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友との別れ1



 厨房で慌ただしく朝食の準備をしていると、背中から声をかけられた。


「フィーア、シスはどこです?」


 声の主は、この孤児院の院長だった。彼女が厨房にやって来るのは、とても珍しいことだった。

 彼女は、先代の院長が亡くなって代わりに院長に就任した。しかし、それは慈善の心によるものではない。私に言わせれば、彼女は福祉従事者ではなく経営者だ。


 ちなみに、ここは街の福祉所に申請して孤児院としての機能を担っているが、国家への正式な登録は先代の院長の時代のまま養老院のままらしい。年々介護を要する高齢者の入所が減ってきたのを憂慮した今の院長が、空いた設備を利用して孤児の引き取りを始めたそうだ。現在、施設に高齢者はおらず、孤児の養育だけを行ってる。


 子供たちはともかく、院長や職員らが生活に苦慮している様子はない。孤児院の運営というのは、存外に実入りがいいのかもしれない。


「おはようございます。シスは畑に菜っ葉を取りに行っていて、もうじき帰ってくると思います」


 白髪交じりの髪をピシッと結い上げ、隙のない眼差しでこちらを見つめる院長の経営スタンスはとても厳しい。街から支給される補助金や、寄付金といった収入を、院長が子供らの生活費や職員の給金に分配しているのだが、彼女が子供達の生活費として計上する金額はシビアで、子供達は生きるに足るギリギリの生活を強いられている。


「そうですか。……ところでフィーア、そのミルクをどうするつもり?」


 院長の追及に、ギクリと肩が跳ねた。彼女が「ミルク」と言った物は、湯で溶いた脱脂粉乳のことだった。

 この脱脂粉乳は本来、乳幼児の代用乳として与えられていた。厳しく配分が節制される中にあって、脱脂粉乳は比較的潤沢に与えられており、私はそれを空腹に泣く年少の子供達にこっそり分け与えていたのだ。


「年少の子供達の朝食に、出すつもりです」


 カップに注ぎ入れていたそれを乳幼児用と誤魔化すことは出来ず、正直に答える。

 告げた瞬間に、院長の顔色が変わる。周囲の空気が凍り付くような冷たさになったのを肌で感じた。


「来月から、脱脂粉乳の購入量を二割減らします。配分を考えて、使うようになさい。それから今日は、お前の分の食事はありませんから、そのつもりで」

「……はい」


 力なく頭を下げる。昨日の朝に食べたきり、厳しい重労働に従事した体はふらふらで、限界に近かった。

 やっと、薄いスープが口に出来ると思った矢先に告げられた「食事抜き」の衝撃は大きかった。だけどそれ以上に、私がひそかに配る脱脂粉乳の登場を楽しみにしている子供達に申し訳なくて、胸が苦しかった。


「取ってきたぞ、フィーア!」


 俯いたまま目尻に滲んだ涙を拭っていると、入口にシスの声が響く。

 ハッとして目線を向けると、菜っ葉の入った盥を抱えたシスが、こちらに駆けてくる。


「ひとまず、このくらいで……って、院長!? おはようございます!」


 私の隣に立つ院長の存在に気づくと、シスは裏返った声をあげた。


「シス、お前に話があります。一緒に院長室までいらっしゃい」

「え?」

「なにをグズグズしているの。早くなさい」

「は、はい!」


 シスは戸惑っていたけれど、院長に急かされて、慌ててその背中を追った。厨房を出ていく時、シスはチラリと私を振り返り、心配そうに見つめた。


 今日の朝食の準備にあてられているのは、私とシスのふたりだけだ。そのシスがいなくなってしまえば、残りの準備が大変になるのは分かりきっていた。

 そうかと言って、他の子らとてこの時間も家畜の世話や掃除洗濯にと、各々割り当てられた仕事で忙しいのだ。


 私は憂慮を滲ませるシスを安心させるように、笑顔で頷いてみせた。




 なんとか時間ギリギリに人数分の朝食を作り上げ、配膳まで済ませたところでシスが院長室から戻ってきた。


「……フィーア」


 何故か、院長室から戻ってきたシスは、孤児院ではとんと見ない新品のドレスを着ていた。ドレスは豪奢な品ではなかったけれど、パリッとした真新しい木綿の生地は、それだけで私の目に眩しかった。


「シス、どうしたの!? ずいぶんと綺麗になっちゃって、見違えたわ!」


 いや、とんと見ないというのは正しくない。孤児院でも、子供らが稀に新品の衣服を身に着けることがある。

 それは、引き取り手の決まった子供が、ここを出ていく時だ。


「あたしの母親が、名乗り出たそうなんだ。それで、あたしを引き取りたいって言ってるらしい」


 耳にした瞬間、私は気まずそうに言い淀むシスに駆け寄って、その手をギュッと握り込んだ。本当はその背に腕を回して喜び合いたかったけれど、万が一にもドレスを汚してしまっては大事と思い、グッと堪えた。


「なんてこと! シス、よかったわね! こんなに嬉しいことはないわ!」

「……だけど、あたしだけ親元に行くなんて。成人したらここを一緒に出て暮らすって約束が守れなくなる」

「なにを言っているの! お母様が名乗り出て、引き取ると言ってくれている。子供が親とともに暮らす、叶うならば、それがもっとも自然な形よ。前提が覆ったのだから、私との約束を心配すること自体、おかしな話だわ」


