踏みにじられた百合1
モンテローザ侯爵邸で暮らし始めて八日目の朝。私はリーリエの部屋に飾るバラを摘みに、屋敷の東の庭を訪れていた。顔見知りになった庭師から、好きに摘んでいいとの許しももらっている。
今の季節、東の庭は秋咲きのバラが見事だった。花鋏を手に、どれにしようかとバラを吟味しながら進んでいく。
幾何学的に花壇が並ぶ屋敷の前庭とは違い、東の庭はイングリッシュガーデンのように素朴でとても居心地がいい。ここにいると自然と頬も緩んでしまう。
美しいバラの花で、ずっとピリピリしているリーリエの心が少しでも上向けばいいのだけれど。
……なぜ、リーリエはこうも苛立っているんだろう。
もう何度目にもなる疑問だった。
あんなに優しい両親との再会が叶って、侯爵令嬢としての暮らしが始まって。もちろん十四年の空白を埋めるのは大変かもしれない。それでも、未来への希望に溢れたこんなにも幸福な状況の中、いったいなにを憂うことがあるのか。私にはそれが、分からなかった。
目に留まったバラを何本か切りながら、お気に入りのバラのトンネルまでやって来る。
……ふふ、なんて可愛いのかしら。
五メートルほどの長さのバラのトンネルを、下からうっとりと見回す。
……いけない。そろそろ戻らないと先生が来ちゃうわ。少しゆっくりしすぎちゃったかしら。
ひとしきり眺めて満足した私は、屋敷に帰ろうと踵を返しかけ……あら? 誰かいるみたいだわ。
どうやら先客がいたらしく、広い庭の奥の方から話し声がした。
「金ならもう渡しただろうっ!?」
今の声は、リーリエだわ!
ひどく激昂した声に驚く。それにリーリエはこれまで庭に興味を示したことはなかったから、わざわざ朝の時間にここに来ていたのも意外だった。
すごく怒っているようだけれど、どうしたのかしら? それに、『金』って……? 無意識に、声のした方に足を進めていた。
「馬鹿言ってんじゃねえよ。あんなはした金で人殺しなんて受ける阿呆がいるか。あれはほんの手付け金だ」
男性の声? 物騒な単語が聞こえたけれど、なにかの冗談よね?
ふたりの姿が見えてくる。私はバラのトンネルを支える支柱のうしろで足を止めた。ふたりからはちょうど支柱の陰になって、私の姿は見えていないようだ。
「ふざけるな!」
ヤレヤレと小馬鹿にしたようなジャスチャーをする男性に、リーリエが噛みつく。明らかに、ふたりの間の空気が悪い。
「ふざけてんのはお前だ。俺のお陰で院長はおっ死んだ。お前が孤児院に引き取られた当時の状況に繋がる記録も破棄して、足が付く心配だってなくなった。忘れるなよ? 紛い物のお前が、ここん家の令嬢でいられてんのは俺の協力があってこそだ」
なに? いったい、なんの話?
本当ならすぐにここを去るべきだろう。けれど、どうにも気になってしまい、私はそのままふたりの会話に耳をそばだてた。
「このペテン師がっ!」
「どっちがペテン師の所業だ。俺はそもそもあの日、娼館を焼くなんて聞いちゃいなかった。あいつはあんなところで死んでいい女じゃなかった」
「ははっ! 情夫にそうも偲んでもらえたなら、あのおばさんもうかばれるな!」
「……お前、とんでもねえガキだな。だがな、これ以上俺を蔑ろにするとあっちゃ、偽物のお前は切り捨てられることになるぜ。俺たちは運命共同体だ。今後も仲良くやっていこうじゃねぇか? なぁ、リーリエお嬢様?」
……偽物? なんのことを言っているの?
心臓が早鐘を打つ。目の前がチカチカと点滅を繰り返し、手足の先から血の気が引いていくのを感じた。
あっ!?
体から力が抜けて、ふらりと傾ぐ。咄嗟に支柱に手を伸ばし、凭れかかって転倒を免れた。
しかし、その拍子に持っていたバラと花鋏を落としてしまう。
──カシャンッ。
花鋏は不幸にも石畳にぶつかって、大きな音を立てた。衝撃で花弁も一片ハラリと散った。
いけないっ!
