第十話 銀将質駒逆王手
「はァ……ハぁ……」
コンクリートにその身を預け、詰まったモノを押し出すように荒い息を吐く。鬼畜唐辛子スプレーに悶絶すること約数分、焼けるような激痛も収まり始めやっとの思いで両の眼をこじ開ける。
途端に眼孔の奥を鋭い痛みが劈いた。
瞼を中心に顔全体が燃えるように熱い。えずきを漏らし、頭を抱えて苦しみながらもようやく自分の足だけで立つことができた。
眼痛未だ癒えず。なけなしの半開きで路地の奥を見据えるも人っ子一人見当たらない。神楽坂藍里は勿論のこと、例の黒服の女も既にこの場から姿を眩ましてしまっている。
–––––––––どうする?
二人はどこへ向かったか。神楽坂との会話を思い返してもこの路地裏を見渡しても手掛かりになるようなものは一切ない。
自分の犯したミスを改めて認識し、激痛との戦いの中意識の隅に追いやっていた罪悪感が途端に弾け胸を押し潰した。
失敗。
その二文字は萱愛の心の奥深くまで容赦なく喰い込んでいく。
止めなくてはならない人間を止めることができなかった。神楽坂藍里を止めてみせると、柏先輩と彼女の死に怯える黛さんを必ず救ってみせると、そう偉そうに宣言しておきながらなんだこのザマは。
情けなくてたまらないと心が叫ぶ。いざ蓋を開けてみれば俺は何もできなかった。あのまま神楽坂に行かれてしまえば、柏先輩は死ぬ。そうだと、そうだとわかっていたはずなのに……ッ!!
両の拳に握り潰れんばかりの力が込められていく。
奇襲されるなんて想定していなかった、他に協力者がいる可能性に気付けなかった、そんな言い訳に意味はない。過程がどうであろうと失敗が失敗であることに変わりはないのだ。いくら取り繕ったところで事実は覆らず、ただただ残酷な現実だけが目の前に立ちはだかる。
「ク、クソオォッ!!何をやってるんだ俺はッ!!」
やり場のない悔恨を込め傍のビル壁を殴りつける。鈍い音と共に拳の先からジワリと血が滲んだ。
駄目だ、ひとまず冷静になれと熱くなった息を吐き出し、冷気を頭に浸透させていく。
ズキズキと疼くような痛みに上書きされる形で心は徐々に落ち着きを取り戻していった。
いつまでもこうしているわけにはいかない。今はとにかく時間が惜しい。後悔などしてる暇があるなら行動しろ。諦めるな、俺にもまだ出来ることはある。
一先ずは伏兵の存在を黛さんに伝えるべきであろう。あの人まで神楽坂派の不意打ちにやられてしまえば、柏先輩の救出は今度こそ本格的に難しくなる。
視線を走らせると幸いなことに先程取りこぼした携帯電話はすぐに見つかった。拾いあげようと腰を屈めたその時。
「萱愛ァ!」
背後から聞き覚えのある声が飛んできた。声に少し遅れ焦げ茶のコートを羽織った一人の少女が裏通りにその姿を現す。
小柄な体格に大学生にしてはやや幼い顔立ち、栗色の前髪から覗く大きな瞳は一直線にこちらを見据え、駆けるリズムに合わせて二本のおさげがぴょこぴょこ踊る。
黛さんの懐刀にして此度の件の協力者、樫添保奈美その人であった。
「かっ、樫添先輩どうしてここにッ!!」
思わぬ人物の登場になんとも素っ頓狂な声が出てしまう。
俺の問いに応える余裕もないのか、樫添先輩はこちらへ駆け寄るやいなや膝に手をつき苦しそうにうなだれてしまう。
これは酷い、見ればこの寒さだというのに顔中汗でびしょ濡れである。
加えてここまで全力で走ってきたのかかなり息が荒れていた。
樫添先輩が落ち着きを取り戻すまで待つこと約三十秒。
「ハァ……ハァ……私も、たまたま近くに……いたからッ、––––––黛センパイの。話をっ聞いて、駆けつけたの。それで、神楽坂は?」
おもむろに顔を上げ彼女は問う。酷く疲れているだろうにその瞳は凛々しく少しの陰りも無い。
なんと言えばいいか。罪悪感と不甲斐なさが胸を引き裂くが起こってしまったことは言うしかない。
姿勢を伸ばし直角に腰を折って頭を下げる。重い唇をなんとかこじ開けると途端に言葉が溢れ出ていった。
