閑話休題 ––神楽坂藍里の追憶––
私の能力。それは『他人と意識を共有する』こと。
他人に嫌われるのが怖い、大切な人なのにどうしても信用することができない。そんな歪んだ疑念や恐怖心から生まれる摩訶不思議な力だ。裏を返せば相手を自分のもとに繋ぎ止めんと強制するエゴの象徴とも言えるだろう。
そしてこの能力は負の感情が強まるほどにその力を増していく。人と心を共有するに留まるのが第一段階、そして次なる第二段階へと移行すると–––––––––––––他人の潜在意識に特定の感情を刻み込むことができる。殺意を植え付け、自殺や殺人などと言った凶行に走らせることすら可能であった。
なんとも恐ろしい力だと今になってみればよくわかる。
他人に知られたくないことなんて誰にだってあるのにそれを覗き見る卑しさ、積み重ねて作り上げていったその人だけの心を力任せに捩じ曲げることの傲慢さ。そして何より命を奪ってしまったことに対する罪深さ。
もう痛いほど思い知った。そして理解できたから今だからこそ、その己の罪の重さに押し潰されそうになる。
犯した過ちはこれからの私の人生で償おう、そう決心し気持ちを切り替えたはずだった。だがそれだけで簡単に割り切れるほど人の心は単純なモノではない。
表面上は明るく振る舞う事が出来ても、心の底に眠る原罪はいつまで経っても消えない。
この力で多くの人を傷付けてしまった事実が覆ることはないのだ。
私の選択は正しかったのか、このままでいいのか、もっと他に出来ることはないのか。宙に向かっていくら吠えても答えは返ってこない。ただ虚しくなるだけであった。
悩んで、悩んで悩んで、悩んで悩んで悩んで悩み尽くしてそれでも納得できず、答えのみつからない日々に疲れ果ててしまっていたそんな時––––––––––––––そう、一人の少女が現れた。
「私の名前は柏恵美。君に興味を持ったものだ」
今まで出会ってきたどの人間とも違う、全てが新鮮で不気味で温かい何とも言えない変な人。第一印象はそんなところであっただろうか。
バイト上がりタイムカードを押し帰路に着いていると突然声をかけられた。確か昼間店に来た二人組の女子大生の片割れだ。特にこちらの少女は纏うオーラが何と言うか、歪で印象的だったので記憶に残っている。
応対時は特に問題無く振る舞えたように記憶しているが、何か気に喰わないことでもしてしまっただろうか。
少々心に靄を抱えながら「何か御用でしょうか?」と、淑やかに尋ねた。言葉に応じるかのよう、少女の口元は何故か苦しげに歪む。
まさかあんな事を言われるなんて、あの時の私は微塵たりとも考えてはいなかっただろう。
「率直に言おう。君は私の支配者に殺される」
昼間見た時とはまるで別人、心底疲れ切ったような顔で彼女はそう宣告した。
「え?」
あまりに唐突で奇々怪界。彼女の独特な演技臭い口調も相まって性質の悪い冗談にしか聞こえなかった。しかし当の柏恵美は至って真面目にこう続ける。
「殺されるというのは少し語弊があるのかもしれない。だが確実に今君の身には危険が迫っている、そう言っているのだよ」
……少し頭を整理しよう。
【殺される】こちらはまだ百歩譲って理解はできる。だが【私の支配者】とは一体何のことだ。
同じ言語を話しているはずなのに根本的なところがズレているのか、何が言いたいのか全くわからない。
薬でもやっているのか、それとも頭のおかしくなった陰謀論者か。しかし初対面の人間にこの発言、どちらにしても不審者であることに変わりはないだろう。
無視して帰ろうかとも思ったが、殺されると言われれば気になるのもまた事実。少しくらいは話を聞いてやろうかと精一杯の不信感を込めて疑問符を送った。
「どういうことですか?」
「話せば長くなる、少し場所を移しても構わないかね?」
そう言って女は後方をちょいちょいと指差す。
常識的に考えれば着いていくべきではないだろう。別次元に生きる不思議電波少女で話が済むならまだいいが、胡散臭いカルト宗教の集会なんかに連れて行かれでもしたらどうする。
怪しい、あまりにも怪しすぎる。
しかしかと言って百パーセント確実に嘘だと突っぱねることもできなかった。
口ではうまく言えないが何かが引っかかるのだ。柏と名乗ったこの少女の眼差し、疲労に歪んではいるものの一切の曇りが無い。この女どうも嘘を言っているようには思えないのだ。
