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ぷりまステラ  作者: 季水東吾
ぷりまステラ1
3/10

 第二章 遭遇する星屑たち



 それは地上に現在するどの動物ともかけ離れていた。

 自然法則を無視する程に鍛え抜かれた歪な体が威圧を放っている。

 獰猛な瞳は餓えによってより鋭く、極限まで研ぎ澄まされていた。

 牙は何物をも貫く鋭利な刃となり、前足の爪は一度捉えた獲物は二度と逃がさない。

 口から吐き出される吐息には炎が混じっている。

 そんな頭が三つ。一つの胴体から伸びていた。

「ケルベロス……」

 アーリアが無意識に口に出した言葉で目の前の生物が現実味を帯びる。

 魔法世界でも滅多にお目にかかれない超危険魔獣だ。

 討伐ランクはSS。上級の魔法使いでも複数人で挑むレベルである。

「どうして、こんなところに……っ」

 震える声でリズが言う。その答えを持つ者は誰もいなかった。

 その踏み込みに反応出来たのはチュリアただ一人であった。

「クイックプロテクションっ!」

 二人の前に飛び出して両手を突き出す。

 足元の魔法陣がほんの一瞬だけ輝き、そして目の前には防御壁が一瞬だけ展開された。

 それが飛びかかってきたケルベロスの牙と爪を受け止めて弾き返す。

「あ、危なか、った」

「クイックプロテクションを無詠唱で? いつの間に」

「リアちゃん、今それどころじゃないっ」

 リズはそう叫ぶとチュリアとアーリアの手を取って走り出す。勿論ケルベロスとは逆の方向に。

「私、が、足止めする。から、アーリアは、でかい、の一発っ」

「承知いたしましたわっ」

 駆けながらチュリアとアーリアは詠唱を始める。

 足元に魔法陣を展開し、構築式や計算式を素早く書き上げていく。

 先に詠唱を完成させたのはチュリアだった。

「エア・アローっ!」

 振り払ったチュリアの手から光が迸り、それが一瞬で風の矢を複数形成した。

 そしてまるで銃弾のような速さで打ち出される。ケルベロスに向かって。

「がっ」

 しかしその全てをケルベロスは三つの口で噛み砕いてしまう。

 ケルベロスにダメージを与えることは叶わぬものの、足を止める狙いは成功した。

「上出来ですわ」

 この間もアーリアは魔法陣を完成に近付けていく。

 そして完成する。

「くらいなさいっ、アイシング・ランサーっ!」

 アーリアの突き出した手の平から巨大な氷塊が生み出され、それは一瞬で槍の形に変わる。

 それを投擲する。エア・アロー程の速度はないが、それでも弓矢と比べれば十分に速い。

 流石のケルベロスもなすすべなく直撃する。

「やりましたのっ?」

「確認する暇なんて、ないってばっ」

 そう叫ぶとリズは偶然見つけた扉を開けると二人を引っ張りながら中に飛び込んだ。

「ドア、鍵、閉めてっ!」

「意味ありませんわっ、ケルベロスならコンクリートの壁くらい突き破りますっ!」

 チュリアの提案をアーリアは即座に却下する。

「距離を離すしかありません。鼻も効くでしょうしっ」

「い、今、思い出した。そう、い、えば、本で呼んだ。あのクラス、の、魔獣は初級魔法利かない」

「効果がない……、と?」

 チュリアは顔面蒼白のまま頷いた。

「っていうか、あの魔獣をこのまま野放しにしたら不味いんじゃ……。もしも街中に出てったら……」

「問題ありませわ」

 薄暗すぎる周囲、どこか色あせた世界。

 どこまでも続く裏路地。

 そして埃もなく清潔な状態に保たれながら、人の住んでいる気配のない民家。

 日本とは思えない景色。

 アーリアは改めて周囲を見渡してから、確信を持って言う。

「ここは普通の空間ではありませんもの」

「……多分、ゲートに近い、と、思う。狭間のような、空間」

 激しい爆音と共に窓ガラスが飛び散る。

「のんびりし過ぎですわっ」

 外から飛び込んできたのは炎を纏いし獣。当然、傷はない。

「裏口っ!」

 リズがそう叫ぶと三人は一斉にそこに向かって走り出す。

 同時にチュリアは詠唱を始めることも忘れない。

「これ、ならっ」

 走りながら魔法陣を驚異的な速度で完成させていく。

 リズが裏口の扉を開け放った。

 ケルベロスが飛び出したのはそれとほぼ同時。

 身を投げ出すように三人は裏口から飛び出す。

「「「――――――――っ」」」

 悲鳴にならない悲鳴が三人の口から吐き出される。ケルベロスが炎を纏いながら彼女らの頭上を通り過ぎ、壁に激突したのだ。

 勢い余ったのか壁を通過して隣の民家に侵入している。

「直撃していたら、と考えるとゾッとしますわ」

「行こうっ」

 リズは二人を引っ張って走り出した。つられて二人も駆け出す。

「ライジング・コア」

 チュリアが魔法を発動させる。

 それは雷の球体だった。それが虚空で漂って静止している。

「なるほど」

 アーリアが意図に気付いて足を止める。

「試す価値はありそうですわ」

「リアちゃんっ!」

 リズが何故逃げないのか。そういった表情で叫んでいる。

 説明している暇はない。

「チュリアと囮役お願いしますわ。今度はダメージを通します、信じてくださいまし」

「……っ、分かったっ!」

 思考する必要もなく、リズは即答してチュリアの顔を見る。

 チュリアは一瞬だけ微笑むと詠唱を開始した。

 速い。

 見習いとは思えない素早さの詠唱は、驚くべき速度で魔法陣の形を紡いでいく。

「アクセル・ライド」

 魔法を唱えた瞬間、チュリアは浮いた。

 ほんの数十センチだけ浮遊したのだ。

 そしてチュリアとアーリアは同時に詠唱を開始し、その次の瞬間チュリアはリズの視界から消えていた。

 消えたのではない。あまりにもその動きが速すぎて、目で追えなかったのである。

 アクセル・ライドはほんの少しだけ宙に浮き、滑空するように移動する魔法だ。しかし彼女のそれはそんなレベルの魔法ではない。

 研究に研究を重ね、練習に練習を重ねた彼女のそれは超高速精密移動を可能にしていた。

