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不完全ラズライト  作者: 深海船隻
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第十六話 黒空蝉

 夜は更けども街は眠らない。


 天より注ぐ母なる光が絶えれば、変わりに和らげな人工の光が文明を包む。軒連なる家々が皆食卓のあかりを灯しているのだから、住宅街と雖もどこもかしこも活気という奴に満ちていた。

 家族の憩いの場、またを言うなら一日の休息地点。温かい時間がただゆっくりと過ぎ去っていく、夕餉の頃合いはそんな一時ひとときであった。

 この時間だけは誰もが全てから解放され、心からの笑顔を振りまくことができる。人は陽に溢れ、街は明に溢れる。

 

 だからこそ、黒点はよりその陰を際立たせていた。街は起きていても、そこだけは眠っている。いや眠っているというよりも死んでいると言った方が正しいだろうか。


 柏邸。

 その地に明かりはなし。空気は淀み、声どころか物音ひとつしない。あまりに静かで、そしてあまりにも閑か。人の気配というやつが全くといっていいほど感じられず、知らない人間が見れば空き家なのかと勘違いしてしまうことであろう。


 家は人が住んで初めて家となる。そう考えるならば柏邸はいまや只の箱物と何も変わらない。詩的に言うならば、家が死んでいるといったところだろうか。

 しかしそんな腐りかけの空間にも少女が一人。しかし彼女もまたこの家と同じであった。顕在はしているがその存在に意味は無く、眠っているというよりも止まっていると言った方が近い。


 黛瑠璃子。


 少女は一人布団にくるまりうずくまる。微動だにせず、寝返りすらうたない姿はまるで人形のよう。崇高な輝きを湛えていたあの瞳にかつての面影はどこにもない。濁り霞み淀んだ虚ろな目、覇気の欠片もない俗物へと成り下がってしまっていた。


「ぁ……」


 辛うじて漏れる吐息も彼女の存在証明とはなり得ない。呼吸をしていること以外死んでいるのと同じ。時計の針と自らの心臓の音以外は何も聞こえない。何も見えずに、何も感じない。どこまで行っても何もない虚無の中でただひたすら消沈する。絶望と後悔に身を引き摺られ、奈落の底へと堕ちていく。


 廃工場での一件の後、枯れ果てながらも何とかこの場所まで帰って来た。既にあれからどれだけの時間が経ったのだろうか。

 その間私は何をしていたのかというと、何もしてはいなかった。


 乾いた汗が服を肌に張り付け心底気持ち悪い。身体中にできた擦り傷も未だにしつこく微痛を湛えている。それでもシャワーを浴びる気も、怪我の治療をする気も全く起きない。


 何もしないというより、何もしたくない。もう自分の事なんて、いやこの世界の全てが黛瑠璃子にとっては最早どうでもいいことになってしまったのだから。


 これから私は何を支えにして生きていけばいいのだろう、ふとそんな考えが頭をよぎる。

 後数時間もしないうちに間違いなくエミは死ぬ、神楽坂藍里の手によって殺される。いや、それどころか彼女はもう既にこの世にはいないかもしれない。


 唯一無二の親友を奪われ、信頼していた友人にも裏切られた。比喩ではなく本気で生きていく為の理由が見つけられない。


 「人生生きていればまだまだ楽しいことなんていくらでもある」

 そんな使い古された綺麗事も私にとっては只の無責任な押し付け文句でしかなかった。


 エミや樫添さんと一緒にいられたからこそ全てが楽しかったのだ。彼女達がいて初めて私の人生は意味をもつ。私の隣に二人がいないこの世界に一体なんの価値があろうか。


 柏恵美と樫添保奈美。彼女達と出会う前は孤独なんてなんともなかったはずなのに、私は一人でも生きていけたのに。


 心を許し合った友との飾り気のない会話、時には冗談やからかいも交えながら暖かく時は過ぎていく。なんの変哲もないけれど、かけがえのない平和な日常。ずっと求め続けてようやく手に入れる事が出来た誠の友人。


