第十五話 投了
何も見えず、何も感じず、何も考えられず。
永遠に続くかと思われた底無しの闇の中。そこにふと、意識の焔が灯った。続けて淡く儚い白の光が広がる。浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返し、その光は徐々に大きくなっていく。
私は、どれだけの時間、気を失って、いたのだろうか––––––。
体と空間の境界は未だに曖昧。それでも世界は段々とその輪郭をはっきりさせていく。
やがて己が肉体を知覚すると、瞼が死ぬほど重くなっていることに気付いた。眼の奥底で石のようなモノがゴロゴロと、それが不快で堪らずこのまま眠ってしまいたくなる。
起きろ。
どこかから声がした。それは深層心理からの命令。胸より沸き立つ謎の焦燥感に背中を押され、なんとか視覚の窓をこじ開ける。
ふんわりとぼやけた視界。その切れ間から無限の星空と鮮やかな満月が顔を覗かせる。
「ツッ……!!」
瞬間、全身を抉るような痛みが突き抜けた。痛みは実感となり、思考を微睡みの夢の中から現実へと引き摺り戻す。断片的であった記憶の欠片が繋がっていき、一つの現実が形成されていく。
そうだ、確か階段の上から突き落とされたのだ。神楽坂め、人に正気かと尋ねるくせにやることが狂気じみている。
幸い意識ははっきりしているし呼吸も正常。命に別状はなさそうだが、あの高さといいこの痛みといい正直不安は拭いきれない。
覚悟は決まっていても思わず冷や汗が首元を伝う。霞む目を凝らし、己が身を眺める。
「……大丈夫、そうね」
パッと見た感じどこもかしこも打撲ばかりで、骨折したり出血したりしている様子はない。ひとまずホッと安堵の息をつく。しかしそれもほんの一瞬。正直もう意識を保ってる事すら苦しいが、私にはまだ為すべき事が残っている。
神楽坂藍里。
アイツも私と一緒に最上階から転げ落ちたのだ。小細工やトリックではない。最後に見せたあの捨て身の覚悟に満ちた表情が何よりの証拠だ。向こうも無事ですんでいないはず。
「ゴホッ……ゴホッ!!」
突如湿っぽい咳が廃工場に響き渡る。横たわる黛から見て足元の方角からであった。
噂をすれば何とやら、ムカつくことにどうやらあちらも意識を取り戻したようである。やはりそう簡単にくたばってはくれなかったか。神楽坂藍里、いや狩る側の存在。私からたった一人の親友を奪おうとする史上最悪のクソッタレ共。一匹たりとも見逃してなるものか、必ずこの手で根絶やしにしてやる。
一度気を失い、動揺は収まった。だがそれと反比例するように心は熱く燃え滾る。
神楽坂に図星を突かれたのが堪らなく悔しい。お前ではエミを護りきれない、お前ではエミの支配者には相応しくない。そう散々に罵倒されながら、全く言い返すことが出来なかった。
「そんなこと、自分が一番わかってんのよッ……」
いくら絶対に護り切ると息巻いても、この世界に絶対はない。大きな力の前では私のような小娘は抗うことも出来ずに只々潰されるだけ。
確かに私は柏恵美の支配者だ。でもそれは何でもかんでも解決できるスーパーヒーローではない。等身大の女の子が自分の理想のために少し背伸びをしただけ。そんなちっぽけな存在にすぎないのだ。
だが、–––––––––それがどうした。
負けると分かっていたってそんなことは関係ない。私は弱い、だからこそエミを護る為なら何だってやってやる。どれだけみっともなくてもいい、どれだけ情けなくてもいい。例えこの身が燃え尽きようとも、必ずこの手で一縷の希望を手繰り寄せてやる。
今が、その時だ。
「エミ」