 シスは信じられないというように、私を見つめた。


「フィーアは、喜んでくれるのか?」

「あたりまえじゃないの! 親友の門出を、一緒になって喜ばないわけがないじゃない!」


 目に涙を滲ませたシスは、新品のドレスのまま私の胸にギュッと抱きついた。


「っ、ありがとう! ありがとうフィーア!」


 遠慮がちに彼女の背中を抱き締めながら、私はふと、思い出していた。


 かつてシスは、親族に引き取られていく子を見つめ、『なんで、あいつだけ……。あいつばっかり、不公平だ』と、こう漏らしていた。横で聞きながら、私は『不公平』という言葉に首を傾げた。引き取られて行く子を羨ましいとは感じたけれど、不公平とはまるで思わなかったからだ。


 ……ともあれ、これでシスは厳しいここでの暮らしを終えて、母とともに幸せの道を歩いてゆけるだろう。


「迎えの馬車が、あたしを待ってくれてるんだ。あたし、もう行くよ」


 シスは抱擁を解くと、手の甲でグッと目尻を拭いながら言った。


「ええ。……そうだわシス! これを、持って行ってちょうだい」


 私はポケットから、いつも肌身離さず持っている宝物のスカーフを引っ張り出すと、シスに差し出した。このスカーフは、私がこの孤児院にやって来た時に首に巻いていたもので、真っ白い絹地に銀糸で百合の花が刺繍されている。


 幼い私を手放すに至った理由を知る由はないが、上質な絹地に施された丁寧な刺繍を見るに、私はいつだって両親の愛を感じられたのだ。


 ……唯一、出自に繋がる大切な宝物だった。けれど、旅立つ親友への餞として贈ることに、迷いはなかった。


「新品じゃなくてごめんなさい。でも、私があげられる物はこれしかなくて」

「なに言ってるんだ、それはフィーアの宝物じゃないか! そんな大事な物、もらえないよ!」

「いいえ。大切な物だから、あなたに貰って欲しいの。親友の門出を祝して、贈らせてちょうだい」


 私は、受け取るのを迷うシスの手に、キュッとスカーフを握らせた。


「ありがとう、ずっと大事にするよ」


 シスは逡巡の後、手の中のスカーフをそっとポケットにしまった。


「ええ。シス、どうかお母様とお幸せにね」

「うん! あたし、幸せになるよ!」


 シスの弾んだ声に、私まで幸せな気持ちになれた。私は満たされた思いで、巣立っていく親友を見送った。




 シスが孤児院から引き取られていって五日目。

 私は天使様の夢を見て、目覚めを迎えた。


「初めてだわ……。天使様が私に、あんなふうに熱い瞳を向けるなんて」


 夢の中で天使様は、いつもより熱の篭った目で私を見つめ、そして初めての台詞を告げた。


 ……天使様が口にした「やっと君を見つけた」というのは、なにか意味があるのかしら?


「ふふっ。そんなはずないわね。シスが言っていたように、きっとこれは現実逃避ね」


 私はスックとベッドから立ち上がると、朝食の準備に取り掛かるべく、厨房に向かう。

 廊下の窓からふいに見上げた東の空は、まだ、白み始めてはいない。


 シスがいなくなっても、朝食の準備に代わりの人員が割り当てられることはなかった。これにより、私は以前よりも一時間早く起き、支度に取り掛からねばならなくなっていた。


 そして脱脂粉乳の一件が院長の機嫌を相当に損ねてしまったようで、それ以降、私に対する風当たりは目に見えて厳しい物になっていた。


「おっと。フィーアじゃないか」

「……サンク」


 廊下で同い年のサンクと行き合った。


「なぁフィーア。お前最近、ずいぶんと院長に目を付けられてるよな。飯、抜かれてばっかだろう?」

「そうね」


 私は彼が苦手だった。

 いつからだろう。彼が私に舐め回すような視線を向けるようになったのは……。


「俺さ、今は押し麦作りの仕事に割り当てられてるんだ」

「そう、力仕事だから大変ね」


 押し麦は大麦を脱穀し、蒸して、平らにつぶして作られる。大量の麦を扱う重労働で、サンクたち年長の男の子が担っているのは私も知っているが、それがどうしたというのか。


「分かんないか? 先生たちの目がない時はさ、蒸した麦が食える」


 なるほど、そんなことをしていたのか。サンクも含め、みんな食事が足りていないのは分かってるから、やめろとは言わないけれど……。


 私は小さくため息をこぼした。


「バレたら大目玉よ。くれぐれも気をつけて」

「お前にも分けてやるよ。だからさ、その代わりに少しだけ付き合ってくれよ」


 覆い被さるようにズイッと身を乗り出され、ギラつく目で見下ろされて、肌がぞわりと粟立つ。


「いいえ、私はいらないわ。悪いけどサンク、私、朝食の支度をしなくちゃいけないから。ごめんなさい」


 早口に告げると、サンクの横をすり抜けて、逃げるように走りだす。


「んだよっ、お高くとまりやがって! 人がせっかく親切で言ってやってんのに……っ」


 憎々しげなサンクの呟きを背中に聞きながら、厨房に飛び込んだ。

 奥の調理台に辿り着いたところで目眩を覚えた。


「っ!」


 シンクに寄り掛かり、なんとか転倒を免れた。


 眠りの中で、天使様は私に一時の優しい夢を与えてくれる。だけど、天使様は実体のない虚像だ……。

 辛い現実が、否応なしに私の心と体を蝕んでゆくのを感じた。


「……後半年、私はこのままやって行けるかしら」


 眦からこぼれた涙が頬を伝い、パタンとシンクに弾けた。





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