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講和条約の闇に消えた"空白の戦記" ―あの大崩落事故は二人の心中劇だったのか?―

作者: 柏原夏鉈


帝都ヴァルドリアの旧市街。

ガス灯の光さえ届かぬ石畳の路地裏、そのまた奥に、看板のない小さなカフェがある。


知る人ぞ知るその店の名は『ル・タン・ブルー(青の刻)』。


重厚なオーク材の扉を開けると、カラン、と控えめなベルの音が鳴り、深く焙煎された珈琲の香りが冷えた体を包み込んだ。

新聞記者の青年カウルはコートについた雨粒を払いながら、いつものカウンター席へと滑り込んだ。


「いらっしゃいませ。今日は冷えますね」


カウンターの向こうで、マスターが穏やかな低音で迎えてくれる。

整えられた顎鬚と、少し憂いを帯びた瞳。彼は無口だが、淹れる珈琲は帝都で一番だと思っている。

ただ、少し足が悪い。カウンターの中を行き来する際、右足を僅かに引きずるような仕草を見せる。昔の怪我だろうか。


「あら、いらっしゃい。いつものブレンドでいいかしら?」


奥のキッチンから顔を出したのは、燃えるような赤髪を緩く編んだ美女だ。


この店のマダムであり、マスターの奥さん。

彼女はいつも、手首まで隠れるような長袖のドレスを着て、上品なレースの手袋をしている。

その手つきは優雅だが、どこか壊れ物を扱うような慎重さがある。


「ええ、お願いします、マダム。それと……今日は連れが来るので、例の『裏メニュー』をお願いします」

「ふふ、デート? 承知しましたわ」


マダムは悪戯っぽく微笑むと、マスターに目配せをする。

マスターは苦笑しながら、サイフォンに火を入れた。


しばらくして、待ち合わせ相手の同僚、ミナがやってきた。

彼女は席に着くなり、不機嫌そうにため息をつく。


「もう、うんざり。編集長ったら、また『あのネタ』を掘り返せって」

「あのネタ?」

「決まってるじゃない。今月でちょうど三年でしょう、『レギウム攻略戦』の終結から」


レギウム攻略戦。

我がヴァルドリア帝国がレギウム王国へと侵攻した戦争だ。

最前線で大規模な魔力崩壊事故が起き、進軍ルートが魔界に浸食されたかのような汚染地域となったことで、なし崩し的に停戦となった。

今となっては、帝国民にとっても"終わったこと"だ。


「まだ何か書くことがあるのかい? 講和条約のあとは、仮初めでも平和って感じだろう?」

「政治の話じゃないのよ。巷で流行ってる都市伝説の方。『帝国の至宝、火炎龍は生きている!』ってやつ」


ミナがわざとらしく芝居がかった口調で言う。

カウルは苦笑した。


「ああ、エムリス・ペンドラゴン少佐か。第1近衛魔導師団長にして、大陸最強の魔術師。僕も記事を書いた。軍機密の写真も見たことがある」

「そう。公式発表じゃあの魔力崩落で戦死したことになってるけど、遺体が見つかってないから噂が絶えないのよ。『敵の兵士と恋に落ちて駆け落ちした』ってやつ」


ミナが呆れたように肩をすくめる。

カウンターの中で、マスターの手がほんの一瞬、止まったような気がした。

マダムの方はと言えば「あら、ロマンチックなお話」とくすりと笑っている。


「ありえないわよねえ。あの『火炎龍』が恋? 相手は誰よ? 彼女と相打ちになった『名もなき一般兵』? ムリムリ! 釣り合うわけがないわ」

「まあ、英雄は死して伝説になるって言うから。みんな、あの美しい将軍に生きていて欲しいのさ」


聞き流しながら、カウルは考える。噂はあくまで噂だ。

しかし、ペンドラゴン少佐が生きていたとして、どんな生活をしているのだろう。

終戦直前。号外の記事を書くため、レギウム攻略派遣軍司令部から提供された資料の中に、一枚の写真が紛れ込んでいた。

本来は、機密扱い。ペンドラゴン少佐の軍服姿の姿写真だ。すぐに取り上げられてしまったが、しっかりと脳に焼き付けた。


目の覚めるような赤い髪が印象的だった。――そう、まるで、目の前のマダムのように。

その気づきを首を振って否定する。馬鹿らしい。こんな路地裏のカフェで給仕をしているはずがない。

彼女は戦場を焼き尽くす烈火であって、こんな風に穏やかに微笑む女性ではないのだから。


「お待たせしました。『禁断のワルツ』です」


マダムがうやうやしく運んできたのは、細長いグラスに入った美しいパフェだった。


その見た目は、異様かつ芸術的だ。

グラスの中央できっぱりと色が分かれている。

左半分は、光を吸い込むような漆黒のコーヒーゼリー。

右半分は、燃え上がるような真紅のベリーソースとフランボワーズのムース。


黒と赤。全てを飲み込む虚無と、全てを焼き尽くす業火が対峙しているようだ。


「へえ、これが噂の!」

「食べ方にコツがあるんです」


マダムが人差し指を唇に当てて、秘密めいた声で囁く。


「お二人で同時にスプーンを入れて、黒と赤を混ぜ合わせてください。心を一つにして。そうしないと、本当の味はわかりませんわ」


僕とミナは顔を見合わせ、言われた通りにする。

二人はそれぞれ銀のスプーンを手に持ち、黒と赤の境界に差し込む。そして、息を合わせて、ゆっくりとかき混ぜた、その時だ。


カッ、と。


グラスの底から、淡い光が溢れ出した。


「えっ!?」