全てを出し切り出涸らしとなった体にゆっくりと力を浸透させていく。
「アッ、ガ」
途端に全身を焼けるような痛みが包み–––––––無視した。
痛くて辛くて苦しくて、今にも泣き叫んでしまいたい。でもエミを護る為なら我慢できる。彼女を失う苦しみに比べれば、この程度の苦痛どうってことはない。
上半身を起こすのに等活地獄、膝をつくのに黒縄地獄、立ち上がる苦しみはまさしく阿鼻叫喚。
それでも、それでも黛瑠璃子は立ち上がる。二本の足はしっかりと大地を踏みしめ、双の眼は明日のみを見据える。
一歩を踏み出す。そしてまた一歩。神楽坂の下まであと少し。拳を振り下ろせば当たる距離、憎き相手はすぐそこだ。
「か、神楽坂ァッ」
タダでさえ鋭いその目つきを更に尖らせ支配者は吠える。
「黛瑠璃子……」
そう応えて神楽坂はゆっくりとこちらへ手を伸ばす。しかしそれもほんの一瞬、すぐに力尽き腕は地に落ちた。
やはり神楽坂はまだ動けない、そのまま倒れこむようにその上に馬乗りになる。夜の静けさの中に響くのは、二人の熱い吐息だけ。
「フン……」
神楽坂は苦しそうに眉を顰めながらも、口元にはまだ不気味な笑みを湛えていた。明らかに追い詰められているのにこの余裕はどこから来るのだ。なんとなく気味が悪い。
「あれだけやったのに、まだ立つんですか……冗談きついですよ」
「戯言はいいわ」
胸倉を掴み、ぐっと引き寄せる。
コイツは自分の事を棗に代わる新たな狩る側の存在だと称した。あの時は信じるしかなかったが、今は違う。例の共有とやらでコイツの心を覗いた時、一つの違和感を見つけたのだ。
この女どうにも狂気が薄い。
確かに神楽坂藍里は危険な女だ、それでも棗や成香のような人を殺す事をなんとも思っていない連中とは何かが違う。
「アンタがエミを殺そうとする本当の理由は何?」
「………」
沈黙が続いた。
もしかしたら喋るのも辛いのかもしれない、と黙って返事を待つ。しかし狩る側の存在はこちらを睨みつけたまま、そっと意味深に微笑む。その余裕ぶった態度が黛の神経を逆撫でした。
「なんとか言いなさいよ」
いくら激しく揺さぶっても女は何も答えない。瞳を固く瞑り無視を決め込む。
オイ……この女、まさか私のエミに手ェ出しておいて無事で済むとでも思っているのか。
「ふざけてんのッ……?」
胸が、頭が熱い。内より沸き起こる底無し怒りが理性を凌駕していく。まるで自分が自分でなくなっていくかのような感覚。
「私は我慢したわよ、ちゃんと一度は我慢したわ。だからさ、別にいいわよね。どうせまた生えてくるんだから」
無意識の狂気。自分でも気付かぬうちに神楽坂の右手の人差し指、その上に覆いかぶさる爪に指をかけていた。
「二度と変な気を起こせないよう恐怖を刻み込んでやるッ。アンタが悪いのよ、アンタが私からエミを奪おうとするからッ–––––––––––––––」
言葉はそこで途切れた。いや違う、途切れさせられた。
直後、背中を突き刺すような痛みがのたうちまわる。
「あ、がっ」
冗談抜きに一瞬呼吸が止まった。あまりの激痛に叫ぶ事もできない。何者かに肩を引っ張られ、神楽坂から引き剥がされた。そのまま雪上に放り捨てられる。
誰だ–––––––––––。心慌意乱、あまりに突然な出来事に頭が追いつかない。
雪の冷たさが体に染み渡り、漸く何が起きたか理解できた。
協力者だ。
クソッ、一瞬でも勝ったと油断していた自分に死ぬほど腹が立つ。エミと神楽坂以外にも仲間がいるだなんて思いつきもしなかった。
痺れと痛みに体が支配されていくなか、視界の端に新たな敵の正体が映る。
––––––––––––––は?