 一度味わってしまったあの幸福はもう忘れることはできない。私はもう、一人には戻れない。だというのに不思議と涙は溢れなかった。胸を抉るような悲しみも身を焦がすような怒りも何も湧かない。

 なんというか感情が薄くなったような気がする。心にぽっかりと空いた穴から大切な何かが零れ落ちていき、変わりに喪失感だけが満ちていくようなそんな感覚。

 凡ゆることに興味が持てなかったかつての自分に戻ったかのようであった。いや違う、喪う苦しみを知った分だけ今の方がきっと辛い。最早生きていることそのものが苦痛。


 このままここで寝そべり続けていれば、三日もしないうちに私は脱水症状で死ぬだろう。そんなくだらないことを思い浮かべ『別にそれでもいいんじゃないの』と即座に切り捨てた。


 そもそもエミがいない世界に態々執着する理由もないんだから。


 もう思考することすら煩わしい。二度と目など覚めるな、と願い瞳を閉じたその瞬間––––––––––––カタリと何かが倒れる音がした。


 瞬間、体が跳ねる。まるでその音が黛を虚無へと縛り付ける鎖を断ち切ったかのようであった。


 最早自分には関係のない事。そう無視しようとしても、ついつい目で追ってしまう。

 霞んだ視界が徐々に焦点を取り戻していく。それは以前に街で買ったCDだった。こちらに持ち込んだまではいいもの神楽坂対策とクリスマス会の準備で忙しく、遂に聞かずじまいであっ一品。それは確か、以前エミが好きだと言っていた楽曲の––––––––––––––。


「ンッ……!!」


 胸が押し潰されるようだ。途端に心臓を鷲掴みにされたような苦しみに襲われる。動機は加速し、気味の悪い汗が滝のように溢れ出す。


 何この気持ち、なんでこんなに苦しいの。


 己の心に答えられるのは己のみ。だが、どうしてもわからない。その答えを求めるかのように、気付けば布団から這い出ていた。


「そんなモノ聞いたってエミは帰ってこない。エミは帰ってこないんだから……」


 何かを押し殺すような涙声。意味はないとわかっているはずなのに、心情とは逆に体は勝手に吸い寄せられていく。ふらふらと、ふらふらと。精神同様、足取りも頼りない。


 何してるんだ私、こんなことしたって辛くなるだけだって、わかってるのに––––––––––––––––––––––––。

 

 震える手でCDを取り出す。冬場だからと言えばそれまでなのだが、何故かそれは酷く冷たかった。けれども逆に心は温まっていく。買ってからそんなに日にちも経っていないはずなのに、なんとも懐かしい気持ちが胸の内に染み渡る。思わずはあ、と熱い吐息が漏れた。


 なぜだろうか–––––––––––––そうだ、これを買った時はまだ私の隣にエミがいた。


 最早取り戻すことは出来なくとも、少しでもいいからまだエミと触れていたい。そんな健気な想いを胸に、机上のラジカセに円盤を差し込み、噛みしめるようにゆっくりとスイッチを入れる。

 音楽が溢れ出した。メロディが空間に満ちていき、死んでいたはずの家が蘇っていく。


 何だろう、不思議というか奇妙奇天烈というかひどく変わった曲であった。

 おどろおどろしく、酷く不気味な伴奏。いっそ不協和音と断言してもいいような、本能的に拒絶したくなる旋律。まるで数多の悲鳴を引き延ばして重ねて凝縮したようなイメージ。

 怖ろしい、けれど何故か惹かれてしまう。好奇心という奴は恐ろしいからこそ、わからないからこそ湧くもの。そう、それはまるで初めてエミと出会った時のあの高揚感のようであった。


