第十七話 未確定インサイト
コンフォーティア倉坂。
それは住宅街に屹立する大きくも小さくもない極普通の賃貸アパートであった。年季は入っているが襤褸ではなく、内装もそれなりの清潔感を保っている。自分で言うのもなんだが、家賃の割には中々の良物件だと言えるだろう。
その一〇一号室、殺風景な部屋の中に老婆が一人。仏壇の中央で微笑む夫の遺影に、優しく、そして少し寂しそうに笑いかける。
「今夜は特に冷えますね、あなた」
重村時子。
自分の年齢は八十を超えたあたりから数えていないのでよくわからないが、今年が主人の七回忌だということだけはきちんと覚えている。
長年連れ添った夫に先立たれ、その孤独にもようやく慣れてきた頃。だと言うのに、今年は以前にも増してなんだか物寂しい。ここの大家を務めて何十年となるが、これほどまでに寥々たる冬が来たのは初めての事であった。
昨今はどこの誰ぞとも知らぬ老婆よりも、名の知れた大企業の方がよほど信頼されるらしい。レオバレスやらアバマンやらに客を奪われ、近頃はこのアパートの入居者もめっきり減った。加えて数少ない住民もこの時期になると皆実家に帰省してしまう。冬という詫びしい季節も相まって、つい心にそんな秋風落莫が芽生えてしまうのだ。
こんな事を嘆いてもどうにもならないのだが、それでもやはり辛いものは辛い。
早朝、玄関前を掃除しに出ても誰とも会わないし、誰の声も聞こえない。かといって古い友人を訪れようにも今度は体が言うことを聞かない。
あまりに退屈で孤独。
一度も口を開くことなく、一定のリズムで繰り返される変わらぬ日々。こんな歳まで一生懸命に生きてきた最後がこんな生活か、そう思うとついつい涙が出てきてしまう。
駄目だ、年をとると悲観的になり易くていけない。
袖元で皺だらけの顔をやんわり拭う。
せめてこの鬱屈を紛らわそうと、仏壇の隅に置かれた二枚の写真を手に取る。一枚は若い頃の夫が一番ハンサムに映っている写真、もう一枚はとうの昔に独り立ちした息子と主人を交えた三人での家族写真だ。
これを見ている時だけは、冷え切ったこの心もなんだか温かくなってくる。しかし己の幸福は最早過去に求めるしかないのかと思うとやはり気分は沈むのだ。
溜め息混じりに、そっと呟く。所詮、後は死を待つだけの老人の戯言。誰も聞いてはいないんだから、愚痴の一つぐらい言ったっていいではないか。
「誰でもいいから話したいね。人と」
力なき嘆息は空虚に宙に掻き消されていく––––はずだった。ピンポーン、と軽快なチャイム音が突如鳴り響く。
「んっ」
知らず知らずのうちに瞬きが早くなる。はて、こんな老婆なんぞに誰か用でもあるのだろうか。新聞かもしれないし、宗教かもしれないし、政治団体かもしれないが、久々に人と話せるのかと思うとそれだけで不思議と心が躍る。
「はい、今出ますよ」
弱々しいけれど確かに弾んだ声。曲がり切った腰を気持ちだけまっすぐにして玄関へと向かう。いつもは重たく感じるドアも今日は軽く感じた。
さて久方振りの来客はどこの誰であろうか。軽く咳払いで喉を整えつつ、ゆっくりと扉を開く。
びゅうと寒風が吹き込んだ。扉の向こうに広がるは一点の曇りもない白銀の世界、その中にひっそりと添えられるように立っていたのは一人の少女であった。
「こんばんは」
昨今の若者にしては珍しいことに、少女は礼儀正しく頭を下げる。
「あっ、はいこんばんは」
惚けてしまいつい返事が遅れてしまう。いやいや意外や意外。まさかこんな若い子が自分を訪ねてくるだなんて思ってもみなかった。
遠慮がちに少女と視線を合わせる。
年齢は二十歳前後と言ったところであろうか。厚手のコートに耳まで隠れる程深く帽子を被り、口元はマクスで覆われている。蒼味がかった黒髪がちらほらと揺れるが、全体的な髪型はよくわからない。
