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短編集

魔法の鞄屋

 

 それは、最近のことです。とあるコミュニティのなかで横浜駅の裏路地がたいへんホットな話題となっておりました。

 横浜山手の一軒家に住まう妻たちの、そのコミュニティ――簡潔に申し上げてしまえば、セレブママ友たちの会――では海外で流行しだしたブランドやとある有名デザイナーの新作が新宿のイベントで発表されるなど、ファッションの話はいつもあがっておりましたが、横浜の、それも裏路地の話題が一番盛り上がるなんて普通ではありませんでした。

 なんたってあそこはあまり上品ではないのです。

 一週間ハワイのマンションに滞在していた真理恵が、加奈子さんのお宅にお邪魔したところ、一足先に到着したそのコミュニティのマダムたちがリビングのソファに座ってその話題で盛り上がっていたのであります。真理恵は大変驚きました。

 真理恵がハワイにお暇している間に、コミュニティの趣味が変わってしまったのでしょうか。

 真理恵は裏路地の話になど、あまり興味はありませんでしたが、話についていけなくなるのも嫌だったので彼女らの話に耳を傾けました。


「その『魔法の鞄屋』というのは非常に気まぐれで、決まったときや場所に開店をするなどしないんですって」

「それでどうやって買うのです?」

「なんでも運がいい人は出会えるのだとか。私、二丁目の大場さんがお買い上げになられたって聞きましたわよ」


 なんて運がいいのでしょう、羨ましいわ、と彼女らはたいへん盛り上がっておりましたが、真理恵は頭が痛くなりました。どういうことなのでしょう。魔法の鞄屋、なんてうさんくさいものを彼女らは信じているのでしょうか。そして、信じた上で欲しているのでしょうか。

 裏路地に売っているブランドでもない鞄などすぐに壊れてしまうに決まっています。真理恵にはわけがわかりませんでした。


「その、魔法の鞄屋というのは何なのですの?」


 真理恵はたまらず尋ねてしまいました。彼女らは「あら」と小さく瞠目すると、苦笑して顔を見合わせました。


「ああ、真理恵さんはハワイにいらしたから、ご存知ありませんでしたわね」


 加奈子さんはそう言って立ち上がるとどこかへ行ってしまいました。困惑する真理恵に、残ったマダムたちが面白そうに言いました。本当にすごいのよ、と。


「これですわ」


 しばらくして戻ってきた加奈子さんの手には、ひとつの鞄がありました。

 真理恵は目を見開きました。なんたって、その鞄はきらびやかに輝く宝石がちりばめられており一見してすごく派手なのに、それでいて加奈子さんの明るめの髪と顔を引き立てるようなそんなハイセンスなものだったのです。

 それだけでも素晴らしいものなのに、それは真理恵の見間違いではなければ、自ら薄く発光しているのです。そうして鞄を観察しているうちに、部屋の中にいやに甘い香りが立ち込め出したのに気が付きました。バニラビーンズにキャラメルを加えたような香りです。


「魔法というのは、たとえ話ではありませんの。仕組みはわかりませんが、この鞄自ら発光するうえに、良い香りがして。それだけでも不思議なのに……実は、最初いただいたときにはこの鞄、こんな形ではありませんでしたのよ」


 加奈子さんは得意げに語りながら、部屋の電気を消しました。一瞬視界が真っ暗になりましたが、目が暗順応するとカーテンの隙間から漏れ入る光とは別に、加奈子さんの手にある鞄が柔らかく発光しているのが見えました。

 驚いて目と口を開いたまま固まってしまった真理恵に、加奈子さんは自分の鞄を差し出しました。真理恵は慌ててその鞄を受け取ると、ジッパーを開きます。鞄の中に光る何かが入れ込まれていて、鞄全体が光るように細工されているに違いないのです。