ミナが驚きの声を上げる。

どこからともなく差し込んだ青い光が、混ざり合う黒と赤の隙間を満たしていく。

本来なら濁った色になるはずの二色は、青い光を触媒にして、透き通るような高貴な紫色へと変化したのだ。

発光する紫色のソースが、グラスの中で銀河のように渦を巻く。


「きれい……。これ、どうなってるの?」

「企業秘密ですわ。ちょっとした、魔術反応、とだけ」


マダムが誇らしげに胸を張る。

マスターは、そんな妻を愛おしそうに見つめながら、出来上がった珈琲をそっと差し出した。


「ミナ、記事のネタに困ってるなら、このカフェのことを書けばいいじゃないか。『英雄の生存説』なんかより、この不思議なパフェの方が読者は喜ぶよ」

「そうね……。それがいいかも。物騒な話より、ずっと素敵だわ」


ミナがパフェを一口食べて、幸せそうに頬を緩める。

その様子を見守る夫婦の表情は、どこまでも穏やかだ。


「ねえマスター、このパフェ、どうやって思いついたんですか?」


カウルが尋ねると、マスターは髭を撫でながら、ぼそりと答えた。


「……昔、見た空の色なんですよ、妻と出会ったときに、二人で見上げた空の色」

「空の色?」

「ええ。もう二度と見られない、世界で一番美しい色ですよ。あのときの気持ちは今も忘れない。愛は永遠で、壊れることなく――」


その言葉には、他者からは理解できない重みと、深い情愛が含まれていた。

隣に立つマダムが、長袖の手袋の下にあるであろう腕を、そっとマスターの背中に回すのが見えた。


「――いつまでも、ね」

「ああ」


二人の間に、言葉以上に、濃厚な情報のやりとりが見えるようだった。

ただそこにいるだけで、互いの鼓動が聞こえているかのような、濃密で親密な空気。


ふと、店の奥の棚に目が止まった。

古びて動かなくなった懐中時計が二つ、仲良く並んで飾られている。

その蓋には、青い琥珀が埋め込まれていた。


伝説の火炎龍と、名もなき兵士。

もし二人が生きていたら、こんな風に寄り添って笑い合っていてほしい。


外の雨はまだ止まないけれど、この店の中だけは、春の陽だまりのように暖かかった。




« ─── ・ ❖ ・ ─── »




文書番号:R-3092

機密区分:最高機密(A-Ω)

閲覧指定:参謀本部長以上

件名:西部方面作戦行動経過評価ならびに戦域再編計画フェイズ・グレイに関する件

起案:レギウム王国軍 参謀本部 作戦局第3課


1.戦域概況

ヴァルドリア帝国軍による西部戦域への武力介入を契機とする交戦状態は、開戦以降34か月を経過した現在も継続している。


開戦初期に我が軍が採用した山岳地形依存型防衛構想は、帝国軍による新型魔導触媒兵器の実戦投入により、その戦術的前提を失った。


現時点において、我が国西部領域のおよそ30%が敵勢力圏下に置かれ、主要な魔導触媒採掘および精製拠点の大半を喪失している。防衛軍主力部隊の人的・物的損耗率は平均42%を超過しており、当該戦域における組織的かつ継続的な抵抗能力は著しく低下していると評価される。


2.敵戦力評価

帝国軍は魔導装甲師団を主力としつつ、象徴的戦力として「帝国第1近衛魔導師団」を西部戦域最前線に投入している。


同師団は、個々の構成員が戦術級火力を恒常的に行使可能な水準にあり、指揮官級魔導師による広域殲滅魔法の使用が複数回確認されている。


我が軍は現状、これに有効に対抗し得る魔導遮断手段、対抗魔法体系、もしくは同等の魔力量投射能力を保有していない。


以上より、両軍間の魔導技術格差は既に臨界点を超過しており、正面戦闘における戦力均衡の回復は困難であると結論付けられる。


3.戦域再編方針

現有戦力の壊滅的損失を回避し、王都圏防衛に必要な最低限の戦力を温存する目的から、西部戦線の全面放棄を決定する。本措置は戦略的撤退計画「フェイズ・グレイ」として位置付けられる。


残存する防衛軍主力は、天然の地形制約を有する「嘆きの峡谷」を経由し、内陸盆地防衛線へ段階的に後退するものとする。


主力部隊通過後、峡谷内要衝に事前設置した爆破解放装置を起動し、地形破壊による進軍遮断措置を実施する。これにより敵軍の機動力を物理的に制限し、追撃行動の遅滞を図る。


4.殿軍運用計画

主力撤退完了までの時間確保を目的として、独立守備隊を中核とする数個小隊を殿軍として峡谷西端部に配置する。


当該部隊には、陣地保持義務の免除および戦術的撤退判断権の制限を付与した上で、極限的遅滞戦闘を命ずる。本任務は、結果として部隊の生還を保証しない性質を有するが、作戦全体の成立に不可欠な措置として位置付ける。


併せて、作戦目的の達成公算を最大化するため、特例措置として軍最高機密指定の『戦略級高密度魔導結晶"記述漏れオミッション"』を当該部隊への供与および使用を許可する。


5.戦略的見通し

峡谷封鎖が所期の効果を発揮した場合、敵軍の進攻速度は大幅に低下し、戦線は短期的な膠着状態へ移行する可能性が高い。


参謀本部としては、この時間的猶予を活用し、徹底抗戦方針から限定的宥和政策への段階的転換を検討する。既に喪失した西部領域を交渉材料とし、帝国側との早期停戦および講和条約締結の可能性を模索するものとする。


以上




« ─── ・ ❖ ・ ─── »




