第九話 鬼が出たなら蛇も出る
時は既に夕暮れ時、陽は地平線の向こうへと傾き始めそれに伴い賑やかであった人々の喧騒も徐々に収まりつつある。
商業施設が乱立する繁華街の向こう側、雑居ビルに囲まれた薄暗い裏通りで萱愛小霧は冷たいコンクリートの壁にその身を預けていた。
神楽坂藍里はここで抑える。この通りは地元の中では有用な抜け道として名高い。神楽坂の向かった方向を考えるにここを通ることは間違いないだろう。
携帯電話を見やれば先回りするために駆け出してから約八分、そしてここに陣取ってから既に三分が経過していた。あと二分もすれば神楽坂藍里はここにやってくる。
余計な時間は時に雑念を生むもの。ここまで来てこのような事を思うのも無粋かとは思うが、俺の胸の中では未だ二つの相反する感情が静かな鬩ぎ合いを続けていた。一つは勿論神楽坂への疑念、そしてもう一つは何を隠そう黛さんへの疑念であった。
この約二週間、黛さんに言われた通りに神楽坂を監視し続けてきたが、幸か不幸か不審に思うところは一切ない。それどころかその行いはまさしく善人。彼女が人間として理想的な人物かと問われれば百人が百人必ずそうだと答えるであろう。
性格は明朗快活にてその一挙手一投足は淑女そのもの。育ちの良さを感じさせる丁寧な言葉遣いで、奢ることなく、妬むことなく、怒ることなく、誰に対しても心優しい。それでいて今まで出会ってきた誰よりも努力家であり、周囲の人間からの信頼も厚いようであった。
そして何より彼女の笑顔には飾り気がない。読んで字の如く心の底から笑っていた。黛さんほどではないもの、俺も今までの経験から何となく表情の裏に隠された悪意というものを察する事ができるが、彼女にはそれが全くなかった。【成香】になるような鬱屈した感情を溜め込んだ人間が果たしてあのような素敵な顔をすることができるであろうか。
ここまで長く語っておいて何であるが、それでもやはり黛さんの言うこともひっかかる。どれだけ柏先輩を大切に思っているのか、あの人の危険な香りを嗅ぎ分ける力は天性の勘を通り越して最早超能力レベルである。俺が知る以前から何度も柏先輩の死を阻止してきた人の言葉だけに簡単に否定することもできない。
彼方を見ても此方を見てもそこは信頼と疑念に取り囲まれた袋小路。考えても考えてもbestは分からずじまいだが、それでもbetterまでなら導き出せないこともない。思考にひと段落をつけるとタイミングのいいことに路地の奥からカツカツと一つの足音が響きだした。
きたか。萱愛は音の方へ向けて首を降る。
やることは一つだ、一先ずは事情を説明する。彼女の意思を問い、黛さんの考えを伝え妥協点を探る。誰でも思いつきそうなベタな行動だがこれが俺の出したbetterだ。betterであるからこそベタはベタとなりうるのである。俺としても極力争いごとはしたくないし出来ることなら話し合いですませたい。
向かってくる人影は徐々にそのシルエットをはっきりさせていき、やがてその表情も伺えるまでに近づく。二人の視線が交差した。
––––––––––刹那、そんな甘い考えは消し飛んだ。
携帯電話が手から滑り落ち、間抜けな金属音が路地裏に響く。
「神楽坂藍里さん。ですね」
情けないことだがその声は震えていた。彼女と瞳を重ねたその一瞬、背中にぞわりと本能的な恐怖が走った。正直相手は女性だと油断していた。これは思っていたよりも遥かに危ない状況なのかもしれない。
どこまでも暗い漆黒の髪に透き通るような白い肌、見ているだけで吸い込まれそうになる黒く大きな瞳。遠くから観察していただけでも充分わかっていたが、こうして近くで見ると彼女の美しさはとてもこの世のものとは思えないほどに神秘的である。
そしてその美しさが逆に不気味であった。そこに一切の感情はなく、彫刻の如く無機質さと刺さるような冷たさだけが只々広がっている。
本当に心から嬉しそうに、優しく柔らかい笑顔を浮かべていた彼女の面影はそこにはない。今まで見てきた神楽坂藍里とはまるで別人である。
黛さんが見たのはこれか。あの人の言っていたことも今なら痛いほどわかる。碌な根拠はなくても直感が告げる。間違いなくこの女は危険であると。ここで自分が彼女をどうにかできなければ、それがすぐに柏先輩の死へと収束してしまうのではないかと疑ってしまうほどに。
「そうです」
あまりに淡白でそっけない返事。それがまた不安を掻き立てる。彼女の瞳は萱愛の目を捉えて離さない。その底無し沼を突きつけたまま一歩、また一歩とこちらへと近づいてくる。言葉にならない威圧感に圧倒され思わず後ずさりしてしまう。だが、
「待ってましたよ。単刀直入に聞きます、柏先輩に何をする気ですか?」