「おいっ!? 誰かいるのか!?」
ふたりがガバッとこちらを振り返る。
二対の瞳が私を射貫く。ビクンと体が跳ね、全身に緊張が駆け抜けた。
「女!? 畜生、聞かれてたか!」
「……フィーア」
リーリエが地を這うような声音で私の名前を呟く。
「あ、あの。今の話……」
カラカラになった喉でなんとか声にしたものの、頭の中が真っ白で続く言葉が出てこない。
私がハクハクと唇を震わせながら見つめていると、リーリエが私の視線を遮るようにスッと瞼を閉じた。そうして瞼を開けた時、彼女の目には底冷えするような狂気が宿っていた。
かつての親友の片鱗は、もうどこにも見つけることはできない。仄暗い瞳で私を睥睨しているのは、私の知る彼女とはまったくの別人だ。
「知り合いか? どうする?」
男がリーリエに問う。
「……ヤッちゃってよ」
不用品の処分でもするみたいにアッサリと言い放たれ、ヒュッと喉が詰まる。鈍器で頭を打たれたような衝撃が走った。ジンジンと頭の芯が痺れ、全身が激しく震えだす。
「いやいや、簡単に言ってくれるが、殺した後の死体遺棄っつーのは結構場所を選ぶんだ。ここで殺しは色々マズい。お前の侍女なんだろ? だったら、ひとまず──」
「甘い!! 生かしといたら必ず禍根になる!」
リーリエが男を一喝する。
押し黙った男に一歩寄ると、リーリエは頭ひとつ分高いところにある男の頬をスルリと撫でた。婀娜っぽいその仕草が不気味なくらい蠱惑的で、ゾクリとした。
「なぁ、ロダン。さっきの話を受け入れるよ。きちんと金もやるし、これからもっとうまい汁を吸わせてやる。あんたの言うように、あたしたちは運命共同体さ。……だから、一緒に生き延びるためにあの子をサッサとヤッてよ」
私はふたりから目が逸らせずにいた。もしかすると到底現実とは思えない事態に、思考が麻痺してしまったのかもしれない。
ドクドクと煩いくらいの鼓動が私を急き立てるのだけど、地面に足が凍り付いてしまったみたいに、なぜか動くことが出来なかった。
「お前……」
男がゴクリと喉を鳴らし、頬にあてられた手を取ろうとした。けれど男の手が触れる直前、リーリエはスルリと男を躱して距離を取る。
逃げられた恰好の男は、気を悪くした様子もなくヒョイと肩を竦めてみせた。
「はっ、男を手玉に取るたぁさすがあの女の娘ってとこか。血は争えねえな」
「つべこべ言ってないで、ここがマズいならどこか余所でヤッて埋めてきて」
リーリエがクイッと顎をしゃくる。
「おーこわ。女ってのはつくづく末恐ろしいな」
男がこちら視線を向ける。目が合う直前に、ハッとして体の硬直が解ける。
……いけない。逃げなくちゃ!
震える足を叱咤して、つんのめるようにして走りだす。
縺れそうになりながら必死に足を動かした。けれど数歩と行かないうちに、背中に男の気配が迫り──。
「いやぁ!!」
グイッと腕を鷲掴まれ、強引に引っ張られる。引かれた勢いで体が反転し、直後、ドフッと鈍い音がする。
え? 腹部にめり込むような重たい衝撃が走り、カハッと口から空気が漏れた。あぁ、殴られたんだ。そう理解するのと同時に、体がくの字に折れる。霧にでも覆われるように段々と意識が霞んでいく。
……お腹が痛い。苦しい。……助けて、私の天使様。いいえ、ローランド様。
「おっと」
頽れた私の体を男の丸太みたいな太い腕が支え、そのままヒョイと乱暴に肩に担がれた。
「やっと踏ん切りがついたよ。本物の百合は二輪もいらないんだ。あたしはなにを犠牲にしたって、本物の百合になって咲き誇ってみせる。バイバイ、フィーア。あたしのために死ね」
遠ざかる意識の片隅で、リーリエの怨嗟の声を聞いた。……いや、ここまでくるとさすがに私でも理解していた。シスはリーリエの名を騙った偽物だったのだと。
……いやだ。死にたくない。
船上で、ローランド様が私の幸せを願ってくれた。そのための協力を惜しまないとまで言ってくれた。強がってみせたけど、本当は涙が出そうなくらい嬉しかった。
彼とどうこうなりたいだなんて望んでいない。ただ、実際に彼を見て、声を交わせる距離にいるだけでいい。それだけで私は幸せでいられる。
私はまだここで、彼の側で生きたい──。
「フィーア! フィーアはいるか!?」
……ローランド様?
もしかして、私の願望が幻聴を聞かせたのだろうか。
「っ、なんでローランドが来るんだよ!? ロダン、ひとまずあっちの物置小屋に隠れろ!」
「クソが! 想定外ばっか起こりやがるぜ」
「いいからサッサと行け!」
シスと男が頭上でなにか言っていたが、それらはもう意味あるものとして聞こえなかった。ただ、私を担いで駆けだした男も、男とは別方向に向かったシスも、私の動向に一切注意を払っていないのは感じていた。なけなしの力を振り絞ってポケットの中からそれを落としたのが最後、私の意識は完全に暗転した。




