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「お前が警察に追われてる最中に、そのバッグから落ちたぞ」

無言で俺は、男が握っていたスプレー缶を取ろうとした。しかし、男は俺の左腕を掴んでいった

「どうやら、最近巷で噂の、スプレーアート職人はお前らしいな」

「何で知ってるんだよ……」

「風神雷神を書いてる一部始終を俺は見ていた。それに、ここ最近増えたスプレーアートはみんな、お前が使ってる六色の色だからな」

 俺は左手を引っ込めた。握力が強く、掴まれた部分は赤く手の形になっていた。

「警察に突き出すのか……?」

「いや、突き出しはしないさ。ただ、突き出さない代わりにお前にやってもらいたいことがある」

「……やってもらいたいこと……?」

 小太りの中年男性はにやりと笑うと、白いスプレー缶を俺に差し出していった。

「お前が書いてきたスプレーアートを、全部きれいに消せ。消してくれたら、俺は警察に突き出しはしない。ただし、逃げたりするようであれば。わかるな?」

 何も言えずに、白のスプレー缶を受け取った。警察に突き出されずに済んだことがいいことなのか、そしてこの男は優しい人間なのか?様々な質問が、泉にように湧いては消えていった。 

「受け取ったということは、承認してくれたんだな?」

「……警察に捕まるよりは、ましだからな……やってやるよ」

「そうか、良かった。じゃあ早速だが、俺の家に来い」

というと、中年男は歩き出した。


「お前、親は?」

気まずい空気の中で、発せられた質問だった。その質問は自分の心にずきずきと突き刺さった。この質問をろくに答えれたことがない。答えたところで、非難の目を浴びるだけだった。

「いない。俺が生まれたときからずっと……。親の面なんて見たことねえよ…」

「そうか。お前も一人か。俺と一緒だな」

これまでにない反応が返ってきた。親がいないと答えれば、たいがい距離を置かれるか、一切接してこなくなる。そのせいで気まずくなることだって少なくない。しかし、男は自分と一緒だというと、大きく笑い出した。

「実はなぁ、この間嫁といざこざがあってな、今は別居中だ。一人って寂しいよな」

なんだそういうことかと、男の話を聞いて思った。俺は勘違いしていたらしい。孤児ではなくただただ、別居中という、同じ一人でも、月とすっぽんの差だった。

「まあ、俺とは訳が違うか。で、今はどこに住んでるんだ?」

「浅沼孤児院」

すると一瞬男の顔に驚きの表情が見えた。

「そうか、大変だな。まあ俺が面倒見てやるよ。さあ、ここが俺の家兼職場だ」

知らないうちに俺は、男の家へと到着していた。男の家は、家というよりは工場に近く、建物の周りには古く錆び付いた鉄格子が露出している。屋根には「村上塗装」と書かれている。ここは塗装工場らしい。確かに、男の着ている作業着を見ると、塗装が跳ねたか何かでついている色とりどりのインクがついていた。

「どうだ?お前にぴったりじゃねえか」

「……かもな」

錆びついた鍵を、ポケットから取り出して差し込んだ。中もだいぶイかれているのか、先ほどの自転車と同じ音を発して、鍵が開いた。門のようにずっしりと構える鉄格子を押し込んで開けた。その中へ入ろうとしたとき、ふと何かを忘れていたのに気づいた。

「……そういえば、あんたの名前は?」

「俺は村上信二だ。お前の名前も聞いてなかったなぁ。名前は?」

「河内巧」

「そうか、よろしくな」

男は平手をすっと差し出してきた。そして照れている俺の手を、半ば強制的に開き握手をしてきた。先ほどと同様、握力は強かった。だが、前の時とはどこか違って、その中に愛情を感じた。


目が覚めた。窓からさんさんと照りつける太陽の光が、目に入ってくる。あのあと、一通り工場の中の説明を受けて、孤児院に戻ってきて、逃走の疲れから俺は眠っていた。おかげで服装も昨日のままだった。机の上には、乱雑に置かれたスプレー缶と、バッグが置かれている。寝ぼけ眼をかきながら、壁掛け時計をみる。時刻は八時を指している。

「やばい! 遅刻だ!」

昨日の晩に、工場の村上に八時の集合を約束されていた。完全に遅刻だ。服を着替えずに、急いで俺は工場へと走った。

 汗をかいたそのシャツは、とても肌にくっつき、べたべたとしていた。今日もやはり暑い。昨日から俺はどれだけ走っているのだろうか。昨日は警察、そして今日は時間に追われている。必死になって走った。

 かれこれ十分。工場前のフェンスに行くと、外には昨日の村上が待機していた。でかいバケツに入った白いペンキを持っている。服はカーキ色の作業着だ。

「初日から遅れてくるとは、いい度胸してるな。まあ、昨日の疲れもあるだろうからよ、今回は勘弁してやる。ただ、明日からは許さないからな」

「ああ、わかったよ……」

「ならいい。じゃあ早速、始めてもらおうか。まずはやっぱり、昨日おまえが描いてた壁だ。あそこは上沼さんの土地だ。しっかり断りをいれて塗ってこい」

 白ペンキが大量に入ったバケツを俺に渡すと、工場の中へと入っていった。


時刻は8時四十分。いつもなら二十分の道のりを、三十分かけて来た。このバケツのせいだ。そのバケツをいったん地面に置いて、上沼と書かれた表札の家のドアホンを押した。大きな白い壁に囲まれて隠れていたためか、家本体はとても大きかった。新興住宅地で新しい家々が建ってる中、そこだけは古風の家造りだった。