 ケルベロスを圧倒出来る程に。

「ガァッ」

 自分でぶち抜いた穴から飛び出したケルベロスは、その瞬間に超高速で移動するチュリアの蹴りを食らった。

 ダメージ的にはゼロに等しいだろう。しかし、その驚きは極大に違いない。

 何せ捕食者として圧倒的優位に立つ自分が、知覚できない速度の動きで攻撃されたのだから。

「蹴っ、た方、が痛いなんて、理不尽っ」

 高速で動きながらも詠唱を続けていたチュリアは、蹴り飛ばしたケルベロスに追い討ちをかけるように魔法を放つ。

「エア・アローっ」

 しかし空中で体勢を整えたケルベロスは、口から炎弾を吐き出すと風の矢の全てを打ち落とす。

 そして着地と同時にチュリアさえも知覚困難な速度で飛び出してきた。

 それを間一髪の所でかわすも、ケルベロスは次の標的を目指していた。

 リズだ。

 超高速を持ってしても助けるのには間に合わない位置だ。

 詠唱も間に合わない。

「アーリアっ!」

 珍しいチュリアの叫びに呼応するように彼女は答えた。

「待たせましたわね」

 閉じていた瞳をゆっくりと開けると、アーリアは目標を二つ見定めた。

 一つはケルベロス。

 もう一つはチュリアがライジング・コアで生成した雷の球体だ。

 それが延長線上に結ばれる。

「今ですわっ、ライトニング・ランスっ!」

 巨大な雷の槍が一瞬で生成され、それが打ち出される。

 一度目は雷の球体を貫き、槍はさらに巨大になり。

 二度目はケルベロスを貫いた。

 リズの目の前で激しい雷の本流が踊り狂う。

「これならっ」

 そんなリズの言葉を否定するように、チュリアが高速で彼女を抱きかかえてケルベロスから離れた。

 刹那の後、リズが立っていた場所は獄炎に包まれた。

 もしもあのままあの場所に立っていれば骨も残っていなかったに違いない。

 まさか無傷なのか。そう思いケルベロスを見ると、電撃で僅かに足が震えていた。

「ダメージは通りましたわね……」

 アーリアが悔しげに呟く。

「でも、倒そうと、思、うなら。あと百回くらい?」

「気が遠くなるね」

 三人は示し合わせたように走り出した。

「普通にやってたら逃げきれないよっ?」

「ですが、この空間の脱出方法が分かりませんわっ」

「それ、とも。倒、す?」

「「無理」ですわ」

 リズとアーリアは即答する。

「でもこのまま時間を稼ごうにも、ケルベロスは知能が低い魔獣ではありませんわ。助かる見込みは……っ」

「倒す方法、この空間から脱出する方法、どっちかを探しながら逃げるしかないってこと?」

「私の、速さなら、翻弄、出来る。だか、ら、囮に」

「馬鹿を言わないで。私程度に捉えられるような移動魔法で、ケルベロスは抑えきれませんわ。それに持続時間は数分でしょう?」

「それよりも、親友一人に囮やらせるなんて、私やだよっ!」

「リズ……」

 チュリアは嬉しくも悲しい複雑な表情をする。

「とにかく、三人で足止めしつつ逃げて考えましょう。でないと……」

「でないと?」

「魔道司書どうこう言う前に死んでしまいますわっ」

 アーリアが二人を強引に引っ張り横に逃げる。その二人のもといた位置を炎の塊が通り過ぎる。

 それはケルベロスだった。

「速いですわね」

「強い、し」

「遠距離攻撃もあるね」

 強敵だった。

「こっちですわ」

 アーリアがさらに入り組んだ路地裏に走りこんでいく。

 同時に詠唱も始める。

 どうやらチュリアも詠唱を始めたらしい。

「エア・アローっ」

 チュリアの風の矢は素早く鋭利だが、ケルベロス相手では足止め程度にしかならない。

「ブレイク・シュートっ」

 無属性の炸裂弾をケルベロスではなく、壁にぶち当てて破片をまき散らせる。

「足止めとは、こういうことを言うのです」

「流石、……優等生」

「今度は部屋に入りますわよ」

 また適当な扉を開けて部屋に侵入する。

 今度は立ち止まらずに階段を見つけて駆け上がる。

「なんで上に、逃げ場ないよっ!」

「いざとなれば飛び降りられますわ。エア・クッションぐらいなら、私も無詠唱で発動出来ますしっ」

 そう答えるとアーリアは屋上までノンストップで駆け上がる。

「今重要なのは情報。高い場所から遠くを見渡したいのですわっ」

「……っ、賛成っ」

 短く答えるとチュリアは階段下に見向きもせず。今度は壁に向かってエア・アローを放つ。

 粉砕した壁は破片をまき散らしてケルベロスに降りかかった。

「学習の早い子ですわ」

「た、だの物真似、だから」

 謙遜ではない。これが二人のレベルなのだ。

 天才と呼ばれる者のレベル。

 落ちこぼれの自分の出る幕はない。そこまで考えてリズは自分の思考を完全に否定する。

 今はそれどころではない。今考えるべきはそれではない。

 屋上の扉を開け放ち、三人は出た瞬間に扉の直線上から逃げた。

 そして炎が通り過ぎる。今度はケルベロスではない。

 吐き出された炎だった。

「炎のブレス……、ケルベロスも徐々に本気ですわ」

「それより、そんなことより、見て……」

 リズが枯れた声で言う。

 尋常ならざる雰囲気にアーリアも屋上からの景色を確かめた。

 そこは偶然それなりに高い建物だったらしく、この辺一帯の景色が一望出来た。

 対して意味はなかったが。

「ここ、日本。ですわよね?」

「その、はず。……あんま、り、自信はないけど」

「嘘、でしょ」

 見渡す限り続く路地、路地、路地。

 個性のない建物、建物、建物。

 地平線の果てまで、どこまでも。

 それが続いていた。

 薄暗い世界に終わりはなく。

 果てなくどこまでも続く路地裏の迷宮であった。

「本で、読んだ。著者、はアストロス。題名は『魔法世界と現世界の境界』ここ、間違いなく境界、だと思う」

「境界? なんですの、それは?」

「それどころじゃ、ないよ」

 リズの言葉に現実に引き戻された。

 振り向けばそこには炎を吐き出しながら、全身の筋肉を隆起させて己を奮い立たせるケルベロスの姿があった。

