差し伸べられた救いの手2
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孤児院が所有する畑に差し掛かろうという時。
……なんだ? 薄く開けた窓越しに、切れ切れになにかが聞こえてくる。
「おいフリップ、なにか聞こえないか?」
「ああ、……馬車を停めてくれ!」
フリップが御者に向かって声を張り、すぐに馬車の速度が落ちる。
ジッと窓の外に耳を傾けると、風に乗って聞こえてくるのは――。
「なっ!? 女性の悲鳴か!?」
「畑の方からだな!」
停車と同時に、俺とフリップは馬車を降り、声の聞こえてくる方向に駆けだす。声の出所はすぐに知れた。
「あの小屋からだ!」
「急ぐぞ!」
この頃には、助けを求める女性の声だけでなく、男の激した声までもが明瞭に聞こえていた。ポンプ式の井戸の奥にひっとり建つ小屋に駆け込んだ。
「いやぁああああああ――っっ!」
「っ、うるさい! 黙れって言ってんだろうっ!!」
女性のひと際大きな悲鳴と、男の怒鳴り声を聞きながら、逸る思いのまま戸を破って踏み込んだ。
小屋の中の光景を目にした瞬間、目の前が怒りで赤く燃えた。フィーアに馬乗りになり、今まさに殴りかかろうとしている男を蹴り飛ばす。
「フィーア! 無事か!?」
吹き飛んでいった男には目もくれず、急いでフィーアを助け起こす。身下ろした彼女の惨状にハッとして、手早く外套を脱いで体を包む。
フィーアは俺の腕の中で、苦しそうに咳き込んだ。
手首にクッキリと刻まれた指の痕や頬に走る朱色の擦り傷も痛ましいが、なにより無残に衣服が破かれ露わになった肌に散る鬱血の痕が脳裏に焼き付いて離れない。理性もなにもかなぐり捨てて、後ろでフリップが拘束している男を殴り殺してやりたい衝動が湧く。
「もう大丈夫だ。さぁ、ゆっくり呼吸するんだ」
震える細い背中を宥めるようにさすりながら、俺は内心のどす黒い怒りの感情を抑え込むのに必死だった。
しばらくして咳が治まると、フィーアはぎこちない動きで俺を見上げた。しかし、彼女はどこかぼんやりとしており、その視線もゆらゆらと揺れて定まらない。
「……天使様」
「なんだって?」
フィーアが掠れがすれに漏らした言葉に首を傾げた。彼女はフッを口もとを綻ばせ、さらに続ける。
「天使様、最後にあなたに会えてよかった。もう思い残すことはないわ……」
「いったいなにを言っている?」
見る間に彼女の瞼が下がり、体からカクンと力が抜ける。
「お、おい! フィーア!?」
俺の腕の中で意識をなくしたフィーアの口もとに慌てて耳を寄せれば、規則的な呼吸の音が鼓膜を震わせる。耳にして、ホッと胸を撫で下ろした。
……眠ったのか。きっと張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろう。
「もう大丈夫だ。安心してお休み」
胸に抱くのと反対の手で、そっとこめかみのあたりを撫でて告げる。フィーアは答えなかったが、表情は穏やかだった。
深く抱き直しながら、胸にやるせない思いが募る。
彼女は日々、こんな悪辣な環境に身を置いているのか……。
こういった施設なら、年頃の男女は別の部屋に寝起きさせ、間違いが起こらぬよう目を配るのは常識だ。それがなぜ、こんな事態になっている!?