「すみませんッ……!!神楽坂さんには、逃げられてしまいました……。本当に、申し訳ありませんッ!!」
そのまま膝をつき地に頭をこすりつけようとする俺を樫添先輩が慌てて制する。
「分かった分かったッ!!分かったからやめて。謝罪なんていいから状況報告は正確に」
呆れたような樫添先輩の声にハッとなりモゾモゾと居住まいを直す。変わらずに樫添先輩の瞳は俺の目のみを見通している。後ろめたさに思わず目を逸らしたくなるがそこはグッと堪えた。
「はい。神楽坂さんに気を取られている隙に、潜んでいた別の何者かが背後から俺の顔に唐辛子タイプのスプレーを吹きかけていきました。襲撃者の顔はわかりませんでしたが体格的に恐らく女性だと思います。目が回復した頃には二人の姿は既に」
「なるほど柏ちゃんに神楽坂、それ以外に最低でももう一人協力者がいるってことか。厄介ね」
ふと違和感を感じた。言動と行動の不一致と言ったところだろうか。
厄介、そう口にしておきながら樫添先輩の表情はどこか涼しいものである。
予想外の事態にもっと慌てるかと思っていたが流石の落ち着きようだ。なるほど、この冷静沈着さが彼女を黛さんの懐刀たらしめる故であるのだろう。
彼女は少しの間口元に手を当て何やら思案していたが、やがて考えがまとまったのかおもむろに口を開く。
「分かった。伏兵がいるってわかっただけでも上出来だよ。黛センパイには私が伝えておく」
「いや俺がやりますよ」
「ダメ。状況が変わった以上私が直接話してプランを練り直した方がいい。そして何よりアンタには他にやってもらいたいことがある」
瞬間、体がビクッと跳ねそして静かに震えた。これが武者震いというやつなのだろうか。
俺にもまだできることがある。その言葉の意味を深く噛み締めながら萱愛小霧は誓う。二人を救う為、例えどんな任務であろうとも今度こそ必ず完璧に遂行してみせる。もう決して失敗はしない。
「はい、なんでしょう」
決意にその身を燃やしながら樫添先輩の次の言葉を待つ。
「萱愛には一分一秒でも早くM高に駆けつけて欲しいの。さっき黛センパイから連絡があった、柏ちゃんが死ぬならあそこを選ぶに違いないって。敵が複数だと分かった以上、黛センパイ一人じゃ荷が重すぎる。情けないけど見ての通り私はしばらくは走れない。だからお願い、萱愛しか動ける人がいないのッ!!」
圧倒された。あれだけ力強かった樫添先輩の瞳がみるみるうちにすがるような弱々しいものへと変わっていった。見れば薄っすらと涙さえ浮かんでいる。いつのまにか両手で俺の裾を掴みながら彼女は必死に訴える。
考えてみれば当然のことである。大切な友人が、それも二人揃って命の危険に晒されているのだ。いくら樫添先輩だって弱りもするだろう。
既に覚悟は決めてある。なら俺はこう答えるだけだ。
「わかりました。黛さんは俺が護ります」
「……ありがとう」
顔を伏せたまま立ち尽くす樫添先輩に別れを告げ、一目散にM高へと駆け出す。必ず、必ず救ってみせる。黛さんも柏先輩も樫添先輩も、そしてあの神楽坂さんという人だって誰一人不幸にはさせない。
まだ間に合う。平和な日常に突如湧きでた悲劇の種、誰もが笑顔で終われるハッピーエンドにこの手で変えてみせる。
––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––
「よし」
萱愛の姿は繁華街の向こうに消え、この裏通りにいるのは自分一人だけ。嘘っぱちの涙を適当に拭い、電波を飛ばすと相手はすぐに応答した。
「もしもし、首尾よくいっているかね」
柏恵美。彼女も走って疲れているのか声色からいつものような不気味さは感じない。
「足止めは成功。これで神楽坂さんはフリー、萱愛も思い付きで適当なこと言ってM高に追い出した。携帯も奪えたからしばらくは黛センパイとは合流することも連絡することもできない。この辺りには公衆電話はほとんど無いしね。もうあいつは脱落と考えていい」