泥の味がした。

口の中も、肺の中も、纏わりつくような湿気と、焼け焦げた魔力残滓の臭いで満たされている。


レギウム王国陸軍、第301独立守備隊。

そう呼べば聞こえはいいが、実態は敗走する本隊からはぐれ、戦場を彷徨っていた兵士を寄せ集めただけの損耗部隊だ。


小隊長の任にあるカヌート・ウルフソン少尉は、塹壕の縁からわずかに顔を出し、暗闇に沈む"嘆きの峡谷"の入口を睨んでいた。


雨は冷たく、容赦なく体温を奪っていく。

部下たちは泥濘の中に身を潜め、荒い呼吸を整えている。彼らの瞳にあるのは、闘志ではなく、諦観に近い恐怖だった。

無理もない。我々に課された任務は"遅滞戦闘"。

聞こえの良い軍事用語だが、その本質は"時間稼ぎのための土嚢になれ"という命令に他ならない。


峡谷の向こう側、本隊は既に安全圏へと足を早めているだろう。

彼らが抜けきった後、この峡谷は爆破され、物理的に封鎖される。

我々を、敵軍ごと置き去りにして。


「……来ますよ、あいつが」


古参の軍曹が、震える声で言った。

視界の先、闇の奥底から、異常な熱量が押し寄せてくるのが肌で感じられた。


ヴァルドリア帝国軍、第1近衛魔導師団。

その先頭に立つのは『火炎龍』。大陸最強と恐れられる焦熱の化身だ。


本来、我々のような軽装備の歩兵部隊が相手にしていい存在ではない。

向こうが戦車なら、こちらは石斧を持った原住民のようなものだ。魔導技術の格差は、歴然。


カヌートは懐から、懐中時計を取り出した。


泥と油にまみれた手袋で、そっと泥を拭う。

蓋にはめ込まれた"青い琥珀"が、戦場の薄汚れた空気の中で、凛とした青い光を放っていた。

微かな魔力を帯びたその光だけが、この灰色の世界で唯一、美しいものだった。


「小隊長。戦争が終わったら『青き琥珀の君』……懐中時計を共に買った人に、会いに行くんじゃなかったんですか?」


古参の軍曹が、緊張を和らげようと、カヌートの懐中時計を指さしながら尋ねてきた。

カヌートは口の端を吊り上げ、努めて明るく笑ってみせた。指揮官が恐怖を見せれば、部隊は一瞬で瓦解する。


「もちろんそのつもりだ。俺はここで死ぬつもりなど毛頭ない」

「『青き琥珀の君』ってのは、なんですか?」


急遽この部隊に編入された若い新兵が、気を紛らわせるように聞いてくる。


「俺の、大切な人さ」


カヌートは懐中時計の蓋を撫でた。

脳裏に浮かぶのは、開戦前の穏やかな日々。中立都市で開催された万国博覧会の雑踏。


「万博の時計店で、この『青い琥珀の懐中時計』に一目惚れしてな。持てるすべてを(はた)いてでも買おうとしたんだが、店主が売らないという」

「え、どうしてです?」

「これは、二つで一つ。対になった男性用と女性用があって、それぞれの琥珀が呼応するように輝くという仕組みになってる。店主が頑固でな、ペアじゃなきゃ売らない。一方だけ残ったところで価値が半減どころがガラクタも同然になる、というんだ」

「じゃあ、両方買えば良かったじゃ無いですか」

「馬鹿を言え、いくらすると思ってるんだ。一つでも王国なら家が建つほどだ」

「え!そんなボロい懐中時計が!」


そう口走った新兵を、古参の軍曹がたしなめる。


「おいおい、そいつは少佐の宝物だぞ? ボロボロのガラクタに大金を払うなんて、騙されたんじゃないか、なんて言うな」

「そ、そこまで言ってませんよ!?」


カヌートは笑いながら、言った。


「いや、いいんだ。俺を逆さに振って、ぎゅっと絞っても、両方を買う金など無い」

「そんなに貴重な品なのでありますか?」


「店主の爺さんが言っていたよ。『いいかね、琥珀というのは、木の涙が虫を包み込み、その時間を永遠にとどめるひつぎだ』とな」


カヌートは懐かしむように目を細め、言葉を続けた。


「普通の琥珀は虫をとどめるだけだが、この『青い琥珀』は違う。かつて大魔導師が実験の果てに生み出した、空間そのものを保存する人工琥珀だと言っていた。一つだけではただの綺麗な石ころだ。だが、対になった二つの琥珀が揃い、互いに強く共鳴した時、その周囲に『永遠』を生み出すらしい」


「永遠、ですか?」

「ああ。絶対的な強度の殻で包み込む。外の世界が燃えようが、崩れようが、琥珀の中の虫のように、傷一つ付けさせずに保存するそうだ。曰く『もし世界が滅びる時が来たら、愛する者とこれを持ち合うといい。そうすれば、お前たち二人だけは、生き残るかもしれんぞ』と」


カヌートは自嘲気味に笑い、時計の蓋を閉じた。


「まあ、商売上手な爺さんの、眉唾なセールストークだろうがな。しかし、二度と手に入らない一品だということはわかった」

「それで、どうしたんです?」


「俺がしばらくうなっていると、店主がようやく重い口を開いた。"お前みたいに、一方だけ買いたいという令嬢がいたな。同じように断ったが、お前が必ず買うと約束するのなら、令嬢が戻ってきたら交渉してみよう"と。そして、約束の時間に戻ってみると、彼女は時計を買っていき、代わりにお礼のふみを預けていってくれた。それからさ、彼女との文通が始まったのは。すぐに二人は愛し合うようになった」


「へえ。運命的ですね。会ったことはあるんですか?」

「いや、ない。そのすぐ後だったのさ、この戦争が始まったのは」

「え?」

「――『青き琥珀の君』は、ヴァルドリア帝国の貴族、深窓の令嬢だそうだ」


古参の軍曹が補足する。

そう、よりにもよって、カヌートが文通により愛を育んだ相手は、戦争という大きな隔たりにより、分断された。


「お互いの身を守るために、名前も家柄も、何もかも伏せた上での文通さ。内通者だと疑われてはならない」


現実は待ってくれない。

地面が微動し始めた。遠くの木々が、赤く燃え上がり始めている。『火炎龍』が、近づいている。

カヌートは時計をしまい、表情を引き締めた。決断の時だ。


「総員、聞け」


カヌートは部下たちを見回した。

残存兵力、十数名。持てるだけの魔導触媒を集めさせたが、その量は絶望的に少ない。


「お前たちが集めた触媒は、すべて俺のカートリッジに装填する」

「は? 小隊長、それじゃあ俺たちは……」

「お前たちは武器を捨て身軽になって、今すぐ本隊を追え。峡谷を抜けろ。撤退は許されていない。負傷兵の振りをして、うまく紛れろよ」


部下たちがざわめく。


「馬鹿な! 小隊長を一人を残して行けるわけがないでしょう!」

「これは命令ではない、忠告さ」


カヌートは低い声で、しかしはっきりと告げた。


「敵は『火炎龍』だ。生半可な魔弾や障壁は、熱波だけで蒸発する。対抗するには、高密度の魔力防壁を展開しながらの高速機動、そして防壁の僅かな隙間からの精密狙撃が必要だ。お前たち、マルチキャストはできるか?」