北国でも陸奥でもないのにいささか厚着すぎる気もするが、最近の子は冷え性が多いと聞く。世代が違うのだから違和感は当たり前、老輩が口を出すべきことではないだろう。これだから大正生まれの時代遅れはと思われるのは御免である。
私があまりにもジロジロ見るからか、来客は少し困ったような顔をする。それにしても美しい女子だ。目と鼻ぐらいしか見えないのに、それだけでも別嬪さんだと確信できる。
表を彩る雪のように白くきめ細やかな肌、一寸の乱れなく通る秀麗な鼻筋、そして極めつけは日本刀を思わせる凛とした切れ長の瞳。
まるで昔の私のようであった……いや確実に昔の私よりも百倍は美人である。
こんな綺麗な人、自分の長いだけが取り柄の人生の中でもそう会ったことはない。いや違う、そういえば最近にもこんな桁外れに美しい女さんを見た気がする。はて誰だったかとうんうん唸っていると先に少女の方から要件を切り出した。
「夜分に突然申し上げございません。私、205号室の神楽坂藍里さんと仲良くさせてもらっている御園梓と申します」
その言葉でハッと思い出す。そうだ、神楽坂さんだ。今年の春頃にこのアパートに引っ越してきた女子大生。
うむ、彼女もまた目の前の御園さんに勝るとも劣らない美人であった。ミステリアスな雰囲気のせいでなんだか話しかけ辛く、結局今日まで挨拶ぐらいしかしたことはなかったがよく覚えている。
御園梓、あの神楽坂藍里さんの御友人。確かに言われてみれば何ともそれらしい。やはり別嬪さんの友人は皆別嬪さんなのだろうか。
「あぁ神楽坂さんの御友人でしたか。それで御用件はなんでしょう?」
久しぶりの若者との会話に若干緊張した心持ちでいると、御園はそれを解すように、そしてなぜか申し訳なさそうに緩く微笑んだ。
「はい、大家さんに神楽坂さんの部屋の合鍵を貸してもらいたいんです。恥ずかしながら先日、彼女の家に大学のレポートを忘れてしまいまして。取りに行こうと思って先程電話をしたら、実家に帰省していると言われてしまい……」
なるほど、合点がいった。私個人への用事でなくて少し残念だが、若い子と話せただけでも孤独な老人としては万々歳である。しかしここで欲を出してお節介を焼いてしまうのもまた老人の性というやつであった。
「こんな夜に女の子一人で歩いて大丈夫なのかい?」
「あはは、実は明日が提出日でして。いやはやこう寒いのに思わず冷や汗をかいちゃいました」
ふむ、私は大学に行かなかったからレポートとやらの重要性はよくわからないが、最近の学生さんは色々大変なのだろう。
それにしても合鍵か。うむ、これが男だったりしたら怪しがりもするが、同じ若い女の子なら大丈夫だろう。寒い中ここまで来てくれた子を追い返すのも忍びない。
「わかりました。すぐ持ってきますから中でちょいと待っていてください」
「御厚意痛み入ります」
玄関に御園を招き入れ、待たすのは悪いとそそくさと奥の自室から205号室の合鍵を持ってくる。
「どうぞ。用が済んだら返しに来てくださいね」
「ありがとうございます。どこに置いたか記憶が曖昧なので、もしかしたら遅くなっちゃうかもしれません」
「いえいえ、ごゆっくりどうぞ。見つかるといいですね」
「ははっ、助かります。それではありがとうございました」
そう言い御園は来た時同様に頭を下げた。本当に礼儀正しい子だ、もし自分にこんな孫がいたらさぞ可愛がってしまうことだろう。
惜しいけれども、お喋りの時間ももう終わり。しかし細やかながらも人と触れ合うことができた。先程より少しだけ胸の内は温かい。最後に優しい笑顔を持って少女を見送る。
「はい、お気をつけて」
扉が閉まる。もう御園の姿は見えず、その声も聞こえない。その事に若干の物寂しさを覚えながらも、微かな幸せを噛み締め床へと向かう–––––––––––––はずだったのだが。
「なに、いまの……」
震えるその声は虫の音の様にか弱い。思わず腰から力が抜け、その場に情けなくへたり込んでしまう。