『私の名前は柏 恵美。今から少しの間、君を振り回す者だ。今後ともよろしく』

『……これでもうアンタに振り回されるのはおしまい。本当に少しの間だったわね』


「やめて……」


 消え入るようなか細い声。

 エミとの思い出が頭の中を流れ行く。私達二人にとってとても大切な記憶のはずなのに、思うだけで酷く胸が苦しい、なぜ。


 伴奏を終えると曲は一転、なだらかなテンポに切り替わり––––––––––。


『エミ、クリームついてる』

『おや、取ってくれるかね?』

『いいよ』


『んー!エミのほっぺについてたクリームおいしい』

『おやおや、中々小粋なことをしてくれるじゃないか』


「やめてッ……」


 サビへと向け昇華し––––––––––––––––––。


『なぜここに来てしまったのだね? 私だけでなく、自分の命までも危険に晒すことになるというのに』

『……本当にわからないの?』

『わからないね。私は君を……』

『あなたを『大切な親友』だと認めたからよ』


「やめてッ!!」


 音色は最高潮を迎え–––––––––––––––––––。


『あなたは絶対に殺されない。私がそうさせない。私がいる限り、あなたの望みは叶わない』

『……』

『だから、私と共に、生きるしかない。あなたにはそれしか許されない』


「お願い、やめて……」


 そして楽曲は静かに終わりを告げる。夢を見る時間はもう終わり。かつて掴んだ勝利(過去)は、残酷な敗北(現実)によって塗り潰される。


『……認めよう、黛 瑠璃子。この戦いは……』

『認めたまえ黛くんこの戦いは』


『私の勝ちだ』



「やめろォォォオオオオオッッッッっ!!!!」



 絹を裂くような絶叫。ラジカセが宙を舞い、壁に叩きつけられると同時に鈍重な破壊音が響いた。

 時も忘れて、呆然とする。静けさを取り戻した空間に響くのは、わなわなと震える黛の嗚咽のみであった。


 やっとわかった、ようやく理解した。己を劈くこの胸の苦しみを。


「クソッ……」


 涙は出ないし怒りも湧かない?そんなモンは嘘っぱちだ。ただ正面から向き合うのが恐ろしくて、エミが死んだという事実を受けいれるのが怖くて、傷付かないように無意識のうちに自分を抑え込んでいただけなのだ。


 エミを失って悲しくないわけがあるか、辛くないわけがあるかッ。私から全てを奪った憎き略奪者を殺してやりたいと思わないわけがあるかッ!!


「クソッ!!」


 苛立ち気に蹴り飛ばされた椅子が派手な音を撒き散らしながら床を滑っていく。

 堪忍袋は暴発し、感情の嵐が荒れ狂う。言葉にならない絶叫、黛瑠璃子の魂の叫びが柏邸に絶え間なく轟く。


 嘆き、苦しみ、慟哭し。叫び、憎み、傷嘆し。怒りをぶち撒け、悲しみを振り撒き、頭の中は真っ白で、本能の赴くままに己を解き放つ。そしてその先に––––––––––––––––––––。


