第十二話 瑠璃染藍染合戦 闘戦
「一瞬で終わらせる」
黛の偏執は熱く燃え滾り、神楽坂の狂気は冷やかに揺らめく。肌を刺すような緊張感が空間を支配していく。
一瞬。
宣言通りガラス張りの均衡は瞬く間に崩壊した。
暴爆、そして斬裂。二条のどす黒い敵意が交錯する。
もう二人は戻れない。
黛瑠璃子と神楽坂藍里、どちらかが屈服するまでこの闘争は終わらない–––––––––––––––––。
先手必勝、懐に忍ばせた"先端が引っ込むタイプのナイフ型の玩具"を一思いに引き抜く。
「神楽坂、藍里ィィィィイイッッッ!!」
瞳孔を見開き、大喝を轟かす。絶叫なんて柄にもないが本気で殺す気だと錯覚させなくてはならない。ハッタリは最良の演技と演出をもって最高の効果を生み出す。
地を蹴り、疾風怒濤。
十、八、六と一気に神楽坂との距離を詰める。手元を注視するも武器を取り出す様子はない。あれだけ大口を叩いておきながらまさか素手で来たのか。
四、二と一挙に加速しナイフを構える。攻撃態勢完了。
倒すべき敵は既に目の前、目鼻の些細な動きまでハッキリ見て取れる。だが凶器を突きつけられてもそのガラス作りの顔には恐怖も動揺も一切浮かばない。ただただ冷淡、まるで自分が勝つのは当然なのだと言いたげな無の表情。
その様が此方をなめているようで、どことなく癪に触る。
「フンッ、そのポーカーフェイスいつまで持つかしらッ!?」
零。
懐に滑り込むと同時に姿勢を落とした。続くは獲物に襲いかかる虎狼の動き、首を狩らんとナイフを一挙に突き上げる。
斬ッ。刹那の風切り音。
–––––––手応えはない。頭を後ろに振られすんでのところで刃は宙を切る、が。
布石は打った、ニヤリと悪気に口角が釣り上がる。
急所への容赦無い刺突、狂気無しには決して出来ないまさしく必殺の一撃。効果上々、まやかしの殺意に神楽坂の凍りついた表情が僅かにだが確かに揺れる。
右腕の向こうに覗く神楽坂の視線、それが凶器に集中しているのを見てコートの左ポケットに手をかける。隠された切り札、触れた時にひやりとしたのは冬の寒さか凶器への畏怖か。
こっちがいくつ修羅場乗り越えてきたと思ってんのよ。
非殺傷性個人携行兵器。又の名を護身用スタンガン。
真打は此方。ドラマのように相手を一撃で気絶させられるような便利なものではないが、数秒動きを止めることができればそれで充分。すかさず拘束術で無力化してやる。
既に勝利は確信の域に達した。わかりやすい脅威に釣られ天を向いた神楽坂、その腹部は完全なる死角。
両利きの黛に利き手の有利不利はない。
起動、完了。
打ち出す様は居合の如く、電撃銃は最短最速で神楽坂へ殺到する。
「甘いですね」
––––––––––––––––––その言葉に耳を疑い、そして目を疑った。
左腕が動かない。手首にじわりと握力が染み込む。
嘘ッ、そう呟かずにはいられなかった。電撃が女の体を貫く正に紙一重、神楽坂の右腕は黛の左手首を確かに掴みとっていた。
嫌な汗が額に滲む。
意識の空隙を完璧に貫いたはずだった。勝利を確信していただけにその衝撃は小さくない。意思という湖に投げ込まれた小石が巨大な波紋を持って黛の精神を揺らがす。
悔しいが動揺の色は隠しきれない。対照的に神楽坂の静けさは更にその鋭さを増していく、どこまでも冷えていく。くだらない小細工を嘲るようにその笑みが薄く引き伸ばされていく。
コイツはヤバいッ……!!
直感が叫んだ。距離を取れと思考より先に本能が騒ぐ。
それはほとんど反射的な行動だった。神楽坂を引き剥がそうと勢い任せにナイフを振り下ろす。
それでも女は一切怯まない、避けようとすらしない。
「クソッ!!」
短絡的な己の判断を恨んだが、ここで止めれば所詮外連味だとばれてしまう。
あまりに拍子抜けな収納音。
玩具が神楽坂の首元を喰らった。結局彼女は怯むどころか瞬き一つすらしなかった。当然頸動脈から鮮血が迸ることはなく、ただ紛い物の刃がその正体を晒す。
偽兵計破られたり。
大きく見開かれた瞳がぎょろりとこちらを射抜く。気分は最悪、意識がその底無し沼に引きずり込まれていくような錯覚。
「玩具、ですよね」
「クッ……!!」
怖ろしい、心底そう感じた。今までも危険な奴は何人も見てきたがコイツは何かが違う。見掛け倒しの不穏ではない、まるで本能に直接訴えかけてくるような異常感。その不気味さは【成香】の比ではない、どちらかと言うとエミや棗に近い本質的な狂気。
なにがなんでもコイツから離れなくては。咄嗟に右足を神楽坂の腕に押し当て蹴り飛ばす。右手の拘束を引き剥がすと同時、即座に後ろへ飛び退き距離をとる。
次はどう来る?
