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本物の百合3



「お父様、お母様……っ」


 親子三人の抱擁は、なかなか解かれることがなかった。

 そうしてひとしきり抱き合った後、腕を緩めながらお父様が切り出す。


「今後の君の呼び名のことだが、もし君が嫌でなければ、これからリーリエと呼ばせてもらってもいいだろうか。もちろん、君がそれを望まないのなら、今後もフィーアと呼ばせてもらうよ。君はどうしたい?」


 渇いた喉にゴクリと唾を飲み込んだ。


 ……今後の呼び名。

 それは熱が引いてから、ずっと考えてきたことでもある。


 シスがその名をかたったために、私は彼女を『リーリエお嬢様』と呼んできた。思うところがないと言ったら嘘になる。だけどそれ以上に……。


 チラリと視線を向けたのは、卓の上に置かれたスカーフ。

 その刺繍をお母様が私のためにひと針ひと針刺してくれたのだと思えば、胸が熱くなった。同時に、両親が一番最初にくれた贈り物でもある、『リーリエ』の名を受け取りたいと思った。


「これからはリーリエと、そう呼んでください」


 私の中で、既に答えは固まっていた。少しの勇気でそれを伝えた。


「そうか」


 お父様は深く頷いて、私によく似たブルーの双眸を向ける。その瞳はどこまでも慈愛に満ち、私の心を安心させてくれる。


「リーリエ、改めて君に伝えたい。私たちは十四年間、君の帰りを待ち続けていた。おかえり。よく戻ってきてくれた」


 温かな手がクシャリと私の頭を撫でた。ペンを握って仕事をするお父様の手指はスラリとして細いけれど、私の後頭部が包み込めそうなくらい大きくて、とても頼もしく感じる。


「おかえりなさい、リーリエ」


 いまだ私の背中に回ったままのお母様の手に力が籠もる。私とそう変わらないくらいに華奢なのに、その腕が齎す安定感は驚くほどだ。


 私は王都に降り立ったあの日、シスと両親の対面を目の当たりにして『夫人の嫋やかな腕に抱かれ、侯爵の大きな手に頭を撫でられる。それはいったい、どれくらい心地いいものなのだろう』と、こう思った。


 あの日の疑問に今、答えが出た。


 そもそも、『どのくらい』などと測ることなんてできやしない。

 幸せで、安心できて、やすらげて。ふたりといると溢れるほどの愛で心が満たされる。


「お父様、お母様、ただいま戻りました」


 ふたりは私の愛すべき家族。そしてここが、私の家──。


「十四年の時間は決して短くない。最初は戸惑うことも多いだろう。だが、ゆっくりでいい。私たちなりのペースで親子になっていこう」

「はい、お父様」


 お父様の優しい提案に笑顔で頷く。


「そうね。でもリーリエ、私は母として毎日あなたを抱きしめる権利だけは譲れそうにないわ」

「まぁ、お母様。それはぜひ、私の方からお願いしたい習慣です」

「おいおい。それなら、私だってリーリエを抱きしめたい。……それともリーリエは、父親とはいえこんな中年男に触れられては迷惑かな」


 私とお母様が微笑み合っていると、お父様がこちらに向かって伸ばしかけた手を宙にさ迷わせながら、自信なさげに口にする。


「ふふふっ。迷惑だなんてとんでもない。毎日抱きしめていただけたら嬉しいです。それから、私はお父様の大きな手で頭を撫でていただくのが好きなのです。なので、たまに撫でていただけたら──きゃっ!?」

「ああ、リーリエ! なんて嬉しいことを! そんな可愛いお願いを聞かされたなら、一日中だって撫でていたいよ」


 お父様の手が私の頭に置かれたと思ったら、これまでにない勢いでワッシャワッシャと撫でられて少したじろぐ。


「ちょっとあなた! 嬉しいのは分かりますけれど、せっかく綺麗に整えたリーリエの髪を乱さないで下さいませ」

「す、すまん」

「もう、困った人ね。いらっしゃい、リーリエ」


 叱られたお父様がおずおずと手を引っ込めてしゅんと肩を落とす。お母様がそれをやれやれと見ながら、私の髪を手櫛で整えてくれる。


 ……あぁ、なんて愛しい両親なのだろう。


「ローランド様は今日もいらっしゃるのは難しいのかしら。早くあなたが『リーリエ』として新しいスタートをきったことをお伝えできたらいいわね」


 私が幸福を噛みしめていると、ふいにお母様がこぼした。


「今日の聴取もずいぶんと心配して、同席を検討してくださっていたがな。ここ数日は相当お忙しいようだから、どうだろうか」


 お父様が少し考えるように、顎に手を当てながら答えた。

 これまで忙しい合間を縫い、連日お見舞いに来てくれていたローランド様だが、ここ二日ほどは政務が立て込んでいるらしく来訪はない。ただ、訪問できない代わりにと、一昨日は花束が、昨日は珍しい異国の果物が届けられていた。


