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王太子殿下は、侯爵令嬢に求婚する




 ローランド様が我が家を訪ねてきたのは、その日の夕方のことだった。


 フリップ様だけを共にやって来たローランド様は、額に汗を光らせて、ただならぬ様子だったという。侍女から聞かされた私は、足早に応接室に向かった。

 応接室の前に着くと扉の前でフリップ様が待っていて、彼は挨拶もそこそこに満面の笑みで私を室内へと促す。

 怪訝に思いつつ、ひとり扉の中に身を滑らせる。


「ローランド様、お待たせいたしました。ずいぶんとお急ぎのようですが、なにかあったのですか?」

「ああ。一刻も早く、君に伝えたかった」


 私が部屋に入るや、ローランド様は感極まった様子で私の前にスッと片膝を突いた。


 え!? 一国の王太子である彼が躊躇なく跪いたことに驚いて、私は大きく目を見張る。


「君との婚姻を俺が議会に掛け合っていたのは、既にご両親から聞いていると思う。それが、先ほど正式に承認された。明日中には、国内外に告示される」


 ……嘘でしょう。だって、そんなことがあり得るの?


 たしかに、彼が私を妻にと望んで動きだしていると両親から聞かされた。けれどそれは、かつて婚約者だった私への義務感や責任感からだと思っていた。なにより、十四年も市井──それも孤児院で過ごした私との婚姻などそうそう認められるはずがないと、私はこの話を本気に捉えてはいなかったのだ。


 困惑して固まる私の右手を、彼はまるで宝物にでも触れるかのようにそっと包み込む。私を見上げるグリーンの瞳は深い慈愛をたたえ、蕩けるように甘い。

 もしかして、私はまだ長い夢を見ているのではないか。ともすればそんな疑問すら浮かんでくる。


 どこか現実味がないまま、息をするのも忘れて彼の瞳に映る自分の姿を見つめる。心臓が苦しいくらいに打ち付けていた。

 すると、固まったままの私になにを思ったか、ローランド様は痛ましげに眉を寄せる。


「君が俺の求婚を本気にしていなかったのは分かっているんだ。それに不甲斐ない俺に、君が愛想をつかしてしまうのも仕方ないと重々承知している」

「……え?」


 不甲斐ないとは、どういうことだろう。ローランド様はいったいなにを言っているのか。

 すぐに理解が追いつかず、ぽかんとローランド様を見下ろす。取られていた手がスルリと解かれたと思ったら、突然彼が私に向かって頭を下げた。


「十四年も待たせた挙句、すぐに君の正体に気づいてやれずすまなかった」

「っ!? いけません、頭を上げてください! ローランド様に謝っていただくことはなにもありません」


 びっくりした私は、常に淑女らしくというソレイユ伯爵夫人の教えも忘れて彼の肩に取り縋った。


「いや。あの娘の虚言を見抜くことができず、君を侍女として働かせてしまった。危険な目にも合わせた。どうか許してくれ」

「待ってください、許すもなにも……! 今ここでこうしていられるのも、両親に会えたのもすべてローランド様のおかげです。危ない状況から救ってくださったものもローランド様ではありませんか! 感謝こそすれ、謝ってもらうことなどありません」