誰も何も言えなかった。

"止まって、撃つ"、それが一般兵の限界であり、世界の常識だ。

"防ぎながら、撃つ"、それが選ばれたエリートだけが許された"双式"の壁。


だが、この小隊長はどうだ。

"加速"で突き抜け、熱線を"障壁"で弾き、肉体の負荷を"強化"でねじ伏せながら、両手の銃で、一方は敵を正確に穿ち、一方は味方に"保護"を行う。

新兵たちは"伍式"などという言葉すら初めて聞いた。


「安心しろ。倒す必要はない。時間さえ稼げばいいんだ。俺一人の方が、身軽で動きやすい。簡単な任務さ」


それは嘘だ。

如何にカヌートの技量が優れていようと、圧倒的な火力を誇る魔導師団、それも『火炎龍』相手に単騎で挑むなど、自殺行為に等しい。

だが、ここで全員が残れば、数分で全滅し、峡谷を突破される。誰かが残り、死ぬ気で足止めをするしかないのだ。


「行け!」


カヌートの怒声が、雨音を切り裂いた。

古参の軍曹が、悔しげに唇を噛み締め、敬礼した。


「ご武運を」


部下たちが泥を跳ね上げ、峡谷の奥へと走り去っていく。

誰も振り返らなかった。振り返れば、足が止まってしまうことを知っているからだ。


カヌートは一人、残された。


静寂が戻ってくる。いや、前方から近づく轟音が、静寂を塗りつぶしていく。

彼は銃の遊底を引き、魔力カートリッジの装填を確認した。

ありったけの魔導触媒を詰め込んだ、決死の装備。


「さて……」


カヌートは再び懐中時計を取り出し、時間を確認する振りをした。

命の残りを刻んでいる。蓋の裏、磨かれた銀盤に、自分の疲れ切った顔が映る。

そして、脳裏には彼女の綴った、繊細で少し右下がりの文字が浮かんだ。


『私の家は誰もが知る名家だけど、私と母様の部屋は、庭のずっと奥の離れにあるの』


ふみの中の彼女は、大貴族の娘として生まれながら、数奇な運命に翻弄される儚げな令嬢だった。

母親の身分が低いというだけで、本邸の者たちからは"家の恥"と見なされ、"腫れ物"のように扱われ、使用人ですら誰も近づこうとしないという。

病弱な母と二人、離れでひっそりと暮らす彼女は、実の父である当主の顔さえ、ろくに見たことがないと記していた。


「……君を守りたかったな」


顔も知らない。声も聞いたことがない。

けれど、彼女が送ってくれるふみの言葉だけが、この灰色の世界で唯一、色彩を持っていた。


彼女が『母様の咳が止まったの』と書けば、俺は泥沼の中で神に感謝した。

彼女が『いつかお父様に認めてもらいたい』と書けば、俺はその健気さに胸を締め付けられた。


俺は英雄になりたかったわけじゃない。

ただ、戦争を生き延びて、いつか彼女の元へ行き、その孤独な離れの扉を叩いてやりたかった。

誰からも顧みられない彼女の手を取り"君は一人じゃない"と、そう伝えたかった。


だが、目の前から迫る熱波が、その夢を嘲笑うように肌を焦がす。

相手は『火炎龍』。国一つを焼き尽くす災害。俺がここで逃げれば、この炎は彼女の住む帝都へ続く道を焼き払うかもしれない。


皮肉なものだ。俺がここで命を捨てるのは、家族愛や愛国心ではない。

遠い帝都の片隅、誰にも頼れず震えているかもしれない、愛しい君を守るため。


「さよならだ。我が愛しき青き琥珀の君」


カヌートは時計に口づけ、胸ポケットの奥、心臓の真上にそれをしまった。


「待たせたな、化け物ども。ここから先は、通行止めだ」


闇の向こう、木々を焼き払う紅蓮の炎が、龍のあぎとのようにカヌートへと迫っていた。

独りぼっちの、最後の戦いが幕を開ける。




« ─── ・ ❖ ・ ─── »




