表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

父と母の、その先へ ―― 三世代の夏

作者: ふくろう
掲載日:2026/03/18

晩飯を食べ終えて、茶碗を片づけたあとだった。


居間が静かになったところで、息子がふと思い出したように言った。


「そういえばさ、昔NSR250R乗ってたんだよね」


私は顔を上げた。


息子はいま東京の家で暮らしている。

私は高齢の父を一人にしておけなくて、地方の実家に戻っていた。

会社がテレワークになってくれたおかげで、なんとかやれている。


お盆に一人で帰ってきた息子は、前より少し大人びて見えた。

父も、十年ぶりに見る孫に終始うれしそうだった。

けれど、珍しい車やバイクを見つけると目を輝かせるところは、昔のままだった。


「まだあるよ」と私は言った。

「納屋の奥に」


息子の目がぱっと開いた。


「え、見たい」


私は懐中電灯を持って、息子と一緒に納屋へ向かった。


戸を開けると、土と油と古い木の匂いがむっと流れ出してきた。


奥に押し込まれたホンダNSR250Rは、赤白の色もくすみ、外れたカウルの隙間には埃がたまっていた。名車というより、長いこと放置された機械の塊という感じだった。


息子はしばらく黙って見ていたが、そのあとしゃがみ込んで車体をのぞいた。


「……ほんとに残ってたんだ」


「置いてたっていうか、忘れてたんだ」


このバイクは、十七のときに両親が買ってくれたものだった。


安い買い物じゃなかった。家に余裕があったわけでもない。それでも私はどうしても欲しかった。


けれど、一年もしないうちに事故をやった。怪我は大したことがなかったが、それから急に乗るのが怖くなった。


そのまま離れて、気がつけば三十五年。


翌朝、蝉の声がうるさくなってきたころ、納屋をのぞくと息子はもう中にいた。


帰省中なのに遊びに出るでもなく、汗だくで工具箱を広げている。昔から機械いじりは好きだったが、大学では自動車部に入って、休みの日も車や工具の話ばかりしているらしい。


「これ、ホース駄目だね」


外した部品をつまみながら息子が言う。


「三十五年放っとくと、こうなるんだね」


私は納屋の入口に立ったまま、その様子を見ていた。


蒸し暑い中、息子は夢中で車体をのぞき込んでいる。見ているこっちが参ってきて、家から古い扇風機を引っ張り出してきた。延長コードをつないで納屋に持っていくと、ぬるい風が埃をふわりと舞い上げた。


「置いとく」


息子は顔だけ上げた。


「ありがとう」


それだけ言って、また手元に戻る。

すぐに金属の触れ合う小さな音が始まった。


東京で暮らしている息子が、実家の納屋で、三十五年眠っていたバイクをいじっている。


その背中を見ていると、なんだかうれしかった。


帰る朝、息子は玄関で靴を履きながら言った。


「このバイク、残っててよかった」


立ち上がって荷物を持ち直し、こっちを見る。


それから少し笑って言った。


「残してくれて、ありがとう」


何気ない口調だった。

たぶん、本人に深い意味はなかったと思う。


そんなふうに礼を言われて、少し戸惑った。

そういうことを考えたのは、そのときが初めてだった。


息子が東京へ戻ってから、私は一人でバイクをいじり始めた。


写真を撮っては息子に送った。スマホの中は、いつの間にかバイクの写真ばかりになった。


整備マニュアルを読み、動画を見て、また手を動かす。廃盤の部品は探すだけでも面倒で、時間も金も思った以上にかかった。


それでもやめる気にはならなかった。


放っておいた三十五年分を、少しずつ片づけているような気がした。


父もたまに納屋をのぞきに来た。


昔よりずいぶん小さくなったが、工具を持つ手つきはまだしっかりしていた。孫が乗るところを期待しているらしく、頼んでもいないのに手を貸してくれる。息子がまだ免許を持っていないことは、なんとなく言いそびれたままにしておいた。