「はい?どちらさまですか?」

 ドアホン越しに聞こえてくる声は、女性の声だった。

「……村上塗装ですが」

のどに引っかかった言葉を何とか発する。

「あ、ちょっと待っててください」

声の主は、そう言うと会話を止めて、ドアを開けてくれた。家から出てきた女性は四十代くらいで、髪は長くて、後ろで一本に束ねていた。この人が上沼さんだ。

「裏の壁に悪戯書きされちゃったみたいで。私も気づかなかったんだけどね。今日はそれを消してほしいの。お願いします」

「分かりました……」

スプレーアートのことは一切触れず、消してほしいとだけ言って、また家の中へと入っていった。俺はまた、重いバケツを持ち、裏の壁へと歩いた。

 

「よし……やるか……」

風神と雷神はお互いを睨み合うかの如く立ちはだかっていた。しかし両者ともに途中で終わっているため、本物ほどの気迫はなく、寧ろどこか情けなさが見えた。自分が描いた絵を消すと言うことは何とも、昨日の自分を消していることと一緒のように感じた。しか、今はそうするしかない。白いペンキをハケにつける。それを風神の上から塗る。風神は緑色のため、一度上から塗っただけでは消えない。何度も何度も上から塗りたくる。

「結構つらいんだな。この仕事って」

独り言をつぶやきながら仕事を続ける。昔からだが、俺は独り言が好きらしい。誰にも愛されず育ってきた分、一人で自分と会話することが多いらしい。それに、なぜか知らないが自分に話しかけると、どこからか声が帰ってくる気がする。帰ってくるはずなどないのに。自分の中に、俺でない誰かがいると思ってしまう。

 一通り風神への塗装を終えて、元から白の雷神へと移る。雷神に至っては、元から白いため先ほどよりは簡単そうだった。

「ご苦労さん。あんた若いのに偉いねぇ」

不意に話しかけられたため、一瞬驚きハケを落としてしまった。すぐさま拾って声の方を振り返ると、そこには腰が90度近く曲がったおばあさんが座っていた。杖を必死に支えとして、ゆっくりと一歩一歩近づいてくる。

「うちの孫にも見せてやりたいよ。はっはっは」

歯が抜け、入れ歯をしていないため、多少何を言っているのか分からなかった。しかし、そのおばあさんの顔は、満面の笑みを浮かべていた。それを見たとき、今までに感じたことのない何かを感じた。

「ありがとうございます」

自然に出た言葉だった。さっきまでは発する言葉すべてが、のどに刺さった骨のように尖り刺々しかった。しかし、この言葉だけは丸く優しく発することができた。

「うちの孫は、家に帰ってきては散らかしてね。もう何時になったらあんたみたいないい人になれるのかねぇ」

おばあさんの甲高い笑い声が、壁に反射してこだまする。

「大丈夫ですよ。きっと、俺もそんなだったから……」

「そう言ってくれると、すごく助かるねぇ。それじゃあ仕事、がんばるんだよ」

杖を必死につきながら、ゆっくりと帰って行った。何故だか知らないが、俺はおばあさんの背中をずっと見つめていた。自然に、そして優しく。

「ありがとうございます。初めて言ったな。そんな言葉」

先ほどまではやらされていたこの作業も、何故か辛いと感じなくなっていた。そして自分からやっているという思いへと変わっていった。初めて自分が生きている役目を感じた。


作業に一段落ついた俺は、地面のへりに腰掛けた。空は青く、太陽は痛いほどに照り輝いていた。

「差し入れ持ってきました。良かったら食べてください」

上沼は差し入れを持ってきた。お盆の上にのせたジュースとドーナツが一つ。

「ありがとうございます。いただきます」

「どうぞ。大分きれいになってきましたね」

というと、置いたお盆を挟んで俺の左隣に座った。何とも奇妙な感じである。

「最近増えたわね。こんな絵を描く人。この間、駅の前を通ったらね、そこにあるポストにこんなタッチの絵が描いてあったのよね。確か鳥みたいな絵だったかしらね?」

駅前のポストに書いた絵は確かに鳥だ。その絵は記念すべき第一作だった。外の世界に踏み出したとき、あまりの楽しさに自由を感じ、飛び立てたというその思いで描いたものだった。不死鳥をモチーフとして、橙色に輝く羽を目一杯描いた。

「きれいな絵だったなぁ」

上沼から不意に漏れた一言だった。短いその一言から、本心が垣間見えた気がした。すると上沼は続けて言った。

「描いた人は多分、愛を知らない人間かもしれませんね」

「え?」

「きっとこの絵を描いている人は、無骨な形でしか愛情を知らないのかもしれませんね。誰にも愛情を注がれたことがない、だからこの絵を描くことで、自分の存在をアピールして、誰かに気づかれたかったんじゃないかな?」

 描いている本人はここにいる。そしてここで自分が描いた絵を自分で消している。その言葉は、張本人の俺でさえ気づいていないことを言っていた。もしかしたら俺はどこかに愛情をほしがっていたのかもしれない。親からの愛情、友からの愛情、俺が知らない人からの愛情を。そして、必死にアピールしていたのかもしれない。「俺はここにいる。ここで生きている」自分の命を。親からもらったこの命を。

しかし慣れてないせいかそう考えると、急に恥ずかしくなり、ドーナツを口いっぱいにほおばり、ジュースで流し込むと、すぐさま立ち上がった。


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