の無事を祈ることぐらいしかできなかった。


 戦いが始まってから既に数分、そろそろ攻め手にも受け手にも疲労の色が見え始める。加えて黛の方は攻めあぐねてる事に苛ついているのか、段々と攻撃が単調になっていた。


「クソッ!!」


 斬撃から間髪入れずに放たれる蹴撃。包丁を避けるのに精一杯だったのか、神楽坂の体がもろに吹き飛ばされた。鈍い音ともに壁に叩きつけられ、その顔には苦悶の表情が滲む。


「神楽坂さんッ!!」

「大丈夫ですッ!!」


 一見疲弊していても心は未だに気炎万丈。立ち上がろうと即座に其の身を起こす。


「グッ」


 されど力が抜けたかの様に再び膝をついてしまう。苦しげに歯を食いしばり、震える手が右足首へと伸びる。



 まさか、廃工場での傷が痛んだというのか。



「気ィ抜いてんじゃないわよッ!!」


 その一瞬の隙を突いて黛の左手が神楽坂の首根っこを捉えた。そのまま壁に押し付け、万力のように動きを縛り付ける。


「アッ……ガッ……」


 動けない少女に向かって、女帝は容赦無くその凶刃を振り上げる。刃物らしい鋭い煌めきに、明確な死のイメージが重なっていく。その瞬間、冷酷と絶望が交錯した。




「さよなら」


 


 気付けば勝手に体が動いていた。


「やめてッ!!」


 樫添保奈美が冷血の女帝に向かって飛び掛かる。両腕を羽交い締めにし、今まさに振り下ろされんとした凶刃の勢いを殺した。刃は神楽坂の目の前数センチで其の動きを止める。


「今だ神楽坂くんッ!!」

「はいッ!!」


 柏と神楽坂の金切り声が響くがそんなことを気にしている余裕はなかった。腕力的にも体格的にも明らかに此方が不利。懸命に押さえつけようと力を絞るが、直ぐに地から足が離れた。


「放せ、クソチビッ!!」


 怒鳴り声と同時に重力が消える。力任せの投げ飛ばし。視界がぐるりと一転し、勢いのままに壁へと背を叩きつけられた。

 冗談抜きに一瞬息が詰まる。塗り潰すような鈍痛が背面一杯に広がり、意識も徐々に朦朧としていく。


「ぐっ……」


 霞む視界の向こう、黛の冷酷な瞳が、其の殺意が私の胸を乱暴に抉り付ける。


「アンタさぁ……邪魔ッ」


 逃げなきゃ。


 分かっているのに頭を打ったせいか、体が上手く言うことを聞かない。声も出ず、ただ出来損ないの芋虫のように情けなく這いずりまわることしか出来なかった。

 其の頭上へ無慈悲に包丁が振り上げられる。を狩る断頭台は直ぐ目の前まで迫っていた。


 やめて黛センパイ、そんな怖い顔で私のことを見ないでよ。駄目、それを振り下ろしてしまったら、もう元の貴方には戻れなくなるッ!!


 声無き嘆きも狩人の耳には届かない。


 嗚呼、私死ぬのか。


 全てを諦め、全てに絶望したかのようなそんな悲しく寂しい断末魔。


 自分が死ぬのは怖くない。されど彼女に罪を背負って欲しくはなかった。


 だがもう其の願いは叶えられない。せめて最期は一思いに、諦念に押し潰されるようにゆっくりとその瞳を閉じる。


 視界が闇に包まれる。燕々と続く漆黒の中、頭を埋め尽くすのは自分の肉が潰れる嫌な音–––––––––––––ではなく嫌に冷たい金属音であった。


 ––––––––––なに。


 恐る恐る瞳を開く。其の先に広がるのは三途の河でも最後の審判でもない。目を閉じる前と何も変わらないアパートの一室がそこにはあった。


「まだ、生きてる……?」


 生という感覚が未だ上手く実感できない。きょろきょろと忙しなく瞳を動かすと、己の顔のすぐ側に一本の包丁が突き刺さっていた。


「ウワッ!!」


 驚き、跳ね飛び、後ずさり。

 何が起きたのだ。霞んだ瞳を強めに擦ると、徐々に周りが見えてくる。


「え?」


 思わず疑問が口をつく。

 私の眼の前で一人の少女、いや黛瑠璃子が倒れていた。先ほどまでの勢いはどこにやら。瞳は動揺に泳ぎ、ずぶ濡れの子犬の様に情けなく震えている。


「なんとか間に合ったな……」


 部屋の片隅で柏がそっと安堵の息をつく。その視線の先を追うと–––––––––––––––––––なんだアレは?

 其処にいたのは神楽坂さんだった。黛を見つめる彼女の瞳は何故か妖しく朱に揺らめいている。見ているだけで何だか胸の奥が苦しくなるようなそんな嫌な色であった。


「なに、これ?」

「簡単に言うなら心理操作みたいなものです。恵美さんに樫添さん、そして私が感じている三人分の恐怖を黛さんの潜在意識に叩き込みました。彼女は今胸の内より湧き上がる得体の知れない恐怖に其の身を縛られています。頭でわかっていても逆らえるものではありません」


 淡々と説明しているが、聞けば聞くほどとんでもない話であった。これが共有能力者の奥の手、神楽坂の言葉を借りるならば第二段階という力。

 口で説明された時は正直半信半疑だったが、こうして見せられれば納得するしかない。人の心を強制的に操る。身の毛もよだつ恐ろしい能力だが、味方となればこれ程心強いものはない。


「なんなんのよ、これっ……」


 強烈な恐怖感を前に其の膝をついた一人の少女。静かに震えるかつての支配者の下へ柏恵美は無言のまま一歩、そしてまた一歩と静かに近付いていく。


「柏ちゃん危ないッ!!」


 いくら神楽坂さんの力で無力化されているとはいえ、今の黛センパイに近づくのは余りにも危険すぎる。しかし柏はこちらへ振り向くとゆっくりと首を横に振り、そして静かに微笑んだ。最後に見えた彼女の横顔は何とも嬉しそうでもあり、そして辛く悲しそうでもあった。


「いいんだ。樫添くん、神楽坂くん、ここまで舞台を整えくれてありがとう。後は私に任せてくれ」









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