第四十三話 退くという選択
見える――ほんの一瞬だけだが、確かに先の動きが視界に滑り込んでくるように映り、魔物がどの軌道で腕を振り下ろし、どのタイミングで踏み込んでくるのかが、まるで答えを先に知らされているかのように理解できた。
だから、避けること自体はできる。
実際、何度もその攻撃を紙一重でかわし続けているし、ほんの数秒前までなら絶対に反応すらできなかった速度にも、今はついていけている。
だが――それだけだ。
「……当たらない……」
息が荒くなり、喉の奥が焼けるように痛む中で、何度目かも分からない攻撃を試みたが、横から踏み込み、背後へ回り込み、死角を突いたつもりの一撃すら、分厚い岩のような肉体に弾かれて、手応えはまるでなかった。
拾った石を投げつけても、拳で叩きつけても、結果は同じで、傷一つつかないという現実だけが、容赦なく積み重なっていく。
未来が少し見えるようになったところで、倒せなければ意味がない――そんな当たり前の事実が、嫌というほど突きつけられていた。
重い足音が響き、魔物がまた一歩こちらへ近づいてくるたびに、空気そのものが押し潰されるような圧迫感が全身を包み込み、完全に余裕を持って“狩り”を楽しんでいるのだと、嫌でも理解させられる。
「セデール……」
かすれた声に振り向くと、壁にもたれかかるようにして立っているイエリスの姿が目に入り、その顔色の悪さと荒い呼吸から、もうほとんど限界に近いことが一目で分かった。
「……逃げて」
弱々しく、それでもはっきりと告げられた言葉に、思わず思考が止まる。
「は?」
反射的に声が漏れたが、その意味を理解した瞬間、胸の奥で何かが強く反発した。
「いいから……逃げて……」
「何言ってんだよ」
即座に否定の言葉が出るが、その先を続ける前に――
「行け!!」
血を吐きながら、それでも前を睨みつけているグランが、声を張り上げた。
「お前だけでも……生きろ!!」
「ふざけんなよ……!」
置いていけるわけがない、ここまで一緒に戦ってきた仲間を、こんなところで見捨てて逃げるなんて選択肢があるはずがない――そう思った、そのときだった。
「……行け」
低く、静かで、それでいて迷いのない声が耳に届く。
フェリだった。
倒れたままのはずの体で、わずかに目を開け、こちらを見ている。
「今のお前じゃ……勝てない」
短く、だが完全に言い切るその言葉は、反論を許さないほどの重みを持って胸に突き刺さる。
「でも、お前なら……戻れる」
その一言で、理解してしまう。
俺だけが、この状況をやり直せる。
「ここで全員死ぬか、それともお前が生きて、もう一度ここに来るか」
選べ、と言われているのと同じだった。
ドン、と足音が鳴り、魔物がさらに距離を詰めてくる中で、頭の中はぐちゃぐちゃにかき乱され、感情と理性がぶつかり合って何もまとまらない。
嫌だ、置いていきたくない、今すぐ助けたい――そんな思いばかりが溢れてくる。
だが同時に、このままでは全員が死ぬという現実も、冷たく突きつけられていた。
今の俺では、勝てない。
足りない。
圧倒的に。
だから――
「……絶対に、戻る」
震える声で、それでも絞り出すように言葉を紡ぐと、フェリがほんのわずかに口元を緩めたように見えた。
「……遅れるなよ」
血だらけのまま、グランが笑う。
「次は、もっと楽させろ」
イエリスも、小さく頷きながら、かすかに微笑んだ。
「……待ってる」
胸が痛い。
今すぐにでも駆け寄りたい衝動を、無理やり押し殺す。
だが――今は、それをしてはいけない。
ここで倒れるのは、意味がない。
やるべきことは、一つだけだ。
『巻き戻し』
今度は、確かに発動した。
視界が歪み、時間そのものが引き剥がされるように逆流していく感覚の中で、五階層の景色が崩れ、四階層へ、三階層へと一気に遡っていく。
頭が割れそうなほど痛むが、それでも止めるつもりはなかった。
「絶対に……助ける……!」
意識が途切れそうになりながらも、ただそれだけを強く願い続ける。
光が弾け、すべてが白に塗りつぶされたあと――
気づいたとき、俺は迷宮の入口に立っていた。
荒い呼吸のまま、自分が一人で戻ってきたことを理解し、ゆっくりと振り返る。
あの奥に、みんながいる。
拳を強く握りしめる。
「……待ってろ」
今度は、必ず。
負けない。
そう心に刻みながら、俺は一歩を踏み出した――強くなるために