最後に見た御園の顔。淑やかな温厚に包まれていたはずのその表情がほんの一瞬だけ、されど確かに。
「いや違う、気のせい気のせい」
いくら自分にそう言い聞かせても、悪い汗は止まることを知らなかった。
––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––
時は遡り数十分前。
消毒液の刺激的な匂いが鼻をつく。十帖程の素朴な一室の中、柏恵美と私こと樫添保奈美は廃工場からもっとも近かった神楽坂さんの家にお邪魔させてもらっている。
私は怪我の治療してもらいたいと、手渡された救急箱の中を確かめている最中であった。消毒液、滅菌ガーゼ、脱脂綿、包帯、絆創膏、テーピングと、うむこれだけあれば充分だろう。
ふと視線を上げると柏がなにやら辺りをキョロキョロ見渡していた。どうしたのかと聞く前に先に向こうが口を開いた。
「なんか凄く高そうな家具だね」
そう謳うように言いながら傍の箪笥を楽しそうにペタペタと触り出す。
いや何やってんの、この人。
「あんまり人の部屋弄くり回すのは良くないと思うの」
それとなく注意してみるが、変人様は私の言葉など耳に入っていないご様子である。
「いや、アパートに置くにしてはいささか仰々しい気がしてね」
「ははっ、やはり部屋とあってないですよね」
苦笑いをしながら一人の少女がリビングの中に入ってくる。神楽坂藍里さんのご登場である。まるで大和撫子という言葉をそのまま擬人化したような黒髪美少女の登場に部屋がぱあと明るくなり、私の気分はどんよりと沈む。
今の柏の失礼発言、確実に聞かれたことだろう。
「柏ちゃん……」
抗議の意を込めてガルルと睨んでみるも変人はどこ吹く風、柏恵美はいたってマイペースであった。
「どうしたんだ樫添くん?睨めっこか、よし負けないぞ」
「柏ちゃん!」
「いえいえいいんですよ、正直自分でもそう思ってますから」
不穏な空気を察してか神楽坂が慌てて間に入る。
「見た通り私ここで一人暮らししているんです。新しいのを買うのも勿体ないかなと、実家から色々持ってきたら何ともアンバランス感じになっちゃいまして」
「ふむふむ、なるほど。疑問が解けた助かる」
「なんで無駄に偉そうなの……」
軽く柏に突っ込みを入れるが、こちらもこれで腑に落ちた。薄々想像はしていたがやはり彼女はここに一人で暮らしているのか。
大人だなと素直に感心する。自分と大して歳も変わらないというのにしっかりしていらっしゃる。加えてこの大人びた雰囲気といい、女性らしい体つきといい、上品な言葉遣いといい……。
なんだか虚しくなってきたので、この話はもう終わりにしよう。うん、お終い。
「あっ、それでこんな感じでいいんでしょうか?」
私の心情を察してか神楽坂さんが話題を変える。こんな感じというのは彼女の服装のことだ。袖の短いTシャツに、部屋着用のショートパンツ。うむ、どうやら要望通り簡素な格好に着替えてきてくれたようだ。服の丈が長いと怪我の治療がしにくいのである。
彼女は少し恥ずかしそうに頬を赤らめながら、その可憐な姿を愛想よく振りまく。普段の文学少女みたいな私服もいいが、こういうアクティブな格好も結構似合う。
結論、可愛い子は何着ても似合う。
「うん、それで大丈夫だよ。それじゃあ……傷見せてくれる?」
「はい、わかりました」
一瞬の妙な間の後、神楽坂は遠慮がちに右腕を差し出した。ううむ、これは痛ましい……。そこに刻まれた戦いの爪痕に思わず眉を潜めてしまう。
「うん……」
彼女の手足はどこもかしこも擦り傷と打撲だらけであった。数は多くとも、怪我自体は大したものでなくて本当に良かった。実際あの高さの階段から転げ落ちたにしては、かすり傷のようなものである。
「柏ちゃんマチロンとって」
「ん、あっ了解」