絶句。
何故だ、何故アンタがそこにいる。
それは私もよく知っている人物だった。
体格は小柄。年の割に顔立ちは幼く、特徴的な大きな目はまるでビー玉のよう。見慣れた栗色のおさげが寂しげに揺れる。
黛瑠璃子が友人だと認めたもう一人の少女。何があっても彼女だけは私の味方でいてくれる。そう信じていた、そう信じていたはずなのに––––––––––。
「樫添、さん」
樫添保奈美、かつてエミを護る為共に戦った戦友。その彼女が私を裏切ったというのか。
裏切者は応えない。手元の電撃銃を用済みとばかりに投げ捨て、心配そうに神楽坂の下へ駆け寄る。
「神楽坂さん大丈夫ですかッ!!」
心を許した友人が憎き敵に優しく寄り添う。そんな光景を見せつけられて言い表しようのない黒い感情が心を渦巻いた。嫉妬、憤慨、驚愕、絶望、不安。そして圧倒的な疑問がそれら全てを塗り潰す。
わからない、何故彼女がこんなことをするのか理解できない。
「なんでなの……樫添さん」
「悪く思わないでください」
樫添はチラリとこちらを伺うも、気まずくなったのかすぐに顔を伏せる。何故だろう、一瞬だけ見えたその表情は何故かとても悲しそうな顔をしていた。
樫添保奈美の裏切り、そのショックは確かに大きい。でも黛の頭は別の事でいっぱいだった。動揺が暴れる頭で状況をなんとか俯瞰する。己は動けず、懐刀は反旗を翻した。今この瞬間、エミを護ろうとする人間はもう一人もいない。つまりは–––––––––––––––––––。
「どうやらケリはついたようだね」
反射的にビクリと体が跳ねる。芝居掛かった独特の口調に、女性にしては少し低めの声色。聞き間違うことはない、私の最も大切な人の声だ。
それでも、今この瞬間だけは世界で一番聞きたくなかった声。
「エミ……」
彼女は確かにそこにいた。
絶望に打ちひしがれる黛になど目もくれず、エミもまた心配そうに神楽坂の下へ駆け寄る。
遂に狩る側の存在とエミの合流を許してしまった。そこから導き出される結果は–––––––––––––––柏恵美の死。
「大丈夫かね神楽坂くん、君にばかり重い荷を背負わせてしまいすまない」
「はい、なんとか大丈夫です」
エミと樫添が二人がかりで神楽坂の体を支える。二人は一人を心の底から労わり、三人で等しく喜びを分かち合う。そんな姿を見るのが堪らなく苦しい。
神楽坂、なんでアンタがそこにいる。そこは私の場所だ。
「残念でしたね黛さん」
二人に肩を貸されながら神楽坂はフッと笑う。
やめて。
「認めたまえ黛くんこの戦いは」
柏恵美は宣言する。
やめて。 その言葉を言わないでくれッ––––––––––––––––。
「私の勝ちだ」
エミが、死ぬ……?
最低最悪の悲劇的結末を突きつけられ私の心は、黛瑠璃子の世界は–––––––––––––崩壊した。
「それでは行こうか樫添くん」
「待ってエミッ!行かないでッ!」
エミが行ってしまう。嫌だ、待ってくれ。いくらそう願っても、体がついてこない。今すぐにでも彼女の下へ駆け寄りたいのに、許されない。陸に打ち上げられた魚のように無様にのたうちまわるのが精一杯であった。
「行かないで……」
何も言わず、振り返りもせず二人の友は立ち去っていく。エミ、エミといくら呼びかけようとも、いくら手を伸ばしても届かない。彼女が死へと向かうことを食い止められない。
「エミ……」
もういくらあがいてもどうにもならない。今までとは明らかに質が異なる、圧倒的な絶望。
二筋の希望はやがて夜の闇の中へ消えていく。残ったのはただ地に這いつくばる一人の敗北者だけであった。