「え?」


 しかし、真理恵の目に飛び込んできたのは、何もない、ただの鞄の底です。

 真理恵は思わず間抜けな声を漏らしてしまいました。


「ふふ、真理恵さんったら。トリックではございませんのよ」


 誰かが笑いました。真理恵は必死になって鞄の中をまさぐってみますが、ついぞ何の仕掛けも見つけられませんでした。

 呆然とする真理恵が、加奈子さんの話をきちんと理解するのには随分と時間がかかりました。

 なんでも、加奈子さんは真理恵が日本を経った二日後に知人に鞄をもらったらしいのですが、その鞄がなんというか豆腐のような有様で――つまりは、白一色に四角いだけの、よく言えばシンプルなデザインの手持ち鞄であったそうです。加奈子さんはお礼を言いながらも、その知人の方の趣味を内心笑ったそうですが、驚いたのは翌日の朝のことでした。

 鞄の見た目がすっかり変わってしまっていたのだそうです。大きな宝石がひとつ、鞄についていました。機能には見られなかったものなので、加奈子さんは大変うろたえたそうですが、しかし家の警備の者もその部屋に入るものは特に何も見なかったというし、備え付けの防犯カメラにも当然何者の姿もありませんでした。

 加奈子さんの旦那様にそのことを相談してみると、定点カメラを置いてみたらどうだ、と言われたとのことで、さっそくその日から鞄をきっちり撮るようにカメラを設置しました。

 翌朝、鞄を確認してみると宝石の数が増えていたそうです。さっそく定点カメラの映像を早回しで見ると、鞄は徐々に植物が育つように、勝手に変化してしまったようでした。加奈子さんがテレビにその映像を出してみせてくれましたが、真理恵にはまだ信じられないような思いでした。

 鞄から宝石が生えてくるその映像は非常にショッキングなものであったのです。CGなのではと密かに思いましたが、加奈子さんや加奈子さんの旦那様にそのような技術があったとは聞いたことがありません。

 それから一週間も経つと、鞄はすっかり変わってしまって、現在のような形になってしまいました。後から忘れていた、とその鞄を贈ってくれた知人が電話をかけてきたことには、その鞄は『持ち主に合わせて変身する魔法の鞄』なのだとか。はじめに言われていれば信じられるような内容ではありませんでしたが、そのときになってみれば納得の言葉でありました。

 加奈子さんのお宅に毎日のようにお邪魔していたセレブママ友コミュニティの皆様も、日々変わっていく鞄と、その晩の映像を実況で観察していたものですから、もうすっかり『魔法の鞄』を信じきっていました。二丁目の大場さんもその鞄に憧れて、横浜に通い詰めてつい昨日入手できたようなのだとか。

 それで、その鞄を入手したのが、横浜駅の裏路地にあるとかいう、『魔法の鞄屋』というお店だったのです。


 真理恵には未だ信じられませんでしたが、彼女らはすっかり魔法の鞄屋のことを信じきって夢見る乙女の状態でしたので、口をつぐみました。


 翌朝、横浜駅の裏路地に真理恵の姿がありました。そこにはドレッドヘアにヘッドホンをした大男や、鼻にピアスをして髪を真っ赤に染めた女性などが多くおりましたので、ふんわりとしたロングスカートに、きっちりとしたブラウスを着て、黒い長髪をゆるくウェーブさせたいかにもお嬢様ぜんとした真理恵の姿は非常に浮いておりましたが、真理恵本人としましてはそんなことを気にしている余裕はありませんでした。

 何しろ、路地裏に入った途端、真理恵の目に『魔法の鞄屋』という看板が飛び込んできたのですから。

 周りの人は、地面に布を敷いただけの簡素な露店のことなど気にしていないようでしたが、真理恵は一目散にそちらに向かいます。たいへん気まぐれな店主だということでしたから、急いで向かわなくては目の前で閉じられてしまうような気がしたのです。


「ご主人、こちらで『魔法の鞄』が買えますの?」


 一目散に露店に向かった真理恵は、意を決して店主に話しかけました。店主は髪を七三にして、キツネのような顔で笑っており非常にうさんくさかったのです。

 しかし、話に聞いていた通り、豆腐のような見た目の鞄が布の上に並べてありましたから、何とか話しかけました。


「ええ、ええ。こちらが『魔法の鞄屋』でございます。『魔法の鞄』はお客様に合わせて変化する魔法の品でございます。ささ、どうぞ、お手にとって。どれも同じ魔法の鞄ですから。お買い上げなら、そちらの鞄に一万のお札を投げてくだされば結構です、ええ」


