奇跡の夜 XYZ
十二月二十五日の午前零時を回ったところだ。もう深夜であるにも拘わらず街はクリスマス気分に浮かれている。
恋人達は愛を語り、若者グループはお祭り気分に高揚している。子供達はサンタクロースの来訪を思い、眠りについていることだろう。
クリスマスイルミネーションに飾られたメインストリートから小路を抜けた裏通り、一軒のBARがあった。
木製の扉には「BAR Happiness seed」と書かれたプレートが取り付けられている。
その扉を開けると、カウンター席のみの小さな空間がある。一枚の木製扉によって外界から隔離されたこの空間には、まるで時が止まった様な静けさが漂っていた。
カウンターの中には、五十代半ばのバーテンダーがひとり、丹念にグラスを磨いている。
狭い空間の最深部には、ひとりの常連客とその前に置かれたバーボングラスが陣取っている。ここは彼等の指定席のようなものだ。常連客もクリスマスとは無縁の様で、寡黙に相棒のバーボンと向き合っている。
カウンター中央には、ひとりの女性が物憂げにグラスを見つめている。年の頃は三十前後といったところだろう。
彼女のグラスにはスコッチウイスキーの水割りが入っていたのだが、既にウイスキーの琥珀色は失われ、とけた氷だけが水となって残されていた。
バーテンダーは彼女のグラスに気付いているが、声をかけることもなく、片付ける事もしない。ただ、意識の片隅で彼女の存在と動向を見守っていた。
「今年もイブが終わってしまったわね。バーテンさん、何かカクテルを作ってよ」
彼女の不意なオーダーに、バーテンダーは黙ったままグラス磨きを中断した。
バックバーからラムとコアントローのボトルを取り、メジャーカップで計りながらシェイカーに入れる。次にレモンを取り出し、絞ったレモン果汁もシェイカーに入れてシェイクする。それをカクテルグラスに注いで彼女の前に置いた。
彼女は目の前に置かれたカクテルグラスを見つめ、誰にともなくつぶやいた。
「約束の日……もう七回目ね」
◇◇◇◇◇◇◇◇
七年前のBAR Happiness seed。
カウンターの中ではバーテンダーがグラスを磨いている。
カウンター席には若い男女が一組いるだけだ。
彼女の隣にはたくましい男性が座っている。
「俺、海外派遣のメンバーになった」
「えっ? 海外派遣? どこへ行くの?」
「うん、アフリカ」
「アフリカって遠いよね。戦争をやっているところでしょう? 危険じゃないの」
「俺達は後方支援業務だからね。危険は無いよ。向こうで戦闘に巻き込まれる確率なんて、ほぼ零だからね。こっちで交通事故に遭う確率の方が高いよ」
「いつから?」
「急だけれど……。明後日から予備訓練があって、出発は一週間後になる。予備訓練中は外出禁止だから暫く逢えなくなる」
「いつ帰って来るの?」
「たぶん一年、来年のクリスマスまでには帰れると思う」
「一年かぁ、寂しいなぁ」
「ごめん」
「ううん、大丈夫。あなたを好きになった時点で、こういう事は覚悟していたから……」
「うん、ありがとう。来年のクリスマスイブには、またこの店に来たいな」
「そうね、来年もここに来ましょう」
それから半年後。
彼の所属部隊が行方不明になったとの知らせが届いた。
後方支援活動を行っていた彼の所属部隊は、宿営地ごと消えてしまったらしい。戦闘に巻き込まれた形跡どころか、後方支援部隊がそこに居た痕跡すら残っていなかったという。
それから六年半経った今でも、彼の所属部隊の消息は不明、生死の確認も取れていない。彼等が消えた原因さえ解っていないそうだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
彼女は今年もこの店で彼を待っている。
今日で七回目だ。
この七年間、彼女は彼を忘れられずにいた。
彼の行方不明を知らされた時の事を思い出すと、今でも涙があふれる。
彼女は友人に言われた。
「もう充分待ったじゃない。そろそろ前に進みなさいよ」
彼女は父親に言われた。
「忘れろとは言わないけれど、人生は積み重ねだよ。喜びもあるだろう。悲しみもあるだろう。でも、そこで止まっていてはいけないよ。その上に、新しい一歩を積み重ねて行かなくては……。それが彼の望みでもあると思うよ」
彼女は彼女自身に言われた。
「もう七年も経つのよね。あなたも三十代になったわ。そろそろ歩き始めたら」
バーテンダーは彼女の七年を見つめ続けていた。
彼女は目の前に置かれたカクテルグラスを見つめながら言った。
「ありがとう、このカクテルの名前は?」
「XYZです」
「XYZ……。これで終わり……か。彼を待つイブはもう終わりにしようと思っていたところなの。今日の日にピッタリだわ」
そう言って彼女はXYZを飲み干した。
「ありがとう、最後にふさわしいカクテルだったわ」
バーテンダーは彼女を見つめて言う。
「XYZの意味はこれで終わりではありません。これ以上はない、最良の……、ですよ」
彼女はバーテンダーの意図を計りきれず、小首を傾げて彼を見つめた。
その時、BAR Happiness seedの木製扉が開き、ひとりの男が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
バーテンダーの声に、彼女は振り返り男を見た。
彼女の眼からあふれ出た涙が彼女の視界を遮る。
男は彼女に歩み寄り、そのたくましい腕で彼女を抱きしめた。
彼女の細い腕が男のたくましい背中にまわる。
「ごめん、待たせたね」
「ううん、お帰りなさい」
バーテンダーはカウンターにXYZを二つ並べて置いた。
店内には静かにクリスマスソングが流れはじめた。
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