「餌じゃなくて、捕食対象でもなくて、敵って認識されたみたい」

 冗談でもなんでもなく、驚異的な魔獣に戦うに値する相手だと認められたらしい。

「チュリア、境界の脱出方法は?」

 アーリアは魔法陣を展開しながら聞く。

「迷い込んだの、が不思議、な位に普通は立ち入れない、場所。……上級の、それも上位魔法じゃないと、脱出出来ない」

 チュリアも魔法陣を展開しながら答えた。

「それ不可能ってことだよっ!」

「いいえ、迷い込んだと言うならば脱出も可能なはず。抜け道があるはずですわ」

「探す余裕……、ある?」

「ないですわねっ、アクアサイスっ」

「どう考えても、ない。ブレイジング・エア・ブラストっ」

 水の大鎌と風の奔流がケルベロスに直撃する。

 ダメージを確認する余裕はない。必要もないだろう。

 どうせほぼ無傷だ。

「飛び降りますわっ」

 アーリアの言葉に従い三人は勢い良く建物から飛び降りる。

 落下しながら一瞬だけアーリアの足元が光り、そしてそれは発動した。

「エア・クッション」

 地面で風が弾けて三人を優しく受け止める。

 それのおかげで着地した三人は無傷だ。

「アーリアは、実は習得、し、ているけど、隠している中級、魔法、とかないの?」

「ありませんわ。そんな法律違反する筈もないでしょう」

「だよ、ね……」

「倒す気なのっ?」

「出来ればそれがベストですわね」

 リズは素早く思考する。

「ねぇ、チェリー。あの雷の球体何個分で、ケルベロスやっつけられそう?」

「一個、を、ライトニング・ランスで貫い、て中級の、最底辺程度だから、十個……、いや二十あれば確実に」

「リズ、何を考えていますの?」

「作戦があるの」

 リズは先程までいた屋上を見て言う。そこには三人を見下ろす化物の姿があった。

「走りながら聞いて」


   1


 足が震える。

 どうしようもなく恐ろしい。

 仲間がいないだけでここまで不安が増長するとは思わなかったのだ。

 それでも、歯を食いしばって堪えなければならない。

「勝負……、しようか?」

「グル……ッ」

 最弱の魔法使い見習いが、最強ランクの魔獣に宣戦布告をした。

 勘で真横に飛び出した。

 右肩に激痛が奔る。どうやら、かわしそこねたらしい。

「……、っ、痛くなんて、……ないっ!」

 瞳に涙を溜めながら、それでも挑むように叫んだ。

 折れてはいけない。一瞬でも心が折れればその瞬間に自分は死ぬ。

 そう確信できる。

 泣き出したい。倒れ込みたい。諦めたい。

 そんな後ろ向きな感情は全て投げ捨てた。

「その程度? こんな小娘一人殺せないの?」

 挑発するように言う。

 言葉は通じていないだろう。しかし、雰囲気で馬鹿にされているのを感じ取ったのか、ケルベロスの雰囲気が変わる。

 怖い。恐ろしい。尻尾巻いて逃げたい。

 でも生きたい。

 生きるためには戦わなければならない。

 仲間を信じて。

「二十個生成に十分、絶対に――」

 本来二十分と言ってもおかしくない詠唱量だ。それでも無理を通してチュリアは十分と答えた。

 ならば命懸けでそれに答えなければ。

「持たせるっ」

 それにリズは一人ではない。

「お待たせしましたわっ」

 隣の民家の屋上から声、それは紛れもなくアーリアのものであった。

「ブリザード・サイクロンっ」

 激しい氷の竜巻がケルベロスを襲う。

 アーリアが安全な位置で長い詠唱の強力な魔法で援護、そしてリズが囮になって時間を稼ぐ。

 それがリズの提案した作戦であった。

「負けないっ!」

 魔獣にも、今にも折れそうな弱い自分の心にも。

 リズは駆け出して路地を進む。

 走る、走る、走る。

 何分走った? 思い出せない。

 長い。おかしい、襲撃がない。

 五分か、六分か、あるいはまだ数十秒か。

 背後には勿論ケルベロスの気配。……が、ない。

 思わず後ろを振り返ってしまう。

 確かにケルベロスは存在しなかった。

「まさかさっきの魔法で?」

 それはない筈だった。

 いくら首席であるアーリアの魔法とはいえ、所詮は初級魔法。あのレベルの魔獣に通用するとは思えない。

「ばかっ、足を止めてはダメですわっ!」

 アーリアの叫びが辛うじて止まりかけていた足を動かした。

 故に、命は助かった。

 背中に熱さを感じた。次いで、激痛。

「ううっ、……あ、う、痛っっっ……」

 どうやら背中をやられたらしい。

 それにしてもどうやって。

 考えられる方法は一つだ。

「気配を消して、隙を窺っていた?」

 ケルベロスは知能の低い魔獣ではない。その言葉がリズの脳内に反芻される。

「アイシング・ランサーっ」

 氷の槍がケルベロスに直撃する。

 今のうちに逃げなくては、そう、頭では理解しているのだ。

 しているのだが。

 体が動かない。

 恐怖からか、激痛からか。まるで金縛りにあったかのように体の自由が効かない。

「そんな……っ」

「リズっ、早く逃げてぇっ!」

 悲鳴のようなアーリアの叫び。

 足を無理やり前に押し出す。それには成功したのだが、自分の体重を支えられずにそのまま床に倒れこむ。

「リズっ!」

 必死に詠唱するアーリアの声が遠くに聞こえる。不味い、意識すらも遠のき始めていた。

 背中の傷はそれ程までのものなのか。

 見て確かめたくはなかった。

「私だって将来結婚して旦那様に体を見せるんだから、傷残らないといいな」

 明るい話で己を鼓舞するが気持ちだけではどうにも体は動かない。

 ケルベロスは余裕で体勢を整えている。

 まるでアーリアの魔法なんて食らわなかったかのように悠々と。

 死ぬ。

 死という本来ならば自分とは掛け離れた現象がすぐ目の前まで迫っていた。

「それ、でも……。まだあがけるっ」

 優しかった先生の顔を思い出す。

 どれだけ馬鹿にされても、どれだけ物覚えが悪くても貴方には才能があると言い続けてくれた人だ。

 アリウスという男のせいで不幸なまま息をひきとった。