「そこ、先に外したほうがいい」


「ここか」


「無理に回すと舐めるぞ」


「わかった」


そんなやり取りをしながら、少しずつバイクは形を取り戻していった。


ある日、固着したボルトがどうしても外れず、私は危うく工具を投げそうになった。

すると父が黙って代わり、レンチを握る。手首を少し返すように力をかけると、金属が小さく鳴って、ふっと緩んだ。


「力じゃない」


父はそれだけ言って、工具を戻した。


そんなことを何度も繰り返すうちに、私はバイクの直し方だけじゃなく、この家で昔から受け取っていたものまで、少しずつ思い出していった。


やがてエンジンがかかり、ブレーキも整い、灯火類も全部生き返った。


最後の作業を終えた納屋で、私はしばらくバイクを眺めていた。


若いころ憧れたものが、三十五年越しでようやく戻ってきた。磨いたカウルには、夕方の光がうっすら映っていた。


その夜、私は父に聞いた。


「なんであのとき、十七の俺にあんな高いバイク買ってくれたんだ」


当時はそんなこと考えもしなかった。買ってもらえるかどうか、それしか頭になかった。


父はすぐには答えなかった。

湯呑みを持ったまま、少し黙っていたが、やがてぽつりと言った。


「欲しがってたろ、お前」


それだけだった。


ごまかしているのはわかった。

でも、それで十分だった。


今なら、少しわかる気がした。

息子が本気で欲しがるものなら、できるなら叶えてやりたい。

そう思ってしまうのだろう。


数日後、ナンバーを取り直そうと思って、父に聞いた。


「書類、どこにある?」


父は首をひねった。


「さあな。覚えてない」


二人で家じゅうを探した。


机の引き出し、古い箪笥、納戸の箱、書類ケース。

どこにもない。


半分あきらめたころ、居間の棚の奥に押し込まれていた重要書類の束から、一つの封筒が出てきた。


「これじゃないか」


父が差し出した封筒を受け取って中を開く。

たしかにバイクの書類だった。


その中に、小さなメモが一枚はさまっていた。


母の字だった。


雄太郎バイク。

また乗るときのために。


私はその場で少し止まった。


母はもういない。

何年も前に亡くなっている。


けれど、その字を見た瞬間、母がそこにいる気がした。


思い出した。

昔、母に「このバイクどうするの」と聞かれたことがある。


私はたぶん、何気なく答えたのだ。


「また、いつか乗る」


母はその言葉を覚えていたんだろう。

書類をなくさないように、困らないように。

その“いつか”のために、ちゃんと残してくれていたのだ。


封筒を持って納屋へ戻ると、磨き上げたバイクが夕方の光の中に置かれていた。


十七の私が欲しがったものを、父と母は買ってくれた。

乗らなくなってからも、母は残してくれていた。

そして息子が帰ってきて、このバイクのことをもう一度思い出させてくれた。


私は黙って車体に触れた。


「残しておいてくれて、ありがとう」


その言葉は、もう本人には言えない。

だからせめて、このバイクを私のところで終わらせるわけにはいかないと思った。


その夜、私は息子に写真を送った。

レストアを終えたバイクを、角度を変えて何枚も。


ほどなくして電話がかかってきた。


「すごいね」


開口一番、息子はそう言った。


「ほんとに、あの納屋にあったやつ?」


「そうだよ」


電話の向こうで、息子はしばらく黙っていた。

写真を見ているのだろう。


やがて、ぽつりと言った。


「……かっこいい」


私は少しだけ間を置いてから言った。


「お前が乗るなら、このバイクはお前にやる」


向こうでまた少し沈黙があった。

冗談じゃないとわかるまで、少し時間がかかったのかもしれない。


それから静かに言った。


「ありがとう」


そして続けた。


「大事にする」

「これは、売れない」


その一言で十分だった。


父と母が私に残してくれたものが、今度は息子のほうへ渡っていく。

そういう順番が、ようやく来たのだと思った。


納屋の中で、私はもう一度バイクを見た。


夕方の薄い光を受けた車体は、ただの乗り物というより、時間そのものみたいに見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