第一話 棗香車は潰えない
――――ちょっと早く来すぎたかしら。
翌日土曜日、某駅前に人は多くも少なくもなし。
都会からは少し外れているが、黛的にはこれくらいの街が一番居心地良い。
辺りは昨夜降り積もった雪が路面を残らず覆い尽くしており寒々しいことこの上ない。まさかコートだけでは飽き足らず手袋やマフラーまで出す羽目になるとは。
腕時計の針が示す時刻は午前九時、特にすることもないので早く出発したら一時間も早く着いてしまった。
待ち合わせをしている彼女が来るまでの間、何かして時間を潰さなくてはならない。この寒さの中、何もせずにただ突っ立ているのは正直辛い。
腐ってもこのあたりは繁華街である。
周辺をぐるりと回ってみるだけでもなんだか面白いかもしれないと、寄りかかっていた駅舎の壁に別れを告げた。
――――前はこんな目的もなく街を歩くなんてこともなかったのに。
以前ならカフェにでも入ってただ時間が過ぎるのを待っていたのだろうが、エミと出会ってから少し価値観が変わった。
今まで黛にとって世界とは全てがつまらない無味乾燥なものだったのだが、そんな黛にも色々と興味がもてるものがあるとわかった。
そう簡単には見つからないだろうが、得られるものを考えれば探してみるのも悪くない。
それに、今までくだらなく思っていたものも、改めて見るとそう悪いものではないんじゃないかと思い直すことが最近よくある。
エミと出会ってからというもの、モノクロだった世界が鮮やかに色付けされていっているような気がする。
ただ普通に生きていることがこんなに楽しいだなんて、以前の黛ならば思っても見なかっただろう。
「本当っ、不思議な子」
少女の顔に張り付いた仏頂面は最近よくほころぶ。
♢
–出店や雑貨屋を渡り歩き約四十分、色々見て回った結果、黛の手には一つの小さなビニール袋が垂れ下がることとなった。
他に欲しい物も見つからなそうなので、そろそろ戻ろうかと駅へ向けて踵を返す。
人とは何かモノを買うと、早く開封したいあまりに意味もなく袋を弄ってしまう生物であり、黛瑠璃子もその例外ではなかった。まるで子供が新しいおもちゃを買ってもらった後の帰り道のように、ソワソワすることこの上ない。
勿体ぶらずに言うと買ったのはこの前エミが好きだと言っていた楽曲のCDだ。
彼女はキャラ的に音楽とか聞かないと思っていたのだが意外と普通に嗜むらしい。それからというもの彼女の好きな音楽が一体どんなものなのか結構気になっていた。
そんなお尋ね者が出掛け先でたまたま視界に入ればついつい財布の紐も緩む。
――――私はエミのことを理解したわけじゃない。理解どころか、エミがなんであれほど死にたがっていたのかも未だに分からないんだから。
だが知らないなら知ればいい。
人と人はどれほど長い時間をかけても互いの全てを理解しあう事は出来ないけれど、距離を詰めて寄り添う事はできる。
少しでも彼女に近づきたい。エミの事をもっと知って、彼女が未だに何かを抱えているならば、少しでもその励みになりたいのだ。
我儘かもしれないが、これが黛の決めたこれからの自分とエミのことである。
少し長考しすぎてしまったか。顔を上げれば輝かしい情景が目に入る。
さくさくと雪を踏む音は心地よく、青く澄んだ空もまた美しい。
これが黛瑠璃子の望んだ柏恵美の傍で見る新たな景色。
平和、そう絵に描いたような平和だ。これから二人で過ごすだろう長い長い時間に、黛は清々しい気持ちで思いをはせる。
しかし、恒久の平和などありはしない。
人がいつか必ず死ぬように、幸せな時間にもいつか必ず終わりが来る。
思えばこのとき、黛は油断していたのかもしれないい。
黛瑠璃子は慣れきってしまっていた。
何事もなく過ぎていく静かな日常に浸り、かつての凄惨な非日常の毎日を忘れてしまっていたのだ。
危機は再び彼女に迫り来る。
その瞬間、彼女の背後を得体の知れない悪寒が走り抜けた。
何今の女……ッ|!!
別に特段変わったことが起きたわけではない…
単に一人の女とすれ違っただけだ。
だというのに酷く嫌な感じがした。
周囲の人間は気付いていないようだが、黛瑠璃子には分かる。
かつて異常な人間の悪意にさらされ続け、培われた勘が告げているのだ。あの女は普通ではないと。
肌を刺すような独特のプレッシャーに、今にも爆ぜてしまいそうな危うげなオーラ。見間違うことはない。何度も何度も自分を苦しめたあの憎き存在を忘れるわけがない。 何故だ。何故お前がまだそこにいる。
女が纏うその雰囲気、それはかつての【成香】から感じたものと同じものであった。
「待てっ!!」
悲鳴に近い声で叫び振り返る。
周りから怪訝な視線を向けられたがとてもそんなことを気にしている余裕はない。
棗香車を宿し、狩る側の存在を継承した【成香】。
しかしM高の屋上で最後の【成香】が倒された時点で、もう奴等は消え失せたはずだ。
エミを殺したがり、彼女が殺されたがるあの憎き存在は、もういなくなったはずなのだ。いなくなったはずなのに……ッ!!