我知らず息を飲んだが、神楽坂は蹴られた箇所を払うだけで追撃してくる様子はない。
膠着状態。
一先ず危機は脱したが、不利な状況は何も変わらない……それだけならまだ良かった。加えて新たな不安要素が更に黛を敗北の淵へと追い詰めていた。
こちらの動きが読まれている。
僅か十秒にも満たない一連の攻防の中でそう確信した。
今の神楽坂の対応、それは人間離れとまでは言えなくても明らかに凡人の域を逸していた。
偽計の看破に死角への対応、そしてなによりあの並外れた胆力。
電撃銃に関してはあえて隙を作りカウンターを狙ったと言われれば一応納得は出来る。
しかしあの度が過ぎた冷静沈着ぶりはどうしても解せない。私が人を殺すことは決してないと事前にエミに聞かされていたのだろうか、いやない。そんな何の確証もない話を完全に信じ切って命を預けるなんて蛮勇にも程がある。
きっと何か裏があるはずだ。
兎に角にもこの女に中途半端な小細工は通用しないことは分かった。技で倒せぬなら力で押すのが定石、ならば組討にしてやろうかと思うが二の足を踏まずにはいられない。
特に腕力に自信があるわけではないし、先の体捌きを見るに神楽坂は明らかに動ける人間だ。もう後がない以上ハイリスクな戦法はとれないし得意の搦手も効果は薄い。加えてこちらにはエミの到着というデッドラインがあるが、相手は時間さえ稼いでいれば勝利の女神が勝手に微笑みに来てくれる。
手詰まり。
悲観が頭をよぎるも慌てて振り払う。まだ諦めるな考えろ、何か突破口があるはずだ。
時間までにこいつを倒せなければエミは死んでしまう。それだけは絶対に絶対に絶対に絶対に嫌だ。
考えろ、脳を絞れ、あらゆる可能性を鑑み死中求活の一手をひねり出せッ––––––––––––––––––––––
–––––––––––無様だね黛くん。
心の臓が不快に脈打つ。
芝居がかった大仰な口調に女性にしてはやや低い声色、無音の廃工場に木霊する。
それはこの世で最も愛おしく、そして今一番聞きたくなかった声だった。
絶望が全身を満たしていく。
胸の鼓動は加速し、手足の震えが止まらない。
嘘であって欲しいと真に願いながら恐る恐る振り返る。
柏恵美。
彼女は確かにそこにいた。
「エミ、アンタ……」
Deadline.
悲嘆に暮れる黛とは対照的に神楽坂はほっと肩をなでおろす。
「恵美さんいくらなんでも遅すぎですよ」
「すまない私はあまり体力には自信がないんだ。ん?例のあれは使わなかったのかい?」
「確かに第二段階は初見なら確実に戦闘不能に追い込めますが、一方種が割れれば効果は確実に薄れます。何より第二段階を使うにはまだ黛さんの猜疑心と執着心が足りません」
第二段階、それが神楽坂の特異方術の名前なのか。
戦闘不能、猜疑心?
