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秋の空は高い

作者: 小練今日

 

 私は幼い頃から空が苦手だった。

 物心ついた頃から何度も繰り返し見る夢があったからだ。青くて広い空に放り出されて、どこまでもどこまでも落ちていく悪夢。足を動かしても手をばたつかせても体を支えることはできなくて、ただ無為に落ちていく。私にできるのは、しっかりと目をつぶって時が過ぎるのを待つことだけ。

 刷り込みというのは恐ろしいもので、私にとって空は全く空虚で、得体の知れないものでしかなかったのだ。


 *


 特に、秋。

 秋は空気が澄んでいるからか、空はとても高く、遠い。

 だからと言ってはなんだけど、私は秋の地面が好きだ。

 どんぐりはころころと足元を滑らすし、からからの落ち葉は踏めばかしゅっと乾いた音を出して崩れる。時々、強烈な臭いでぬるぬるするぎんなんの実が落ちているから、踏まないように慎重につま先立ちで歩く。黄色のいちょうに紅の楓、茶色の枯れ葉もとりどりに風に舞っては陽気なバレリーナのように渦を巻いて飛びまわる。ぎんなん避けのつま先のダンスも、葉っぱの舞う中でならまるでプリマドンナみたい。赤い彼岸花は真っ直ぐ背筋をのばして、華やかに舞台を彩るお客さん。小さくステップを踏みながら進む秋の道を、私を毎年楽しみにしている。


 毎日地面を見ながら歩くような奴は、大抵の場合クラスからすこし浮く。

 そんなことは知っていた。それでもいいと思っていた。そんなわけで私はたった一度の十四歳の秋、また一人でつま先ステップを踏んでいるわけ。



 放課後の教室では噂話が渦を巻いている。

「ねえ知ってる、あの小道、また出たらしいよ」

「ほんとう~? 彼岸花もたくさん咲いているし気味悪いよね」

 彼岸花の下には死体が埋まっているんだって、と華やかに騒ぐクラスメイトを見ながらも、私はその輪に入れなかった。死体が埋まるのにふさわしいのは、満開の桜の木の下だと決まっている。私は愛読書をぎゅっと握りしめて、そんなことを考える。

 彼女たちの噂話がヒートアップするのにもそれなりの理由がある。あの小道のある森には、一度小型のセスナが落ちているのだ。個人の所有だったそうで、乗っていたのは小さな女の子と父親の二人、どちらも即死だったそう。この辺の人にはわりと有名な話で、私も小さなころから親に聞かされていた。遺族の方は、ときどき小道の脇の神社にお参りに来るらしい。

「ね、佐倉もたまにはカラオケ来ない?」

 ふいに、笑顔で私の机に手をついたのは幼なじみの綾子。顔をちょっと傾けると、薄茶の長い髪が制服の肩からさらりと落ちる。やめとく、と答えて私はそっと席を立った。

 カラオケよりも、小道を探検する方が私の気分に合っていた。


 *


 その日の小道はいつもに増して明るい木漏れ日が落ちていた。私がここを好きな理由は実はもう一つあって、たくさんの木々が空を覆い隠してくれていること。安心感があるし、顔を少しくらい上げても怖さは感じない。

 でも、歩いていくうちに妙なものを見た。

 いつもの道なのに、どこかふわふわとしている。そう思いながら踏み出した右足が、ずるりと道に沈む。はっと焦って持ち上げようとしても、動かない。ただ沈んでいく。地面に手をついて引き抜こうとしたら、すぽりと全身が土の中へ入ってしまった。その中は、透き通った、青、青い、遠い、青――何にも触れられず、さみしいあおの中を、ただ落ちていく、これは夢だ、いつもの夢だ、頬をつねっても風を切って私はただ落ちていく――


 目を開けるといつもの小道に横たわっていた。

 枯れ葉がかさかさとまぶたに当たる。だんご虫が目の前で細いたくさんの脚をもぞもぞとうごめかしているのに、ぞっとして体を起こす。スカートをはたくと、細かい草きれと土ぼこりが舞った。

「お目覚めですか、お嬢さん」

 低い声が聴こえる。

 少し古びた赤い鳥居の前に立っているのは、白い人影。

 傾いた日のオレンジ色の光を浴びて、きらきらと白い毛は美しく、細い髭も、遠いのに透き通って光ってよく見えて、真っ直ぐに伸ばした背筋を白い和風の装束で包んだ、それはそれは真っ白な狐だった。目が合うと、その人は、細い目を歪めて、大きく裂けた口の端を少しだけ吊り上げる。私はただ、口をぽかりと開けて見ていることしかできなくて、そうすると、そのまま消えてしまった。長く伸びた影だけが残っていた。が、よく見るとそれは木の幹の影だった。


 私はそれから小道に行くのをやめた。あの白ぎつねのことは家族にも話すことができなかった。侵してはならない聖域に、土足で踏み込んでしまったような恐ろしさを感じていた。あれは何だったのだろうか。土地の神様だろうか。神社の主だろうか。私はなぜあんなところで眠りについてしまったのだろう。