隣で惚けていた女から消毒液を受け取り、肘の擦り傷を湿らせた綿で優しく撫でる。
「イッ」
静電気をくらったかのようなか細い声が上がる。
俗に言う沁みる、という奴だ。ほんの一瞬、されど確かに神楽坂の顔は苦痛に歪んでいた。
心中気の毒に思う。たかがしみると言ってもこれが結構痛いのだ。擦り傷なんてもう長い事作っていないが、小さい頃に経験したあの痛みは今でも覚えている。
タダでさえ痛む傷口に、無数の針を刺し込まれるかのような凶悪な痛覚。当時は母が自分に嫌がらせをしているのだと、割と本気で思っていた覚えがある。
よく考えると、いやよく考えなくても転ぶって凄く怖い。皮膚を強引に引き千切られ、下手をすれば肉まで持っていかれる。文字にすると中々グロテスク。よく泣かなかったな、と昔の自分を褒めたくなった。
「ごめんね、あとちょっとだけ我慢して」
「ははっ……大丈夫ですよ、お気になさらず。あと右脚が少し痛むのでテーピングお願いできますか?」
「うんわかった」
神楽坂さんは気を遣ってそう言ってくれるが、無理をしているのか眉がやや引きつってしまっている。
厄介事に彼女を巻き込んでしまった立場としては非常に申し訳がなかった。せめて早く終わらせてあげようと手早く傷口を消毒し、慣れた手つきで次々とガーゼを当てていく。
「ほぉ、手馴れたものだな樫添くん」
横で黙って見ていた柏が感心したような声を上げた。だが全く嬉しくない、寧ろその他人事のような言い草が頭に来る。こいつめ、誰のせいでこんな無駄にお医者さんスキルを上げる羽目になったのか忘れているのか。
「昔、誰かさんが、アホみたいに、怪我しまくってたから、慣れたのッ」
あれだけ毎日同じことをやらされていれば誰だって上手くなる。
思えばあの頃は本当に酷かった。黛センパイが大学に進学してしまってからというもの、来る日も来る日も柏の怪我の手当てばかりしていた気がする。
ちょっと目を離したすきに、やれ階段から落ちただの、やれ殴られただので傷だらけになっているコイツに何度肝を冷やしたことか。
流石の柏も少しは悪いことをしたと思っているのか、視線があちこちに泳いでいる。その姿はまるで悪戯見咎められた子供のようであった。
「おっ、おう。それは、すまないことをした」
「別にいいよ、昔の話だし。ただ忘れられるのはちょっぴりムカつくの……」
軽口を叩きつつも、きっちりと手は動かす。
粗方消毒は終わったので、次はテーピングを巻こうと体を神楽坂に寄せると–––––––––––。
あっ、なんかいい匂いする。
彼女から漂う甘い香りに思わずドキッとしてしまう。なぜ女の子の匂いはこうも鼻腔をくすぐるのだろうか。いや私も女の子なんだけどね。
あとこれに関連してさっきからずっと思っていたことが一つある。治療をしている以上、至近距離で神楽坂さんの手足を見ることになるのだが––––––––––これが凄い綺麗だった。その肌は透き通るように白く、どこまでもきめ細かい、それとなく撫でてみると最高にすべすべであった。
ん。
そこでハッと我に返り……赤面した。頭から胸にかけてが猛烈な熱を帯びていく。気付かない様子の神楽坂を尻目に、勝手になんだか気まずい気分になった。
何やってんの私……、そんな、黛センパイじゃないんだからさ……。
「どうしました?」
「はえっ!?いや、なんでもないの!」
心に咲きかけた百合の花を強引に引きちぎり、そそくさと作業を再開する。
とりあえず冷静になろう、目の前のことに集中すれば気も紛れる……筈だ。流れるような手際で右脚にテーピングを巻きつけ、最後に額に絆創膏を貼り付ければひとまず治療は終了である。
「ハイ、おしまい。お疲れ様」
「ありがとうございます樫添さん」
彼女は体慣らしに何度か伸びをすると、にこりと微笑み礼儀正しく頭を下げふ。
あっ、今の可愛い。美人の笑顔の破壊力凄い……じゃなくってッ!!