打開策を見つけ出そうと必死に頭を捻るも二人が何を話しているのかさっぱりわからない。
考えるのは後だ。神楽坂の意識がエミに向いた隙をつき、彼女の元へ駆け寄る。
「エミ……」
エミは何も変わらない。
瞳はどこか遠くを見つめ、口元にはいつも通りの不気味な微笑みが浮かぶ。
エミはどこまでいってもエミだった。
私がこれだけ彼女を死なせたくないと必死になっても、彼女は変わらず死へ向かって邁進する。
黛瑠璃子が何をしても、柏恵美は変わらない。そんな最悪の現実を改めて突きつけられ、胸の内を黒い感情が渦巻いた。
我儘だと分かっていても言わずにはいられない。傲慢だと分かっていても今回ばかりはエミにも腹を立てている。
「エミ、アンタ私に負けを認めたはずでしょ……」
息を吐けばかかる距離。これでもかと顔を近づけ詰め寄るも彼女はのらりくらりと聞く耳を持たない。
「あぁ確かに私はルリに屈服した、これは事実だ。だが君に降伏したわけでは–––––––––「何わけわかんないこと言ッてんのよッ!」
まただ、結局あの時と一緒。思考の傾向がわかるようになっても彼女の思想が、その考えていることが何一つ理解できない。
仲良くなれた?唯一無二の親友?そんなものはただの錯覚だ。私とエミの関係は一年前から何も変わってはいない。ただ時間の経過がそう思わせただけ。
私はエミのことを何も理解できないし、エミは私に理解させようともしない。
勝手に相手を分かった気になって、上辺だけ整えて張りぼての友達気取り。
……こんなのは偽物だ。
友人を名乗っておきながらエミを理解出来ない。そのことがたまらなく辛くつい声を張り上げてしまう。エミの肩を掴んだのは気の高ぶりか、それとも彼女に触れていていたい一心か。
「なんで、何も話してくれないのよ……気取った言い回しで適当なこと言ってばっか。これは我儘かもしれないけれど、私はアンタと心を通い合わせたい……アンタが悩んでいたら力になりたいし落ち込んでいたら励ましたい。大切な人に辛い思いなんてして欲しくないからッ!!……なのに、私はどうすればいいの?私エミのことがわからないッ!!」
いつのまにかエミの体を何度も揺さぶっていた。心の底に溜まっていた淀みが一挙に溢れ出し濁流となって押し寄せる。あまりにも真っ直ぐな剥き出しの感情、声は震え頭が真っ白になる。
ハッ、と何だか気不味く顔を伏せてしまう。エミが今どんな顔をしてるかは窺い知れない。
–––––––––––時は凍りつき、音もしない。
「……黛くん悪いようだが私にばかり構っていていいのかね」
「……」
やはり彼女は答えてはくれなかった。やるせなさに上下の歯が軋むが一理あることもまた事実。
聞かなければならないことは山ほどあるが、今はとにかく神楽坂をどうにかしなくてはならない。エミが来てしまった以上、攻守逆転となるが諦めるわけにはいかない。時間を稼げれば樫添さんと彼女の連絡を受けて萱愛が駆けつける。
まだ希望は消えていない。たとえこの身がどうなろうともエミの命だけは必ず護り抜いてみせる。
必救の覚悟を新たに再び戦場にその身を投ずる。神楽坂藍里、倒すべき敵の元へ向き直った。
–––––––––––えッ、なにこれ。
口上は消し飛んだ。あまりの衝撃に思考が追いつかない。全身から血の気が失せ、体が冷たくなっていくのを感じる。
「嘘……」
ナイフ、スタンガン。そんな玩具とは格というやつが違う、殺意の濃度が圧倒的に違う。
生命の断絶、文字通り殺戮だけを目的として作られた真の意味での武器。黛にとって漫画やゲームや小説、歴史資料の世界の中での存在でしかなかった怪物が現実となって牙を剥く。
洋弓銃。
日の本ではボウガンと、唐土では弩とも称される機械仕掛けの弓矢。現代人の多くはスポーツ用具の一種程度にしか思っていないだろうが、元は数多の人間を戦場の塵屑へと変貌たらしめた殺人兵器。中世の合戦に於いては戦死者の七割が弓によるものであったという。その凶悪性は歴史が証明している。
神楽坂の手元が揺らめく。最大の暴力が振り上げられる。一切の迷いは無し。躊躇も無し。断滅の照準が黛と重なる。
黒の化物がこの身を喰らわんと唸りを上げる。
考えている暇はなかった。
「いッ!!」
頭より先に体が動いた。反射的にエミに突き飛びつきそのまま横へ転げる。
直後、一閃。
一筋の線攻が走り抜けた。先程まで私達が立っていた空間を一挙に貫き、粉砕音と共に背後の木板が砕け散る。
正直、ここまでとは思っていなかった。その威力を目の当たりにし恐怖が満ちた器から更に溢れ出した。
「ちョッっ、冗談でしょッ!!」
イカれている。完全に殺しにきている。