 私は首を横に振りながら必死に言い募る。

 顔を上げたローランド様は、眩しいものでも前にしたように目を細くした。


「本当に君は……」

「あの、ローランド様?」

「俺には君がこの世の美しいもの、清らかなもので象られた奇跡のように思えるよ」

「っ、それはさすがに過称です」


 あまりの畏れ多さに慄く私を見て、ローランド様は不思議そうに首を傾げる。


「おかしなことを。俺は君以上に純真で心優しい女性を知らない」


 彼の手が伸びてきて、そっと私の手を取った。


「改めて言わせてほしい。……これからは俺が、辛かった過去の時間を塗り替えるくらい、君をたくさんの喜びで満たしてみせる。一生をかけて君を幸せにする」


 ローランド様はいったん言葉を区切り、握った手に僅かに力を込めた。

 真摯な瞳が一心に私を見つめ、再び彼の唇がゆっくりと開く。


「君だけを愛している。どうか、俺の妻になってほしい」

「っ!」


 ヒュッと息をのんだ。同時に、熱い歓喜が胸を満たす。込み上げる感情が、眦から滴りとなってほろほろとこぼれ落ちた。


 突然泣き出した私に、ローランド様が目を丸くする。

 優しいローランド様は、義務感から私を再び婚約者に据えたのだとばかり思っていた。……だけど、そうじゃなかった。


 告げられた彼の想いに、ジンッと胸が熱くなる。私は彼にこんなにも深く愛されていた。


「……嬉しいです」


 やっと発した声は涙交じりで掠れていたけれど、私はそのまま続ける。


「本当は、あなたの一番近くにいたかった。ほかの女性たちがあなたの隣に立つ姿を見たくありませんでした。だけど、私にはそれを望むことすらおこがましいと、必死で気持ちを閉じ込めていて」


 けれど、想いは封じ込めておけないくらいに膨らんだ。


「ローランド様、ずっとあなたが好きでした。私を、あなたの妻にしてください──あっ!?」


 最後まで言いきるのとほぼ同時に、立ち上がったローランド様の胸にグッと掻き抱かれた。

 驚きに目を丸くする私を、蕩けるような笑みを浮かべたローランド様が見つめている。その瞳に籠もる熱量に逆上せてしまいそうだった。


「俺の人生で、誰かをこんなにも愛おしいと思ったことはない。そしてこれからも、君以上に愛する存在はないと断言できる。もう二度と君を離さない」


 熱い囁きが鼓膜を震わせる。


 ローランド様の美貌が迫り、形のよい唇がそっと私の唇に重なる。

 しっとりと触れ合わせ、温もりはいったん遠ざかる。離れ際に、彼の艶めかしい吐息が唇の表層を掠めた。


 私を見下ろす萌ゆるグリーンの瞳が、色情をたたえてけぶる。名残惜しそうに親指の腹で唇の輪郭を辿られて、その刺激にピクリと体が震えた。

 冴えた美貌の彼に見つめられるといつだってドキドキした。だけど今は、彼から立ち昇る溢れるほどの色香に、目眩がしそうだった。


 ともすれば逃げ出してしまいたくなるけれど、誠実に心を伝えてくれる彼に、私もまた精いっぱいの勇気を寄せ集めて正直な思いを言葉にする。


「どうか離さないでください。そしてこれからは、ずっとローランド様のお側においてください」


 あまりの恥ずかしさで真正面から伝えるのは難しく、うつむき加減で告げた。

 頭上で息をのむ気配がした。

 直後にローランド様が、彼の胸にすっぽりと収まった私の頭頂に鼻先を埋め、弱り切った様子でこぼす。


「まいった」

「え?」

「……結婚準備には最短で半年といったところか。こんなにも可愛らしい君を前にして、あと半年も待たなければならないなんていったいどんな苦行だ」


 ローランド様が何事が呟いているけれど、私に聞かせる意図はないらしく完全な独り言だ。

 いったいどうしてしまったのか。


「あ、あの。ローランド様?」


 私の呼びかけに彼はピクンと体を揺らし、頭頂に埋めていた顔を引く。彼の様子が気になって、おずおずと顔を上げる。


「んっ!?」


 突然唇を重ねられて、驚きに目をしばたたく。先ほどより深く、唇同士が合わさる。味わうように、幾度か角度を変えながら口付けは長く続いた。

 やっと唇同士が離れた時、私はすっかり息があがってしまっていた。


「いや、十四年待ったんだ。あと半年くらい待ってみせるさ。だが……」


 彼は名残惜しそうに指先で私の唇を撫でながら言葉を続けていたけれど、苦しさや恥ずかしさでいっぱいいっぱいの頭では、まともな意味を結ばない。


「この唇は俺のものだ。俺の可愛いお姫様、もっと君を愛させてくれ」


 少し呼吸が整ってきたところで耳もとで囁かれて、ピクンと体が跳ねる。そうこうしているうちに再びローランド様の美貌が迫り、唇がしっとりと塞がれる。


「っ、ローランド様……」


 私は彼と彼に与えられる幸福なキスに酔いしれた。





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