 その彼女の想いを預かっている。それを届けるまで、それをあの男に叩きつけるまで絶対に死なない。

 一言、どうして最後まで一緒に居てやれなかったんだ。

 そう言うために。

 生き残る。

 どんな方法を使ってでも。

「セルシウス先生……」

 リズは詠唱を開始した。

 魔法陣が展開し、それは路地裏を照らし出すほどに輝き出す。

 目も眩むような眩い光が魔法陣から放たれる。

「来いっ」

 リズの言葉に反応して、ケルベロスが飛びかかる。

 魔法なんて使えない。

 使えなくても、使えないなりに。

 使い方はある。

 爆発した。

 魔法陣そのものが、暴走するように爆発したのだ。

 激しい魔力の本流が周囲の建物を破壊し、同時にリズとケルベロスさえも切り刻み打ち付け焼き尽くし、そして吹き飛ばした。

「―――――っ」

 意識が確実に飛んだ。

 次いで激痛で再び目覚めた。

 体中が痛い。手足はあるか、生きているのか、内蔵は飛び出てないか。

 確認する必要もない。この痛みが生きている何よりの証拠だ。

 手足も痛い、ならある。

 あるなら歩ける。

 内臓くらい飛び出ていようと構わない。

「あぁぁあぁぁあぁぁあぁぁっ!」

 叫ぶことでどうにか立ち上がる。

 そしてそのまま何かに寄りかかった。壁だ。

 それを頼りに這うように歩く。目的の場所に向かうために。

 時間は恐らく充分に稼いだ。

 後は目的の場所に連れて行くだけ。

 痛みなら慣れている。

 怪我もした。死にかけもした。魔獣にも襲われた。助けはなかった。食料も、安心できる寝床も、生きる希望すらも。

 それでも生き残った。

 生き残れた。

 記憶に鮮明に残るのは燃え上がる森。

 家、畑、人の悲鳴。

 両親の赤い、紅い、――血。

 覚えている。

 頭にも、体にも刻み込まれている。

 故に、この程度の痛み。恐怖。絶望。窮地、なんてことはない。

「……っ、は、はぁ……はぁ……」

 扉を開ける。

 階段を上がる。

 二階の部屋の奥に、壁際に寄りかかる。

「おいで……」

「グル……、」

 胸から血を流しながらケルベロスは階段を上がってきた。

 胸の傷を負わせた存在に復讐するために。

 どうやら、リズの魔法の失敗は初級魔法を無効化するような魔獣にも傷を与えられるらしい。

「リアっ!」

 リズ渾身の叫びに答えるようにアーリアも呼応して叫んだ。

「いきますわよっ、これが私の全力ですわっ! バースト・アイスエイジっ!」

 アーリア最大最強の魔法が放たれる。

「ガッ」

 ケルベロスも危険を感じ取り逃げようとするが、もう遅い。

 足元を覆う氷がケルベロスを完全に捉えていた。

 それは徐々に足を伝って上半身さえも凍らせていく。遂にはケルベロスの実に半身以上が氷漬けにされてしまった。

 が、それで終わりではない。

 ケルベロスが頭上を見上げる。そこには巨大な氷の塊が浮遊していた。

「氷の柩で相手を捉え、巨大な氷塊で叩き潰す。氷系初級魔法における最強魔法ですわ」

 氷の塊が徐々に落下していく。

「砕けなさい」

 その一言と同時に氷塊は加速し、そのままケルベロスごと床を打ち砕いた。

 が、所詮は初級魔法だ。

 当然ケルベロスを倒す程の威力はなく、一階にはほぼ無傷なケルベロスがいた。

 そのケルベロスが信じられないものを見る。

 光が、点々と続いていた。

 一直線に。

 どこまでも。

 ライジング・コア。

 雷の球体を設置する魔法で、それは触れた物を感電させる罠となるが。他にも使用方法がある。

 それはその球体に魔法をぶつけることで、ぶつけた魔法を電撃で強化するという特性。

 ライジング・コアに電気系の魔法をぶつけるとその威力の上昇は、初級魔法を中級魔法レベルにまで押し上げるほどだ。

 チュリアの勝利への足がかりとなる魔法にて、彼女が最も頼りとする戦法。

 それが二十個。

 ケルベロスとチュリアの延長線上に並んでいた。

 そしてチュリアは魔法陣を大きく広げ、詠唱を終えていた。

「…………親友を、……痛めつけ、て、くれた礼、今、ここでっ!」

 チュリアがケルベロス目掛けて、延長線上の雷の球体目掛けて。

 解き放った。

「ライトニング・ランスっ!」

 それは雷の球体を貫く度に巨大に、速く、強化されていく。

 雷が雷を纏い、さらに雷を纏う。

 それは折り重なり混じり合い、より強力な力を集中させていく。

「貫け」

 静かに呟いたチュリアの一言。

 その言葉通り、雷の槍はケルベロスを貫いた。

 見たことのないような激しい電撃が飛び散る。

 壁が崩れて、輝きでそれを視認することすら難しい。

 余波の電撃だけで普段のライトニング・ランス並みの威力があるだろうことは間違いない。

 そんな魔法に直撃したケルベロスが耐えられるはずもなく。

 その体は糸が切れた人形のように床に倒れこんだ。

「……生きてるの?」

「恐らく生きていますわ。恐ろしい生物ですわね。……というか」

「?」

 惚けているリズに勢い良く詰め寄ったアーリアは、瞳に涙を溜めながら詠唱を開始する。

 この優しい感じ、暖かな魔法陣は治癒系統の魔法だろう。

「生きているの? は、こちらのセリフですわっ、こんな無茶して、死んでいたらどうするつもりですのっ?」

「あははは……、ごめん」

 謝りながらリズは瞳を閉じる。

 疲れ果てたのだ。

 この後チュリアも駆け寄って来て何かを言われるのだろう。

 リズは微睡みに襲われながら、こうなった経緯を回想した。


   2


 朝のリビング。そこで五人は朝食を囲っていた。

 栄養補助食品とサプリメントと牛乳。四條虹二と鬼紗羅には当たり前の朝食だ。

 空気が重い。

 一夜明けたからといって都合良く空気がよくなる事はなかった。

 いくら鬼紗羅がフォローしてくれたとはいえ、根本的に虹二が三人に受け入れられていないのだから仕方がない。

「えーと、取り敢えず今日の予定を説明するね」

「……」

「……」

