攫われた侯爵令嬢と王太子殿下の幸福な未来
汽笛の音が河港に響き渡り、川鳥が出港を祝うかのように一斉に舞う。
俺は船の専用デッキでリーリエの肩を抱き、全身に清々しい朝日と爽やかな川風を受けながら出港の瞬間を見つめる。
ついに船がエーンデル大河へと漕ぎだし、段々と港から遠ざかる。
河から眺める王都の街並みは絶景だが、俺の視線はどうしたって腕の中の愛しい妻に向いてしまう。彼女以上に目を引きつけるものなど、ありはしないのだ。
二年前、父が生前退位した。王位継承からしばらくは俺もリーリエも多忙を極めた。そして今回、実に二年ぶりに勝ち取った休暇である。俺としては存分に彼女を堪能したい。
「リーリエ。寒くないかい?」
「ええ、平気よ」
彼女が俺を見上げ、ふわりと微笑む。結婚して二十年以上の月日が流れたが、彼女の美しさは衰えるどころかますます冴え冴えと輝くばかり。
俺が王位を継承し、彼女も王太子妃から王妃となった。重圧もあっただろうに、彼女はけっして弱音を吐かず、実直に務めを果たし続けた。今では王国中のみならず、諸外国からも憧憬と尊敬を一身に集める王家の顔といって過言でない。
ふたりの子宝にも恵まれた。
今回の休暇には十四歳の末の王女、フェリシアだけを伴っている。十九歳の長男、王太子セブランは王都に残り、俺たちが不在中の政務を担ってくれていた。
「本当に君は、俺には過ぎるほどの妻だな」
細い肩を抱き寄せ、淡い金髪の頭頂に鼻先を埋める。俺の胸にすっぽりと収まる華奢な体をギュッと抱きしめて、彼女の温もりと香りを心ゆくまで味わう。
「どうしたのですか? 急に?」
リーリエが俺の背中に手を回し、小さく首を傾げる。
「急にではないさ。俺の本音はいつだって愛しい君を抱きしめていたいと思っている。君を妻にできた俺はつくづく果報者だ」
「まぁ。それでしたら、ローランド様の妻にしていただけた私こそが果報者ですわ」
「……リーリエが可愛すぎて苦しい」
「ふふっ。だったら、同じですね。私もローランド様が素敵すぎて、胸が苦しいんですもの」
ガタンッ!
後ろからあがった物音を怪訝に思って振り返ると、デッキ中央の円形テーブルに本を持ち込んで読書に勤しんでいたはずのフェリシアが、キッとこちらを睨みつけていた。
ん? 我が娘はなぜ、ああも不機嫌そうなのか。
「どうしたフェリシア? 急に大きな音を立てて」
「どうしたもこうしたも、見ているこちらが恥ずかしいですわ。お兄様が冗談交じりに『今回の休暇で二十も年の離れたきょうだいが出来るかもしれないぞ』とおっしゃっておりましたけれど、これはまんざら冗談でもないかもしれませんわね」
「っ! こら、フェリシア。嫁入り前の娘が明け透けなことを──」
「あら、事実でございましょう? それに男女平等が世の主流になりつつある昨今、王ともあろう方が『嫁入り前の娘』などとそれこそ時代錯誤も甚だしい発言ですわ」
フェリシアの見た目は、まさにリーリエに瓜ふたつ。妖精と見紛う容姿だが、その性格はリーリエとは似ても似つかない。口も達者なら、気も強い。
この娘の気の強さはどこからきたのかと、俺はたまに頭を抱えたくなる。もっとも王女としての立ち振る舞いは完璧で、文句のつけようもないのだが。
「すまんすまん」
王として日頃海千山千の諸侯らとやり合う俺でも、この娘にだけは勝てる気がしない。しかし、不戦の敗北すら楽しくて仕方ないのは、相手が目に入れても痛くない愛おしい我が子だからか。
「ねぇお母様、こちらに座りませんこと? さっき、伝声管でお茶を頼んでおきましたから、そろそろ運ばれてくる頃ですわ。お茶にいたしましょう」
「あら、いいわね」
フェリシアに誘われたリーリエが、俺の腕の中からスルリと抜け出していってしまう。
……なんと。娘に妻を奪われてしまった。
しかも偶然か意図があってのことか、フェリシアは俺をお茶に誘わなかった。勝ち誇ったようなフェリシアの笑みに嘆息した。
とはいえ、この生意気な娘も十四歳。子供の成長とは早いもので、親子として過ごせる時間はあとわずかだ。もう二、三年も経てば、嫁に行ってしまうと考えると、なんとももの寂しい思いが込み上がる。
「ふむ。当時のブライアンの苦悩が分かった気がするな」
「ローランド様、なにかおっしゃいました?」
「いや、なんでもない。少し出てくる。すぐに戻るから、君はフェリシアとお茶を楽しむといい」
ほんの少し感傷的になった気分を変えようと、ひらひらと手を振って言い残し、ひとりデッキを後にする。
専用デッキから階下に降り、気の向くまま普段は行かない下層へと足を進めた。付かず離れずの距離に護衛の気配を感じるが、空気と思い気にせず歩く。
今回は非公式な旅行ゆえ、ラフな装いを選んでいたのが幸いし、特に注目を集めることもなくうまく他の乗客に紛れることができた。そうして大部屋の乗客と従業者が入り乱れる三階の廊下を歩いている時、ふと前方を行く人物に目が留まる。
下働きのお仕着せに身を包んだ金髪碧眼の女。目にした瞬間、緊張が全身に走り抜けた。
視線に気づいたのか、女がこちらに目を向ける。俺を見て、女が息をのんだのが分かった。
俺は咄嗟に女を促し、収納庫と思しき空き部屋に入った。女は部屋の扉が閉まるのと同時に、床に膝を突いて頭を下げた。
「……シス、だな」
シスの刑期は二十年。シスがその刑期を終え、慈善に篤い教会の神父を後見人に得て、市井で暮らし始めたことは報告されていた。