雨音がかき消された。


峡谷を叩く激しい雨粒が、カヌートの周囲でだけ弾け飛び、蒸発していく。

彼が展開する高密度の魔力障壁が、物理的な雨さえも拒絶しているのだ。


暗闇から、帝国軍の先遣隊が姿を現す。

魔導外骨格で武装した重装歩兵が三機。通常であれば、歩兵一個小隊が包囲してようやく無力化できる相手だ。

だが、カヌートは歩を止めない。むしろ、加速した。


「――接敵エンゲージ


思考は氷のように冷たく、処理は機械のように速い。

脳内で五つの思考領域が同時に、魔術構成陣で埋め尽くされていく。


第一領域:脚部術式《雷足ライトニング》。泥濘を無視した超加速。

第二領域:左腕術式《偏光障壁プリズム・シールド》。敵の制圧射撃を自動偏向。

第三領域:全身強化《剛体フォートレス》。加速による内臓破裂を防ぐ。

第四領域:右腕術式《炸裂魔弾ブラスト・ショット》。敵装甲の継ぎ目をロックオン。

第五領域:戦術予測。三秒後の敵の配置を逆算。


カヌートの体が、物理法則を無視した挙動でジグザグに疾走した。

重装歩兵が反応し、機銃を向けるよりも速く、カヌートは懐に飛び込んでいる。


すれ違いざま、右手のハンドガンが火を噴いた。

初弾が装甲の関節部を砕き、次弾がその隙間から中身の肉体を弾けさせる。


一機沈黙。


カヌートは振り返りもせず、背後の二機目に向けて、左手のハンドガンを背越しに発砲。

見ることなく放たれた魔弾は、予測された軌道通りに敵のセンサーアイを貫いた。


脳を焼き切るほどの高負荷領域。鼻からツーと一筋、赤いものが垂れる。

脳血管が悲鳴を上げている証拠だ。だが、カヌートはアドレナリンと魔力で痛覚を遮断し、踊るように殺戮を続ける。


一人、また一人。


暗闇から湧き出る敵兵が、カヌートという防波堤にぶつかり、砕け散っていく。


時間にして数分。だが、体感時間は数時間に及ぶ濃密な死線。

カートリッジが空になり、予備の魔導触媒を装填しようとした、その時だった。


――世界が、赤く染まった。


直感よりも早く、カヌートはバックステップで距離を取った。

コンマ一秒前まで彼が立っていた場所が、瞬時に溶解し、マグマのような水たまりに変わる。


攻撃を受けたのではない。ただ、"誰かが歩いてきた"余波で、地面が沸騰したのだ。


雨は空中で蒸発し、白い蒸気となって峡谷を埋め尽くしている。

水筒の水が沸騰し、腰の革ベルトが焦げる臭いがした。

蒸気の向こうから、人影が現れる。


全身に赤い炎を纏った、人型の災厄。

周囲十メートルの可燃物が自然発火し、彼女の進む道がそのまま紅蓮の絨毯となる。


(……冗談だろう)


カヌートは乾いた唇を舐めた。

ヴァルドリア帝国軍、第1近衛魔導師団長。『火炎龍』、エムリス・ペンドラゴン。


報告書でしか見たことのない伝説が、単騎で歩いてくる。護衛も、部下も引き連れていない。

必要ないからだ。彼女の周囲にいるだけで、味方すら焼き尽くしてしまうのだから。


(勝てない)


カヌートの脳内にある冷徹な判断が、即座に結論を出した。


遠距離からの射撃? 届く前に蒸発する。

中距離からの魔術戦? 火力の桁が違う。マッチ棒で噴火する火山に挑むようなものだ。

接近戦? 近づいた瞬間に炭化する。


部下を逃がすための時間は稼いだ。ここで逃走するのが、兵士としての最適解だ。

だが、カヌートの背後には、まだ封鎖されていない峡谷がある。


彼女を通してしまえば、逃げた部下も、撤退中の本隊も、背後から焼き払われる。


逃げる場所などない。


カヌートは、すがる思いで、懐の奥にある"青い琥珀"の感触を、軍服の上から確かめた。


通常の魔術では傷一つつけられない。ならば、通常のことわりの外にある力を使うしかない。

腰のポーチから、一本の特殊な魔導結晶を取り出す。


古代の遺物。"記述漏れオミッション"。

発動すれば、対象を”抉り取る”。防御不可能な消滅現象。

歴史から姿を消す、神が記述するのを忘れてしまっていたかのように。


射程は極端に短い。肌が触れ合うほどの至近距離で叩き込む必要がある。

つまり、あの灼熱の炎の中に、生身で飛び込まなければならない。


「……いい人生だった、と言えるほど長くはないが」


カヌートは自嘲気味に呟き、最後の魔力を練り上げる。

五つの演算領域すべてを"加速"だけに割り振る。

防御も、攻撃も捨てた。


燃え尽きる前に、ただ一瞬、あの『火炎龍』の懐に届くためだけの、使い捨ての翼。


――蒸気が晴れる。


炎の揺らめきの中に、赤い髪をなびかせた『火炎龍』が、無感情な瞳でこちらを見下ろしていた。

その瞳が、ゴミを見るような冷たさから、カヌートの殺気を感じ取り、わずかに細められる。


カヌートは、泥濘を蹴った。

最後の突撃が始まる。




« ─── ・ ❖ ・ ─── »