「えっと、はい……」

 リズ以外は無反応だ。

 完全に信頼とかそういう類のものを失っている。

 やはり昨日の夜に逃げ出してしまったのが決定的だったのだろう。

「昨日話したとおり、何故一年目に『中級魔法α4種許可資格』の資格を取得しなければいけないのか。それを説明するね」

「……っ! 理由が、ちゃんとあるのですか?」

 アーリアが大きく食いつく。

 当然だ。彼女はあれが虹二による夢を諦めさせるためだけの、無理難題だと思っているのだから。

 故に、まずはそこを改めないといけない。

「それと一年後に君らが魔導司書になるための年間スケジュールも大まかに教える」

「一年で?」

「魔道、司書、に?」

「どうして一年なんですかっ?」

「それも含めて説明するよ。それと今日は俺の仕事の方で定例報告会があるんだ。だから本格的な修行は明日からになる」

 そこで一度言葉を切って牛乳を軽く口に含んで喉を潤す。

「だから今日は街を歩いてみるなり、自由にしてね。案内が欲しければ鬼紗羅に頼めばいい」

「ダメ。あたしも定例報告会について行くから」

「お前は来なくていいよ」

「あたしがいなかったら誰が虹二を守るのよ?」

「自分の身くらい自分で守れる」

 そう言って虹二は席を立つ。

「ちょっと準備してくるから、三人はここで待っていてね」

 虹二はそう言い残すと階段を上がって自分の部屋に向かう。

 虹二のいなくなったリビングは少しだけ空気が軽かった。

「一年で、ってどういうことなのでしょう?」

 アーリアが気になる言葉を反芻するように呟いた。

「随分と、自信がある、ようだし。何か根拠が、ありそう……」

「でも一年で魔導司書に合格って、条件厳しいよね?」

「その筈です。いったいどういう意味なのでしょう。意味不明ですわ」

 そんな三人の言葉を黙って聞いていた鬼紗羅は静かに、それでも三人に充分聞こえるような声量で呟いた。

「難しいこと考えず、虹二を信じてついていけば間違いないよ?」

「鬼紗羅さん。貴方がどれほど彼を信頼しているかは分かりませんが、少なくとも私たちは信用していません。信用に足る人物とはとても思えませんわ」

「ま、変な先入観持たないで虹二の話を聞いてみてよ。……絶対に驚くから」

 どこか含みのある口調で、とても自身あり気に鬼紗羅は言う。

 それがアーリアたち三人には理解できなかった。

「待たせたね」

 なにやら紙を数枚持って虹二が戻ってきた。

 どこか陽気に笑う姿には覇気がない。

「まずはこの資料に目を通してくれ」

「これは?」

 受け取ってアーリアが聞く。

「魔導大図書館に入社。その中でも魔導司書に合格した魔法使い、の経歴をグラフでまとめた物だよ」

「そ、そんな、ものを、ど、こで……?」

「どこでも何も昨晩に自分で調べた。魔導司書なんて誰も彼も有名人だからね、経歴を調べるくらい難しくない。後はパソコンでグラフ化しただけだよ」

「す、凄い」

 アーリアとチュリアそれにリズの虹二を見る目が変わる。

 それだけの重労働を虹二はたった一晩で、一人で終わらせたのだ。

「それを見れば一目瞭然なんだけど、弟子入り二年目頭の合格率が異常に高い。三年目頭や四年目頭はそうでもないけど、弟子入りの期間が長ければ長いほど合格率が減少するのは確かだ」

「そ、それは当然ですわ。もともと天才の中の天才のみが辿り着けるような場所なのです。そういった才能が早くに合格するのは自然な流れですし、そういった人材が既に合格して、少なくなれば勿論年を重ねるごとに合格者は減りますわっ!」

「そう、その見解は正しい。でもね、それでも二年目頭。つまり弟子入り一年で合格する確率は異常過ぎるんだ。だってそうだろ? そもそもそんな短期間で合格する方が難しい筈なのに」

「そう言われてみれば確かにそうですわね……」

 虹二の指摘した部分の違和感に答えがでず、アーリアは首を傾げている。

「だ、だから、一年間で合格。と、いう目標を掲げ、るのですか?」

 チュリアは半信半疑の目で虹二を見つめる。

 彼女の疑心も最もだ。資料がそう言っているからそれに従おうなんて、虹二だって簡単には納得できない。

 故に、完全に理由を理屈で証明する。

「いいかい、魔導大図書館の入社試験。それも魔導司書の試験は、恐らく受験者の経歴で難易度を変更している」

 根拠はあるのだが虹二がそれを口にする訳にもいかず、あくまでも推論という前提で話す。

「そして一番重要なのが弟子入り一年で受験した者の試験は、その後に比べて圧倒的に難易度が低い。筆記も、面接も、実技もだ」

 これは魔導大図書館がどこよりも先に、類まれな才能を獲得したいという理由から設定されたのだろう。

 他の職種に奪われる前に才能を獲得するために、将来性を見据えた才能を重点的に評価する。

 故に合格率が異常に高いのだ。

「一年目が勝負なんだ。勿論そこを逃しても、一年目のスタートダッシュは二年目で確実に活きるっ」

 そう言い切ると今度は別の資料を三人に配る。

「これは?」

 リズが資料に目を通しながら聞く。

「今度は『中級魔法α4種許可資格』を何故取る必要があるか、その話をしよう」

 楽しそうに微笑みながら虹二は語る。

 こういった会議や議論の場が好きなのだ。

「アーリアが昨日言ってたように、その資格は本来であれば弟子入り二年目か三年目で取るのが普通だ。でも、魔導司書を目指すなら二ヶ月後の試験に合格する必要がある」

「それにも理由がありますのね?」

「うん。まずはこの資料も見てくれ」

 さらに三人に資料を渡すと虹二は続ける。

「これが年間スケジュールなんだけど、半年後に『実戦魔法戦B級ライセンス』の試験に合格とある」

「無理ですわ、これがあれば魔法戦技は一人前と呼ばれるような資格ですのにっ!」

「それを可能にするための『中級魔法α4種許可資格』なんだ。あの資格を得ることで閲覧可能、取得可能になる魔法は非常に実践的で便利なものが多い。早い段階で中級魔法に慣れておき、二重詠唱さえマスターすれば不可能じゃないんだ」

