第十四話 罪科へ捧げや神楽舞 終戦
「まさか……」
ようやく言葉になったのは呻きにも等しい譫言のみ。それすら空虚に宙へ消えていく。
意識は空隙に犯された。衝撃が理解を超越し、思考のプロセスを崩壊させる。それほどまでの異常事態。
落ち着け。
そう自分に言い聞かせ、震える口元を無理矢理に引き結ぶ。暴れる思考を深呼吸で宥め、ゆっくり慌てず脳に状況を浸透させていく。事実を噛みしめ、咀嚼する。
〜なにがおかしいんですかッ〜
今の言葉は、私のモノではない。いや違う、正確には私だけのモノではない。
神楽坂藍里と黛瑠璃子、二人の少女の口から同じイントネーションの同じ台詞が同時に飛び出したのだ。それこそまるで、心でも読まれているかのような完全なる合一。例え能力の弱点を理解していたとしても、ここまでの完璧な模倣は不可能。そこから導かれるのは最悪の事態であった。
「そんな、まさか……」
共有。
それは人と意識を共有する力。しかしその根本を為すのは未熟ゆえの猜疑心と自分本位な強迫観念、依存の鎖で相手を縛ろうとするエゴの塊だ。
保有者の精神環境が悪化すればするほどに呪縛はその強さを増していき、遂には命すら簡単に奪える程の凶刃と化す。
執着に心を奪われた狂人がそんな悍ましい力を手に入れればどうなるか。
やがて訪れるのは嫉妬と独占欲の暴走。周囲に不幸を撒き散らし、そして破滅する。
神楽坂自身を含めた多くの人の人生を狂わせてしまった悲劇の元凶。その最低最悪の力が黛さんに目覚めてしまったというのか。
可能性は否定できない。
話を聞くに黛さんは明らかに恵美さんに執着している。
恵美さんの事を唯一無二の親友だと認めていながら、どうしても彼女の事を信じ切ることが出来ない。いつか彼女が自分の前から消えてしまうのではないかと常に恐れ震えている。
不安は偏執を呼び、偏執はやがて狂気へと変わる。
エゴの種は既に撒かれていた。いつ依存の棘がいつ芽吹いてもおかしくない状態だったのだ。
柏を奪い殺そうとする私の"演技"が、黛さんの執着心を刺激し能力の発現を促した。そう考えれば、確かに素質も原因も充分。
神楽坂の苦虫を噛み潰したような顔を見て、黛は笑う。降って湧いた逆転の一手を振りかざし、歪んだ愉悦を迸らせる。
「信じられないって顔ね。私も同感だわ。こんな巫山戯たモノがこの世に存在するってだけでも吃驚なのに、選りに選ってこの私に目覚めるだなんて。ありえない、全く以って理解不能。でもこの際理屈なんてモノはどうでもいいの。この力さえあれば私はまだエミを護る為に闘うことができるんだからッ!!」
信じられない、そう呟きながら流れ込む黛の意識はこの能力の存在を全く疑ってはいなかった。寧ろ積極的に肯定している。そこには言葉通り柏さんを護る事が出来るという喜びしかない。
「歯を食い縛ることをお勧めするわ」
懐から電撃銃を引き抜き、その照準を神楽坂の心臓へと突きつける。
「アンタを倒して、エミとの平和な日常をこの手に取り戻すッ!!」
ドッ!!と地を蹴り黛瑠璃子が殺到する。互いに頭の中が覗ける以上、最早先読みは無意味。接近戦になれば此方に勝ち目はない。
覗けるならば、ですが––––––––––。
自分でも聞き取れない程の小さな声でぼそりと呟く。
神楽坂藍里は落ち着いていた。
「残念ですが」
鬼気迫る支配者の猛進に怯みもしない。ゆっくりと右手を前に突き出し、冷たく希望を否定する。
「その夢は叶いません」
夜の闇を引き裂く透き通った声。神楽坂の瞳に黒煙が躍る。
妨害、発動–––––。
「なッ……!!」
此方の動く方向、速度、間、全てを先読みし神速で打ち出された黛の突き。決して避けられるはずがない必殺の一撃を、神楽坂は呆気なく躱した。
妨害。
かつて夜ヶ峰先輩対策にと磨いた技が、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。
こちらの作戦に恵美さんの思惑、そして何よりも黛さんを蝕むもう一つの【狂気】の正体。知られてはいけない情報は深層心理の奥底へと落とし込み、代わりに無数の雑念で表層心理を埋め尽くす。
たとえ黛さんが此方の意識を覗きこもうともその脳裏に映るのは無意味な単語の羅列のみ。吹き荒れる情報の嵐に阻まれて真意に辿り着くことは決してできない。
「また余計な小細工をッ……」
明らかな焦りと苛立ち。彼方も負けじと雑念を湧かせるが、経験の差が露骨に表面化し明らかに密度が足りていなかった。
いくら電撃銃を突き出しても、もう決して攻撃は当たらない。全てを紙一重でいなされ、全てが虚しく宙を切る。
「クソッ!!」
焦りは攻撃を単純化させ、やがて投げやりで無意味な大振りを産む。
左肩に向けて打ち出されたその一撃。最早能力を使うまでもない。手首を掴み取り、すかさず電撃銃をはたき落とす。
ボスっと雪上に突き刺さる拍子抜けな音。
その瞬間黛の瞳に影が差したのを、神楽坂藍里は見逃さなかった。
そろそろ、頃合いか。
「もう終わったんですよ、この戦いは」
神楽坂藍里、その両の瞳に淡い蒼が揺らめく。
共有、開始–––––––––。
意識の糸が雑念の弾幕を喰い破り、支配者の心の奥底深くに潜り込んでいく。神楽坂藍里と黛瑠璃子が共鳴し、完全なる精神の調和状態が生まれた。
