天使様との邂逅2
間近にぶつかったグリーンの瞳の鮮やかさに息が詰まる。まるで時間が止まったかのような錯覚を覚えた。
「痛むところはないか?」
「だ、大丈夫です。驚いて腰を抜かしてしまっただけで……。あの、急に飛び出してしまって、すみませんでした!」
呆けたように見入っていたけれど、ハッとしてすぐに首を縦に振る。そうして御者に向き直ると、絞り出すように謝罪を告げた。
カラカラの喉から発した声は掠れていたけれど、しっかり聞き取れたようで御者はバツが悪そうに頭を掻いた。
「いや。……そっちの兄さんたちの言うように、たしかに俺も少し飛ばしすぎてた。あんたも怪我がなかったし、こっちも特に損害はない。不幸中の幸いだったよ」
御者は当初の態度が嘘のように、すまなそうに告げた。
「では、双方とも今後は気をつけるってことでいいかな?」
男性の取りなしに、私と御者は揃って頷いた。
「本当にすみませんでした」
「俺も、悪かったな。それじゃ、俺は行くよ」
互いに頭を下げ合い、御者はゆっくりと馬車を走りださせた。
馬車を見送ったところで、駆け寄ってきたシスが声を荒らげる。
「おい、フィーア! 怪我はないんだろう!? いつまでローランドに抱かれてるんだよ!」
「っ! 私ったらすみません、重かったですよね!? もう自分で歩けますから下ろしてください……っ!」
シスの指摘で、ずっと抱き上げられたままの異常な状況にはたと気づいて青くなった。
「重いだなんてとんでもない。むしろ君は軽すぎる」
天使様は慌てふためく私に目を細くして微笑み、そっと下ろしてくれた。
いつの間にか体の震えは治まっていて、自分の両足でしっかりと地面を踏む。並んで立つと、天使様の身長が私より頭ふたつ分近くも高いことに気づく。きっと百九十センチを超えている。
均整の取れたスラリとした長身で、文句の付け所なく整った美貌。洗練された所作に、簡素だが仕立てのいい装い。溢れるほどの気品をたたえたこの人は、いったい何者なのか。
心臓が普段よりも速い鼓動を刻むのを感じながら、直角に腰を折る。
「ありがとうございました。御者の方はああ言って納得してくださったけれど、今回は明らかに私の不注意です。おふたりが間に入ってくださらなかったら、こんなふうに穏便には済みませんでした」
「なに、礼には及ばない。レディが困っていたら助けるのが男の流儀だ。頭を上げてくれ」
促されておずおずと頭を上げると、天使様が柔和な笑みを浮かべて私を見下ろしていた。半歩後ろに立つ灰色の髪の男性も、彼に賛同するように頷いている。
「それに君はリーリエの友人なのだろう? なおさら放ってはおけないな」
「……リーリエ?」
天使様が付け加えた聞き慣れない名前にパチクリと目を瞬かせていたら、横からグイッと腕を引かれた。
「ちょっと来てっ!!」
「えっ?」
シスは戸惑う私の腕を強引に掴み、天使様たちから距離を取ろうとする。
「ローランド、悪いんだけどここで少しだけ待っててよ! この子と大事な話があるんだ!」
シスは数歩進んだところで天使様を振り返って猫なで声で告げた。天使様──いや、シスはローランド様と呼んでいたか。ローランド様は訝しげに私たちを見ていたけれど、シスは構わずに私を商店と商店の間の奥まった場所に引き込んだ。
痛いくらいの力で握り込まれていた腕が、乱暴に放される。
「きゃっ! あの、シス──」
「少しは考えてくれよ!」
悪鬼のように顔を歪ませたシスが私の言葉に被せた。声こそひそめているが、その語気は鋭い。
「え?」
「あたしはもう孤児だったことなんて忘れたいんだよ! 孤児院にいた時の知り合いに声を掛けられて、喜ぶやつなんかいるわけないだろう!?」
っ! 雷に打たれたみたいな衝撃が全身に走り抜けた。
「ご、ごめんなさい。シス」
震える唇で謝罪の言葉を絞り出す。
……あぁ、どうして私はこんなに気が回らないんだろう。
シスの言う通りだ。孤児だった過去を喜んで明かしたい人なんていない。
誰よりもシスの幸せを願っていたのに、つい懐かしさに衝き動かされ随分と安易な行動を取ってしまった。挙句、シスを不快にさせたばかりか、多くの人に迷惑までかけて……。
「それから、あたしはシスじゃない! 本当の名前はリーリエ。あたしは幼い頃に親元から攫われてしまった貴族のご令嬢だったのさ」
「まぁ、貴族の!? けれどシスは……いえ、リーリエはお母様に引き取られて暮らしているのではなかったの?」
「あぁっと、いったんはそうなったんだけど色々あって。とにかく、あたしの本当の両親は王都にいることが分かったんだ。ローランドが……あの金髪の青年はあたしの両親と懇意で、幼い頃に攫われてしまったあたしのことをずっと捜してくれていたんだよ」
「そうだったのね。リーリエが貴族のご令嬢だったなんて……」
