父と母の、その先へ ―― 三世代の夏
晩飯を食べ終えて、茶碗を片づけたあとだった。
居間が静かになったところで、息子がふと思い出したように言った。
「そういえばさ、昔NSR250R乗ってたんだよね」
私は顔を上げた。
息子はいま東京の家で暮らしている。
私は高齢の父を一人にしておけなくて、地方の実家に戻っていた。
会社がテレワークになってくれたおかげで、なんとかやれている。
お盆に一人で帰ってきた息子は、前より少し大人びて見えた。
父も、十年ぶりに見る孫に終始うれしそうだった。
けれど、珍しい車やバイクを見つけると目を輝かせるところは、昔のままだった。
「まだあるよ」と私は言った。
「納屋の奥に」
息子の目がぱっと開いた。
「え、見たい」
私は懐中電灯を持って、息子と一緒に納屋へ向かった。
戸を開けると、土と油と古い木の匂いがむっと流れ出してきた。
奥に押し込まれたホンダNSR250Rは、赤白の色もくすみ、外れたカウルの隙間には埃がたまっていた。名車というより、長いこと放置された機械の塊という感じだった。
息子はしばらく黙って見ていたが、そのあとしゃがみ込んで車体をのぞいた。
「……ほんとに残ってたんだ」
「置いてたっていうか、忘れてたんだ」
このバイクは、十七のときに両親が買ってくれたものだった。
安い買い物じゃなかった。家に余裕があったわけでもない。それでも私はどうしても欲しかった。
けれど、一年もしないうちに事故をやった。怪我は大したことがなかったが、それから急に乗るのが怖くなった。
そのまま離れて、気がつけば三十五年。
翌朝、蝉の声がうるさくなってきたころ、納屋をのぞくと息子はもう中にいた。
帰省中なのに遊びに出るでもなく、汗だくで工具箱を広げている。昔から機械いじりは好きだったが、大学では自動車部に入って、休みの日も車や工具の話ばかりしているらしい。
「これ、ホース駄目だね」
外した部品をつまみながら息子が言う。
「三十五年放っとくと、こうなるんだね」
私は納屋の入口に立ったまま、その様子を見ていた。
蒸し暑い中、息子は夢中で車体をのぞき込んでいる。見ているこっちが参ってきて、家から古い扇風機を引っ張り出してきた。延長コードをつないで納屋に持っていくと、ぬるい風が埃をふわりと舞い上げた。
「置いとく」
息子は顔だけ上げた。
「ありがとう」
それだけ言って、また手元に戻る。
すぐに金属の触れ合う小さな音が始まった。
東京で暮らしている息子が、実家の納屋で、三十五年眠っていたバイクをいじっている。
その背中を見ていると、なんだかうれしかった。
帰る朝、息子は玄関で靴を履きながら言った。
「このバイク、残っててよかった」
立ち上がって荷物を持ち直し、こっちを見る。
それから少し笑って言った。
「残してくれて、ありがとう」
何気ない口調だった。
たぶん、本人に深い意味はなかったと思う。
そんなふうに礼を言われて、少し戸惑った。
そういうことを考えたのは、そのときが初めてだった。
息子が東京へ戻ってから、私は一人でバイクをいじり始めた。
写真を撮っては息子に送った。スマホの中は、いつの間にかバイクの写真ばかりになった。
整備マニュアルを読み、動画を見て、また手を動かす。廃盤の部品は探すだけでも面倒で、時間も金も思った以上にかかった。
それでもやめる気にはならなかった。
放っておいた三十五年分を、少しずつ片づけているような気がした。
父もたまに納屋をのぞきに来た。
昔よりずいぶん小さくなったが、工具を持つ手つきはまだしっかりしていた。孫が乗るところを期待しているらしく、頼んでもいないのに手を貸してくれる。息子がまだ免許を持っていないことは、なんとなく言いそびれたままにしておいた。
「そこ、先に外したほうがいい」
「ここか」
「無理に回すと舐めるぞ」
「わかった」
そんなやり取りをしながら、少しずつバイクは形を取り戻していった。