 もう一度念を押すように虹二は繰り返す。

「しつこいようだけど、魔導司書になろうなんて普通は目指すことさえ難しい。これぐらいこなさないと、合格なんて夢のまた夢なんだ」

 三人の息を呑む様子を確認して、今度は柔らかい笑みで優しく言う。

「でも、半年間でこの予定をしっかりこなせれば合格は視野だ」

「二ヶ月で『中級魔法α4種許可資格』に手が届かなければ諦めた方がいい。四條さんはそう言う訳ですね?」

「そうだよ。それが俺の出す、君たちが魔導司書を目指すことを認める最低限の条件だ」

 リズは揺るがない。しかしアーリアとチュリアは違った。

「私とチュリアはともかく、リズは……」

「うん、分かってる。二人は努力すれば多分資格を取れる。でも私は可能性さえまだ見えない」

 どう考えても絶望的だ。

 それでもリズの瞳に絶望はない。恐らく心の強さ、信念の揺るがなさだけならば彼女は他の二人を圧倒している。

「それでも、四條さんは導いてくれるのですよね?」

「……出来る最善の手は尽くすよ。流石に俺も、確約は出来ない」

「十分です。ありがとうございますっ」

「ちょっと待ってくださいっ」

 良い流れをアーリアの一言がぶった切る。

「私はそもそも貴方の能力を疑問視していますわっ」

「俺の能力?」

「ええ、その通りです。魔法学校を卒業したばかりの見習い魔法使いの魔法に直撃して、満身創痍になるような実力。そして昨日から多々見られる人間性の問題。おまけに経歴は謎ときています。これで何を信じろとおっしゃるのですか?」

 確かに虹二の言葉に説得力はないだろう。そこは信じてくれとしか言い様がない。

「……君の言うとおり俺の魔法戦技の技量は低い。経歴も誇れるものじゃないし、人間性も怪しいかもしれない。でも、師匠を選ぶ魔法学校の目はそこまで節穴だと思うのかい?」

「どういう意味でしょう?」

「厳正な審査を重ねて魔法学校側から、君たちに最も適した魔法使いだと選ばれたのが俺だ。例え俺が優秀でない魔法使いでも、指導者としてどうかなんて分からない。確かに弟子を取るのは初めてさ、キャリアなんてない。それでも、君たちを魔導司書に導くのは俺なんだ。信じてついてきてもらう他はない」