「なるほど、予めここにあんな物を持ち込んでいたとは。いやぁ彼女もよくやる」
「バカなこと言ってんじゃないわよッ!!」
文字通り冗談じゃない。エミとくだらない掛け合いをしているうちにも、慣れた手つきで手早く次発が装填されていく。
この距離ではもう妨害には間に合わないだろう。
判断ミスが死に直結する以上、下手な行動はとれない。かと言ってうかうかしていては数秒後には串刺しにされてしまう。
何か、何かないか––––––––––––––––––––––––。
「こっちッ!!」
咄嗟の思いつきだった。エミの手を引き傍の鉄扉を潜り抜け建物の中に転がり込む。
刹那、悍ましい程の金属音が耳下を殴りつけた。追撃の矢が鉄扉と激突し甲高い悲鳴をあげる。
「チッ!!」
頭の中で反響する不協和音にふらつきつつも即座に鉄扉を閉める。それでも神楽坂の追撃は止まらない。次の瞬間には鉄扉をこじ開けようと引戸の持手が引っ張られる。
幸い向こうも腕力は人並みだったが、力が拮抗しているだけに疲労の差が露骨に表面化した。
徐々に扉が開いていく。その隙間から神楽坂の大きな瞳がギョロリとこちらを覗き込む。
「開けてください」
「クソッ!!」
不利は百も承知、だがここが踏ん張りどころだ。今死力を尽くさずいつ尽くす。
腕力は拮抗、体力は不利、互角以上に持ち込みたいならもう気力しかない。
「絶対に負けない……私のエミへの想いが、アンタの自分勝手な殺意なんかに負けるかッ!!」
閉めようとする黛瑠璃子に開けようとする神楽坂藍里。二人の力は押しては押され、押されては押しの堂々巡りをくりかえす。攻守が逆転するたびに鉄扉は苦しそうに軋んだ。
両の腕は悲鳴をあげ首元を汗が滴る。苦しい苦しい、只管苦しい。それでもたったの一歩も譲らない。血が沸騰するような全力のぶつけ合いを初めて何十秒が経過しただろう。
突如、対抗する力が抜けた。神楽坂が諦めて手を離したのだろう。半開きとなっていた鉄扉は勢いよく閉じられる。
耳をすませば粗雑な金属音の残り香に混じって神楽坂の足音が遠のいていくのが聞こえた。
ひとまずは凌ぎきった。久方ぶりの安堵に思わずその場にへたり込んでしまう。だがこの程度で諦めてくれるほど神楽坂藍里は甘い相手ではない。
「別っの、入り口、から。回り込む、つもりね……」
途切れ途切れの荒い息。情けないがもう疲労の色は誤魔化しきれない。思えばエミを連れてのダッシュに、柏邸から廃工場までの全力疾走。加えて神楽坂との組手。そして止めに先程の扉相撲。ここ最近疲れを溜めていたせいもあってか体力の消耗が著しい。
体はもう限界に近いが樫添さんも萱愛も駆けつけた様子はまだ無い。
「アイツが、戻ってくる前に、エミを何とかしないと」
「さぁどうする黛くん、前回と違って今回は樫添くんもいない」
「エミ、ちょっとこっち来て」
「ん?なんだね」
この後に及んでヘラヘラしているエミに内心腹を立てながら、彼女の手を引き傍らにあった階段を上がる。
下からも見えていたがそこには使われなくなった作業員用のロッカーが打ち捨てられていた。ざっと数えて十以上、錆びきって使い物にならないものから汚いだけで傷一つ無いものまで多種多様である。
そのままゆらりと進み、最も状態の良さそうなロッカーの前で立ち止まる。
「どうしたんだね?黛くん」
「ちょっとここでおとなしくしてろッ!!」
我ながら見事な手さばきだったと思う。右腕でエミをロッカーに放り込み、左手で即座に戸を閉める。エミが言葉にならない声を上げた頃には戸が下になるようにロッカーを蹴り倒し終わっていた。
多少乱暴だが事態が事態だ。今はこうするしかあるまい。
エミはしばらくガタガタと無駄な抵抗を続けていたが、諦めたのかロッカーの隙間からこもった溜息を漏らす。
「はぁ……甘いな黛くん。ロッカーが穴だらけなせいでこれでは窒息死できないぞ」
「そのために!これにしたの!」
何を言うかと思えばまたそれか。もう怒るのも突っ込むのも疲れた。それでもこうして丁寧に返してしまったのはエミとのいつも通りの会話が心地よかったからだろうか。
いかんいかん、エミと話しているとついつい気が緩む。
「私はやるわよ。神楽坂なんかさっさと片付けて、アンタが何企んでたかたっぷりと聞いてあげるから覚悟して待ってなさい」
「残念ながら今の君では無理だ」
「フン、言ってなさい」
今は何よりも神楽坂の打倒が優先、もうコイツと話している時間も無い。それきり静かになったエミを置いて走り出した。
これでしばらくは対等に戦える。これが最後のチャンスだ、今度こそ必ずヤツを仕留めてやる。