ただでさえ迷惑かけてしまい肩身が狭いのに、この上頭なんて下げられたら申し訳なさが限界突破してしまう。
「いやいやこっちこそ本当にありがとう。ごめんね、こんな危ない目に合わせちゃって」
神楽坂さんは自分からあの危険な役目を引き受けてくれた。彼女の奮闘がなければ、柏の計画はここまで思い通りに運ばなかっただろう。しかしいくら私や柏ちゃんでは黛センパイには敵わないからと言って、神楽坂さんに負担をかけすぎた気がする。そんな想いを込めての、ごめんねであった。
「いいんですよ。私も黛さんのことはほっとけませんから」
しかし彼女は本当に少しも気にしていないのか、一点の曇りもない素敵な笑顔のままであった。
わからない。
協力してもらっている立場でこんなことを考えるのは失礼かもしれないが、つい最近知り合ったばかりの私達にどうしてここまで力を貸してくれるのだろうか。
良い人だから?優しい人だから?いいや、そんな単純な理由ではないだろう。彼女を見てるとなんとなくそんな気がする。長年変人と関わり続けて芽生えた勘という奴だ。悪いとは思いつつも聞かずにはいられない。
「気を悪くしないでほしいんだけど」
蜂の巣にでも触るようにおっかなびっくり問うてみる。
「はい?」
「柏ちゃんが言うに二人は例のファミレスが初対面だったんだよね。なんでここまでして私達に協力してくれるの?」
あぁ言ってしまった。目を合わせるのがなんだか気まずく顔を伏せてしまう。上辺使いでちらりと表情を伺うと、彼女は一瞬きょとんとするが、またすぐに優しく微笑みゆっくりとその瞳を閉じた。
「そうですね……私は昔、救われたことがあるんです」
「救われた?」
そのワードについ過敏に反応してしまう。再び開かれた瞳は懐かしそうにどこか遠くを見つめる。
「はい。自分勝手に人に依存して自分勝手に人を憎んで、そして破滅を迎えようとしていた私を救ってくれた人たちがいたんです。彼等がいなかったら多分、いや確実に今の私はここにはいないでしょう」
その一言一言に重みを感じる。突拍子もないがこれは冗談ではなく、純然たる事実なのだと言外に語っているようであった。そんな彼女の言葉を噛みしめるようにごくりと生唾を飲み込む。
「黛さん、彼女私に少し似ているんですよね。彼女は確かに強いしどこまでも真っ直ぐだけど、それだけにすごく危うい存在なんです。今まで何も持ってなかった者は、初めて手に入れた宝物に異常なまでに執着する。そして必ず破滅を呼び寄せてしまうのです。そんな自分と同じ道に堕ちようとしている人を見殺しにはできません。今度は私が助ける側になりたいんです」
「な、なるほど。納得しました」
思ってた以上に説得力のある話をされてつい口籠ってしまった。
なるほど。神楽坂さんの過去の細かい事は知らないが、彼女が本気で黛センパイを救いたいと思っていることは充分伝わった。
自分と同じ道に堕ちようとしている人を救いたい、その言葉に強い親近感を感じる。何を言うこの私も一度は闇に堕ちかけたところを救われた身。自分のようにたった一人で傷つき悩み、絶望の袋小路へと突き進んでしまおうとする人を助け出したい。なんだ開いてみれば私と同じじゃないか。同じ志に同じ目的を持つ人、これを信用せずに他に何を信じるというのか。
柏がいきなり連れてきたものだから、正直神楽坂さんの事は少し怪しく思っていたのだが、それももう晴れた。
やはり聞いてみるものは聞いてみるものである、面と向かい合って話し合わなければわからないことはいくらでもあるのだから。
先程より幾らか和やかな雰囲気でいると、部屋の隅に黒が渦巻いている事に気付く。
それは柏であった。瞳は虚ろで顔から感情が消し飛んでいる。いつもと様子が違う。どうしたのかと聞く前に彼女が先に口を開いた。
「そろそろ本題に入っても良いだろうか?」
柏らしくない至って真剣な声色。その深刻な物言いに、場の空気が一挙に切り替わる。
朗らかであった雰囲気は一掃され、空間に少しずつ緊張が注ぎ込まれていく。私も神楽坂さんも笑顔を引っ込め、口を真一文字に引き結んだ。