 一気に吐き出すように虹二は言い放つ。

 決して瞳は逸らさずに、三人のことを見据えて強く気持ちを伝える。

 正直最初はやる気などなかった。

 面倒だとさえ思っていた。

 気紛れから弟子を引き取ったことを後悔すらしていた。

 でも、今は違う。

 ――さんの、言葉を守るために。虹二は彼女らを導かなくてはならない。

「少し、誤解していましたわ。謝らせてください」

「……私も、ごめんな、さい」

「すみませんでした」

「ありがとう」

 何故だか感謝の言葉が出た。

 理由は分からない。

「いい話だねぇ」

「そうだな。……ところで鬼紗羅、酒。飲まないか?」

「え? こんな朝から?」

「お前と酒を交わしながら話したいんだ」

「にゃふふふ……、虹二からそんなお誘いなんて大胆っ、……きゃっ。あたし今日こそ大人の階段上っちゃう? 上っちゃう?」

「と、いう訳でまぁ今日はのんびりするなり近場を散歩するなり自由にしてくれ。俺はちょっと野暮用があるから」

 そう言い残して虹二は鬼紗羅を連れて二階の部屋に向かう。

「えっと、どうする?」

「そうですわね。お言葉に甘えてのんびりするのもいいですが、私はこの街に少し興味がありますわ」

「私は、……リズ、と、一緒ならなんでも、いい」

「では三人で街を散策しましょうか」

 三人の今日の予定が決まった。


   3


 その頃、鬼紗羅は次々とアルコールを飲まされていた。

「はやー、うひひっ。ぁれぇ? 虹二全然飲んでないね?」

「そうか? 気のせいだ。そしてお前はもっと飲め、酔え」

「酔わして何する気? あー、今日の下着はとっておきです。良かったね虹二。ふふっ、見るー? 見るにゃー?」

「また後でな、それよりもっと飲め。それはもう浴びるように」

 鬼紗羅は酒が好きだ。

 どんな種類の酒も美味しそうに呑む。

 しかし、アルコールに強くはない。

「はにゃぁあっ、美味しいね。……、はれ、虹二、三人いるよ?」

「良かったな」

「おーう、三人の虹二に三箇所から責められぇ……っ、……たいっ」

 というかむしろ弱い。

 鬼紗羅の弱点といっても過言ではないだろう。

 彼女が酒を飲むと幾つかの現象が起きる。

 ひとつは呑む前後の記憶が綺麗さっぱり消えること。

 ひとつは思考が行方不明になって普段よりも訳の分からない行動や言動を実行すること。

 そして一番重要なのが、耐え難い眠気に襲われること。それも一度寝たら丸一日絶対に目を覚ますことがない。

「厄介な自由人、鬼紗羅を行動不能に追い込む究極の切り札だね」

「ほなぁ。ふみゃ、あれれ、……瞼が重い、にゃ」

「抗うな。楽になれ」

「はーぁいぃ」

 そして鬼紗羅は寝た。

「さて、と」

 これで心置きなく一人で定例報告会に行けるというものだ。

 虹二は荷支度を手早く済ませると家を出る。

 帰ってくるのは夜遅くになるかもしれない。


   4


 自由時間をもらった三人は街を歩き回った。

 生活必需品を買う場所を把握する必要もあったし、そうでなくても日本という国を楽しむ目的で観光のような感覚で歩き回ったりもした。

 ただあまり自由にできる手持ちがある訳でもなく、土地勘がある訳でもなかったのでさ迷いながら徐々に道を覚えていくという流れだった。

 楽しい時間はあっという間に過ぎて、そして人通りの少ない道に三人は迷い込んだ。

「おかしいですわね……」

 その異変に最初に気付いたのはアーリアだった。

「おかしいって、どこが?」

「気付かないのですか? 景色ですわ」

 言われてリズも周囲を確認するが、アーリアの言うおかしい点に心当たりはない。

 建物の裏にひっそりと隠れるようにある小道。

 古めかしい味を感じさせるような床に敷き詰められたタイル。

「どこを見ても普通の路地裏だけど……」

「そうかしら? 日本に来てまだ時間が短いですけど、私にはこれが日本の風景には思えませんわ」

「……た、確かに。建物とか、床と、か、ヨーロッパみたい」

 言われてみればそのような気がしないでもないが、ヨーロッパを模した街並みなのかもしれない。

「嫌な予感がしますわ、一度人通りの多い場所に戻りますわよ」

 そう言うとアーリアは魔法陣を展開する。

「ハーチス」

 ハーチスは自分を中心に周囲を俯瞰する基礎魔法の一つだ。

「……っ」

 そしてアーリアは言葉を失った。

「ど、うし、たの?」

「リアちゃん?」

 信じられない物を見るかのような瞳でアーリアは呟く。

「ハーチスが上手く発動しませんわ」

「失、敗?」

「まさか、私がこんな基礎魔法を失敗する筈がありませんわ」

「え、じゃあどうして……」

「考えられる理由は一つ」

 アーリアは険しい表情で一つの考えを話す。

「ここが普通の場所ではないということですわ」

「普通の場所じゃない?」

 危機感を感じ取っているアーリアに比べてリズには状況がまだ飲み込めていない。

 そんな時だった。

 その化物が姿を現したのは。


   5


「リズっ!」

 チュリアの叫びでリズの意識は現実に引き戻される。

 目の前には倒したばかりのケルベロスの気絶した姿。すぐ傍には青ざめた顔をしたアーリアの姿があった。

 どうして彼女は青ざめているのか。その理由はすぐに分かった。

 何故ならば、血だらけのチュリアが宙を舞っていたからだ。

「え?」

 自分が見た光景が信じられない。

 赤い飛沫を撒き散らしながら、自分の大切な友人が吹き飛ばされている。

 赤い飛沫とは彼女自身の血に他ならない。そう、彼女は出血しているのだ。

 チュリアが人形のように飛ばされて地面に叩きつけられて転がるまでを、言葉失って呆然とリズは眺めているしか出来なかった。

「……なんで?」

 今すぐチュリアのもとに駆けつけたかったが、体が自由に動かないせいで出来ない。

 そして気付いてしまった。

 アーリアが青ざめている本当の理由に。

 比べ物にならなかった。

 目の前で倒れているケルベロスなど可愛い大型犬に見える。

 本物が、そこにいた。

「私達が戦っていたのは、子供のケルベロスだったとでも……?」

 まず単純に大きさが規格外であった。

 見上げるその三つの頭の高さは三mを越える。

 傷だらけの体は多くの戦いを勝ち抜いた貫禄が纏われており、それを証明するかのように筋肉が躍動していた。

 牙は何よりも鋭く。爪はどこまでも鋭利に。

 炎は熱量だけではなく、この世のものではない禍々しさを感じさせる。

「グルゥアアァアアァアアァアァアッ!」

 雄叫びで地響きが起こる。

 どうやらかなり気が立っているらしい。

「このケルベロスのお父さんかお母さんで、子供がやられて怒って、……る?」

 絶望的だった。

 リズは傷だらけの満身創痍で立ち上がることでさえ困難な状況だ。

 アーリアは外傷こそ少ないものの、この中で一番魔法を使っている。彼女の魔力ももう空に近いだろう。

 チュリアも魔法を相当使っている。その上恐らく大人のケルベロスから受けただろう傷が相当に深い。彼女も間違いなく動けるような状態ではない。

 そんな状態でかつ相手は大人のケルベロスなのだ。

 子供のケルベロスでもあの強さなのだ、大人となれば想像を絶するような強力さに違いない。

 そんなもの、万全の状態での三人でも相手にならない。