ある日、固着したボルトがどうしても外れず、私は危うく工具を投げそうになった。
すると父が黙って代わり、レンチを握る。手首を少し返すように力をかけると、金属が小さく鳴って、ふっと緩んだ。
「力じゃない」
父はそれだけ言って、工具を戻した。
そんなことを何度も繰り返すうちに、私はバイクの直し方だけじゃなく、この家で昔から受け取っていたものまで、少しずつ思い出していった。
やがてエンジンがかかり、ブレーキも整い、灯火類も全部生き返った。
最後の作業を終えた納屋で、私はしばらくバイクを眺めていた。
若いころ憧れたものが、三十五年越しでようやく戻ってきた。磨いたカウルには、夕方の光がうっすら映っていた。
その夜、私は父に聞いた。
「なんであのとき、十七の俺にあんな高いバイク買ってくれたんだ」
当時はそんなこと考えもしなかった。買ってもらえるかどうか、それしか頭になかった。
父はすぐには答えなかった。
湯呑みを持ったまま、少し黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「欲しがってたろ、お前」
それだけだった。
ごまかしているのはわかった。
でも、それで十分だった。
今なら、少しわかる気がした。
息子が本気で欲しがるものなら、できるなら叶えてやりたい。
そう思ってしまうのだろう。
数日後、ナンバーを取り直そうと思って、父に聞いた。
「書類、どこにある?」
父は首をひねった。
「さあな。覚えてない」
二人で家じゅうを探した。
机の引き出し、古い箪笥、納戸の箱、書類ケース。
どこにもない。
半分あきらめたころ、居間の棚の奥に押し込まれていた重要書類の束から、一つの封筒が出てきた。
「これじゃないか」
父が差し出した封筒を受け取って中を開く。
たしかにバイクの書類だった。
その中に、小さなメモが一枚はさまっていた。
母の字だった。
雄太郎バイク。
また乗るときのために。
私はその場で少し止まった。
母はもういない。
何年も前に亡くなっている。
けれど、その字を見た瞬間、母がそこにいる気がした。
思い出した。
昔、母に「このバイクどうするの」と聞かれたことがある。
私はたぶん、何気なく答えたのだ。
「また、いつか乗る」
母はその言葉を覚えていたんだろう。
書類をなくさないように、困らないように。
その“いつか”のために、ちゃんと残してくれていたのだ。
封筒を持って納屋へ戻ると、磨き上げたバイクが夕方の光の中に置かれていた。
十七の私が欲しがったものを、父と母は買ってくれた。
乗らなくなってからも、母は残してくれていた。
そして息子が帰ってきて、このバイクのことをもう一度思い出させてくれた。
私は黙って車体に触れた。
「残しておいてくれて、ありがとう」
その言葉は、もう本人には言えない。
だからせめて、このバイクを私のところで終わらせるわけにはいかないと思った。
その夜、私は息子に写真を送った。
レストアを終えたバイクを、角度を変えて何枚も。
ほどなくして電話がかかってきた。
「すごいね」
開口一番、息子はそう言った。
「ほんとに、あの納屋にあったやつ?」
「そうだよ」
電話の向こうで、息子はしばらく黙っていた。
写真を見ているのだろう。
やがて、ぽつりと言った。
「……かっこいい」
私は少しだけ間を置いてから言った。
「お前が乗るなら、このバイクはお前にやる」
向こうでまた少し沈黙があった。
冗談じゃないとわかるまで、少し時間がかかったのかもしれない。
それから静かに言った。
「ありがとう」
そして続けた。
「大事にする」
「これは、売れない」
その一言で十分だった。
父と母が私に残してくれたものが、今度は息子のほうへ渡っていく。
そういう順番が、ようやく来たのだと思った。
納屋の中で、私はもう一度バイクを見た。
夕方の薄い光を受けた車体は、ただの乗り物というより、時間そのものみたいに見えた。