慌てて追いかけるが、こんな時に限って人混みは密度を増す。肉の壁に阻まれ、女との距離はみるみるうちに離れていく。
「……ッ!!」
多少乱暴に人混みを掻き分けると、視界の遥か先で黒髪が揺れる。決して逃さまいと必死に追う。しかしいくら懸命に走っても追いつけない、その様はまるで逃げ水のようであった。
そして黛瑠璃子が人間である以上、どれだけ必死になってもいつかは必ず限界が訪れる。
走ってるうちに段々と息は荒れ、足は重くなり、肺は痛む。ここで遂に決意の方に体がついていけなくなった。
気付けば両の足はうんともすんとも言わない、荒い息を吐きながら何とか顔を上げると、もうそこに女の姿はなかった。
逃げられた。どうする。あのまま放っておけばあいつはエミと接触するかもしれない。それだけは避けなくてはならない。折角手に入れたエミをこんなところで見す見す取りこぼしてたまるものか。
考えろ考えろ考えろ、手段を妥協するな。
自らの持てる全てをもってリスクを排除しろ。
ぶつぶつと呟きながら、黛はカバンの中に手を突っ込むと、いつも携帯している"先端が引っ込むタイプのナイフ型の玩具"が手に触れる。
このおもちゃを振るったときのことを思い出し、思わず口元を歪める。
そうだ一度潜った修羅場だ。
もう一度できないなんてことはない。
具体的にどうすればいいのかはわからないが、ようは【成香】の中の棗香車を打ち消してしまえばそれでいいのだ。
そう自分に言い聞かせながら、黛は一思いに玩具を引き抜いた。
「私ならできる……いや、やるのよ」
刃物に視線を合わせ覚悟を決めたその瞬間、突然背後から声がかかった。
「何してるんですか黛センパイッ!?」
そこにいたのは樫添保奈美。
何を隠そう。今日黛が待ち合わせの約束をしていた相手は彼女である。
自分から呼び出しておいてすっかり樫添さんのことを忘れていた。大方待ち合わせ時間になっても黛がいないことを怪訝に思って、探しに来てくれたのだろう。
「樫添さん……」
「黛センパイ……話は聞くんでとりあえずそれしまいましょう」
その言葉にハッと辺りを見渡すと、突き刺さるは周囲の人間からの恐怖の目線。みながみな鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしており、中には悲鳴をあげているものすらいる。
それはそうだ、こんな人ごみで全力疾走してる時点で充分不審者だというのに、この後に及んでナイフなんて振り上げていたら最早不審者を通り越して危険人物だ。通報されても文句は言えない。
「げふんげふん。おもちゃおもちゃおもちゃおもちゃおもちゃッ」
誤解を晴らそうと玩具の刃を何度も指で出し入れし、ひたすらナイフが偽物であることをアピールする。
端から見れば間抜けなことこの上ないが背に腹は変えられない。やがて大衆の中にホッとしたような安堵の色が見えるとそのまま樫添さんの手を引いて裏路地へと逃げ込む。
どこでもいいから兎に角この場から離れたい、先程の自分の醜態を誰も知らない世界へ行きたい。
路地を抜けまた別の路地へと入り、迷路を縫うように移動する。頃合いを見て立ち止まると、既に疲れ切っていた両足は鉄のように重くなっていた。立つのも辛く、思わずその場に座り込んでしまう。
「ごめん、樫添さん……」
息を整えつつ、一先ず迷惑をかけてしまったことを詫びた。
「黛センパイ……何があったんですか?」
この子はいつも察しが早いから助かる。
その言葉に堰を切ったように不安が溢れ出した。
「【成香】よ」
「……はい?」
「さっきそこに【成香】がいたわ。詳しくは分からないけど生き残りがいたのよ。まだあの戦いは終わってなんていなかった」
「黛センパイ」
「お願い樫添さん手を貸して。あの【成香】を倒さないとまたエミがッ!!……ぅッ」
しかし、黛の言葉は突然遮られる。
いきなり樫添さんに抱きつかれたのだと、そう理解するのに数秒を要した。
一体どういうつもりなのだろうか。
今はこんなことをしている暇はなんてないというのに。
しかし、そんな私の思いとは裏腹に、彼女は優しく背中に腕を回し包み込む。
「黛センパイ……落ち着いて下さい。【成香】はもういません」
「でもさっきッ」
「黛センパイが何を見たかは知りませんが【成香】はもういません。それが真実です。そのことはあの戦いを実際に切り抜けた黛センパイが一番よくわかっているはずです」
その言葉に思わずハッとなる。
エミはあの戦いの最中、確かに柳端が最後の【成香】だと言った。
あのエミが態々意味のない嘘を言うなんて思えない。それに加え彼女は既に敗北宣言を出しているのだ。
そうだ【成香】はもういない。そう理解した瞬間、沸騰していた脳内は急速に冷え、いつも通りの落ち着きを取り戻す。
「……そうね。【成香】はもういないわ。ごめんちょっと最近寝不足で疲れてたのかも」
「これが、兆候か……」
「え?」
私が理性を取り戻したのを見て、樫添さんは手を離すとゆっくりと立ち上がる。
「わかってくれればいいですよ。まぁあんなことがあったんですからいくら黛センパイでも多少は引きずりもしますよ」
彼女は嬉しそうににっかり笑い、こちらへ手を差し伸べる。
「はいそれじゃぁこの話はおしまいです。折角の柏ちゃんとのクリスマスなんですから楽しく準備しましょう」
そうだ今はこの平和な日常を満喫するべきなのだ。いつまでも昔のことを引きずっていても仕方がない。黛は樫添さんの手を取り立ち上がり、二人は笑顔で繁華街の中へと消えていった。