周囲を見れば、手入れの途中と思しき農具と磨き布、砥石が転がっている。おそらくフィーアたちがやっていたのだろう。しかし、職員の目が届かぬ小屋内で、よりにもよってなぜこんな夜の時間にそれを行わねばならなかったのか。今回は俺たちが踏み込んで卑劣な暴行を未遂で防げたが、まったく危機管理がなっていない。
「ローランド。フィーア嬢の様子はどうだ?」
ギリリと歯噛みする俺に、フリップが後ろ手に拘束した男を引っ立てながら問う。
「気を失った。ザッと見に大きな外傷はないから、心理的なショックからだろう」
「そうか。可哀想に」
フィーアを横抱きにして立ち上がる。
その体は折れそうな細さで、背中にあてた俺の手のひらにはクッキリと浮かぶ背骨の感触まで伝わってくる。
……年頃の娘がなんと憐れな。ここまでフィーアは、どれほど苦しい生活を送ってきたのだろう。
「フィーアを安心できる場所で休ませたい。このまま宿に、……そして王都に連れていく」
やはりフィーアは俺が連れていく。このまま彼女を置き去りにするなど、できるわけがない。
「そうか、分かった。ここは俺に任せろ」
みなまで言わずとも、フリップはすべて承知した様子で頷いた。
「あ、あんたたちフィーアをどこに連れてくんだよ!?」
ここでフリップに後ろ手に拘束されていた男が声をあげた。
「婦女暴行の犯人に、それを問う資格はない」
本音を言えば即刻警邏に突き出してやりたいが、今回は未遂で、加えてこいつは未成年だ。しかも、施設側の管理が行き届かぬ中で起きたこと。今後の処遇については、いったん施設側と協議して決めることになるだろう。
「待てよ、俺は暴行なんて……。俺はただ、こいつがここで大変なのを知ってたから。だから、ここから連れ出してやろうとしただけだ!」
「ふざけるな! 三歩譲って、フィーアをこの状況から救ってやりたかったという思いが真実だったとしても、彼女に無体を働こうとした時点でそれを主張する権利はない。女性を襲って、挙句に殴って傷を負わせるなど、男の風上にも置けん鬼畜の所業だ!」
主張を一喝した俺に、男は息をのみグッと唇を噛みしめた。口の中が切れているのか、口の端には僅かに血が滲んでいた。
これ以上議論の余地もない。俺はフィーアを腕に抱いたまま、目配せでフリップに後のことを託し、男に背中を向けて小屋の外へと歩き出す。
「……あんた、お貴族様だろう?」
背中越しに、男の低いつぶやきを聞く。答えぬ俺に、さらに男は続ける。
「あんただって親切ごかしなふりして、どうせフィーアを妾にでもする気だろ? なら、ちゃんと嫁さんにしてやれる分、俺の方がマシだ! フィーアが抵抗するからついカッとなっちまったけど、俺はここを出てちゃんとこいつと一緒になりたいって思ってたんだ……っ」
「俺は彼女を妾にするつもりはない。それから、お前は人のことをどうこう言う前に、己の犯した所業について反省すべきだ。どんなに正当化したところで、お前が彼女の意思を無視して及ぼうとした行為は、犯罪以外のなにものでもない!」
俺が振り返ってピシャリと言うと、今度こそ男は口を閉ざし、気まずそうに俯いた。
そのままフリップに事後処理を任せ、俺はフィーアを腕に抱いてひと足先に馬車で宿へと戻った。
宿前で馬車を降りると、訓練された宿のスタッフが即座に異変に気づき、フィーアの介抱を申し出た。
しかし他の者の手に彼女を委ねることが憚られ、申し出を断って自らの手で部屋まで運ぶ。
俺が使っているメインルームの広いベッドに横たえ、掛布を引き上げる。
見下ろした彼女の左頬は、少し赤みを帯びており、擦り傷も認められる。
あの男がやったのだろうか? だが、それにしては血の痕がない。おそらく、既に水で流して清めてあるのだろう。
そうなると、この傷はあの男の強姦未遂よりも前に、孤児院の誰かしらに負わされたということか。
「君は本当にひどい環境に身を置いていたな」
幸いにも傷は深くはなさそうで、追加の処置の必要はないだろうと判断する。おもむろに腕を伸ばし、打たれて赤い頬と反対の右頬をそっと撫でた。
フィーアは安心しきったように眠っていた。金色の長い睫毛が瞼に影を落とし、形のいい唇からは小さく寝息がこぼれる。
彼女の髪は、今は汗と埃で少し汚れているが、洗って櫛を通せば見事な艶を放つだろう。こけて青白いこの頬も、健康的な食事をとりながら養生すれば、すぐにふっくらとした張りを取り戻し、やわらかな薄桃に色づくに違いない。
危ないところだったが、助けられてよかった。あの男に圧し掛かられた姿を見て、生きた心地がしなかった。
「あの孤児院に戻ってはだめだ。もう、二度と君をあんな目には合わせない」
額に張り付いた髪のひと房を耳にかけてやりながら独り言ちる。
これからは、心穏やかに笑顔で日々を過ごしてほしい。そしてその環境を与えるのは、他でない俺でありたい。
出会ったばかりの少女に抱くには、少々行き過ぎた感情であることは自覚していた。おそらく、男に襲われるというショッキングな現場を救ったことで生じた同情心や庇護欲なのだろうが……。いずれにせよ、放っておけないのだから仕方ない。
俺は飽きずに、そのまましばらくフィーアの寝顔を眺めていた。