萱愛小霧はもうこのようなところで迷うような男ではない。神楽坂藍里の底なし沼を怯まずキッと見返し一歩前に出る。
二人が俺に教えてくれた。一人は俺が変われなかった為に失ってしまった親友、そしてもう一人は俺が変われた為に救えた"大切な人"。
俺はもう後悔したくない。大切な人を助けるためなら自分の考えには囚われないし、卑怯と後ろ指を指されるような手段だってとることも厭わない。そして何より出来たかもしれないことに妥協はしたくない。柏先輩、そして彼女を失うことに怯える黛さんを救うと俺は決めたのだ。歯を食いしばり、しっかりとこの足で大地を踏みしめ、決して脅威から目を逸らしはしない。
「殺します。ってもし言ったらどうしますか?」
先程までとは違いどこか試すような笑みを浮かべながら神楽坂は問い返す。
殺す。そのフレーズに思わず肩を落としてしまう。
「全力で阻止します」
即答。これが最終通告だ。一縷の希望を託し、口調を強めながら一挙に問い質す。
「あなたの目的はなんですか、彼女を襲う理由は!?」
「目的、理由……ですか」
熱くなる萱愛の言葉など何処吹く風。神楽坂藍里は表情に呆れをにじませ、まるで歌うように宣言する。
「そんなこと私が【狩る側の存在】で彼女が【狩られる側の存在】だから、それでいいじゃないですか」
……決まりだ。勘違いであって欲しかったが、黛さんの言う通り神楽坂藍里は間違いなく黒だ。話し合いでどうにかなる段階は既に過ぎた。そうと決まったなら何があろうとも神楽坂はここで食い止める。
いくら相手がぶっ飛んでいようとも男女の腕力差はかなりのアドバンテージになる。相手が刃物を隠し持っていたとしても幸いこちらにはナイフで襲われた経験ぐらいある。
勿論乱暴なことはしたくない、極論を言えばわざわざ無効化しなくても彼女をこの先に行かせなければそれでいい。腰を落とし身構えると狭い路地を塞ぐように大きく両の手を開く。
「乱暴なことはしたくない、極論を言えばわざわざ無効化しなくても彼女をこの先に行かせなければそれでいい……ですか、お優しいんですね」
透き通るようなその声はよく響いた。萱愛からおよそ四メートルほどの位置でようやく彼女は立ち止まる。会話の流れから見てあまりにも脈絡のない発言。しかしその違和感に気付くと、困惑は恐怖へと豹変し萱愛を飲みこんだ。
心が読まれている。
俺の行動を見れば確かに大体の意図ぐらいは読み取れるだろう。だがこれはそんなレベルではない。神楽坂は俺の脳内思念を一語一句違わず完璧に復唱してみせた。
ただの偶然であろうか。そうに決まっているのに自分を信じきれない。神楽坂藍里の纏う次元の違うプレッシャーが萱愛の感覚を狂わせていく。
「場合によってはあなたも芽生えているのかと心配していましたが、聞いていたより立ち直っているようですね安心しました」
話が全く読めない。この人は一体何を言いたいのだ。
神楽坂はそれだけを言い残しそっと微笑むと、困惑する俺を他所にゆっくりと踵を返す。去り際に見せた表情に先程までの末恐ろしさは微塵もない、そこにいたのは間違いなく俺が今まで見てきた神楽坂藍里であった。
脅威のあまりにも呆気ない逃走、緊張から解き放たれ安心したのかつい呆然としてしまう。ハッと気を取り戻し神楽坂の背を追おうとしたその直後。
「ま、待ってくださ……ンッ」
突然背後から肩を掴まれた。誰だと振り返った刹那、腕の主の顔を確かめるより早く顔に霧状の何かを吹きかけられる。次の瞬間、両の瞳を焼けるような激痛が走り回った。
「がああああァァァァッ!!」
今まで体験したことのない痛みに耐えかね咆哮する。まるで目の奥から眼球が沸騰しているようだ。
硫酸をかけられたかとパニックになり、慌てて顔を撫でるもどこかが溶けたり腫れたりしている様子は無い。痛みだけで実害は無し、薄っすらと鼻につく臭いから考えるに唐辛子タイプの痴漢撃退スプレーといったところだろうか。
誰だ?神楽坂の仲間なのか?そうだとしたら次はどう動く?俺はどう対処すればいい?
痛みと焦りと恐怖は萱愛の脳内を搔きまわし、思考を出口のない混沌へと突き落とす。瞼に阻まれた暗闇の向こうから名前も知らない誰かの逃げさる足音が響く。それはまるで混乱錯綜する萱愛を嘲笑っているかのように聞こえた。
「はぁ……が、逃がすか」
このまま何も出来ずに逃げられてたまるか。目玉を掻き回される痛みを無理矢理抑えつけ、微かに開いた瞳から敵の姿を拝む。
体型を覆い隠すゆったりとした黒服に目元まで隠れそうな深めの黒帽子、背は低く走り方を見るに恐らく女性であろうか。数秒はもったがそれでも気力だけでどうにかなる問題ではない。脈打つような激痛と共に萱愛の視界は再び闇の中へと包まれた。