 おそるおそる話しかけた真理恵に、かみつかんばかりの勢いで身を乗り出した店主が、随分と早口でそう説明しました。

 これには驚きましたが、気を取り直して店主が指し示す方に視線を向けてみれば、白い鞄たちのなかにひとつだけ黄土色の毛皮を使った可愛らしい鞄がありました。よく見れば、先の黒くなったキツネの尻尾らしきものも装飾されています。


「ええ、そちらは私の鞄です、ええ」


 真理恵の視線に気が付いたのだろう、店主がそう言いました。さもありなん。キツネの鞄とは、店主にぴったりです。

 そこで真理恵は自分の、シャメスの鞄からエルネルの財布を取り出して、一万円を手に取りました。『魔法の鞄』の値段は聞いてきませんでしたが、一万であれば騙されたのだとしても安い値段です。


「では、ひとつ」

「ありがとうございます。なお、当店では返品などは一切承っておりませんので、ご注意をくださいませ、ええ」


 キツネのような笑みを浮かべる店主から豆腐のような鞄を受け取ると、真理恵は一万円札をひらりと店主の鞄に落としました。


 その日の夜、真理恵は鞄をクローゼットの奥に押し込みました。鞄を買ったと知られるのが何だかいやだったのです。朝になって、夫を送り出してから、真理恵はクローゼットに向かいました。


「騙されたのね」


 真理恵は溜息をつきました。きっとセレブママ友コミュニティの皆に騙されたに違いありません。何たって、そこには昨日と寸分も違いのない、ただの豆腐のような鞄があったからです。宝石が生えてきているようなこともありませんでした。

 それから一週間、様子を見てみましたが、真理恵のそれは姿を変えないままでした。

 騙されて買ったと言うのもなんでしたから、真理恵は買ったことも、買った鞄に何の変化もなかったことも、誰にも言いませんでした。

 このまま隠し通してしまいましょう。

 真理恵は鞄をもっと奥底にしまってしまうことにしました。幸いに、鞄はよく言えばシンプルな四角い箱のような形相をしておりましたので、クローゼットの奥底で小物入れの箱のように扱ってしまえば、誰も気が付かないでしょう。ゴミに出すのは誰かの目にとまってしまう可能性もあるため、よろしくありません。

 そして、クローゼットの奥の床に鞄を置いて、もういらなくなった時代遅れのベルトを放り込みました。放り込んだはずです。


 しかし、鞄に放り込んだはずのベルトは床に落ちていました。

 コントロールがよくなかったのでしょうか。真理恵は小さく首を振ると、肩を諌めながら床に落ちたベルトを拾い上げ、今度こそ鞄をがっしり掴んで、中にベルトを突っ込みました。


「え?」


 真理恵は自分の目を疑いました。はっきりと目に映ったのは、鞄がベルトを吐き出す光景でありました。まずいものを食ってしまったといわんばかりに、鞄が口をすぼめるとペッとベルトを吐き出してしまったのです。

 真理恵は吐き出されたベルトを手に取ると、もう一度鞄の中に手を入れて、そこにベルトを置きました。鞄はベルトを吐き出しました。

 不思議な光景です。

 それから、真理恵は半ば意固地になって鞄との戦いをはじめました。ベルト、時計、鞄、洋服、靴、それから本や筆記用具に、はたまたお皿やコップなど、思いつく限りのものを鞄に入れてみるのですが、鞄はことごとくすべてのものを吐き出すのです。


 最後に自分自身が鞄のなかに足を踏み入れて吐き出されたところで、はっと我に返った真理恵は、その鞄をなかったことにしました。

 ものを入れられない鞄など、鞄ではありません。

 このような不良品を掴まされて、あのキツネ顔の店主が笑っている姿が目に浮かびましたが、結局真理恵はそれから横浜の裏路地に文句を言いに行くことも、鞄を買ったことを誰かに言うこともありませんでした。



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[一言] これで終わりなんですか? オチは? 実はこの鞄は…はないんですか?
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