 今日の分はまだ届いていないから、もしかしたらこの後ほんの少しだけでも会えるかもしれない。畏れ多くも、そんな期待が胸に浮かんだ。


「リーリエはローランド様に会いたいかい?」


 お父様の唐突な問いに、ピクンと肩が跳ねる。驚いてお父様を見れば、真剣な瞳が私を見下ろしていた。


「……はい。会いたいです」


 少しの逡巡の後、正直に答えた。


「そうか。少し、座って話そうか」


 お父様に促され、応接ソファに三人で腰を下ろす。さっきは私の隣に座っていたお父様が、今は私の向かいに回った。お母様は守るように、私の隣に寄り添った。

 その席取りに、これからするのは私の今後に関わる重要な話なのだと身が引き締まる。


「実は、君が床についている間にローランド様から内々に知らされたことがある。彼は君との婚約をもう一度結び直そうと考えて、実際に動きだしている」

「えっ!?」


 予想外の展開に、咄嗟に理解が追いつかない。


「私は最初に彼からそれを聞かされた時、行動に移すのは君の意思を確認してからにしてほしいと伝えたんだ。けれど、長年婚約者が不在だったローランド様に、隣国王女との結婚話が持ちあがっているらしくてね。彼は君の意識が戻るのを待たずに、議会に掛け合ってしまった」


 心臓が煩いくらい鳴っていた。


 ……あれは、夢じゃなかった?


 ローランド様が、私を妻にと望んでくれている。そんな夢みたいなことが、現実にあっていいのだろうか。


「王太子である彼が動き、正式に認められてしまったら、うちの立場で覆すのは難しい。もし君がローランド様との婚約が嫌なら、正式に承認される前に私の方から陛下に上奏しようと──」

「いいえ!」


 思わず、お父様の言葉を遮るように声をあげた。そんな私をお父様が驚いたように見つめた。なぜかその瞳は、少し寂しそうだった。


「あ、声を大きくしてごめんなさい。ただ、その……ローランド様との婚約は嫌ではないので。なので、陛下への上奏は必要ありません」


 そう。たとえ、ローランド様にとってこの行動が、かつて婚約者だった私への義務感や責任感からだとしても、私は嬉しかった。あるいは、彼は夢の中で『伴侶は君以外考えられない』とそう言っていたから、幼少期の刷り込みのような感情なのかもしれない。


 そもそも十四年も行方知れずだった私との婚約が、そう簡単に認められるわけがない。現実問題、彼の隣に肩を並べて立つには、私では力不足だ。


 それでも、彼が私を望んでくれている。その事実が、足が宙に浮きあがるくらい私を有頂天にさせた。


「なんてことだ。やっと愛しい娘が帰ってきたというのに、こんなに早く嫁に出さねばならないとは……」

「お父様?」


 お父様がなにか呟いたような気がしたが、よく聞こえずに首を傾げる。


「いや、なんでもない。よく分かったよ。君にとってこの流れが厭わしいものでなければそれでいいんだ。当家としては、議会の決定を静観しよう」

「はい」

「ただでさえ病み上がりなのに、いろいろ話してすまなかったね。この後は少し休むといい」


 別段疲れは感じていなかったけれど、お父様の申し出に素直に頷く。


「では、そうさせてもらいます」


 きっと、これは一時の夢。

 遠からず、「認められなかった」とそんな報告がもたらされるに違いない。だけど今だけは、彼に望まれる幸せに浸っていたい。

 ふわふわとした心地のまま、私は応接間を後にした。


「もう。あなたったらリーリエもローランド様との婚約を望んでいるというのに、静観などと意地悪ですこと」

「なんと言われようと、男親としてはいろいろと複雑なのさ」

「困った方ね。そういえば今度、王妃様とお芝居をご一緒する予定がありますの。そこで私の方からよくよくお話しておかなくっちゃ」

「なっ!?」


 私が部屋を出ていった後、両親がこんなやり取りを繰り広げていたことを私は知らない。





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