とはいえ、まさかこの船で会うことになろうとは。
「はい。今は、エヴァと名乗らせていただいています」
……エヴァ。新たな生命を意味する名だ。
後見人が、出所後のシスの新たな人生を願って名付けたのだろう。
「ここで働いているのか?」
「いえ、普段は港に併設の工場で船に積む食材の下ごしらえをしています。今回はたまたま、厨房の下働きに欠員が出て乗船することになりました」
「そうか」
シスの後見となった神父は人格者で、出所後の支援の他、教誨師として頻繁に服役中の囚人のもとに通っているという。金銭の報酬も、その他の見返りもなく、ただ地道に囚人に過ちを悔い改め徳性を養うための道を説く。
その者の影響なのだろうか。以前とは別人のように穏やかな姿に、驚きが禁じ得ない。
「……リーリエに会えるように取り計らうか?」
今のシス……いや、エヴァならばリーリエに会わせてもいいと、そう思い口にした。
「えっ?」
実は以前、出所したらリーリエに謝罪がしたいと記された手紙を受け取ったことがあった。
だが、俺は模範囚として過ごしているというシスのことが信じられず、なにか裏があるのではないかと疑っていた。加えてその時は、王妃就任でリーリエの負担が大きい時期でもあった。
万が一にもリーリエの心身を脅かす事態を避けたかった俺は、この手紙を処分した。
「今のお前になら会わせてもいい。ちなみに、お前がリーリエに謝罪したいと認めたあの手紙は彼女の手に渡っていない。彼女の安全を確保するために、俺が処分した」
悪いとは思っていない。俺にとってリーリエの安寧より優先すべきものはなく、あれがあの時の最善だった。かつての行動に今も後悔はなかった。
「そうでしたか。あの時は気持ちを抑えきれずに手紙を出してしまいましたが……処分してもらってよかった」
「なんだと?」
事情が事情ゆえ責められるいわれはないと思っていたが、『よかった』などと言われるのは予想外だ。
「たしかに以前、謝りたいと思ったこともありましたが、少し冷静になって考えれば私にリーリエ様にお会いする資格なんてありません。謝罪をしても私の罪がなくなるわけではありませんし、私が殺めたふたりの命も戻らない。私が謝罪を望むこと自体、自己満足以外のなにものでもありません」
黙したままの俺に、エヴァはますます頭を低くして絞り出すように続ける。
「私は残りの人生を贖罪に生きることに決めました。ただ、陰ながらリーリエ様とお子様方の幸せを祈ることだけ、どうかお許しください」
……なるほど。俺はかつて『更生を期待するし、信じたい』と言うリーリエに、賛同できなかった。
だが、彼女の言うように、人とは変われば変われるものなのかもしれない。
「俺が許すもなにもない。どのように生きようと、お前の人生はお前の自由だ。……エヴァとは、いい名をもらったな。その名に恥じぬようにな。達者であれよ」
エヴァは俺が完全に部屋を出ていくまで頭を低くしたままだったから、その表情を窺い知ることはできなかった。けれど、小刻みに震えるその肩を見れば、先の言葉は嘘偽りのない彼女の本心なのだろうと、そう思えた。
専用デッキに戻ると、リーリエがすぐに席を立って俺のもとに歩み寄る。
「ローランド様、どこにいってらしたのですか? なかなかお戻りにならないから、心配しました」
あそこでエヴァと会ったことをリーリエに告げるつもりはなかった。ただ、なにが起こるか予想がつかないのもまた人生。どんな運命の悪戯か、リーリエとエヴァの人生が交わることがあるのなら、その時は邪魔立てせずに静観しよう。
「心配させてすまなかったな。少し下の階を歩いてきた」
「なにかいいことでもあったのですか?」
「ん? なぜそう思う?」
「だって、にこやかなお顔をされていますもの」
……あぁ。いつだって君には敵わない。
「どうだろう。ただ、未来への可能性というのは無限なのだと感じたよ」
俺の言葉に、リーリエが小首を傾げる。
「よく分かりませんが、ローランド様が王になり、この国は可能性を広げました。きっと、これからますます成長し、国民の選択肢はもっともっと広がっていくでしょう。ローランド様のお力です」
「君にそう評してもらえるのは光栄だ。ただし、俺がよき王として立ち続けるためには、君の協力が必要不可欠だからね。今後もよろしく頼むよ、俺の奥さん」
「喜んで。私の旦那様」
どちらからともなく手と手を絡め、微笑み合った。
その時、後ろから不満げな声があがる。
「もうっ。お父様もお母様もふたりの世界に浸っていないで、早くこちらにお座りになって。お茶が冷めてしまいますわ」
振り返ったら、愛娘が頬を膨らませていた。
俺とリーリエが慌ててテーブルに着くと、フェリシアが手ずからお茶を注いで渡してくれる。
「はぁ~、せっかく女同士で内緒話をしようにも、お母様ったらお父様がいないとそわそわし通しでまるで落ち着かないんですもの。嫌になっちゃうわ」
「ちょっ!? そんなことないわよ、フェリシアったらオーバーよ」
「ほう?」
リーリエが焦った様子で否定しているが、これはなかなかいいことを聞いた。
晴れ渡る空の下、親子でテーブルを囲う至福の時間は、まだまだ終わりが見えそうにない。
この日、エーンデル号の専用デッキからは、いつまでも楽しそうな会話と笑い声が途絶えることがなかった。
END