「すまない、流されるのには慣れているが無視は少し心にくる」
「あっすみません。ちょっと待ってくださいますか」
不安気に眉を下げる柏を軽くあしらいつつ、しばし逡巡する。
これはチャンスなんじゃないか、ふとそんな考えが脳裏に浮かんだ。
先に語った罪悪感に連なる鬱屈のことである。いくら悩み続けても答えの見つからないこの憂鬱な日々が、このアクシデントを期に何か変わるんじゃないか。そんな降って湧いた淡い期待がどうしても頭から離れない。
変革への種となりうるか。
根拠や確証なんてどこにもない。変わる変わらないでいえば変わらない確率の方が圧倒的に高いに決まっている。
だがこのまま手を拱いていても八方塞がりはいつまでたっても変わらない。溺れる者は藁をも掴む、考えれば考えるほどに彼女の話にのってみようという気になっていく。
「わかりました。案内してください」
向こうもあまり期待はしていなかったのだろう。まさかの肯定に少し驚いたような顔をすると「感謝する」–––––そう言って静かに微笑んだ。
歩き出した彼女に黙って着いて行き、繁華街を飛び出して郊外へ。歩いた時間は五分も無かっただろう。直ぐに手頃な公園を見つけ、古びたベンチに二人で腰掛ける。
モニュメント時計を見上げると時刻は午後二十二時半。当たり前だが辺りは既に真っ暗、隣に座る少女の顔も場の雰囲気もなんだか重苦しいものに感じる。
話し辛いことなのか柏はしばらく口を真一文字に結んでいたが、やがてスッと深く溜息をつきこう切り出した。
「君の力を貸して欲しい」
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「神楽坂君大丈夫かね?少し顔色が悪いが」
「いや、はいっ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
それからはあっという間であった。
なるほど【成香】だとか【狩る側の存在】だとか、前提条件は中々オカルトじみているが一応筋道は通っている。
最初は半信半疑でいた私も、みるみるうちに柏の話に引き込まれていった。彼女の友人を救いたいという熱意に胸を打たれたということも勿論あるが、それだけではここまで心を揺らがされることはなかっただろう。
黛瑠璃子。
先程、話に出てきた柏恵美の支配者(?)であるという少女の名前だ。柏の話が正しければ私に何らかの危害を加えるかもしれないらしい。
何を隠そう。私の胸を激しく高鳴らせ、現に心を大きく動かしているのはその少女の存在であった。
話を聞けば聞くほどに、柏の語る黛瑠璃子という人間に気持ち悪いまでの既視感と親近感を覚えていったのだ。
「まるであの時の私そっくり……」
周りが全て見えなくなるほどの依存、一心不乱な盲目、そしてなにより愛の為なら手段を選ばない容赦の無さ。
その何もかもがかつて執着に身を滅ぼしかけた頃の私と重なる。
大切な存在に偏執するあまり道を踏み外そうとする一人の少女。そんな話を聞かされて黙っていられるはずがなかった。
「わかりました。喜んで協力させてください」
もう覚悟は決めた。皺の寄っていた眉間をほぐし、柏さんへ向けてそう優しく微笑みかける。
その瞬間、どこか苦しげだった柏の表情がぱぁと明るくなった。瞳と眉は大きく見開かれ、よほど嬉しいのか固く唇を噛み締めている。これがしたり顔ではない彼女の本物の笑顔なのだと、心の何処かでそう思わせられた。
「ありがとう、本当にありがとう。心の底から感謝する」
口調はふざけてるように聞こえるが彼女の表情は真剣そのものであった。最初出会った時の飄々とした態度はどこへやら、顔が見えなくならない程度に頭まで下げて私よ両の手を握った。掌がやけに熱い。
少しすると落ち着いたのか、こちらへ向き直り少し恥ずかしそうに苦笑いする。
「ははっ……正直頭がおかしいと突き放されることも覚悟していたのだがね」
まぁそれが常識というやつである。平和な日常の中でしか生きたことのない人間だったら間違いなくそうしただろう。彼女の話はあまりにも突飛な点が多すぎる。
しかし私はそもそも己自身が超能力者などという常識外れな存在だ。