柏がゆっくりと視線を上げる。そこにはあの飄々とした普段の柏恵美ははどこにもいなかった。
「黛くんは、壊れるか?」
押し殺したような声でそっと呟く。それに答える神楽坂さんもどこか辛そうに瞳を伏せている。
「……はい、今日意識を共有した時確信しました。彼女はもう充分に危ない状態です。例えるならそう、内側から腐りかけてるところを更に白蟻に喰われているようなモノ。あと一風吹けば彼女は確実に崩壊するでしょう」
「そうかこれで最後か」
感慨深そうに、されどどこか寂しそうに柏は溜息をつく。
彼女が黛センパイの異変に気付いたのは先月の二十日頃。それから一ヶ月以上もの間、彼女は計画を実行に移す為準備を続け、そして完璧に作戦を成功させてきた。
私や神楽坂さんの手助けもあったとはいえ具体的な立案は全て柏が行った。かなり骨が折れたことであっただろう、だがそんな彼女の月またぎの大博打も次で遂に終幕となる。
はてさて今演目はハッピーエンドに終わるか、それともバッドエンドに終わるか。
あの柏恵美でも不安なのだろう。先程から何度も腕を組み直したり、貧乏ゆすりをしたりと落ち着きがない。
いくら変人と言えどもやはり人は人と言ったところか。友人が追い込まれた時には、優しくそっと寄り添ってあげるのが友としての務めである。
「大丈夫だよ、柏ちゃん。絶対に黛センパイは戻ってくる」
少しは気持ちを楽にしてあげようとその華奢な肩に手を伸ばし––––––––––––––––––––
「腹が空いたな」
「は?」
抱擁は空中で凍り付いた。思わず素っ気ない声になってしまう。
「ん?どうしたんだ」
「だからいきなり何言って」
「私は柏恵美、君に夜食の準備を求めるモノだ」
「おい」
「お腹減った、そう言っているのだよ」
「いい加減にして!」
「腹が減っては戦はできぬ、とはよく言うだろう。下準備も小細工もできることはもう何もない。あとは何をするべきだと思う?彼女が仕掛けてくる前に腹ごなしをするべきであろう」
ちょっと頭が混乱している……。いや言ってることは正しいよ。確かに黛センパイが動き出すのがいつになるのかはわからない以上、食事は摂れる時に摂っておいた方がいい。
だがなぜ今言う。あんなしんみりとした雰囲気の中でよく言えたものだ。もう大学生なんだしタイミングとか前振りとか雰囲気とか、そういうモノをもうちょっと考慮してから発言するべきだと思う。
……あーもう、グチグチ考えるのはやめ。柏恵美とはそういう人間なのだ、変人なのだ。考えたってしょうがない。
私が若干、いやかなりドン引いた表情でいると、空気を読んだのか神楽坂さんが立ち上がる。
「じっ、時間も時間ですしそうしましょうか。ちょっと待っていてください、簡単なものですみませんがパパッと作ってきます」
そう言った次の瞬間には彼女はキッチンの方へと消えていき……って、腰が軽いッ、軽すぎるッ!!。一度限界に達したはずの申し訳なさがさらにヒートアップし樫添の良心を容赦なく殴りつける。
「怪我人は休んでて!私たちがやるから!」
「ほぉ、樫添くんの手料理とは。これは楽しみだ」
「アンタもやるのッ!」
偉そうに腕組みをしている変人を引きずりながら、そのまま台所へと逃げるように駆け込んだ。
–––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––
「さて」
借りたエプロンを腰に巻きつけつつ、そっと一言。
「どうするかね」
時計を見やれば現在時刻八時十分四十二秒。既に時間も時間だ、あまり調理に時間はかけられない。寝不足と遅すぎる夜食は乙女の大敵なのである。
「どうするって、まぁあるモンでどうにかするしかないと思うんだけど」
言いつつ食材は何があるだろうかと取り敢えず冷蔵庫探検隊。おぉ、思っていた以上に出てくる出てくる。一人暮らしの割に結構揃っているではないか。
冷凍御飯に卵に長ネギ、ハムetc……うむ、どうやら神は私に炒飯を作らせたいようである。まぁ無難なところだろう。簡単だし、なによりすぐ出来る。