 それから、前よりも空が怖くなった。


 *


「ねえ佐倉、今日こそカラオケに行こうよ」

 放課後の教室で、いつものように綾子が話しかけてくる。私は、久しぶりに心が動いた。最近は全然一緒に遊びに行っていなかったし。こくりと頷くと、綾子の友達がわらわらと寄ってくる。

「佐倉さんも、歌うの好きなの? 知らなかったー!」

「佐倉さんが行くなら私も行こうかなー! めずらしー!」

 私はその勢いに気圧されながらも、ちょっぴり嬉しかった。


 私たちの中学校から一番近いカラオケボックスは、ドアが透明で、個室の照明を消したままにしておかないと通路から中が丸見えになってしまう。つまり個室は真っ暗なわけで、ざわざわしながらも一人一人がよく見えない様は、少し私を安心させた。

 綾子は、昔から歌うのが好きだった。今では好きが高じてインターネットで動画を上げている、らしい。最近ではファンも少しずつ付いてきているそうだ。幼なじみの贔屓目だが、彼女の声は本当に綺麗だと思う。綾子がマイクを取る。画面に表示されたのは十八番の『明日のラプソディー』。こうこうと光る画面が、カラオケ用の安っぽいPVを映し出す。いつも見ていたPV。青い水平線が映される。その日は何か駄目だった。目をそらす。綾子が歌い出す。画面は青く部屋を照らし出す。駄目だった。私は個室を抜け出し、トイレで吐いた。


 そのあと私はみんなより先にカラオケボックスを出た。どうしてなのか、それ以上同じ空間にいることができなかったのだ。映像の空に嫌悪を感じたのは初めてだったから、どうしたらいいのかわからない。

 心配してくれる綾子やクラスメイトをおいて、私はふらふらと一人地面を見つめる。空はすぐそばにあった。


*


 私はそれから三日間、学校を休んだ。

 普段ずる休みなんてしたことはなかったので、母はすんなりと信じてくれた。出来心だったけれど、それなりに心は落ち着いた。カーテンを閉めた部屋の中でなら、空は入ってこない。だけど少し退屈で、手持ちぶさたに読書をした。それでもやっぱり暇をもてあましてしまう。

 小道の地面はどうなっているだろうか。枯れ葉はよく乾いているだろうか。毎年探している、白い彼岸花は咲いていないだろうか。机に置いた松ぼっくりは、かさをぴんと開いている。私はいてもたっても居られなくなって、こっそり抜け出すことにした。


 久しぶりにやって来た小道で、ざわざわと枝を揺らす木々たちは、いつも通り優しかった。私はそっとつま先でステップを踏む。風が葉っぱを舞い上げる。一緒にくるりと回る。彼岸花も華やかに、どんぐりは時々こつんと落ちてくる。枯れ葉はよく乾いていた。足音はかしゅかしゅと小気味良い。白ぎつねはいるだろうか――と、少し頭をよぎったけれど、どうやら小道はいつも通りらしかった。


 ふと、甘ったるいざらめの香りが鼻を掠めた。わたあめの香りだ。見れば、黒い人影が、遠くでそろそろと動いている。かすかにざわめく声が、風に乗って聴こえてくる。まだ昼間なのに、提灯もほのかに明かりをともしている。秋祭りなんて、この辺であったっけ。出店はやっているかしら。期待が胸にあふれて、踏み出す足も軽くなる。




「さあ、」

 ふいに、肩を強く引き止められた。

 柔らかなクッションみたいなものと、尖った硬い何かがぎゅっと肩を掴んでいる。それは不思議とあたたかくて、怖さはあまり感じなかった。見れば、柔らかな毛の揃った丸い手で、そこから生えた白い爪がきっ、と力を込めていた。私の肩を掴んだのは、あの、得体の知れない白ぎつねだったのだ。


 私の背中が私の前を軽やかに歩いていく。秋の鮮やかな小道に、紺色のセーラー服はよく映えて綺麗だった。楽しげに遠ざかる私の背中は、薄透明の雑踏にまぎれながら少しずつ縮み、ちょうど小学校低学年くらいの背丈になってころころと駆けていった。

「あなたはうつしよの秋を楽しんでいってください」

 白ぎつねが耳元で囁く。長い髭が頬や首にさやさやと触れてくすぐったい。

 むずがゆさから逃れるように仰ぎ見た、黄色いいちょうの枝の隙間からのぞく秋晴れの澄んだ空に、飛行機が一機、雲を吐いて、高く高く飛んでいた。


 *


 後から聞いた話だが、あのセスナが落ちたのはちょうどこのくらいの時期だったらしい。

 あの女の子は成仏できたのだろうか。私がそれを知るすべは無いのだけど、あれからとんと白ぎつねは姿を見せないし、私は時々なら、空を見上げることができるようになった。

「佐倉ー!はやくはやくー!」

 一足先を歩く綾子が、友達と手を振って呼んでいる。

 今日は小道へ紅葉狩りに行くことにしている。


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