 生き残れる可能性が、存在しない。

 ここで間違いなく死ぬ。

 絶望的に死ぬ。

「そ、そんな……っ」

 折角全力を振り絞ってケルベロスを撃退したのにも関わらず、その努力は報われずどうしようもなく呆気なく死ぬ。

 助からない。

 助けは来ない。

 どこかも分からない、こんな場所に都合良く助けが来るはずもない。

 ケルベロスの頭の一つが大きく口を開ける。

 よだれが床に垂れ落ちる。

 吐息が炎に変わってリズとアーリアの前髪が少し焦げた。

 その化物の一歩が地面を揺るがす。同時に砕く。

「っ……うぅっ…………」

 その衝撃でチュリアが小さく呻き声を上げた。

 どこか別世界の出来事のように、現実感が希薄だ。

 再びよだれが垂れ落ちる。今度のそれはリズの足に触れた。瞬間、圧倒的な現実が襲いかかってきた。

 そう、これは夢でも幻でもない。

 現実なのだ。

「いや……っ」

 足掻こうにも体が動かない。恐怖だけではない、痛みや消耗といった理由が重なり体は微動さえにしてくれない。

 アーリアも同じような状況だろう。

「た、たた……たす、誰か、助けて……」

 掠れた声でアーリアが助けを乞う。来るはずもない助けを。

 それにつられてリズも思わず助けを呼んでしまう。

「……、助けて」

「分かった」

 それは男の声だった。

 思っていたよりも広い背中に高い身長。安心する低い声。堂々とした姿。

 彼はケルベロスとリズの間に立っていた。

 他でもない、四條虹二だ。

 虹二はリズ、アーリア、チュリアの三人を見て悲しそうに微笑んだ。

 そして今にも泣きそうな声で言う。

「もう、大丈夫だからね」

 魔法衣と呼ばれる魔法世界の正装であるローブをたなびかせて、目の前の化物に怯えることなく虹二は正面から立ち向かう。

「鬼紗羅を寝かせたのは俺の失敗だった」

 ゆっくりとケルベロスに近付いていく。

「に、逃げてくださいっ」

 リズは叫ぶ。それに反応して虹二は振り返って優しく微笑んだ。

 同時にケルベロスが虹二の右肩にかぶりついた。

 鋭い牙が肉を貫きさらに骨を砕いて、赤い飛沫が吹き出す。

「いやぁぁぁぁぁぁぁあっ!」

「そ、そんなっ」

 リズの叫びとアーリアの絶望の声が重なる。

 しかし虹二は余裕のままだ。

「ゴメンな」

 誰に対してか分からない謝罪を虹二は呟いた。

 ゆっくりと左手をケルベロスの頭に乗っけて撫でる。撫でながら続ける。

「安心しろ、俺は敵じゃないよ」

 虹二の様子がおかしいことを警戒したケルベロスが、その牙を離して虹二から距離を取る。

「怯えなくていい。怖がらなくていい」

 肩から血を流しながら、それでもしっかりとした足並みで虹二はケルベロスとの距離を縮めていく。まるで心の距離を縮めるように。

「不安だよな、いきなり訳の分からない場所に迷い込んで。自分の子供が傷つけられて。お前が怒るのは当然だ」

 誰も恨むことなく、誰に怒りをぶつける事も無く、ただただ優しさだけを持って接する。

「でも、この子達も同じなんだ。偶然迷い込んで、偶然お前の子供と出会って……、戦うしかなかった」

「ガ……、ガァッ!」

 ケルベロスの爪が虹二の左足を切り裂いた。

 勿論肉が裂けて血液が吹き出る。流石に虹二の表情が崩れるが、それでも直ぐに笑顔を続けた。

「俺はいい。俺は理解してここに来た。自分の意思でここに来た。でもこの子達は知らなかったんだ。だからお前のその正当な怒りは俺に全部ぶつけてくれていい」

「ダメですっ、相手は魔獣ですよ。言葉が通じる筈がっ……」

「そうですわ、今すぐ逃げてくださいっ」

 肩から血を流しながら、足から血を流しながら。

 揺るがぬ瞳で虹二は笑う。

「伝わるさ」

 ケルベロスがその大きな口を三つ開いて、その口内に炎を凝縮して溜め込む。あんな物を吐き出されたら、虹二は勿論のこと後ろのリズやアーリア、少し離れたチュリアさえも無事では済まされないだろう。

「それはやめろっ!」

 ここに来て初めて虹二は大きな声で叫んだ。

 それ自体は驚くことではない。が、別のことでリズは驚愕していた。

 虹二の言葉でケルベロスが炎を吐き出さずに飲み込んだのである。それもどこか心なしか怯えているようにも見える。

「いい子だ。この子達は巻き込まないでくれ、俺だけなら煮るなり焼くなり好きにしてくれていい」

 自分の体を差し出すように虹二は両手を大きく広げてケルベロスの目の前まで歩いていく。

「ほら、……いいぞ」

 優しく微笑む。

 あくまでもどこまでも敵意を持たずに。

 ケルベロスと虹二は静かに数秒。いや、数十秒見つめあった。

 次の瞬間、ゆっくりと口を開けたケルベロスが。

 なんと虹二の傷口を舐めた。

「そうか……、分かってくれたか。いい子だ」

 そのケルベロスの頭を撫でると、今度はケルベロスが気持ちよさそうに目を細めた。

「う、そですわよね?」

「嘘じゃ、ないみたいだよ?」

 呆然とリズとアーリアは二人で呟く。

 信じられない出来事が眼前には広がっていた。

 あの獰猛で危険と言われているケルベロスが。それも子供が傷つけられて気が立っているケルベロスが。

 言葉だけで気を静めて、それも虹二に懐いているのである。

「お前もお前の子供も無事に帰してやる」

 そう言うと虹二はゆっくりとケルベロスの子供に近付くと、魔法陣を展開してその傷を癒した。

「俺じゃ、この程度の治癒魔法しか使えないけど」

 そう言って照れくさそうに笑った虹二は、目覚めたケルベロスの子供に威嚇されるがそれも笑顔だけで静めてしまう。

「ちょっと待っててな」

 ケルベロスの家族にそう言い残すと、虹二は慌ててリズ達のもとに駆けつける。

「一番重傷なのはリズか?」

「ち、違います。四條さんですっ」

「俺は平気だ」

 そう言うと顔を伏せて虹二は治癒魔法を発動させる。

「ごめん。本当にごめん、俺のせいだ」

「そ、そんなっ、貴方のせいではありませんわ」

「違う、俺が不甲斐ないせいで。俺の不注意で君たちを傷つけた。……鬼紗羅さえいれば、間違いなくこんな事態にはならなかった」

 虹二の言葉にアーリアは首を傾げながら言い返す。

「こう言っては失礼ですが、鬼紗羅さんがいても結果は変わらなかったかと……」

「いいや、鬼紗羅はケルベロスより遥かに強い。あいつがいれば君たちは間違いなく助かった」

 リズへの応急処置が終わると虹二は急いでチュリアのもとに走っていって、彼女にも応急処置を施す。

「俺の治癒魔法じゃこの程度しか出来ない。ごめん……」

「そ、んな、こと、ありません。助かり、ま、した。ありがとう、ございま、す」

 チュリアの顔色が良くなったことを確認して、虹二はケルベロス達に向き合う。

「お前らを送り届けるよ、こんな訳の分からない空間に迷い込んで不運だったな」

 そう言って静かに魔法陣を展開して詠唱を始めた。どうやら余程難しい魔法らしく、詠唱にえらく時間が掛かっている。

 そんな虹二を見てリズは思わず言葉を零してしまっていた。

「格好いいね……」

「否定はしませんわ。……少なくとも、この一件に関しては」

 アーリアも同意するようにそう答えた。


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