本当ならもう一、二品は作りたいところだが、そこは心を鬼にして自分に妥協した。しかし緑が一切無いのは女子力的にあんまりな気がするので、ここは傍の変人に一働きしてもらおうではないか。
「じゃあチャチャっと炒飯作るから、柏ちゃんはサラダ作ってくれる?」
「ふむ、チャチャっとチャーハン……」
「別に狙ってないからッ!!ほらレタス、キュウリ、トマト!これぐらいアンタでもできるでしょ、GO柏GO!」
「うむ、了解した」
半ば強引に野菜類を押し付けると、変人は割と常識的に食材の水洗いを始める。ううん……心配だ。なんかノリでお願いしちゃったけど、この人が料理するビジョンが見えないというか。
まぁ私は私が出来ることをしるしかあるまい、ブツブツと呟きながらフライパンに油を垂らす。
五分後––––––––––しかしそんな心配は杞憂に過ぎた。意外や意外、変人は丁寧かつ正確に野菜を切り刻み、綺麗に華麗に美しくそれらを器に盛り付けていく。
おぉ、やるじゃん。出会ってから初めて柏に感心した。
「へぇー、柏ちゃんも普通にそういうことできるんだ」
「一人暮らしをしていれば突然の事だ。まぁ最近は黛くんに基本丸投げだったから腕が鈍っているのは否めない」
「ほとんどヒモじゃんそれ!なんなんですか将来養ってもらうための予行演習なんですか!?黛センパイも柏ちゃんに甘すぎなんですよあの人!」
うぅ……大きな声を出して喉が痛い。最近黛センパイとずっと一緒にいたせいか思わず敬語で突っ込んでしまった。前言撤回、撤回、大撤回。やはりこの女、変人である。
「ヒモ、か。なるほど、黛くんは遂に私の事を経済的にも支配しようというのかッ」
「駄目だこの空間……常識が歪んでいくの……」
ああだこうだと言い合っているうちに、炒め終わったので火を止める。スプーンで炒飯をひとすくいし、口に運べばちょうどいい塩加減。よし、だいたいこんなもんで完成でいいだろう。
見れば柏の方も粗方片付いたようで、既に手を洗い終えている。
「んー、こんなもんか。柏ちゃん味見してー」
「了解した。さて一週間前に食べた黛チャーハンとどちらが美味いか」
「ちょっとやめて、その女子力的な比較は残酷すぎるのッ!!」
そんな樫添の必死の抗議も無視し、柏はスプーンで炒飯を一口すくい口に入れる。
異変。途端に柏の顔に張り付いた余裕ぶった表情が見るも無残に崩れていく。えっ、何、こんな顔初めて見たんだけど。
次の瞬間、柏は炒飯に問答無用で塩胡椒をぶちまける。
何故だろうか、RPGでよくある丹精こめて耕した畑をモンスターに滅茶苦茶にされる可哀想な村的なモノが脳裏を流れていく。
「ちょっといきなりなにすんの!」
「いや、これ炒飯ではないだろう。味がしなかったぞ。なんだろう言うならば、egg on the rice って感じだ」
「なんなの!味濃くしすぎだ!この塩分王!次郎舌!」
ほなほなと必死に抗議するも例の如く柏はガン無視を決め込む。柏が手早く炒飯に味付けをし炒め直すのを黙って見ていることしかできなかった。悔しい、断腸の思いとはこのことか。
「もういいよ……。私の味覚が一般人とちよっとずれてるのはこの十八年の人生で承知済みだから。もう煮るなり焼くなり好きにして!私はサラダを運ぶだけの生き物になるから!」
大人気なくぷくぅと頬を膨らませながら、両手にサラダを携えリビングへと向かう。
暖簾をよいしょと潜ると、既に神楽坂はベッドから起き上がり食膳の前にちょこんと座っていた。
「あっ、樫添さんお疲れ様です」
うん、にっこり笑顔ありがとう。
あぁあの憎らしい塩分モンスターと比べてなんと可愛げで美しいことか。口元を隠しながら上品にあくびをする彼女の姿に、苛立っていた心も癒されていく。
「神楽坂さーん。おまた、せ––––––––––エッ?」
視界に突如飛び込む違和感。驚愕のあまり手から料理が滑り落ち、上ずった声に重なるは食器が砕け散る陰惨な音。顔からみるみるうちに血の気が引いていくのがわかった。胸がぎゅっと詰まり生唾を飲み込まずにはいられない。
一瞬窓の向こうに見えた何か。見間違うことはないあれは確かに人間の目だった。今なにかが、いや誰かがこちらを見ていた。
「黛、センパイ……?」