左の掌の上でポンポンと萱愛の携帯電話を弄ぶ。さっき裾に縋り付いた時にこっそり拝借させてもらった。人間は高揚すると意識の外に対してとことん盲目になりがちである。
柏は黙って報告を聞いていたが私が話し終えた瞬間、我慢の限界とばかりに吹き出した。はっはっはと柏らしい演技臭い笑い声が連続する。
……なにかおかしいところがあっただろうか?理由も無く笑わればあまり良い気分はしない。
「なんなの」
「いやぁ少し面白くてね。あの時はルリばかりに気を取られていたが、樫添くん君もなかなかのものだね。もしかしたら君がいなければ黛くんには勝てていたかもしれないな」
「つまらない冗談はやめて」
「いやぁ気を悪くしないでくれ給え。別に皮肉を言っているわけではない褒めているだけなのだよ。そして感謝もしている。私が勝っていれば黛君がルリとなることもなかったのだから。香車君ならともかく【成香】なんていう中途半端な存在に殺されるよりもルリの支配の方が絶望の色は深い」
また訳のわからない変人演説が始まった。理解できないし、したくもないし、する気もないのでこの手合いはちゃっちゃと流すに限る。
「あっそ、別に萱愛を騙すくらいどうってことない。人なんて弱ってる時に一番欲しいものを与えてやれば簡単に堕ちる」
「いやいや人を騙すというのはなかなか難しいものだよ。私なんてこの二週間、いつ黛君に企みがバレるんじゃないかとどれだけ冷や冷やしたことか」
「確かに黛センパイ相手なら気持ちはわかる。まぁ昔柏ちゃんに仕掛けた時よりはうまくなってるかもね」
柏にしてはやけに無駄話が長い。もしや緊張を会話で紛らわそうとしているのだろうか?柏に限ってそんなことはないと思っていたが、彼女でもやはり不安というものがあるのだろう。そうならばここは友人として元気つけてあげたい。
「大丈夫だって柏ちゃんらしくないよ。萱愛が落ちた以上、これで黛センパイはもう一人。絶対に成功するって、いや絶対に成功させるの。とにかく––––––––––––」
「いやそのことに関して心配はしていない。ただ……」
「う、うん?ただ?」
「友人を騙すというのはとても辛いことだ。その相手が大切であればそうであるほど心は痛む。だが私はいいんだ、ルリの気持ちに気付けず正面から向き合えなかった私も悪いのだから罪滅ぼしとして受け入れることもできる。だが樫添君、君は違うだろう。だというのに辛い役ばかり君に押し付けてしまい本当に申し訳なく思っている……これは本心だ」
は?
思わず呆気にとられてしまった。開きっ放しの口を慌てて閉じる。もしかしたら私は柏恵美という人間を勘違いしていたのかもしれない。いつか黛センパイが言っていた、エミは変人である以上に良い友人なのであると。聞いた時はふーんと流してしまったが、今ならその意味がよくわかる。本気で心配してくれている柏には悪いが彼女の人間らしい一面が伺えて少し嬉しかった。
先程の柏同様、我慢出来ずに吹き出してしまった。お返しとばかりにはっはっはと軽快に笑う。
「な、なんだね?その変な笑い方は」
おい、アンタがそれを言うか。
「いやぁ少し面白くてね。大丈夫、そんなこと気にしなくていいの。私も黛センパイを助けたいことに変わりはないんだから、柏ちゃんは柏ちゃんの、私は私の役目を果たせばそれでいいの。水臭いこと考えてないで遠慮なくドーンと任せてよ」
んっ、と声にならない声を漏らしたきり柏の言葉は続かない。向こうも先程の私みたいに口を開けっ放しにして呆然としているかと思うとまた可笑しさが込み上げてきた。
「……ふふっ、やはり君は凄い人だよ樫添君。君が整えてくれたこの盤上台無しにするわけにいかないな」
どうやら踏ん切りはついたようだ。
「そう、私が指す手番はもうお終い。終盤戦は」
「私の番だ」
最後にもう一度ありがとうと言われ電話は切られる。さて、小細工の時間は終わりだ。戦いの火蓋はすでに切って落とされた。
いつまでそこに隠れている––––––––め、首を洗って待っていろ。必ず私達の眼の前に引きずり出してやる。