周囲の砲撃音が、不自然なほど遠のいていた。いや、正確には"誰も近づけない"のだ。


エムリス・ペンドラゴンという個体が放つ熱量は、一魔導師の枠を超え、歩く戦略兵器のカテゴリーに属する。

彼女を中心とした半径数百メートルは、酸素さえも燃え尽きる絶対的な死の領域だ。


帝国軍教範、第1近衛師団運用規定にはこうある。


『火炎龍の展開領域に立ち入るべからず』


彼女が舞う戦場において、味方の誤射フレンドリーファイアなどという概念は存在しない。


『燃える場所にいた無能が悪い』


それが唯一絶対の軍規であり、ゆえに彼女の周囲は、常に味方すら寄り付かない完全な空白地帯ノー・マンズ・ランドとなる。


結果として、世界で最も激しい戦場の中心でありながら、ここだけが世界から切り離されたような、奇跡的な静寂が支配していた。

誰も邪魔をする者はいない。灰塵と蒸気に閉ざされたこの円環の中にあるのは――、死のみ。


存外にあっけないものだと思った。


カヌートは自身の命を燃料にくべ、第五演算領域までフル稼働させた加速術式で、紅蓮の炎の海へと飛び込んだ。

皮膚が焼け、軍服が炭化し、肺が熱気で焼かれる。


だが、止まらない。


右手に握りしめた切り札――"記述漏れ(オミッション)"。対象を抉り取る、防御不能の虚無。

これをあの『火炎龍』のあぎとに自身の腕ごと突き込んで、発動させる。それだけが、カヌートに残された最後の使命。

炎の向こう、エムリス・ペンドラゴンが右手をかざすのが見えた。彼女の指先に収束するのは、山一つを消し飛ばすほどの極大魔力。


間に合わないか。

カヌートが死を覚悟し、エムリスが引き金を引こうとした、その刹那。


――カッ、と。


戦場に似つかわしくない、澄んだ”青”が弾けた。

それはカヌートの胸元から溢れ出し、同時に、エムリスの懐からも迸っていた。


二つの青い光は、互いを呼び合うように共鳴し、カヌートを包む灼熱の炎を一瞬にしてかき消した。

暴風のような魔力が凪ぎ、時が止まったかのような静寂が訪れる。


カヌートはたたらを踏んでとどまり、呆然と胸元を押さえた。

軍服のポケットの中で、熱を帯びて震えているのは、あの懐中時計だ。


そして目の前。

炎を解除し、驚愕に目を見開いている"彼女"の手にも、全く同じ輝きがあった。


青い琥珀。

世界にただ一組。対の品。


エムリスが震える手で、その懐中時計を取り出す。

カヌートもまた、泥にまみれた手袋を脱ぎ捨て、懐中時計を握りしめた。


視線が絡み合う。

殺意と敵意が抜け落ち、代わりに信じられないという困惑と、そして徐々に確信へと変わる熱が、二人の瞳に宿っていく。


「……『庭の薔薇の世話をしていて、手に虫が乗っているのに気づかずにびっくりした』と書いていたね。しかし、心配はいらないようだ。この有様なら、虫など、視界に入るまえに灰塵と化す」


カヌートの声は、戦闘の緊張で掠れていたが、そこには隠しきれない親愛が滲んでいた。

エムリスはゆっくりと、周囲の惨状を見渡し、彼が自分の書いたふみの一節を引用したことに微笑んだ。


それからカヌートの方へと歩み寄った。

その足取りは、先程までの将軍の行軍ではない。初めて舞踏会に誘われた少女のような、おずおずとしたものだった。


「ここは寒いわ。だから、少し暖めて差し上げただけ……。『小さな魔導ランプも灯せないほど魔力が弱くて、実家で冷遇を受けている』とおっしゃっていた御仁が、禍々しいものをお持ちなのですね」


エムリスが、カヌートの右手にある"記述漏れオミッション"の結晶を視線で指す。


「障壁、加速、魔弾、身体強化、そのうえに空間干渉魔術まで。……伍式記述ペンタ・キャストなんて、おとぎ話だと思っていましたわ」

「器用なだけさ。生きるために必死だった」


カヌートは、"記述漏れオミッション"の結晶を腰につけたポーチにしまいながら、苦笑いを浮かべる。


軽口を叩き合いながら、二人の距離は自然と縮まっていく。あと一歩踏み込めば、互いの鼓動が聞こえる距離。

そこは、泥と血にまみれた峡谷の底ではなく、ふみの中で語り合った美しい庭園になったようだった。


「改めて自己紹介しておこうか。カヌート・ウルフソンだ。所属と階級は省く。急ぎ、他国の真似をして作ってみただけの、お飾りだ」

「私は……ヴァルドリア帝国軍、第1近衛魔導師団、エムリス・ペンドラゴン少佐。……でも、貴方の前ではただのエムリスでいさせて」


エムリスがそっと手を伸ばす。

カヌートはその手を取り、引き寄せた。

炎の魔女の手は、驚くほど冷たく、そして華奢だった。


「……ふみに書いてあった通りだ。炎のような赤い髪……本当に美しい」

「カヌート……。やっと会えた……」


エムリスの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。それは頬の煤を洗い流し、白く輝く素肌を露わにした。


「その髪留め……。俺が送った翡翠のものだね。こんな場所でも、身につけてくれていたのか」

「もちろんよ。一日だって手放したことはないわ。貴方が『君の髪に似合うはずだ』って贈ってくれたものだもの。……似合っている?」


エムリスが少し恥ずかしそうに首を傾げる。その仕草に、カヌートの胸が締め付けられた。

敵国の将軍であることも、ここが死地であることも、全てが些細なことに思えた。


「ああ、想像以上だ。この大陸の誰よりも似合っている」

「ふふ、嬉しい……。ねえ、私のふみは届いた? 庭の薔薇、ついに咲いたのよ。貴方に見せたかった」

「届いていたよ。戦場ここに来る前に読んだ。灰色かび病かもしれないと心配していたね。君が諦めずに手入れをしたおかげだ」


カヌートは彼女の頬に触れる。指先の泥を気にする余裕すらない。

エムリスもまた手を伸ばし、壊れてしまいそうな雪細工に触れるように、カヌートの頬に触れる。

ただ、目の前の愛しい実在を、互いに、確かめたかった。


「……随分と痩せてしまっている。頬がこけているわ。元からじゃ無いわよね、きちんと食事はできているの?」

「ああ、少し立て込んでいてね。心配をかけてすまない。……でも、君の顔を見たら力が湧いてきたよ」

「嘘つき。目の下にクマができているじゃない」


エムリスがカヌートの手に自分の手を重ね、頬ずりをする。


「……心配していたのよ。貴方の最後のふみ、最近少し文字が乱れていたから。手が震えていたの?」

「君には敵わないな……。君こそ、お母様の具合はどうだい? 俺が送った薬草は、役に立っただろうか」

「ええ、とても。ずいぶん咳が減ったわ。貴方の国の高山でしか採れない薬草のおかげ。……ありがとう、カヌート。貴方は本当に、ふみのままの優しい人ね」


周囲では、遠くで砲撃音が響き、雨雲が空を覆っている。

だが、二人の周りだけは、暖炉の前のような温かな空気に満ちていた。


互いの体温を確かめ合うように、強く抱きしめ合う。

硬い軍用コートと、傷つき破れ一部か炭化した軍服の感触。その奥にある、温かな鼓動。


「不思議だな。こうして話していると、ここがどこだか忘れてしまいそうだ。……ずっと、君の声を聞きたいと思っていた」

「私もよ。文字だけじゃ足りなかった。貴方の声は、思っていたよりも低くて、落ち着く声なのね」


エムリスがカヌートの胸に顔を埋める。


「ねえ、覚えている? 去年の冬、貴方が送ってくれた詩」

「ああ。『雪の中で春を待つ種のように、僕の愛は君を待っている』……だったかな。顔から火が出るほど恥ずかしいな、今思い返すと」

「私、あの言葉を支えに生きてきたの。辛い訓練も、陛下の理不尽な命令も、貴方の言葉があったから耐えられた」


エムリスが顔を上げ、潤んだ瞳でカヌートを見つめる。


「……やっと春が来たのね。貴方という春が」

「俺にとっても、君が春だ。……そうだ、次のふみには、この近くで見つけた綺麗な湖の話を書こうと思っていたんだ。澄んだ青色で、見る角度によって色が変わる不思議な湖だ」