 悲しみも寂しさも怒りも憎しみも、やがて全ては一つの感情へと収束していく。凡ゆる負の感情の最終到達点、単純だからこそ最も凶悪。最後に残ったのは純粋な殺意のみ。


 少女は変貌していく。高潔を引き剥がされ、露わとなった虚無の上にドス黒い悪意が染み込んでいく。


 窓から飛び込んだ月明かりが彼女を照らした。そこに以前の黛瑠璃子はいない。眼は裂けんばかりに見開かれ、歯は砕けんばかりに食い縛られ、その姿は正しく憎悪の化身。



「許さない、絶対に許さないッ……!!」



それが、私の答えだった。



 ––––––––––––––悪くない選択だと思いますよ。



「誰ッ!?」


 突如、どこからか声が浮かび上がった。慌てて辺りを見渡すが誰もいない。廊下へのドアを開け放ち、窓から外を覗いても人の姿どころか気配すら感じなかった。

 何だ、何が起きている。


 –––––––––––––誰、ですか。そんなことはどうでもいいんですよ。大切なのは僕のことじゃない、あなたのことなんですから、ねえ黛さん。


 黛の疑念を無視し声は続く。どうやら声の主は私の事を知っているようだ。耳からではなく脳内へ直接ねじ込まれてるように聞こえる。


「なっ……」


 普通ならこんな訳のわからないもの、幻聴と決めつけて精神科へと駆け込むのが常識人の行動である。だが今の黛は違う。ついさっきまで心を読む超能力なんていうあり得ないモノを見せられていたのだ。

 精神が不安定な事も相まって、その()()の言葉に耳を傾ける。傾けてしまう。


「何が言いたいの?」


 −–––––––––––言いたい事があるのはあなたの方なんじゃないんですか?


 声は微笑を含みながら即答する。まるで私がそう言うのをわかっていたかのような口振りだ。


 少し高めの声は恐らく女性、いやこれは少年のモノだ。その印象は慇懃無礼、敬語を使っているし話し方も丁寧だというのに敬意という奴が一切感じられない。いや敬意どころかこちらのことを一人の人間とも思ってないような薄気味悪い狂気が滲み出ていた。

 なんとなく聞き覚えのある声色なのだが誰のものなのかどうしても思い出すことができない。


 ––––––––––––––自分の気持ちと向き合えないなら、僕が変わりに言ってあげますよ。


 コイツは誰だ。コイツは何をしたいんだ。顔なんてどこにも見えないはずなのに、なぜか声の主がニヤリと笑ったような気がした。


 ––––––––––––––今、殺したい人間はいるか?



「ハ、ハァ?」



 強気な物言いに反し、その声は震えている。全身に衝撃が走り、思わず生唾を飲み込んでしまった。頭に図星という言葉が浮かんだが、すぐに振り払う。

 違う、私は人殺しなんてしない。エミを殺させないと決めた私が殺人を犯していいはずがない。私は棗や成香達みたいな人の命の重さがわからない化け物とは違うッ。


「いないわよ」


 相手に伝えるというよりも自分に言い聞かせるかのような、強気な黛らしくない確信に欠けた物言いであった。その心の隙を声の主は容赦無く追撃する。


 –––––––––––いない、ねぇ。でもそう言いつつ誰かの顔を思い浮かべたんじゃないんですか?憎いそいつを殺してやりたい。いや、狩りたいとは思わないんですか?


「私はッ!!」


 そこで気付く、気付いてしまった。最早自分が以前までの自分ではなくなってしまっていることに。私の中で膨らみつつあった憎悪と執着心が遂に限界を超え、黛瑠璃子であった部分を喰らっていく。最早自分が自分であるという確信が持てない。自分の中に何か別の人間の感情がねじ込まれているような、そんな最低で最悪な気分。

 

「やめてッ!!来ないで、私がわからなくなるッ!!」


 ––––––––––いや、殺したいはずだ。貴方も僕と同じ人間だ。獲物から抵抗の手段を全て奪い、圧倒的な絶望に追いやってから一方的に虐殺したい。その対象が僕にとっては誰でもよくて、貴方にとってはその女の人、違いはそれだけじゃないですか?その人は貴方の親友を奪ったんでしょう。自分の命より大切なたった一人の存在を殺したんでしょう?なら殺してもいいじゃないですか。人を殺せない貴方が唯一殺せる人間、正しく最高の獲物だとは思いませんか?


「そうね……」


 もう何もかもが手遅れであった。声に誘惑されるがまま黛瑠璃子は崩壊していく。自分と世界との境界が曖昧になっていき、全てが殺意に飲み込まれていく。


「アンタの言う通りだわ」



 黛瑠璃子は宣言する。



「神楽坂藍里は私の–––––––––––」




 黛瑠璃子()()()者が言葉を繋ぐ。




「神楽坂藍里は僕の獲物だ」






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