眩しい思いでかつての親友を見上げた。
私の視線を受けてリーリエは居心地悪そうに眉間に皺を寄せ、逃げるようにフイッと目を逸らした。そうして一拍の間をおいて、真剣な面持ちで切り出した。
「なぁフィーア、詳しくは言えないけど揺るがない証拠によって、あたしがリーリエだってことはもう証明されてる。でもローランドたちはあたしが孤児院に収容された時の様子や生い立ちなんかを知るために、きっと孤児院に改めて人をやる。あたしのためを思うなら、使者がきた時は居留守を使ってくれないか」
「わざと席を外すの?」
「ローランドは今回の一件でフィーアがあたしと親しいことを知っちまった。きっとフィーアからは特に色々聞こうとする。でもさ、あたしはお世辞にもお上品に暮らしちゃいなかったし、あんまり事細かなところまで知られたくないんだよ!」
リーリエは語気を強めるが、おかしなことだ。
孤児院にはプライバシーなんてない。日頃の暮らしぶりなどは、私が語らずとも他の子供たちや職員から筒抜けだろう。
それにローランド様やご両親にしてもリーリエが生きてきた足跡が知りたいだけで、孤児院での品行方正な暮らしぶりを期待しているわけではないはずだ。
「ふふっ。やぁね、リーリエ。心配しなくとも、私はあなたのマイナスになるような話題を持ち出したりしないわよ」
「とにかく、あたしのことを思うなら使者とは会わないでくれ! その方があることないこと言われてないか心配しないで済む。あたしが安心なんだ! いいだろう!?」
私がかつての気安さで小首を傾げながら軽い調子で答えたら、リーリエは気分を害したようで高圧的に迫った。
それは、私が使者にあることないこと言いふらすと、そう思われているということなのか。
「ええ、分かったわ。使者の方には会わないようにするわ」
相当リーリエに信用されていないらしい。突きつけられた現実に胸が痛んだ。
「よかった、助かるよ!」
ここで初めて、リーリエが険の取れた表情を見せた。
「リーリエ、よかったわね。……どうか幸せにね」
「ああ! やっとツキが回ってきたんだ。これからあたしはうんと幸せになってみせるさ! ……あ、そうだ! フィーアにはこれをやるよ」
リーリエがポケットから引っ張り出したのは、見るからに品質のよさそうなハンカチだった。どうやら紳士物のようだけど……?
「これは?」
「この間のスカーフの代わりに取っといてくれよ! その代わりあのスカーフは、もうあたしのだから。今さら本当は自分の物だったとか返せとか、そんな野暮なことは言ってくれるなよな」
「え?」
戸惑う私の手に、リーリエは強引にハンカチを握らせた。
「これも間違いなくいい品だし、これで等価交換ってやつになるだろ? それじゃあな、フィーア。もう会うこともないだろうけど、元気でな」
……等価交換。聞かされた単語に心臓が凍り付いたような心地がした。
せめてもの餞にとリーリエに持たせたスカーフだ。心配しなくとも、今さら返せだなんて言うわけがないのに……。
リーリエは話は済んだとばかりにくるりと背中を向けて、ローランド様たちの方へ駆けだす。私はハンカチを手に、ひとりその場に立ち尽くした。
「……さようなら、リーリエ」
リーリエと私の進む道は分かたれた。だけど、実際の距離以上にリーリエとの心の距離がより遠く、親友だった彼女はもう私の手の届かないところに行ってしまったのだと辛くも理解した。
油断すると涙が込み上げてきそうになる。私は嗚咽を堪え、ズルズルとその場にしゃがみ込んだ。
「話は済んだのか?」
「ああ、お待たせ!」
喧騒に紛れ、ローランド様とリーリエの声が聞こえてきた。
「ところで、さっきの彼女はどうしたんだ?」
「あの子ならもう帰ったよ」
しゃがみ込んでいるために彼の位置からは私の姿が見えないようだ。怪訝そうに問うローランド様に、リーリエが素っ気なく告げる。
「……帰った? いや、あんなことがあったばかりで彼女も動揺しているだろう。今からでも呼び戻し、俺たちで送って──」
「いらないよ! あの子はもうひとりで帰ったから! それより、早くブティックに連れて行ってよ!」
リーリエはローランド様の申し出をピシャリと遮り、急かすように彼の腕を引く。
冷たい態度を取るかつての親友とは対照的に、今日出会ったばかりの彼が私の心配をしてくれる。皮肉ではある。けれど、彼の優しさに沈んだ心がほんの少し慰められるような心地がした。
リーリエたちの姿が雑踏に消えてから、よろよろと立ち上がる。行きよりもなお重い足を引きずるように孤児院へ歩きだす。
晴れていたはずの空に雲が出始めていた。
涙で濡れた頬に吹き付ける秋風の冷たさが、思いの外染みる。そうして這う這うの体で二時間以上歩き、私は孤児院に帰り着いた。