「連れて行って。……いいえ、離さないで。もう二度と、ふみだけの関係には戻りたくない」


エムリスの腕に力がこもる。

カヌートもまた、彼女を離したくないと強く願った。


このまま二人で、どこか遠くへ逃げてしまいたい。戦争も、国も、義務も捨てて。






« ─── ・ ❖ ・ ─── »






だが、カヌートの耳には届いてしまっていた。


背後で響く、地鳴り。

――本隊が峡谷を抜け、工兵隊が岩盤の発破を終えたようだ。


「ああ。離さない……、そう誓えたらどんなに良かったか」


カヌートの手が、ゆっくりと、しかし拒絶の意思を持って離れていく。

エムリスは反射的にその手を掴もうとしたが、指先は空を切り、冷たい雨だけを掴んだ。


カヌートの瞳から、先程までの少年のような熱が消え失せ、冷徹な指揮官の光が戻っていた。

背後で、地響きが轟く。峡谷の爆破シーケンスが最終段階に入ったのだ。


「……君は、この先に進むんだろう?」


カヌートの声は低く、重い。

エムリスは唇を噛み締め、涙を拭った。彼女もまた、帝国の軍人としての顔を被り直す。


「ええ。峡谷が封鎖された場合、私がすべて吹き飛ばして道を作る。そのために『火炎龍』は存在する」

「ああ、君にとっては造作も無いことだろう。俺の命がけの時間稼ぎは無駄だったようだ」

「どいて、くださる?」

「愛する君の願いだ、どんな願いも叶えてあげたい。そう心から思うよ。嘘じゃ無い」


カヌートは一度言葉を切り、ホルスターから魔導銃を抜き放った。銃口が、愛する女の心臓に向けられる。


「だが、殿しんがりを務めるものとして、最後の任務を全うする。代わりに、俺の命なら喜んで捧げよう」

「私に貴方を殺せというの?」

「ああ。それが君の任務だろう。互いに使命を全うするんだ」


言葉は、そこで途切れた。


次の瞬間、二人の間を引き裂くように、紅蓮の炎と黒い魔弾が交錯した。

傍から見れば、それは血で血を洗う死闘だった。しかし――。


(ああ、なんて心地がいいの)


エムリスは、涙が出そうなほどの歓喜と絶望の中で、魔力を解き放っていた。

放たれた紅蓮の炎は、正確無比にカヌートの命を刈り取りに行く。

だが、彼はそれを知っていたかのように、炎の隙間を縫って、エムリスの懐へと飛び込んでくる。


彼だけだ。この世界で唯一、エムリスを"怪物"としてではなく、"一人の女性"として見てくれたのは。


かつてエムリスが、制御できないこの強大な魔力を「すべてを壊してしまう呪い」だとふみで嘆いたとき、彼はこう返してくれた。


『自身を化物と嘆く君を、僕は愛そう。君にも壊せないものを見せてあげよう、この愛は壊せない。この身を焦がすほどに愛を求めよう』


その言葉が、どれほど嬉しかったか。

誰もが恐れるこの業火でも、彼の愛は"それでも壊せない"と言ってのけた。

全てを拒絶する熱を、彼は"この身を焦がすほどに求め合う愛だ"と肯定してくれた。


エムリスは初めて、"恋する乙女"になれた気がしたのだ。


いま、彼が放つ魔弾が、エムリスの防壁シールドを削り取る。

その一撃一撃に、彼の人格が宿っているようだ。

鋭く、容赦がなく、けれど悲しいほどに真っ直ぐな、愛しい彼の魂。


(貴方の言葉通り、これは愛ね。あなたから恐怖を感じない、畏怖を感じない。殺意も無い。これはまるでふみを投げ合っているかのような戦い)


これほどまでにエムリスの全力を受け止め、あまつさえその炎を掻い潜って届こうとするなんて。

皮肉にも、カヌートを殺すために全力を尽くしているこの瞬間が、生涯で一番、人して人と心が通じ合っている気がする。


(私が焼き尽くせないもの、たしかにあったわ!貴方の愛ね!約束通りに見せてくれている!世界で貴方だけよ、カヌート!)


エムリスの瞳から涙が蒸発し、代わりに狂おしいほどの愛が宿る。


中途半端な攻撃など、彼への冒涜だ。

彼が命を懸けて向かってくるなら、最強の『火炎龍』として、彼を抱きしめるように焼き尽くす。

それが、二人なりの愛の口づけなのだから。


(右腕を狙う気ね。関節の隙間、シールドの展開がコンマ一秒遅れる箇所)


エムリスはカヌートの視線の微細な動きだけで、弾道を予知し、優雅に身を翻す。


(君ならそこへ避ける。そのステップの着地地点、そこに炎の防壁を張るだろう?)