そして信念のぶつかり合いが時に思いもよらない惨劇を生むことも既にこの身をもって経験している。柏恵美と黛瑠璃子、二人の結末は少しの悔いもなしに笑って終われるものしてあげたい。
「正直言うと少しは思いました。でも私は信じます。正義に信念、友情に愛情。どれも至極素晴らしいものですが、大切だからこそ時には簡単に人を歪ませてしまう。そのことは他の誰よりもわかっているつもりです」
少しだけだが先が見えてきた。今この時だけは苦悩の曇りも晴れているような気がする。柏さんも何か感じることがあったのかニヤリと白い歯を見せる。
「くっくっくっ……やはり私の目は間違っていなかったようだ」
いつのまにか初対面時の不気味さ全開で少し怖かった。
「では、細かいことは樫添君も呼んで明日もう一度集まろう。これからよろしく頼む、神楽坂くん」
話は済んだのか別れの握手にと右手が差し出される。その手を握り返そうと腕を伸ばし、––––––やはり、やめた。
柏さんの話を聞きながらずっと言うべきか否か悩んでいたことがある。いや、悩んでいたことがあるといつつ今もまだ迷っている。
だがもう助けると決断したのだ、黛さんを完璧に救える可能性を少しでも底上げするため。そう心を奮い立たせ固く締まった口元を無理矢理こじ開ける。
「……最後に、一つだけいいですか?」
「ん?なんだね」
果たして信じてくれるだろうか、気持ち悪がられないだろうか、拒絶されないだろうか。乗り越えたはずなのに、やはり辛い過去の記憶が蘇る。
それでも、それでも私は……!!
「私には人の心を読み取る力があります」
–––––––––––空間が硬直した。
これまでは驚くと言っても一瞬眉を吊りあげる程度だったが、今回は流石の柏さんも鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
やはり、薄気味悪いですよね……。そもそも、信じてもらえるわけ–––––––––––そんな底知れない不安が胸中に広がらんとした正にその瞬間。
「続けてくれ給え」
柏恵美は興味深げそうに、そしてなにより心底嬉しそうにニヤリと笑った。そこに奇異の視線は無い、救済に新たな選択肢が増えたことをただただ純粋に喜んでいる。飾り気のない柏の笑顔が、暗く淀んだ私の胸の中を洗い流していくようであった。
随分久しぶりに心の底から嬉しいと思った。柏さんにつられて思わずこちらも微笑んでしまう。
確信した。この人と力を合わせれば絶対にうまくいく。
ならばもう迷うことはない。今日この日、一番清く澄んだ気持ちで神楽坂藍里は高らかに謳う。
「私のこの能力、黛さんを救う為に使わせてください」
まるで鈴が転がるよう、どこまでも透き通った二つの旋律が夜の闇に染み渡っていく。
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結論から言えば私の能力は既にほとんど消滅している。
大護さんへの偏執に自分なりのケジメをつけ、私の心に巣食っていた黒いモノは既に晴れたのだ。
夜々峰先輩の言っていた通り、心の静まりを後追いするかのように私の共有の力は徐々に弱まっていった。事実、最近では薄っすらと感情の明暗を感じ取るようなことしかできない。柏さんの考えが読めなかったのもその為だ。
だから裏技を使わせてもらう。
自身に疑念と恐怖心が足りないのならば、共有した他人の心を基盤にしてしまえばいい。他者の黒い感情を共有によって引き摺り出し失った能力を底上げする。
精神が不安定な相手と相対していれば、第一段階までなら確実に発動できる。狂度によっては再び第二段階まで到達することもできるかもしれない。
出来ることならこの力はもう二度と使いたくはなかった。だが、この力がもたらすのは決して罪業だけではないと私は信じている。大護さんと私を引き合わせてくれたのは間違いなくこの力のおかげなのだから。
正しく使えば悲劇なんて生まない、それどころか誰もが笑って終われる喜劇を引き寄せることだって出来る。そう信じてもう一度だけこの力を振るってみよう。
黛さんを救いたい。そう強く願う心の片隅で私は確かに期待していた。
依存に溺れかける少女。かつての自分に似た彼女を、この力で救うことで何かが見えるかもしれない。
もう結末はすぐそこだ。手を伸ばせば届く距離。
「黛さん、あなたの向こう側には何が見えますか?」