女帝の剥き出しの心が心眼の前に引き摺り出される。
「なに、してんのよっ……やめろっ、見るなァッ!!」
探せ、捜せ。どれだけ強がってひた隠しにしていたとしても、自分の心に嘘をつくことはできない。必ずそこにあるはずだ。不撓不屈の幻の向こうに芽生えた感情、それを今この手に掴み取る。
敗北感。
一時的なネガティヴなどではない確立された感情。逆転の好機を呆気なく封じられた絶望感が、胸の内を黒く渦巻いている。
黛瑠璃子では神楽坂藍里に勝つことは出来ない。そうだと彼女もわかっているはずなのに、恵美さんを失いたくあまりに認めることができない。そこにあったのはそんな張りぼての闘争心であった。
「これでわかりましたか」
そして静かに宣告する。
「黛さん、貴方の負けです」
空間がゆっくりと停滞する。
支配者は何も言わなかった。全ての感情は消し飛び、ただその眉だけがピクリとはねる。
「自分でもわかってたじゃないですか。自分では恵美さんを護り切ることは出来ない、自分では恵美さんの支配者には相応しくないって」
「……っ」
聞き取ることもできないほどの微かな声。凛々しく高潔であった支配者の姿が露骨に歪んでいく。
「絶対に諦めない、結構な心がけです。でもそれは恵美さんが殺された時、あぁあれだけ頑張ったのに無理だったんだから仕方がない。そう言って自分を納得させる為の自己満足だったんじゃないですかッ?」
「……さい」
項垂れ顔を覆う前髪の向こう側は窺い知れない。だがあともう一押し。乱暴に肩を掴み返し、止めの言葉を叩きつける。
「敗者はそこで惨めに這い蹲って見ていればいい。私が圧倒的な絶望を持って柏恵美を殺ッ–––––––––」
瞬間、黛の中で何かが爆発するのを確かに感じた。
「煩い黙れぇェエえーーーッッ!!」
時は凍りつき、音もしない。
絹を裂くような声、いやこれは悲鳴だ。
やるせない想いの暴走。黛は私の肩に掴みかかり、怒涛の如く吠えかかる。
「何なのよアンタら……何がしたいのよッ!!私はただエミと二人で笑っていたいだけなのに、そんなことも許されないのッ!?なんでエミなのよ、なんでエミばっかりッ!!圧倒的な絶望で恵美を救う?バッカじゃないの!?絶望なんかで人が救えるわけないじゃない。何が狩る側の存在だ……そんなくっだらないことの為に人の幸せ踏み躙ってんじゃないわよッ!!」
……思わず圧倒されてしまった。勢いに飲まれて声も出ない。
これが黛瑠璃子の嘆き。
必死だった。あまりにも必死だった。声が掠れようと、嗚咽が交じろうと構わず鬱屈をぶちまける。
確かに黛さんは強い。恵美さんに危害を加えるものには、例え命に危険が及ぶと分かっていても果敢に立ち向かい、決して諦めず、そして遂には支配者と崇められるまでの存在になった。
けれども、それは護る為に強制された強さだ。支配者なんて大仰な看板を抱えていても、彼女も所詮はどこにでもいるような普通の女の子に過ぎない。
何よりも大切なたった一人の親友を、自分から奪おうとする者達に対する怒り。いつか自分では彼女を護り切れなくなってしまうのではないかという底知れない不安。
それだけのものをその小さな背中に背負うのがどれだけ辛く苦しいか。
考えるだけで胸が抉られる思いだった。
意識を共有してるからではない、友の為にと茨の道へと自ら突き歩む彼女を見るのが切なく苦しいのだ。
今すぐにでも全ては嘘だと言ってしまいたい。彼女をこの絶望の連鎖から解放してあげたい。
だがそれでは彼女は救われない–––––––。
これだけ精神的に追い詰めても、黛さんは屈服しなかった。残念ながら時間切れだ。手荒な事はしたくなかったが、私は私の使命を果たさせてもらう。
「どけッ!!」
雪上に勢い良く黛を突き飛ばした。
妨害の奥底に隠した最後の作戦を胸に、神楽坂藍里は走り出す。
「待てッ!!」
背後から飛んでくる支配者の逆鱗を振り切って、視界の果ての螺旋階段を目指す。
妨害戦法もいつまでも使えるわけではない。集中力が切れれば追い詰められるのは此方の方。
能力の有利があろうとも、それまでに黛さんを倒せる自信は無かった。
ならば私がとる行動は一つだけ。例えこの身がどうなろうとも次で必ず決着をつける。
弾ッと地を蹴り螺旋階段に飛び乗った。
絡みつく疲労を振り払い、休まず脚を振り上げる。登って登って登り続け、やがて最上階へと辿り着く。
行き止まり。最早どこにも逃げ場はない。
星瞬く夜空が目一杯に広がり、寒風が首元を吹き抜けた。なんだか爽やかな気分になりながら、神楽坂は凛と背後を振り返る。
カツリ、と足音が響いた。
階下から響くその音は段々と大きくなっていき、既に荒い息遣いすら交えて聞こえる。
極端な疲労に蝕まれ、既に足元すら覚束ない。それでも彼女はここまで来た。ここまで来ると信じていた。
長い黒髪が揺らめき、支配者が顕現する。
「ハァ……やっと追い詰めたわよ神楽坂藍里」
「いいえ。追い詰められたのはあなたの方です」
ふわりと体が宙を舞う。
「なっ」
直後、全身を衝撃が突き抜けた。
階上からの体当たり。神楽坂藍里と黛瑠璃子、二人の体は縺れ合い一つの塊となって階段を転げ落ちていく。
これで良かったのだ。
やがて意識は途切れ、世界は暗転する。