カヌートは回避行動を取りながら、エムリスが次に放つ迎撃魔法の死角へと滑り込む。


これまでの膨大な(ふみ)のやり取りが、互いの思考回路を透けるように共有させていた。


カヌートが次にどう動くか、エムリスが次に何を望むか。手に取るようにわかる。

それは、舞踏会で一度もステップを踏み外さない、熟練のペアによるワルツのようだった。

殺意という名の音楽に合わせ、死の淵で踊る、二人だけの舞踏。


しかし、長くは続かない。


「くっ……!」


カヌートの膝が折れる。


限界だった。

加速が鈍り、防御障壁に亀裂が走る。

エムリスもそれを悟った。彼女の瞳が揺れる。このままでは、本当に殺してしまう。


カヌートは再び、最後の切り札を取り出した。

不気味な輝きを放つ結晶体。"記述漏れオミッション"。

それを見た瞬間、エムリスの表情が強張る。


「"記述漏れオミッション"は、魔導法則を無視して、対象を消滅させる」


カヌートは荒い息を吐きながら、結晶をエムリスに見せつけるように構えた。


「これを、君の最大火力"火炎龍の息吹ファイヤーブレス"にぶつければどうなると思う?」

「……馬鹿なことを! 膨大な魔力の急激な消滅を引き金にして、局地的な魔力崩壊が起きるわ。峡谷どころか、この山脈の一角が吹き飛ぶ!」

「そうすれば、帝国軍はここを通れない。俺の任務は達成だ」

「私の部隊も、崩落に巻き込まれるのを避けるために撤退せざるを得ない。……『予期せぬ事故』として」


エムリスはハッとして、カヌートの目を見た。


彼は笑っていた。

死ぬための笑みではない。共犯関係を持ちかける、悪戯っ子のような瞳。


(そう……。そういうことなのね、カヌート)


大規模な魔力崩壊が起きれば、二人の死体など残らない。


――MIA(Missing in Action/戦闘中行方不明)。


それは、軍籍という鎖からの、唯一の解放。


「……いいわ」


エムリスは全身の魔力を練り上げる。

彼女の背後に、神話に語られる火炎龍の幻影が立ち昇る。

周囲の岩が溶け、大気が悲鳴を上げる。


「全力で来い、エムリス!」

「受け止めなさい、カヌート!」


二人は同時に動いた。


エムリスが放つ、全てを焼き尽くす極大の火炎流ブレス

それに向かって、カヌートは真正面から突っ込む。

障壁も加速も捨てた、渾身の一撃。


接触の瞬間。カヌートは"記述漏れオミッション"の切っ先を、炎の奔流の中心核へと突き刺した。魔導法則が崩壊し、世界に虚無が穿たれる。


「「愛している!」」


誰の声かもわからない、しかし確かな思念が響く。


カッ!!


その瞬間、二人の懐にある"青い琥珀"が、主人の死を拒絶するかのように烈光を放った。

全てを無に帰す"記述漏れオミッション"の漆黒。全てを焼き尽くす"火炎龍"の紅蓮。そこに、触媒である琥珀の蒼が介入する。


本来なら交わるはずのない赤と黒の破壊は、青い光の仲介によって強制的に融合させられた。

赤と青が混ざり合い、黒い虚無を鮮やかに塗りつぶしていく。生まれたのは、息を呑むほどに気高く、美しい、紫の閃光。


音は消失した。

紫の光が峡谷全体を包み込み、物質と魔力の境界を溶かしていく。

それは破壊の光でありながら、どこか夜明けの空を思わせる、静謐な輝きだった。

光が収束した後、天地を引っくり返すような衝撃が遅れて峡谷を襲った。


岩盤が砕け、山が崩れる。

レギウム王国の防衛線は消滅し、同時に、帝国軍の進軍ルートも閉ざされた。


後に残されたのは、抉り取られた巨大なクレーターと、どこまでも広がる紫色の空だけだった。




« ─── ・ ❖ ・ ─── »




ヴァルドリア帝国日報【号外】


【悲報】帝国の至宝、峡谷に消ゆ

対レギウム戦の要衝「嘆きの峡谷」にて未曾有の魔力崩壊現象を確認

第1近衛魔導師団長 エムリス・ペンドラゴン少佐、捜索続くも絶望的


【レギウム攻略派遣軍司令部 発表】

未明、我が軍の破竹の進撃が続くレギウム領内「嘆きの峡谷」エリアにおいて、極めて大規模な魔力崩落が発生した。本現象により峡谷一帯は崩落、地形が完全に変容するほどの甚大な被害が確認されている。


この戦闘において、先遣隊を指揮していた第1近衛魔導師団長、エムリス・ペンドラゴン少佐が行方不明となっている。


生還した先遣隊員の証言によれば、ペンドラゴン少佐は撤退する敵部隊の殿しんがりを務める、たった一名の敵兵と交戦状態に入ったとされる。

相手はレギウム王国の階級章も定かではない、名も無き下士官風の男であった。


一部の兵士の間では、この男が「五つの術式を同時展開する(伍式記述)」という、魔導理論上あり得ない挙動を見せたとの報告が上がっている。

しかし、帝国軍魔導技術研究所は「伍式記述ペンタ・キャストなど、人間の脳構造では物理的に不可能。高濃度の魔力場が生み出した集団幻覚か、あるいは敵の新型撹乱兵器による錯覚に過ぎない」と一蹴。


名も無き兵士は、死に際に暴走した魔導触媒と共に自爆しただけの、無謀な特攻兵であったと結論付けられた。


両名の激突の直後、戦場は「紫の閃光」に包まれた。


目撃者は「夜明けのような美しい紫光が、空間そのものを抉り取った」と語る。


現在、爆心地には底が見えないほどの巨大なクレーターが穿たれており、ペンドラゴン少佐の生存は絶望視されている。軍は名誉の戦死として、特進を含めた準備を進めている模様だ。


本崩落により、レギウム王都への主要侵攻ルートである峡谷は物理的に通行不可能となった。


これにより戦線は完全に膠着。帝国政府はこれ以上の軍事侵攻は困難と判断し、レギウム王国側からの停戦申し入れを受諾する方針を固めた。


皮肉にも、最強の魔女の散華さんげが、長きにわたる戦乱に終止符を打つ形となりそうだ。




« ─── ・ fin ・ ─── »


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